『存在と時間』を読む Part.17

  第18節 適材適所性と有意義性、世界の世界性

 この節は、世界の現象の正体について語られる重要な節になります。その過程で複数の「~性」という概念が登場することになり、1つの現象についてこうした概念が重ねられるように使用されることになります。たとえば、道具的な存在者の存在は手元存在性ですが、同時に適材適所性でもあるというように説明されることになりますので、混乱しないように注意しましょう。

 手元的な存在者には、世界内部的に出会うのでした。ということは、手元存在性は世界と世界性に対して、何らかの存在論的な結びつきをそなえているはずです。すでに世界は、ある特定の方法で「閃いて」くるものとして説明されていました(Part.15参照)。だからすべての手元存在者において、世界はすでに「そこに現に」存在しているのであり、世界で何と出会うにせよ、世界はそれに先立って、非主題的にではあっても開示されているのです。
 このような世界について、次のような問題提起がなされます。

Wie kann Welt Zuhandenes begegnen lassen? Die bisherige Analyse zeigte: das innerweltlich Begegnende ist für die besorgende Umsicht, das Rechnungtragen, in seinem Sein freigegeben. Was besagt diese vorgängige Freigabe, und wie ist sie als ontologische Auszeichnung der Welt zu verstehen? Vor welche Probleme stellt die Frage nach der Weltlichkeit der Welt? (p.83)
世界はどのようにして、手元存在的なものを出会わせることができるのだろうか。これまでの分析から明らかになったのは、それを考慮にいれて配慮的に気遣う目配りのまなざしにとっては、世界内部的に出会うものはその存在において開けわたされているということである。この先行的な開けわたしというのはどういうことだろうか。この開けわたされていることが、存在論的に世界の特徴として理解できるのはどうしてだろうか。世界の世界性への問いによって、わたしたちはどのような問題に直面するのだろうか。

 「開けわたし」と訳したドイツ語は >Freigabe< であり、これはふつう「解放、返還」などを意味します。引用文3行目の >freigegeben< は、この名詞を動詞化したものの過去分詞の形をしており、受動態のようにして「開けわたれている」というように訳します。この開けわたされていることに関係して、ここでは3つの問いが提起されています。第1の問いは、「この先行的な開けわたしというのはどういうことだろうか」という問いであり、第2の問いは「この開けわたされていることが、存在論的に世界の特徴として理解できるのはどうしてだろうか」という問いです。そして第3の問いとして、「世界の世界性への問いによって、わたしたちはどのような問題に直面するのだろうか」という問いが提起されています。これは「世界の世界性」と「開けわたし」とを結びつけて唐突に問われています。
 こうした問いが提起された後、これらについて考察する前に、まずは用語の整理が行われます。

 この節の題名にもなっている「適材適所性」は、これまでの考察でも何度か登場していた用語でした。原語は >Bewandtnis< であり、辞書では「事態、状況」と訳されます。この名詞は、動詞 >bewenden< から生まれたものであり、この動詞は >es bei <mit> et³ bewenden lassen< という形で使うと、「~³で十分とする、済ませておく」という意味になります。この熟語の特徴は、「~で」のところを >bei< もしくは >mit< の形で使うことです。>bei< はふつうは「~のところで」や「~において」の意味であり、それを行う場所を示すことが多く、>mit< は「~のととも」や「~によって」の意味であり、ある手段を指し示すことが多いです。
 ここで本文を見てみましょう。

Das Sein des Zuhandenen hat dir Struktur der Verweisung - heißt: es hat an ihm selbst den Charakter der Verwiesenheit. Seiendes hat daraufhin entdeckt, daß es als dieses Seiende, das es ist, auf etwas verwiesen ist. Es hat mit ihm bei etwas sein Bewenden. Der Seinscharakter des Zuhandenen ist die Bewandtnis. In Bewandtnis liegt: bewenden lassen mit etwas bei etwas. Der Bezug des >mit ... bei ...< soll durch den Terminus Verweisung angezeigt werden. (p.83)
手元存在者の存在は指示という構造をそなえている。このことは手元存在者そのもののうちに、"指示されてあること"という性格があるということである。その存在者が、こうした手元的な存在者としてあることで、あるものに向けて指示されてあるのであり、この存在者はそうした事実において露呈されているのである。そのものは適材であるそのものを"もって"、あるもの"のもとで"、適所をそなえているのである。手元的な存在者の存在性格は、"適材適所性"である。適材適所という言葉には、<あるものをもって、あるもののもとに適所をえさせる>という意味がある。この「~をもって、~のもとで」という結びつきは、指示という語で暗示されているのである。

