『存在と時間』を読む Part.69

  (b)情態性の時間性

 前回は理解の時間性についての分析が遂行されましたが、理解はつねに情態的なものとして行われます。現存在はつねに情動的な存在なのであり、〈そこに現に〉は、等根源的に気分によって開示されているか、閉ざされているのです。このように現存在が情動的な存在であるということは、受動的な存在であることを意味しています。情動的な存在であるということは、現存在が気分というものによって動かされていることを意味しているからであり、それは現存在が世界のうちに投げ込まれた被投的な存在だからです。情態性は被投性に基づいているのです(Part.28参照)。
 現存在が気分に動かされた存在であるということは、現存在が世界のうちに投げ込まれた存在者として、すでにこの世界にずっと存在してきたことによるものですから、情態性の時間性は既往である言うことができるでしょう。ただし現存在は、自己のこのようなありかたをつねに意識しているとはかぎりません。現存在がみずからが被投的な存在であることを認識できるのは、現存在の存在が不断に既往的に存在している場合にかぎられるのです。

Das Bringen vor das geworfene Seiende, das man selbst ist, schafft nicht erst das Gewesen, sondern dessen Ekstase ermöglicht erst das Sich-finden in der Weise des Sich-befindens. (p.340)
ひとはだれもがみずから被投的な存在者であるのだが、ひとがこの被投的な存在者に直面することによって、初めて既往が作りだされるのではない。むしろその反対に既往という脱自態によって初めて、みずからの情態のうちにあるというありかたで〈自己をみいだす〉ことが可能となるのである。

 「情態性」は>Befindlichkeit<を訳したものですが、この語のもとになった動詞>befinden<とは「〈~の状況に〉ある、〈健康・感情が~で〉ある」を意味する語でした。現存在は、自分がどのような気分であるかによって、〈自己をみいだす〉ことが可能になります。わたしたちはさまざまな感情によって、自分が今どのような状況にあるかを知ることができるのであり、気分とはこのようなセンサーの役割をはたしていると言えるでしょう。
 こうしてもたらされた自己の理解は、つねにそれまでの自己のありかたによって規定されつづけていますから、「既往という脱自態によって初めて、みずからの情態のうちにあるというありかたで〈自己をみいだす〉ことが可能となる」と語られることになります。ただし情態性としての気分は時熟するものですから、既往だけによって規定されるのではなく、現存在がどのような将来を迎えようとするかによっても規定されています。

Das Verstehen gründet primär in der Zukunft, die Befindlichkeit dagegen zeitigt sich primär in der Gewesenheit. Stimmung zeitigt sich, das heißt ihre spezifische Ekstase gehört zu einer Zukunft und Gegenwart, so allerdings, daß die Gewesenheit die gleichursprünglichen Ekstasen modifiziert. (p.340)
理解は第1義的には将来に基づくが、”情態性”はこれとは反対に”第1義的には”既往性において時熟する。気分は時熟する、ということは、気分に特有な脱自態が将来と現在に属しているということだが、それと同時に既往性が、それに等根源的なこれらの脱自態を変化させているのである。

 時熟する気分は時間の脱自態において「将来と現在に属している」のであり、既往はこれらの時間的な規定の土台となっているのです。このことは十分に納得できることですが、これだけではごく当たり前のことを確認しているにすぎません。その人がどんな気分にあるかは、その人のそれまでの生き方やその日の出来事などによって規定されているのは自明なことだからです。そこでハイデガーは気分のうちでも、これまで繰り返し分析されてきた「恐れ」と「不安」という気分を実例として、それがどのような時間の脱自態のうちで時熟しているかを明らかにしようとします。

 まずは恐れについてですが、恐れは非本来的な情態性という性格をそなえていることが確認されてきました(Part.29参照)。恐れという気分はふつうは、現存在がこれから起こる悪しき出来事を予期して、その発生を恐れるのだと考えられています。そうだとすると、恐れの第1義的な時間的な意味は将来であって、既往性ではないのではないでしょうか。その意味では、恐れにあって重要なのは未来の時間性、予期であると考えられます。ただし非本来的な将来である予期が、恐れの時間的な構成に属していることが意味しているのは、たんに恐れに時間性が非本来的な時間性であるということにすぎません。
 すでに第30節においては、「現存在はさしあたりたいていは、自分が配慮的に気遣っている”ものごと”のほうから”存在している”」のであり、「恐れは危険にさらされた内存在を見えるようにすると同時に、そうした内存在を閉ざしてしまう」ものであることが指摘されていました。現存在が恐れるのは、このように世界のうちで配慮的に気遣っているものごとに囲まれて存在しているこれまでのありかたが揺らぎ、破壊されることを案じるからです。

