『存在と時間』を読む Part.81

  第77節 歴史性の問題についてのこれまでの考察の提示と、ディルタイの研究およびヨルク伯の理念との関連

 ハイデガーは、ディルタイの研究活動が伝統的な歴史学とは明確に異なる視点をそなえていたことを強調し、ディルタイの根本的な目標は、〈生〉を哲学的に了解することであり、そして〈生そのもの〉からのこのような理解に、解釈学的な土台を確保することだと指摘します。このディルタイの研究の目標をよく理解し、それをさらに深めたのがパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯(ヨルク伯)でした。ディルタイとヨルク伯は書簡を送り合う盟友であり、両名は歴史性を理解しようとすることに共通の関心を抱いていたことが、ここでハイデガーが引用するヨルク伯の手紙に示されています。ただし、この第77節全体の半分かそれ以上は、こうした書簡からの引用となっており、ある種の緩みのようなものを感じさせる節になっています。
 まずヨルク伯は、ディルタイの論文「記述的な分析的な心理学の構想」では、ディルタイの心理学の考察に方法論が欠如しており、さまざまな方法が個々の領域から偶然に任せて取り出されてしまっていることを指摘します。ヨルク伯は、精神科学の探究のための方法論として論理学を適用する必要があることを強調します。そしてこの要求のうちには、自然として存在する存在者と、歴史として存在する存在者は、異なるカテゴリー構造をそなえているのであり、こうした構造を取り出すべきであるという課題が含まれていると主張するのです。

Y. findet, daß D.`s Untersuchungen >zu wenig die generische Differenz zwischen Ontischem und Historischem betonen.<. (p.399)
ヨルク伯は、ディルタイの探究は”「存在者的なものと歴史的なものの類的な差異を、あまりに強調しなさすぎる」”と考えている。

 ヨルク伯は、この「類的な差異」を十分に考慮にいれて、歴史的なものには、存在者的なものの認識とは違う原理が必要であることを指摘します。ここで存在者的なものと言われているのが、世界内部的に眼前存在する存在者のことであり、歴史的なものと言われているのが現存在のことです。

Aus dem sicheren Instinkt für die >Differenz des Ontischen und Historischen< erkennt Y., wie stark die traditionelle Geschichtsforschung sich noch in >rein okularen Bestimmungen< hält, die auf das Körperliche und Gestalthafte zielen. (p.400)
ヨルク伯は「存在者的なものと歴史的なものの差異」を見分ける確実な本能をそなえているので、伝統的な歴史研究が今なお、物体的なものや形態をもつものを目指した「純粋に視覚的な規定」にいかに強くとらわれているかを、鋭く見抜いているのである。

 「純粋に視覚的な規定」というのは、伝統的な歴史研究が、”眼前”的な存在者を前提に行われてきたことを意味します。ところがディルタイやヨルク伯のように、〈生〉の哲学にふさわしい、歴史的な存在者である現存在における生き生きとした歴史を目指すなら、その「類的な差異」を考慮にいれなければなりません。この観点からヨルク伯は、歴史学は批判的なものであらざるをえないことを指摘しますが、ハイデガーはこうした批判的な観点は、現存在自身の存在性格の認識からえたものであると指摘しています。
 ヨルク伯が目指したのは、存在者にたいする「視覚的な」ものへのまなざしとは異なる歴史学的なものに固有のカテゴリー的な構造を捉えることにありました。それは〈生〉にふさわしい歴史学という学問に適した学問的な了解を獲得することであって、これこそが「”〈生の哲学〉”の”基本的な目標”」にほかならないと強調するのです。

Das Interesse, Geschichtlichkeit zu verstehen, bringt sich vor die Aufgabe einer Herausarbeitung der >generischen Differenz zwischen Ontischem und Historischem<. Damit ist das fundamentale Ziel der >Lebensphilosophie< festgemacht. Gleichwohl bedarf die Fragestellung einer grundsätzlichen Radikalisierung. Wie anders soll Geschichtlichkeit in ihrem Unterschied vom Ontischen philosophisch erfaßt und >kategorial< begriffen werden, es sei denn dadurch, daß >Ontisches< sowohl wie >Historisches< in eine ursprünglichere Einheit der möglichen Vergleichshinsicht und Unterscheidbarkeit gebracht werden? (p.403)
歴史性を理解しようとする関心を抱くことによって、「存在者的なものと歴史学的なものの類的な差異」を取り出すという課題に直面するようになる。こうして、”「生の哲学」”の”基本的な目標”が確立されたのである。しかしこの問題設定は同時に、”原理的に”徹底的なものとする必要がある。もしも歴史性を存在者的なものとの違いとして哲学的に把握すべきであり、「カテゴリー的に」理解すべきであるとしたら、まず「存在者的なもの」と「歴史学的なもの」を”根源的な統一”へともたらし、そこからこの2つを比較する視点の可能性と、この2つを区別する可能性とを取り出すしかないではないか。