 道具はつねに「そのものは適材であるそのものを"もって"、あるもの"のもとで"、適所をそなえている」と言われていますが、この「もって」と「もとで」は >mit< と >bei< にあたることが原文からわかります。適材適所という語は、道具そのものとそれを使う場所の双方を示すのに適した語なのです。ハイデガーは、「適材適所という言葉には、<あるものをもって、あるもののもとに適所をえさせる>という意味がある」と指摘していますが、この「~をもって、~のもとで」という結びつきこそが、指示によって示されているものとなります。
 たとえば槌は、鉄を打つ道具です。鉄を打つという目的を実現する場合(>bei<)には、槌という道具によって(>mit<)作業するのがふさわしい状況(>Bewandtnis<)なのです。この道具の道具性は、世界においてどのような道具連関で、どのような作業の際に、どのような道具によって、鉄を打つかということのうちに体現されていることになります。

 この槌のもつ適材適所性はこのように、適材としての「何を」、適所としての「どこで」使うかという2つの要素が組み合わされているものですが、この適材適所性はすでに考察してきたように、道具連関の背後にある目的連関によって規定されています。目的連関は、当座の目的を示す「何のために(>Wozu<)という概念と、その作業の本来の目的を示す「そのため(>um-willen<)」という概念の2つの要素で示されることが多いです。>Wozu< は有用性の用途としての「何のために」であり、槌は「何のために」あるかといえば、何かを打つためにです。この何かを打つためというのは、槌を使う当座の目的です。そしてこの槌が使われる当座の目的には、その背後に本来の目的があります。それを示すのが >Um-willen< であり、この本来の目的は刀を製作するためです。
 ただし、この当座の目的の背後にある本来の目的を指す「そのため(>um-willen<)」は、さらに大きな目的連関のうちにあります。

Die Bewandtnisganzheit selbst aber geht letztlich auf ein Wozu zurück, bei dem es keine Bewandtnis mehr hat, was selbst nicht Seiendes ist in der Seinsart des Zuhandenen innerhalb einer Welt, sondern Seiendes, dessen Sein als In-der-Welt-sein bestimmt ist, zu dessen Seinsverfassung Weltlichkeit selbst gehört. Dieses primäre Wozu ist kein Dazu als mögliches Wobei einer Bewandtnis. Das primäre >Wozu< ist ein Worum-willen. Das >Um-willen< betrifft aber immer das Sein des Daseins, dem es in seinem Sein wesenhaft um dieses Sein selbst geht. (p.84)
しかし適材適所性の全体そのものは、究極的な有用性としての<何のために>に帰着し、この<何のために>は、それ以上は"いかなる"適材適所性も"もたない"。この<何のために>は、それ自身が世界の内部にそなわる手元的なものという存在様式で存在する存在者ではない。この存在者は、その存在が世界内存在として規定されていて、その存在機構が世界性そのものを含んでいる存在者である。この第1義的な<何のために>は、<そのもとで>何らかの適材適所性が確認されうるような<そのために>あるものではない。この第1義的な「何のために」は、<そのための目的>なのである。この「そのため」は、つねに"現存在"の存在にかかわるのであり、現存在はその存在において本質的に、みずからの存在そのものの"ために"、それとかかわるのである。