Daß das fürchtende Gewärtigen >sich< fürchtet, das heißt, daß das Fürchten vor ... je ein Fürchten um ... ist, darin liegt der Stimmungs- und Affektcharakter der Furcht. (p.341)
恐れつつ予期することは、「みずからを」恐れるのである。すなわち〈~を前にして恐れる〉ということは、そのつど〈~を”案じて”恐れる〉ということであり、そこに恐れの気分としての性格と、”情動”としての性格があるのである。

 天災を恐れる現存在は、天災によって不可能となるみずからの存在可能を憂慮しているのです。現存在は存在可能ですが、恐れる現存在はみずからを配慮的に気遣う世界から理解しています。この配慮的に気遣っている世界における存在可能を天災が破壊するとき、その現存在にとってはみずからが破壊されたに等しいということになるでしょう。ある職業に固執している人は、その職業がもはやその人にとって不可能になってしまうことを恐れるのです。

Deren existenzial-zeitlicher Sinn wird konstituiert durch ein Sichvergessen: das verwirrte Ausrücken vor dem eigenen faktischen Seinkönnen, als welches das bedrohte In-der-Welt-sein das Zuhandene besorgt. (p.341)
恐れの実存論的かつ時間的な意味は、自己の忘却によって構成されている。というのは、脅かされた世界内存在は、戸惑いながらみずからに固有な事実的な存在可能から退却し、このように退却した者として、手元的な存在者に配慮的な気遣いをするのである。

 配慮的に気遣っているもののほうからみずからを理解している現存在は、その存在可能が不可能になることを恐れますが、そもそもなぜ恐れるのかというと、自己を忘却しているからです。日常的な現存在は、固有な自己を忘却し、世界から自己を理解しているから恐れることになるのです。これにたいして決意した現存在は恐れません。この現存在は「みずからに固有な事実的な存在可能」において自己を理解するからであり、配慮的な気遣いの目配りによって露呈されていた非本来的な自己理解の可能性にしがみつくことがないからです。

Das sich fürchtende Besorgen springt, weil sich vergessend und deshalb keine bestimmte Möglichkeit ergreifend, von der nächsten zur nächsten. Alle >möglichen<, das heißt auch unmöglichen Möglichkeiten bieten sich an. Bei keiner hält der Fürchtende, die >Umwelt< verschwindet nicht, sondern begegnet in einem Sich-nicht-mehr-auskennen in ihr. Zum Sichvergessen in der Furcht gehört dieses verwirrte Gegenwärtigen des Nächsten-Besten. (p.342)
恐れに駆られた配慮的な気遣いは、われを忘れて、”特定の”可能性を”掌握する”ことがなく、次から次へと眼の前にやってくる可能性に飛びつくのである。あらゆる「可能な」可能性が、そして不可能な可能性までもが眼の前にやってくるのである。恐れるひとは、そのどの可能性にも落ちつけない。「環境世界」は消え去ることはないが、”環境世界”のうちでは、〈もはや勝手がわからない〉という形で、環境世界と出会うのである。恐れによる自己忘却のうちに、このように身近なものを手当たり次第に、”戸惑って現在化する”という営みが属しているのである。

 決意した現存在にたいして、恐れる現存在は自己を忘却しています。そのような現存在は「われを忘れて、”特定の”可能性を”掌握する”ことがなく、次から次へと眼の前にやってくる可能性に飛びつく」のです。ここでハイデガーは、火事になった家の住人が、あわてて大切なものではなく、ごく身近にあった瑣末なものを救い出すことが多いことを指摘していますが、「恐れによる自己忘却のうちに、このように身近なものを手当たり次第に、”戸惑って現在化する”という営みが属している」のです。自己忘却した恐れる現存在は、たえずみずからを世界の側から理解する必要があるために、自分が配慮的に気遣うそのものの消失にたえず怯えることになります。だからこそ、恐れ戸惑う現存在は特定の可能性にあきたらず、その他の可能性にも目移りして、それを現在化させるのです。

Die spezifische ekstatische Einheit, die das Sichfürchten existenzial ermöglicht, zeitigt sich primär aus dem charakterisierten Vergessen das als Modus der Gewesenheit die zugehörige Gegenwart und Zukunft in ihrer Zeitigung modifiziert. Die Zeitlichkeit der Furcht ist ein gewärtigend-gegenwärtigendes Vergessen. (p.342)
〈みずからのために恐れること〉を実存論的に可能にする特有な脱自的な統一は、第1義的にはこのように性格づけた忘却から時熟するものである。この忘却は既往性の様態であり、それに属する現在と将来が時熟するさいに、それらを変化させることになる。恐れの時間性は、予期しながら現在化する忘却である。

