『存在と時間』を読む Part.47

 第2篇 現存在と時間性


  第45節 現存在の予備的な基礎分析の成果、ならびにこの存在者の根源的な実存論的解釈の課題

 これまで第1篇において、ハイデガーは存在の意味を問う問い掛けにおいて、このような問いが意味をもちうる唯一の存在者である現存在について、その世界内存在と日常性というありかたを分析してきました。第2篇の最初の節では、それまでの現存在分析の成果が確認されることになります。

Gefunden haben wir die Grundverfassung des thematischen Seienden, das In-der-Welt-sein, dessen wesenhafte Strukturen in der Erschlossenheit zentrieren. Die Ganzheit dieses Strukturganzen enthüllte sich als Sorge. In ihr liegt das Sein des Daseins beschlossen. Die Analyse dieses Seins nahm zum Leitfaden, was vorgreifend als das Wesen des Daseins bestimmt wurde, die Existenz. Der Titel besagt in formaler Anzeige: das Dasein ist als verstehendes Seinkönnen, dem es in solchem Sein um dieses als das eigene geht. Das Seiende, dergestalt seiend, bin je ich selbst. Die Herausarbeitung des Phänomens der Sorge verschaffte einen Einblick in die konkrete Verfassung der Existenz, das heißt in ihren gleichursprünglichen Zusammenhang mit der Faktizität und dem Verfallen des Daseins. (p.231)
わたしたちが”獲得した成果”は、主題とされた存在者の根本的な機構である世界内存在であり、その本質からして、この機構の構造は開示性を中軸とするものである。この構造全体の全体性は、気遣いとしてあらわにされた。現存在の存在が、気遣いのうちに囲まれているのである。わたしたちがこの現存在という存在者の存在を分析する際に導きの糸としたのは、あらかじめ現存在の本質として見定めておいたもの、すなわち実存である。この実存という名称が形式的に告示しているのは、現存在は理解する存在可能として”存在している”ということ、現存在はこのような存在において、みずからに固有の存在にかかわっているということである。この存在者はこのようにして存在しながら、そのつど〈わたし自身〉として存在している。この気遣いの現象が詳細に考察されたことによって、実存の具体的な機構を洞察できるようになった。実存は、現存在の事実性ならびに頽落と、等根源的な連関をそなえているのである。

 この現存在という世界内存在が、語り、理解、情態性という存在方式で存在することはすでに明らかにされましたが、現存在の分析という観点からとくに重要なのは、理解のうちでも現存在の存在了解のありかたです。この存在了解について解釈しながら、世界について、他者について、自己について理解することが、第1篇での分析の基本的な課題でした。この存在了解の解釈はさらに予視、予持、予握の3つの構造契機をそなえていることが確認されてきました。ハイデガーはこれを「解釈学的な状況」と呼びます。

Ontologische Untersuchung ist eine mögliche Art von Auslegung, die als Ausarbeiten und Zueignen eines Verstehens gekennzeichnet wurde. Jede Auslegung hat ihre Vorhabe, ihre Vorsicht und ihren Vorgriff. Wird sie als Interpretatiton ausdrückliche Aufgabe einer Forschung, dann bedarf das Ganze dieser >Voraussetzungen<, das wir die hermeneutische Situation nennen, einer vorgängigen Klärung und Sicherung aus und in einer Grunderfahrung des zu erschließenden >Gegenstandes<. Ontologische Interpretation, die Seiendes hinsichtlich der ihm eigenen Seinsverfassung freilegen soll, ist daran gehalten, das thematische Seiende durch eine erste phänomenale Charakteristik in die Vorhabe zu bringen, der sich alle nachkommenden Schritte der Analyse anmessen. Diese bedürfen aber zugleich einer Führung durch die mögliche Vor-sicht auf die Seinsart des betr. Seienden. Vorhabe und Vorsicht zeichnen dann zugleich die Begrifflichkeit vor (Vorgriff), in die alle Seinsstrukturen zu haben sind. (p.231)
存在論的な探究は、解釈の一種であり、解釈とはすでに示したように、理解について詳細に考察して、それをわがものとすることである。すべての解釈には、それに固有の予持、予視、予握がある。これらの「前提」の全体をわたしたちは”解釈学的な状況”と呼ぶが、解釈が解釈として、ある探究の明示的な課題とされる場合には、こうした解釈学的な状況を、開示されるべき「対象」についての根本的な経験に基づいて、しかもこの経験のうちであらかじめ明確なものとし、確定しておく必要がある。存在論的な解釈とは、存在者をそれに固有の存在機構においてあらわにすることであるから、わたしたちはまず主題となる存在者の現象的な性格を明らかにして、これを〈予持〉のうちにもたらし、その後のすべての分析の一歩一歩が、この〈予持〉にふさわしいものとするようにしなければならない。しかしそのために同時に、わたしたちの分析の歩みが、その存在者の存在様式についての〈予視〉が可能であることによって導かれるようにしなければならない。そのときにはこの〈予持〉と〈予視〉は、すべての存在構造がそこにとりこまれるべき概念構成である〈予握〉を、あらかじめ素描しているのである。