 この引用文は日本語ではどうしてもわかりにくいところかと思います。しかしドイツ語文を見つつ、要点を捉えれていれば混乱するような文章ではありません。先に >Wozu< は当座の目的を示すと言いました。これは槌が鉄を打つことですが、それは刀を製作するという本来の目的のためでした(>Um-willen< )。ところで製作された刀もそれ自体が1つの道具として、ある目的連関のうちにあります。たとえば戦国時代では、刀は戦場で敵を斬るための機能を持っていることでしょう。このとき、製作の段階では >Um-willen< として示されていた刀は、戦場で敵を斬ることにおいては >Wozu< という当座の目的になっており、そしてその背後の目的 >Um-willen< は戦に勝つことというようになるでしょう。このように、ある目的連関はより大きな目的連関のうちにあるのがわかります。
 刀を持って戦に行く武士に、刀を持つのは何のためか尋ねたなら、そのひとは敵を斬るためと答えるでしょう。そして敵を斬るのは何のためかと尋ねたなら、戦に勝つためと答えるでしょう。さらに戦に勝つのは何のためかと尋ねたなら、自身と味方の幸福のためと答えるでしょう。ただし、その幸福は何のためかと尋ねたら、問い掛けた人は睨まれるかもしれません。それは問うまでもない当たり前のことであり、ここで目的連関は最後の答えに差し掛かっているのです。ハイデガーはこの最後の答えとなる目的のことを、「そのための目的(>Worum-willen<)」という用語で示します。
 この >Worum-willen< は、道具が使われる目的の連関には、1つの究極的な目的があることを示すものです。この究極の目的を、ハイデガーは「その存在が世界内存在として規定されていて、その存在機構が世界性そのものを含んでいる存在者」、つまり現存在であると表現しています。問い掛けられた武士が答えた幸福とは、現存在の存在の可能性であり、もはやその先に答えるべきことはありません。そこにはもはや適材適所性というものはなく、こうした現存在の可能性は、いかなるものの手段にもならない究極の目的だからです。そのような目的連関の究極の答えが、>Worum-willen< の意味なのです。

 この適材適所性と >Worum-willen< の概念に関連して、先に見た「開けわたされること」という言葉があります。冒頭の引用文ではこの「開けわたし」に関して3つの問いが提起されていました。以下ではこれらの問いについて考えてみることにしましょう。

 適材適所性の構造から現存在の存在にいたる結びつきが素描されましたが、ここでハイデガーは、世界においてどのような道具連関で、どのような作業の際に、どのような道具によってという適材適所性の「適材適所をえさせる(>Bewendenlassen<)」ということはどのようなことであるのかについて、さらに掘り下げようとします。

Bewendenlassen bedeutet ontisch: innerhalb eines faktischen Besorgens ein Zuhandenes so und so sein lassen, wie es nunmehr ist und damit es so ist. Diesen ontischen Sinn des >sein lassens< fassen wir grundsätzlich ontologisch. Wir interpretieren damit den Sinn der vorgängigen Freigabe des innerweltlich zunächst Zuhandenen. Vorgängig >sein< lassen besagt nicht, etwas zuvor erst in sein Sein bringen und herstellen, sondern je schon >Seiendes< in seiner Zuhandenheit entdecken und so als das Seiende dieses Seins begegnen lassen. Dieses >apriorische< Bewendenlassen ist die Bedingung der Möglichkeit dafür, daß Zuhandenes begegnet, so daß das Dasein, im ontischen Umgang mit so begegnendem Seienden, es im ontischen Sinne dabei bewenden lassen kann. (p.84)
適材適所をえさせるということが存在者的に意味しているのは、ある事実的に配慮する気遣いのうちで、ある手元的な存在者を、それが今ある"とおりに"、それが今存在する"ように"、そのように"存在させて"おくということである。この「存在させておく」ということのこうした存在者的な意味を、わたしたちは原則的に存在論的な意味で把握する。わたしたちはこれによって、世界内部的にさしあたり手元存在的にそなわっているものに先立つ開けわたしの意味を、解釈しようとするのである。この先立って「存在」させておくということは、何かをあらかじめ存在するように持ちだし、製作することを意味するものではない。そのつどすでに「存在しているもの」を、その手元的なありかたにおいて露呈させ、このようにして存在する存在者として、出会わせるということである。これは「アプリオリな」意味で、適材適所をえさせることと表現できるだろうが、これは手元存在者に、そのようなものとして出会うことを可能にする条件である。これによって現存在は、このようにして出会う存在者との存在者的な交渉において、その手元存在者に存在者的な意味で適材適所をえさせることができるようになる。