 恐れの時間性はこのような自己の忘却であり、「この忘却は既往性の様態であり、それに属する現在と将来が時熟するさいに、それらを変化させることになる」のです。このようにして「恐れの時間性は、予期しながら現在化する忘却である」ことになります。これが恐れの時熟の構造です。

 不安については、第40節において、この情態性が現存在を「それにもっとも固有な世界内存在へと孤独化」するものであること、現存在を世界内存在としての自分自身に直面させるものであることが指摘されていました。不安によって現存在はみずからにもっとも固有な被投的な存在の前に連れだされ、日常的に馴染んでいた世界内存在の不気味さがあらわになるのです。

Die Welt, worin ich existiere, ist zur Unbedeutsamkeit herabgesunken, und die so erschlossene Welt kann nur Seiendes freigeben im Charakter der Unbewandtnis. Das Nichts der Welt, davor die Angst sich ängstet, besagt nicht, es sei in der Angst etwa eine Abwesenheit des innerweltlichen Vorhandenen erfahren. Es muß gerade begegnen, damit es so gar keine Bewandtnis mit ihm haben und es sich in einer leeren Erbarmungslosigkeit zeigen kann. (p.343)
わたしが実存しているこの世界は、無意義性のうちに沈み込み、このようにして開示された世界が自由に開けわたすことのできる存在者は、もはや適材適所性のなさという性格しかそなえていない。不安が不安がるのは、世界の虚無であるが、これは不安において、世界内部的に眼前的な存在者の不在が経験されるということではない。むしろ世界内部的に眼前的なものには出会う必要があり、出会ってこそ、そうした存在者には”もはやいかなる”適材適所性も”なく”、空虚な冷酷さのうちにあることがまざまざと示されるのである。

 ここではさらに、不安に襲われるときには、「わたしが実存しているこの世界は、無意義性のうちに沈み込み、このようにして開示された世界が自由に開けわたすことのできる存在者は、もはや適材適所性のなさという性格しかそなえていない」ことが指摘されます。「不安が不安がるのは、世界の虚無である」のであり、この虚無において、現存在が世界のうちで出会う存在者が、「”もはやいかなる”適材適所性も”なく”、空虚な冷酷さのうちにあることがまざまざと示される」ときに、現存在は不安に襲われるのです。
 このように現存在が世界の虚無に直面し、手元的な存在者のすべての適材適所性が失われるということは、現存在はもはやいかなる未来の可能性にも出会えなくなるということです。これはある意味では将来の時間性にかかわることがらです。そのときには、現存在が配慮的に気遣っているものに基礎を置いていた実存の存在可能に向かってみずからを投企することは、もはや不可能になったことを意味するからです。
 しかし、この不可能性があらわになるということは、かえって本来的な存在可能の可能性が閃きでるということでもあります。ハイデガーは、不安に駆られた現存在は、自己に固有な存在可能について、ふたたび思いをめぐらせる可能性を与えられると指摘します。不安はもっとも固有で単独化された被投性のうちにあるというありさまに、現存在を連れ戻すのです。この不安のうちには、実存を取り戻しながらこれを決断のうちで引き受けるということがすでにそなわっているわけではありません。不安は決断のうちで引き受ける可能性の前に現存在を立たせるのです。

Wohl dagegen bringt die Angst zurück auf die Geworfenheit als mögliche wiederholbare. Und dergestalt enthüllt sie mit die Möglichkeit eines eigentlichen Seinkönnens, das im Wiederholen als zukünftiges auf das geworfene Da zurückkommen muß. Vor die Wiederholbarkeit bringen ist der spezifische ekstatische Modus der die Befindlichkeit der Angst konstituierenden Gewesenheit. (p.343)
それでも不安は”反復可能でありうるものとしての”被投性のうちに連れ戻すのである。そのことによって不安は、本来的な存在可能の可能性を”同時に”あらわにする。本来的な存在可能が反復される場合には、将来的な存在可能として、被投された〈そこに現に〉へと戻って到来しなければならないからである。”反復の可能性の前に連れだすということが、不安という情態性を構成する既往性に特有な脱自的な様態である”。