 これまでの現存在の日常性の分析は、この予持、予視、予握という3つの構造契機で構成された解釈学的な状況に依拠するものでしたが、この枠組みには本質的な限界が存在していました。というのも、このような日常性に依拠した分析では、日常性を超えた現存在の全体性は、本質的に理解できないからです。

Die Idee der Existenz bestimmten wir als verstehendes Seinkönnen, dem es um sein Sein selbst geht. Als je meines aber ist das Seinkönnen frei für Eigentlichkeit oder Uneigentlichkeit oder die modale Indifferenz ihrer. (p.232)
わたしたちは実存の理念を規定して、みずからの存在そのものにかかわっている了解的な存在可能であることを確認してきた。しかしこの”存在可能”は、そのつど”わたしのもの”であるから、本来的なありかたをすることも、非本来的なありかたをすることも、あるいは本来的なありかたと非本来的なありかたが無差別にあるようなありかたをすることも自由な存在可能である。

 現存在は「本来的なありかたをすることも、非本来的なありかたをすることも、あるいは本来的なありかたと非本来的なありかたが無差別にあるようなありかたをすること」も可能な存在者だと語られています。しかし現存在は日常性においては頽落して存在しているのであり、それが本質的なありかたでした。そのため、現存在の日常性を分析するために必要なものであった予視は、すでに頽落している非本来的な存在可能しか視野に入れることがありませんでした。

Gleichwohl blieb die ontologische Charakteristik der Existenzverfassung mit einem wesentlichen Mangel behaftet. Existenz besagt Seinkönnen - aber auch eigentliches. Solange die existenziale Struktur des eigentlichen Seinkönnens nicht in die Existenzidee hineingenommen wird, fehlt der eine existenziale Interpretation führenden Vor-sicht die Ursprünglichkeit. (p.233)
しかしわたしたちが示した実存機構の存在論的な性格づけには、ある本質的な欠陥がそなわっていた。実存とは存在可能のことであるが、それが本来的な存在可能であることもできるのである。こうした本来的な存在可能の実存論的な構造が、実存の理念のうちに取り入れられていないかぎり、”実存論的な”解釈を導く〈予視〉には、根源性が欠けているのである。

 現存在を全体として考察するためには、非本来的なありかたについてだけではなく、もう1つの可能性である本来的なありかたについても視野に入れる必要があります。その意味で、これまでの分析で使用されてきた「〈予視〉には、根源性が欠けている」と言わざるをえないのです。
 さらに予持という構造契機にも問題があります。現存在を全体的な存在者として把握しようとするなら、この存在者について「始まり」から「終わり」にいたるまでの全体を視野に入れる必要があります。現存在にとっての「始まり」とは誕生であり、「終わり」とは死です。

Zwar wurde behauptet, die Sorge sei die Ganzheit des Strukturganzen der Daseinsverfassung. Liegt aber nicht schon im Ansatz der Interpretation der Verzicht auf die Möglichkeit, das Dasein als Ganzes in den Blick zu bringen? Die Alltäglichkeit ist doch gerade das Sein >zwischen< Geburt und Tod. Und wenn die Existenz das Sein des Daseins bestimmt und ihr Wesen mitkonstituiert wird durch das Seinkönnen, dann muß das Dasein, solange es existiert, seinkönnend je etwas noch nicht sein. (p.233)
たしかに気遣いが、現存在の機構の構造全体にそなわる全体性であることは主張されていた。しかしわたしたちの解釈の端緒のうちに、すでに現存在を全体としてまなざしにもたらす可能性を断念するようなところがなかっただろうか。なぜなら日常性とは、誕生と死の「あいだ」にある存在にほかならないからである。そして現存在の存在が実存によって規定されており、その実存の本質が存在可能によってともに構成されているのだとすると、現存在は実存しているあいだはつねに存在可能のままであり、そのつど”いまだに”何ものかには”なっていない”に違いない。