 刀は日常的には刀掛台に置かれていたり、蔵にしまってあったりすることもあるでしょう。刀がそのようにされている状態では、現存在はそのものの存在を無意識のうちに知っているとしても、そうした道具は蔵にしまわれた道具として、当面はいかなる用途も目的もそなえていません。しかしひとたび戦が生じたとき、武士としての現存在は、自己の幸福のためにこの刀が必要になるでしょう。すると現存在は敵を斬ることを1つの目的としてみいだすことになるでしょう。その目的の発見とともに、それまで気にもとめないでいたさまざまなものが、特別な意味をもって意識のうちに登場してくることになります。
 このようにして発見された刀は、それまで蔵の中で「存在していた」ものではありますが、その適材適所性はまだ露呈されていなかったのです。そのためにそれは「存在していなかった」のと同じです。現存在が戦に出ると決めた瞬間に、それまで蔵の中に存在していたものの、現存在にとっては存在していなかったにもひとしいこの道具は、その適材適所性が露呈されるに先立って、すでに存在していたことが確認されます。このように現存在は、戦の可能性を発見するとともに、「そのつどすでに<存在しているもの>を、その手元的なありかたにおいて露呈させ、このようにして存在する存在者として、出会わせる」ことができるようになったのであり、そのときには現存在はこれらの手段に「<アプリオリな>意味で、適材適所をえさせること」が可能となったのです。
 これは刀が蔵で「存在者的な意味で」、適材適所性をえることができる状態になっていた場合であり、手元存在者としてすぐに「開けわたされる」ことができる状態にあったのです。

Das ontologisch verstande Bewendenlassen dagegen betrifft die Freigabe jedes Zuhandenen als Zuhandenes, mag es dabei, ontisch genommen, sein Bewenden haben, oder mag es vielmehr Seiendes sein, dabei es ontisch gerade nicht sein Bewenden hat, das zunächst und zumeist das Besorgte ist, das wir als entdecktes Seiendes nicht >sein< lassen, wie es ist, sondern bearbeiten, verbessern, zerschlagen. (p.85)
これとは対照的に、存在論的な意味で適材適所をえさせるということを考えるならば、それは"それぞれ"の手元存在者を手元存在者として開けわたすことを意味するのである。その場合にはその手元的な存在者が、存在者的な意味で適材適所をえているか、あるいは存在者的な意味では適材適所をえて"いない"ままに存在しているかとは、かかわらないのである。こうした意味で適材適所をえていない存在者は、さしあたりたいていは配慮的な気遣いの対象となっているものではあるが、わたしたちはそのように露呈させた存在者として、そのままで「存在」させず、それを加工したり、改善したり、破棄したりするのである。

 「存在論的な意味で」考えた場合、刀が手元存在者としてすぐに自由に使えない場合もあります。たとえば刀の手入れを怠っていて、刀身がさびてしまっているかもしれません。この刀は現存在にとってさしあたりは「配慮的な気遣いの対象」となっているのであり、手元存在者としてはそのままでは「開けわたされる」ようになっていないのです。しかし刀身がさびている場合には、それを研いで使えるようにするという可能性が生まれてきます。この刀は存在論的には配慮的な気遣いの対象であり、研いで道具として使えるようにすることにおいて、存在者的に手元存在者とみなすことも可能です。わたしたちはこうした存在者を、「そのままで<存在>させず、それを加工したり、改善したり、破棄したりする」ことで、手元存在者として新たに利用できるようになるのです。

 このように、現存在はつねにある対象を、手元存在者として利用することができ、そのときには使用できない物質も、それに手を加えることで開けわたさせ、新たな用途を露呈させることができます。その意味ではすべての物質は、何らかの方法で「開けわたさせる」ことができるものなのです。
 それでもすでに適材適所性をえて、現存在が何らかの目的のために使ってしまっている手元的な存在者は、現存在の観点からみると、すでに「アプリオリな意味で」世界の一部を構成していることになります。そのような状態のことをハイデガーは、「アプリオリに完了した状態」と呼びます。