 ハイデガーはヨルク伯を高く評価すると同時に、ヨルク伯には存在論的な観点が欠如していたために、この基本的な目標を実現する道がとざされていたことを指摘します。「存在者的なもの」と「歴史的なもの」を適切な形で区別し、そこに「カテゴリー的な構造」をみいだすことができるためには、存在論的な見地が不可欠なのです。これらの2つを根源的に統一し、それによって「この2つを比較する視点の可能性と、この2つを区別する可能性とを取り出す」必要があるが、それには存在論に基づいた以下の3つの洞察が必要であると、ハイデガーは考えます。

Das ist aber nur möglich, wenn die Einsicht erwächst: 1. Die Frage nach der Geschichtlichkeit ist eine ontologische Frage nach der Seinsverfassung des geschichtlich Seienden; 2. die Frage nach dem Ontischen ist die ontologische Frage nach der Seinsverfassung des nicht daseinsmäßigen Seienden, das Vorhandenen im weitesten Sinne; 3. das Ontische ist nur ein Bezirk des Seienden. Die Idee des Seins umgreift >Ontisches< und >Historisches<. Sie ist es, die sich muß >generisch differenzieren< lassen. (p.403)
それが可能であるためには、次の3つの洞察が必要である。第1に、歴史性への問いは、歴史的な存在者の存在機構について問う”存在論的な”問いであること、第2に、存在者的なものへの問いは、現存在でない存在者、すなわちもっとも広義の眼前的な存在者の存在機構について問う”存在論的な”問いであること、第3に、存在者的なものは、存在するものの”1つの”領域にすぎないことを確認すること、である。存在の理念は、「存在者的なもの」”と”「歴史学的なもの」の双方を含むのである。”この理念”にこそ、「類的な差異」を適用する必要がある。

 ヨルク伯は、歴史性について問い掛けるには、ディルタイのようにそれを記述するという姿勢を取るのではなく、存在者的なものと歴史的なものを別に構成するカテゴリーが必要であることを正しく認識していました。しかしヨルク伯には存在論的な視点がなかったために、こうしたカテゴリーを伝統的な生の哲学に求めたのでした。しかし存在者的なものと歴史的なものを区別するということは、生の哲学ではなく、存在者の認識と、その歴史性を考察することのできる存在論の課題です。ヨルク伯に何よりも欠けていたのは、このカテゴリーを考察するには、人間という存在者と存在そのものについての「存在論的な差異」を考察する存在論的なまなざしが必要であるという認識でした。
 第2に、この歴史性について問いを構築するためには、実存する人間という存在者と、歴史的な遺物や資料など、広義の眼前的な存在者の違いを明確に認識するまなざしが必要です。ヨルク伯に欠けていたのは、この2種類の明確に異なる「存在者的な差異」を考察する存在論的なまなざしが必要であるという認識です。
 第3に、存在者はたしかに存在するものの1つの領域ですが、存在するものには他にもさまざまな領域があり、歴史学的なものなども含むという認識です。ヨルク伯に欠けていたのは、「存在の理念は、「存在者的なもの」”と”「歴史学的なもの」の双方を含む」のであり、「”この理念”にこそ、〈類的な差異〉を適用する必要がある」という認識、すなわち、「領域論的な差異」を明確に区別するまなざしが必要であるという認識でした。
 これらの3つの差異は、すでに本書の存在論的な議論のうちで詳しく展開されてきたものですが、当時の哲学と歴史学を支配していた伝統的な存在論の支配では、こうした差異を認識することができませんでした。ヨルク伯が書簡で歴史的でない存在者を、端的に「存在者的なもの」と呼んでいるのは偶然ではありません。ヨルク伯は、こうした伝統的な存在論に暗黙のうちに支配されて、これらの差異を無視することになったのです。
 現存在の歴史性という当面の課題にとってとくに重要なのは、第3の「領域論的な差異」でしょう。これを考察するには、存在一般の意味への問いを基礎存在論的に解明することによって、あらかじめ導きの糸を確保しておく必要があります。そしてそれは現存在の時間性についての考察によって導かれるのですが、これが次の第6章の課題です。


 この第77節をもって、第2篇第5章は終わります。次の第6章は、既刊の『存在と時間』の最後の章になります。

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