 現存在は日常性においてはつねに、その「誕生と死の〈あいだ〉にある存在」として考察せざるをえません。主題となる存在者の存在性格は、こうした「途上」としての実存であり、現存在を全体的な存在者として把握しようとすることを目指すものではありません。現存在は生きているかぎり、新たな存在可能に次から次へとみずからを投企することになりますから、「現存在は実存しているあいだはつねに存在可能のままであり、そのつど”いまだに”何ものかには”なっていない”」ということになります。長年の目標を叶えた現存在であっても、その後にもその現存在が生きつづけるかぎり、実存は終わることはないのです。したがって、実存を本質とする現存在という存在者については、その全体性を捉えることができるのかどうかさえも疑問とされることになります。
 このように予視と予持は、現存在の実存を日常性のうちにみいだそうとするために、本来的な存在可能を明らかにすることも、現存在の全体存在を示すこともできないという限界があります。そのため、こうした予視と予持によって構成されているかぎりで、これまでの分析に使われた概念契機としての予握にも限界があることになるでしょう。

 このようにして、現存在の実存の日常性の分析には大きな限界があることが明らかにされました。この限界を打破するためには、頽落した日常的な生き方をする現存在について、これまで考察することのできなかった現存在の存在可能とその全体性を明らかにする必要があります。その試みがこれから第2篇で遂行されるのであり、この節ではそのための概略の道筋が示されることになります。
 まず現存在の全体性という観点から、新たな分析が開始されます。すでに指摘されたように、現存在は「途上」にある存在者であり、始まっているが終わっていない存在者です。この「途上」には、端緒としての誕生は含まれていますが、終結点としての死は含まれていません。死とは、途上の経験が終わった後の事態を指し示すものであり、現存在の全体性を視野に入れるためには、この途上の彼方にある死というものを考察する必要があります。
 というのも、死はたしかに現存在にとっては実際に経験することのできない事態ですが、現存在の実存としての存在可能は、つねにその最終的な存在可能としての死によって規定されているからです。死んだときに、現存在は全体存在となります。

Das >Ende< des In-der-Welt-seins ist der Tod. Dieses Ende, zum Seinkönnen, das heißt zur Existenz gehörig, begrenzt und bestimmt die je mögliche Ganzheit des Daseins. Das Zu-Ende-sein des Daseins im Tode und somit das Ganzsein dieses Seienden wird aber nur dann phänomenal angemessen in die Erörterung des möglichen Ganzseins einbezogen werden können, wenn ein ontologisch zureichender, das heißt existenzialer Begriff des Todes gewonnen ist. (p.234)
世界内存在の「終わり」とは死にほかならない。この終わりは、存在可能に、すなわち実存に属しているものであり、現存在にそのつど可能な全体性はつねに、この終わりによって限定され、規定されている。現存在は死において〈終わりに達している存在〉であり、死においてこの存在者の全体性が実現する。しかし可能な全体”存在”の解明のうちにこの事態を現象的に適切な形で取り入れることができるためには、死について存在論的に十分な概念を、すなわち”実存論的な”概念を獲得しておく必要がある。

 ただし、死において現存在はその実存を喪失します。死んだ現存在は、もはや現存在ではなくなった存在です。ですから重要なのは、死が実現して現存在が実存しなくなった瞬間から、全体となった現存在を眺めることではありません。実存する現存在はむしろ生きている現在の瞬間において、自分の死の瞬間に思いを馳せ、その死の瞬間からそれまでの自分の生の全体を思い見ることのできる存在者なのです。

Daseinsmäßig aber ist der Tod nur in einem existenziellen Sein zum Tode. Die existenziale Struktur dieses Seins erweist sich als die ontologische Verfassung des Ganzseinkönnens des Daseins. Das ganze existierende Dasein läßt sich demnach in die existenziale Vorhabe bringen. (p.234)
ところで現存在にふさわしい形で死が”存在する”のは、ひたすら実存論的な〈死に臨む存在〉においてのみである。この〈死に臨む存在〉の実存論的な構造こそが、現存在が全体的な存在可能になりうる存在論的な機構であることが示される。このようにして、実存する現存在を、全体において実存論的な〈予持〉のうちに取り入れることができるのである。