Das auf Bewandtnis hin freigebende Je-schon-haben-bewenden-lassen ist ein apriorisches Perfekt, das die Seinsart des Daseins selbst charakterisiert. Das ontologisch verstandene Bewendenlassen ist vorgängige Freigabe des Seienden auf seine innerumweltliche Zuhandenheit. Aus dem Wobei des Bewendenlassens her ist das Womit der Bewandtnis freigegeben. Dem Besorgen begegnet es als dieses Zuhandene. Sofern sich ihm überhaupt ein Seiendes zeigt, das heißt, sofern es in seinem Sein entdeckt ist, ist es je schon umweltlich Zuhandenes und gerade nicht >zunächst< nur erst vorhandener >Weltstoff<. (p.85)
適材適所をえさせるために開けわたされて、<すでに適材適所をえている>ようになったものは、"アプリオリに完了した"状態にある。この事態は、現存在の存在様式そのものの特徴なのである。適材適所をえさせることを存在論的に理解すると、これは環境世界の内部において手元的に存在させるために、存在者を先行的に開けわたしておくことを意味する。適材適所をえさせるその<何のもので>から、適材適所性の<何によって>が、開けわたされるのである。その存在者は、こうした手元的に存在するものとして配慮する気遣いに出会うのである。配慮的な気遣いにたいして、そもそもある"存在者"が示されるのであれば、そうした存在者がその存在において露呈されているのである。そしてそのかぎりは、それはそのつどすでに環境世界的に手元的に存在するものであり、「さしあたり」ようやく眼前的に存在するだけの「世界の素材」のようなものではない。

 「アプリオリに完了した状態」は、「現存在の存在様式そのものの特徴」と指摘されているように、この状態はすべて現存在がそのように手元的な存在者を配置し、利用して、眺めていることによるものであり、このアプリオリな完了という性格は手元存在者についてよりも、世界のうちにつねに「そのつどすでに」という完了形において生きている現存在の存在様式について言われるものなのです。
 この「完了」については、欄外書き込みで次のように指摘されます。

Nicht ein ontisch Vergangenes, sondern das jeweils Frühere, auf das wir zurückverwiesen werden bei der Frage nach dem Seienden als solchen; statt apriorisches Perfekt könnte es auch heißen: ontologisches oder transzendentales Perfekt. (p.442)
存在者的に過ぎ去ったもののことではなく、そのつどすでに<先なるもの>なのであり、わたしたちは存在者そのものへの問いにおいて、そこに"回帰する"ようにさせられているもののことである。それについては、アプリオリな完了という表現のほかにも、存在論的な完了とか超越論的な完了という表現もを使うこともできるだろう。

 このように「完了」は、存在者的ではなく、存在論的な意味でみた完了なのです。

Bewandtnis selbst als das Sein des Zuhandenen ist je nur entdeckt auf dem Grunde der Vorentdecktheit einer Bewandtnisganzheit. In entdeckter Bewandtnis, das heißt im begegnenden Zuhandenen, liegt demnach vorentdeckt, was wir die Weltmäßigkeit des Zuhandenen nannten. Diese vorentdeckte Bewandtnisganzheit birgt einen ontologischen Bezug zur Welt in sich. (p.85)
手元的な存在者の存在には、このような適材適所性がそなわっているのであり、適材適所性の全体がそのつどあらかじめ露呈されていないかぎり、こうした適材適所性そのものが露呈されることはない。露呈された適材適所性のうちには、すなわちわたしたちが出会う手元存在者のうちには、すでに手元存在者の世界適合性と呼んだものが、あらかじめ露呈されて潜んでいるのである。このようにあらかじめ露呈された適材適所性の全体は、世界への存在論的な結びつきをおのれのうちに秘めているのである。