 ここに恐れと不安の重要な違いがあります。

Das für die Furcht konstitutive Vergessen verwirrt und läßt das Dasein zwischen unergriffenen >weltlichen< Möglichkeiten hin- und hertreiben. Diesem ungehaltenen Gegenwärtigen gegenüber ist die Gegenwart der Angst im Sichzurückbringen auf die eigenste Geworfenheit gehalten. Angst kann sich ihrem existenzialen Sinne nach nicht an ein Besorgbares verlieren. (p.344)
恐れを構成する忘却は、現存在を戸惑わせ、みずから把握することのない「世間的な」さまざまな可能性のあいだをあちらに、こちらに追い回す。こうした落ち着きのない現在化と比較すると、不安の現在はもっとも固有な被投性のほうへとみずからを連れ戻し、そこに”落ち着かせる”。不安の実存論的な意味からしても、不安は配慮的に気遣うことのできるもののうちに、自己を喪失することができない。

 恐れは現存在に、配慮的に気遣いことのできるあらゆる可能性にしがみつこうさせ、落ち着きのなさをもたらしますが、不安は現存在を「もっとも固有な被投性のほうへとみずからを連れ戻し、そこに”落ち着かせる”」と指摘されています。不安が不安がるのは「世界の虚無」であり、そこには配慮的に気遣うことのできる存在者はもはや存在しないから、「不安は配慮的に気遣うことのできるもののうちに、自己を喪失」してしまうことがないのです。
 このように不安は現存在を「もっとも固有な被投性のほう」に連れ戻します。

An der eigentümlichen Zeitlichkeit der Angst, daß sie ursprünglich in der Gewesenheit gründet und aus ihr erst Zukunft und Gegenwart sich zeitigen, erweist sich die Möglichkeit der Mächtigkeit, durch die sich die Stimmung der Angst auszeichnet. In ihr ist das Dasein völlig auf seine nackte Unheimlichkeit zurückgenommen und von ihr benommen. Diese Benommenheit nimmt aber das Dasein nicht nur zurück aus den >weltlichen< Möglichkeiten, sondern gibt ihm zugleich die Möglichkeit eines eigentlichen Seinkönnens. (p.344)
不安は根源的に既往性に基づいたものであって、将来と現在は既往性から初めて時熟するのである。その不安に特有の時間性から明らかになるのは、不安の気分の特徴である力強さが可能になるということである。不安において現存在は完全にみずからの赤裸々な不気味さのうちに引き戻されているのであり、この不気味さに圧倒されている。このように圧倒されているので現存在は、さまざまな”「世間的な」”可能性から”奪い”返されているだけでなく、同時に”本来的な”存在可能に直面する可能性を”与えられて”いるのである。

 不安によって現存在は、「さまざまな”〈世間的な〉”可能性から”奪い”返されているだけでなく、同時に”本来的な”存在可能に直面する可能性を”与えられて”いる」のであり、これが不安の力です。不安が現存在にとって根本的な情態性であるのはそのためです。

 ハイデガーがここで取り上げた情態性としての気分は、すでにこれまでも分析してきた恐れと不安という2つの気分です。これまでの分析においても、恐れと不安の違いは明確に指摘されてきました(Part.39参照)。ここではそれを再確認する形で、恐れと不安の違いを指摘しながら、さらに「死に臨む存在」と現存在の時間性という新たな視点から、この2つの気分の違いを確認しています。
 第1の違いは、これらの気分が発生する対象と存在者についての違いです。すでに第40節で確認されたように、恐れが起こるきっかけとなるのは、環境世界において配慮的に気遣われている存在者であり、これにたいして不安が生まれるのは、現存在そのものからでした。
 第2の違いは、これらの気分を生みだすものの存在論的な違いにかかわるものです。恐れは世界内部的なものから襲ってきますが、不安は〈死に臨む存在〉へと投げ込まれている世界内存在のうちから湧き上がってくるという違いです。
 第3の違いは、時間性の観点からみた違いにかかわるものです。どちらの情態性も、第1義的には既往性に基づくものであるという点では共通しています。ただし恐れは自己喪失しつつある現在から生まれますが、不安は決意性の将来から生まれるものであり、不安によって「死に臨む存在」へと投げ込まれた現存在は、先駆的な決意性によって本来的に実存することができるようになるのです。

Sie befreit von >nichtigen< Möglichkeiten und läßt freiwerden für eigentliche.(p.344)
不安は、さまざまな「空しい」可能性”から”解放し、本来的な可能性に”向けて”自由にするのである。