 ここに予持の新たな可能性が生まれます。これまでの予持は、主として予視という観点から、日常性に生きる現存在の実存のありかたを考察する者でした。しかし現存在は、自分の死の瞬間から自分の生を全体として回顧することができるという特別な存在者です。この視点に立つときに現存在は「実存論的な〈死に臨む存在〉」となりうるのです。これが新しい「実存論的な〈予持〉」のありかたです。

 この瞬間に現存在はその認識のうちでみずからの死を迎えることができます。「この〈死に臨む存在〉の実存論的な構造こそが、現存在が全体的な存在可能になりうる存在論的な機構である」と、ハイデガーは考えます。第2篇の第1章では、この〈死に臨む存在〉としての現存在について考察することになります。
 現存在をその全体性という視点から考察するためには、現存在の死について考察し、現存在をその「死に臨む存在」という実存的な観点から考察する必要があります。ただしこうした現存在の死は、その存在可能の1つでもあります。現存在が本来的な存在可能に直面するのは、こうした「死に臨む存在」としてその全体性に直面するときであり、このような自己の存在可能に直面することで、初めて現存在は本来的な実存になることができると、ハイデガーは考えるのです。

Offenbar muß das Dasein selbst in seinem Sein die Möglichkeit und Weise seiner eigentlichen Existenz vorgeben, wenn anders sie ihm weder ontisch aufgezwungen, noch ontologisch erfunden werden kann. Die Bezeugung eines eigentlichen Seinkönnens aber gibt das Gewissen. Wie der Tod, so fordert dieses Daseinsphänomen eine genuin existenziale Interpretation. Diese führt zur Einsicht, daß ein eigentliches Seinkönnen des Daseins im Gewissen-haben-wollen liegt. Diese existenzielle Möglichkeit aber tendiert ihrem Seinssinne nach auf die existenzielle Bestimmtheit durch das Sein zum Tode. (p.234)
存在者的な立場から、現存在に本来的な実存を押しつけることはできないし、存在論的な立場から、本来的な実存を捏造したりすることもできない。しかしそうだとすると現存在自身がみずからの存在において、みずからが本来的に実存しうることと、その本来的な実存のありかたを示していなければならないのは明らかである。そしてこのような本来的な存在可能の証しを立てるのは〈良心〉なのである。死と同じように、良心という現存在の現象にも、真正な実存論的な解釈が必要である。この解釈によってわたしたちは、現存在の本来的な存在可能は、”良心を持とうと意欲すること”のうちにあるのを洞察するようになる。しかしこの実存的な可能性は、それに固有の存在の意味からして、〈死に臨む存在〉によって実存的に規定されようとする傾向をそなえているのである。

 ハイデガーによれば、現存在が自己の本来的な存在可能に直面するように実存論的な観点から促すのが「良心」です。現存在は良心を持つことによって、自己のありうる死に直面し、自己のありうる存在のありかたに直面することができます。「現存在の本来的な存在可能は、”良心を持とうと意欲すること”のうちにある」のです。この良心によって自己の存在可能に直面する存在のありかたを分析するのが、第2篇の第2章の課題です。
 日常性の分析からは考察することができなかった現存在の本来的な存在可能と全体性は、このように現存在の終わりとしての「死」にかかわる実存的な観点と、「良心」という死についての実存論的な観点を導入することで分析できるようになりました。この死とは、現存在が将来において迎える事態であり、これは時間性のうちに生じる事態です。そしてこれまで考察の土台となってきた日常性も、現在という時間のうちで発生している事態であり、これも時間性の1つの様態なのです。そもそも気遣いというありかたが時間性という特徴をそなえていることは、第1篇ですでに考察されてきたことです(Part.40参照)。この時間性というありかたから現存在を考察することが、第2篇の第3章の課題です。
 こうした時間性という観点からみた現存在は、歴史性をそなえた存在者であることが確認できます。この現存在の時間性と歴史性の関連を考察するのが、第2篇の第4章と第5章の課題です。そして最後の第6章においては、哲学の歴史における時間の概念、とくにヘーゲルの時間論を考察しながら、現存在の実存論的で時間的な分析が、基礎存在論において、そして存在論一般においてもつ意味を考察することが課題とされることになります。


 今回は以上になります。次回から第2篇の第1章に入っていきます。

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