 世界のさまざまな物質は、現存在にとっては原則として手元存在者という性格によって考えることのできる対象であり、すでに適所に配置されているかどうかは問題になりません。現存在からみると、手元存在者が世界のうちでどのような適材適所性を占めているかは、「適材適所性の全体がそのつどあらかじめ露呈されていないかぎり」明らかにされません。それを明らかにすることができるのは、「存在論的な完了」を意識することができる現存在だけです。これは手元的な存在者の「存在論的な意味」での適材適所性にかかわるのです。

 そしてここで、重要な用語が登場します。それは >woraufhin< という概念です。

Das Bewendenlassen, das Seiendes auf Bewandtnisganzheit hin freigibt, muß das, woraufhin es freigibt, selbst schon irgendwie erschlossen haben. Dieses, woraufhin umweltlich Zuhandenes freigegeben ist, so zwar, daß dieses allererst als innerweltliches Seiendes zugänglich wird, kann selbst nicht als Seiendes dieser entdeckten Seinsart begriffen werden. Es ist wesenhaft nicht entdeckbar, wenn wir fortan Entdecktheit als Terminus für eine Seinsmöglichkeit alles nicht daseinsmäßigen Seienden festhalten. (p.85)
適材適所をえさせることによって、存在者はその適材適所性の全体へ向かって開けわたされるのであるが、そのためにはその存在者が開けわたされる<ところのその場所>は、すでに何らかの形で開示されているはずである。環境世界的な手元存在者がそこへと開けわたされる<その場所>は、その存在者が何よりも世界内部的な存在者"として"、近づくことのできるところでなければならないものの、それ自体をこのようにして露呈された存在様式をそなえた存在者として把握することはできない。これからは、現存在とされるにふさわしく"ない"すべての存在者の存在可能性を示す用語として、"露呈されていること"という言葉を使うことにするが、このような場所は、本質的に「露呈される」ことができないものなのである。

 続けて次の段落も引用してみます。

Was besagt aber nun: das, woraufhin innerweltlich Seiendes zunächst freigegeben ist, muß vorgängig erschlossen sein? Zum Sein des Daseins gehört Seinsverständnis. Verständnis hat sein Sein in einem Verstehen. Wenn dem Dasein wesenhaft die Seinsart des In-der-Welt-seins zukommt, dann gehört zum wesenhaften Bestand seines Seinsverständnisses das Verstehen von In-der-Welt-sein. Das vorgängige Erschließen dessen, woraufhin die Freigabe des innerweltlichen Begegnenden erfolgt, ist nichts anderes als das Verstehen von Welt, zu der sich das Dasein als Seiendes schon immer verhält. (p.85)
それならば、世界内部的な存在者がさしあたり開けわたされる<ところのその場所>は、あらかじめ開示されていなければならないという言葉は、何を言おうとするのだろうか。現存在の存在には、存在了解がそなわっている。了解されたことは、理解する営みのうちにある。ところで現存在には世界内存在という存在様式が本質的なものとしてそなわっているのだから、現存在の存在了解の内容の本質的な構成要素として、世界内存在への理解が含まれているはずである。世界内部的に出会うものが開けわたされる<ところのその場所>が、あらかじめ開示されているということは、現存在が存在者としてすでにつねにかかわっているその世界を、現存在は理解しているということである。

 現存在は、世界内部的な存在者の存在について、その可能性について、あらかじめ了解しています。そのように了解しつつ存在していることが、世界内存在として存在するということの意味になっています。このように開けわたされるものと開けわたされる<ところのその場所>があらかじめ開示されているということは、「現存在が存在者としてすでにつねにかかわっているその世界を、現存在は理解しているということ」であり、これがすでに指摘されていた現存在の「存在論的な完了」という存在様式です。
 「ところのその場所」と訳したのは、>woraufhin< という語です。この言葉は場所を意味する >wo< という副詞、上の方向を意味する >auf< という前置詞、方向性を示す >hin< という副詞を合成して作られた副詞であり、これらの意味を合わせて考えると「ある上の場所にあるものを目指して」のように訳されます。この概念についてはすでに序論でも確認することができ、その際には存在者を理解する「土台となるところ」として考えられていました(Part.1参照)。そして上記の引用文に続く段落では、続けて3回使われます。