 ここに不安が、自己忘却している予期や現在化から、反復する先駆や瞬視の脱自態に変化させるという時間的な構造をみてとることができるでしょう。

 ここで時間性の観点から考察されたのは、恐れと不安だけですが、このような気分の時間性の分析は、他の多くの情態性についても行うことができます。ハイデガーは「希望」について、簡単な時間性による分析の手順を示してくれています。
 まず希望は、恐れの反対概念であるかのように思われていることを指摘します。一般に、恐れが到来する災厄にかかわるように、希望は到来する善への期待だと考えられることが多いからです。このように考えるなら、希望の時間性は将来だと思われるかもしれませんが、その実存論的な分析を行ってみると、恐れと同じように、第1義的には既往によって規定されていることが明らかになります。希望は、明るい将来を考えることで、現存在の心を軽くしますが、それはすでに重くされた現存在の気分を軽くする役割をはたすのです。だからこそ逆に、希望という情態性が、既往しつつ存在しているという様態で、心の重荷とかかわりつづけていると言えることになります。

Gehobene, besser hebende Stimmung ist ontologisch nur möglich in einem ekstatisch-zeitlichen Bezug des Daseins zum geworfenen Grunde seiner selbst. (p.345)
高揚した気分、正確には心を高揚させる気分は、存在論的には現存在が自分自身の被投的な根拠に、脱自的かつ時間的に関連しているからこそ、可能になるのである。


 さらにハイデガーはこの他にも、無関心と平静さについて簡単に検討しています。無関心という「無気分」は、実際には気分の欠如ではなく、1つの特有の気分です。これは何もやろうとせず、その日その日をなんとはなしに片づけることを目指すものですが、ハイデガーはこの「無気分」の時間性もまた既往であることを指摘します。というのは、これはもっとも身近なものに配慮的な気遣いをしている日常的な気分が、自己忘却をそなえていることをまざまざと示すものであると考えるからです。

Das Dahinleben, das alles >sein läßt<, wie es ist, gründet in einem vergessenden Sichüberlassen an die Geworfenheit. Es hat den ekstatischen Sinn einer uneigentlichen Gewesenheit. (p.345)
すべてをなるがままに「あらせる」という投げやりな態度は、自己を忘却しながら被投性にみずからを委ねていることに基づいている。この投げやりな態度には、非本来的な既往性という脱自的な意味がある。

 これにたいして「平静さ」という気分は、先駆的な決意性という将来の時間性から生まれるものとされています。

Diese Stimmung entspringt der Entschlossenheit, die augenblicklich ist auf die möglichen Situationen des im Vorlaufen zum Tode erschlossenen Ganzseinkönnens. (p.345)
平静さという”この”気分は、死への先駆のうちで開示されている全体的な存在可能において可能な状況に、瞬視のうちで”まなざし”を向けている決意性から生まれるのである。

 これらの分析はときに恣意的な要素があらわになることもありますが、それでも時間性という観点からの分析の実例として、わたしたちが気分の現象学的な考察をする際には、参考になるでしょう。

 この節のまとめに入ります。

Nur Seiendes, das seinem Seinssinne nach sich befindet, das heißt existierend je schon gewesen ist und in einem ständigen Modus der Gewesenheit existiert, kann affiziert werden. Affektion setzt ontologisch das Gegenwärtigen voraus, so zwar, daß in ihm das Dasein auf sich als gewesenes zurückgebracht werden kann. (p.346)
情動を感じることができるのは、その存在の意味からして何らかの情態のもとで存在している存在者だけ、すなわち実存しつつ、そのつどすでに既往的に存在しながら、既往性の不断の様態のうちで実存している存在者だけである。存在論的には情動を感じるということは現在化を前提とするものであり、現存在は現在化のうちでこそ、既往的な現存在である自己に戻ってこさせられることができるのである。

 ここで、「存在論的には情動を感じるということは現在化を前提とするものであり、現存在は現在化のうちでこそ、既往的な現存在である自己に戻ってこさせられることができる」と語られていますが、この現在化は非本来的な現在としての現在化のことではなく、「現在化する現在」という動詞の意味での現在化です。ある人が喜びを感じるのは将来でも既往でもなく、現在においてです。ただしこの喜びはその人のこれまでのありかたによって規定されているのであり、これは既往性に基づいている現象なのです。
 全体として、気分という情態性の分析においては、現存在はつねに「実存しつつ、そのつどすでに既往的に存在しながら、既往性の不断の様態のうちで実存している存在者」とみなされます。そこですべての気分は被投性のもとで、既往の時間性から考察すべきだということになります。


 今回は以上になります。次回、頽落の時間性と語りの時間性が考察され、第68節が完了します。

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