Dasein verweist sich je schon immer aus einem Worum-willen her an das Womit einer Bewandtnis, das heißt es läßt je immer schon, sofern es ist, Seiendes als Zuhandenes begegnen. Worin das Dasein sich vorgängig versteht im Modus des Sichverweisens, das ist das Woraufhin des vorgängigen Begegnenlassens von Seiendem. Das Worin des sichverweisenden Verstehens als Woraufhin des Begegnenlassens von Seiendem in der Seinsart der Bewandtnis ist das Phänomen der Welt. Und die Struktur dessen, woraufhin das Dasein sich verweist, ist das, was die Weltlichkeit der Welt ausmacht. (p.86)
現存在はみずから現に存在するものとして、そのつどつねにすでにある存在者を手元存在的なものとして出会わせるのであり、みずからの<そのための目的>に基づいて、適材適所性の<何によって>へと、みずからを指し示しているのである。現存在がこのように自己を指し示すという様態で、あらかじめ自己を先だって理解している"そのところ"こそが、存在者を先だって出会うようにさせる<ところのその場所>なのである。"自己を指示する理解の<そのところ>が、同時に適材適所性という存在様式で、存在者を出会うようにさせる<ところのその場所>でもあるということが、世界という現象なのである"。そして現存在がみずからを示しながらそこに向かう<ところのその場所>の構造が、世界の"世界性"を形成するのである。

 ここは世界の現象についての結論が語られている重要な段落です。これについてはまた後で注目することにして、まずはここで使用されている >Woraufhin< についてみていきましょう。
 適材適所性の連関は同時に目的連関でもあり、現存在は究極の目的として「そのための目的(>Worum-willen<)」でした。現存在は世界の理解においては、自分の幸福を目指して存在しているという前存在論的な自己了解をえていますが、この自己了解の地平こそが >Woraufhin< です。ハイデガーは「現存在がこのように自己を指し示すという様態で、あらかじめ自己を先だって理解している"そのところ"こそが、存在者を先だって出会うようにさせる<ところのその場所>」であると語っています。ここでは >Woraufhin< は現存在が存在者と出会うための条件を与えるものとなっています。
 この段落での第2の使用例では、>Woraufhin< は現存在が自己了解において存在者と出会うのが、適材適所性の連関においてであることが全文を強調して語られています。現存在が「"自己を指示する理解の<そのところ>が、同時に適材適所性という存在様式で、存在者を出会うようにさせる<ところのその場所>でもあるということが、世界という現象"」なのです。ここでハイデガーは、現存在が存在者と出会う様式が、適材適所性の連関であることを示しながら、この存在者との出会いの場所が >Woraufhin< であることを指摘しています。
 そして第3の使用例では、「現存在がみずからを示しながらそこに向かう<ところのその場所>の構造が、世界の"世界性"を形成する」と語られています。ここでは >woraufhin< は、現存在と存在者の出会いという現象そのものではなく、その出会いによって生まれる世界のありかたを指していることになります。
 これらの使用例から考えると、>Woraufhin< は存在者を理解するための「土台となるところ」であり、現存在が自己了解しながら存在者に出会うことを可能にする「ところのその場所」を示す言葉として使われています。この言葉は、存在者との出会いと理解を可能にする「地平」のようなものとして、理解するための形式的な構造のようなものとして考えられているのです。先に >Woraufhin< には「ある上の場所にあるものを目指して」というニュアンスがあることを指摘しましたが、現存在はあるものを理解するためにそのまなざしを、上にあるその場所へと向けるのです。それはつまり、存在者について理解するためには、存在の意味へとまなざしを向け、そこから存在者を理解する必要があるということを示しています。世界の世界性について理解するためには、現存在の究極の目的としての >Worum-willen< に基づいて、世界の事物の適材適所性と現存在との出会いについて理解する必要があります。この理解の土台となるところが >Woraufhin< であり、この語はそのようにまなざしをあるところに向け、そこから理解すべきものを眺めるという構造を示しているのです。

 さて、ここに来て「開けわたされる」ことについての3つの問いについて考察する準備ができました。これまで説明されたことから、これらの問いを順番に見ていきましょう。
 「開けわたさせる」ことについての第1の問いは、「この先行的な開けわたしというのはどういうことだろうか」という問いでした。戦に出るという現存在の目的連関のうちで、そのための手段(刀)が発見され、「開けわたされる」必要があることはすでに確認してきたとおりです。目的連関をさかのぼりながら、すでに先行的に開けわたされたものとして現存在が意識することで、刀は適材適所性をみいだすことができるのです。これは手元的な存在者の「存在者的な意味で」の適材適所性が露呈されるという意味です。
 第2の問いは、「この開けわたされていることが、存在論的に世界の特徴として理解できるのはどうしてだろうか」というものでした。この問いについては、ある意味では世界のすべてのものは、現存在にとって「開けわたす」ことのできるもの、適材適所性をみいだすことのできるもの、何らかの方法で手元存在者として露呈させることができるものであることが指摘できます。ある手元存在者の適時適所性を露呈させることができるためには、適材適所性の全体があらかじめ露呈されている必要がありますが、現存在はそれを明らかにすることができます。それが「存在論的な完了」なのであり、これは「存在論的な意味」での適材適所性にかかわるのです。
 そして第3の「世界の世界性への問いによって、わたしたちはどのような問題に直面するのだろうか」という問いに登場する「世界の世界性」という概念は、この第1の問いで考えられた「存在者的な意味」と、第2の問いで考えられた「存在論的な意味」の両方の意味での適材適所性について、現存在の了解という観点から考えられるものとなっています。
 現存在は世界のすべての事物を、みずからの目的のために利用することを心得ています。というのも、世界内部的に存在するすべてのものは、現存在からみると1つの手段として適材適所性をそなえているのであり、すべてのものは現存在という究極の目的 >Worum-willen< のために存在しているからです。そして現存在がこうした適材適所性を理解することができるのは、「世界内部的に出会うものが開けわたされる<ところのその場所>が、あらかじめ開示されている」ということであり、「現存在が存在者としてすでにつねにかかわっているその世界を、現存在は理解しているということ」になります。この「理解」の概念については第31節で詳細に分析されることになりますが、現存在が世界を理解しているということは、世界がすべて現存在という最終的な目的のために存在しており、そのすべてを適材適所性という観点から眺められることを認識しているということです。
 このように理解された世界は、現存在がそのうちで究極の目的のために行動することのできる場であり、この場は複雑で錯綜した適材適所性の連鎖によって構成されています。刀匠の身近にある槌や炉は、現存在が打ち、鉄を熱するための道具としてその適材適所をえているのであり、この槌や炉の適材適所は、仕事場によって保証されています。仕事場の適材適所は、町によって確保されており、町はその周囲の自然とともに、大名が治めている国によって保証されています。現存在は槌や炉を使いながら、こうした世界的な規模にまで広がる適材適所性の連関と目的連関を認識し、理解することができるのです。
 そして現存在はたんに適材適所性の全体としてある >Woraufhin< としての世界を理解するだけではなく、自己を目指す目的のために、そうした適材適所性の全体のうちに存在し、行動している自己を自覚しています。このようにして現存在は、自己の背後にある世界と、世界のうちで生きる自己の両方のありかたをごく自然に了解しているのです。「"自己を指示する理解の<そのところ>が、同時に適材適所性という存在様式で、存在者を出会うようにさせる<ところのその場所>でもあるということが、世界という現象なのである"」ということになります。そして「現存在がみずからを示しながらそこに向かう<ところのその場所>の構造が、世界の"世界性"を形成する」のです。


 長くなりましたので、ここで一度区切りたいと思います。第18節は、A項の最後の節としてとても重要な節になっていますが、同時に >Woraufhin< といった難解な概念が登場し、迷子になりがちな節だと思います。こうしたハイデガーの独自の用語は、原語で考えてみることで多少は理解しやすくなるとは思いますが、やはりイメージがつきにくいものではないでしょうか。しかしこの語は今後も登場してきますので、無視せずに、さしあたりはなんとなくでも把握しておくことが大切かと思います。

 それでは、次回は第18節の続きから進めていきます。またよろしくお願いします。

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