『存在と時間』を読む Part.8

 前回までの投稿で、『存在と時間』の序論のご紹介をさせていただきました。今回から第1部に入っていくことになり、本格的な現存在分析が始まります。


第1部 時間性に基づいた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明

 第1篇 現存在の予備的な基礎分析

 第1篇は全部で6つの章によって構成されています。第1章では、本書の考察が「現存在の実存論的な分析」という意味を持つことが明確に提示され、一見したところこうした考察と同じように見える、その他のさまざまな探究との違いが明らかになります。第2章では、現存在の基本的な構造が、「世界内存在」として提示されます。この世界内存在という構造は、本書で最も重要な概念の1つであり、この構造が分析に先立つ全体としての役目を担っています。そして第1篇の残りの章では、世界の世界性(第3章)、共同存在および自己存在(第4章)、内存在そのもの(第5章)という世界内存在のさまざまな要素についてが分析されることになります。この基礎構造の分析を土台とすることで、現存在の存在の実存論的な意味が「気遣い(Sorge)」であることが示されます(第6章)。

 ここで図を引用させていただきたいと思います。

 こちらはドイツ語版のウィキペディアの「Sein und Zeit」に載せられているドキュメントです(https://de.wikipedia.org/wiki/Sein_und_Zeit)。この図では『存在と時間』に登場する構造とその主要な要素がわかりやすくまとめられており、考察の全体像が見やすく整理されているように思うのでオススメできます。ただし、日本語ではなくドイツ語なので、noteを進める際に図に一致する箇所がでてきましたら、図のドイツ語を日本語に改めてご紹介したいと思います。


 第1章 現存在の予備的な分析の課題の提示

  第9節 現存在の分析論の主題

Das Seiende, dessen Analyse zur Aufgabe steht, sind wir je seblst. Das Sein dieses Seienden ist je meines. Im Sein dieses Seienden verhält sich dieses selbst zu seinem Sein. Als Seiendes dieses Seins ist es seinem eigenen Sein überantwortet. Das Sein ist es, darum es diesem Seienden je selbst geht. Aus dieser Charakteristik des Daseins ergibt sich ein Doppeltes. (p,41)
分析の課題とされている存在者は、それぞれが私たち自身である。その存在者の存在は"そのつど私の"である。その存在において、この存在者はみずからおのれの存在へとかかわっている。このような存在の存在者として、この存在者はみずからに固有な存在に委ねられている。"存在"は、こうした存在者にとってそのつどかかわりのあることなのである。現存在のこのような性格から、2つの点が明らかになる。

 序論において説明されたとおり、存在への問いは現存在の実存論的な分析を通して実行されるものであり、現存在の分析は、基礎存在論の役割を果たすと言われていました。この準備的な段階では、考察の対象になるのは現存在であり、私たちです。そしてこの存在者の存在様式、「実存」については既に語られていました(Part.2)。実存とは「みずからの存在を、そのつどみずからの存在として、存在しなければならない」という存在のありかたを示すものだったのです。ハイデガーはそれを確認しつつ、現存在の実存について次の2点を指摘します。

Ⅰ. Das >Wesen< dieses Seienden liegt in seinem Zu-sein. Das Wassein (essentia) dieses Seienden muß, sofern überhaupt davon gesprochen werden kann, aus seinem Sein (existentia) begriffen werden. Dabei ist es gerade die ontologische Aufgabe zu zeigen, daß, wenn wir für das Sein dieses Seienden die Bezeichnung Existenz wählen, dieser Titel nicht die ontologische Bedeutung des überlieferten Terminus existentia hat und haben kann; existentia besagt nach der Überlieferung ontologisch soviel wie Vorhandensein, eine Seinsart, die dem Seienden vom Charakter des Daseins wesensmäßig nicht zukommt. (p.42)
第1に、この存在者の「本質は」は、<みずからにかかわる>ように存在しなければならないことである。この存在者が何であるか(エセンティア)は、そもそもそれについて語りうるものである限りにおいては、この存在者の現実存在(エクシステンティア)から把握しなければならない。私たちはこの存在者の存在を実存と呼ぼうとするのであるが、この名称は存在論的には、エクシステンティアという伝統的な用語と同じ意味をもつものではなく、もちえないことを示すことが、この存在者についての存在論的な考察の重要な課題となる。伝統的な用語としてのエクシステンティアは、存在論的には"眼前存在"を意味するのであり、それは現存在という性格の存在者には本質的に適用できない存在様式である。

 まず1点目として挙げられるのが、現存在の「本質」が実存することであることです。実存とは>Existenz<を訳したものですが、このドイツ語はラテン語の>existentia<から成り立っており、こちらは現実存在、事実存在と訳せます。ただし、ハイデガーが用いるエクシステンティアは、「伝統的な用語と同じ意味をもつものではな」いと言われており、「伝統的な用語としてのエクシステンティアは、存在論的には"眼前存在"を意味する」と言います。
 伝統的な哲学ではエセンティア(本質)と存在することは区別されて考えられてきました。そして、エクシステンティアには存在することがあてられいましたが、この用語の「エクス」とは「外に」という意味をもち、その存在者の本質が外部にあることを表現するものになっています。存在者は外部の「神」によってその本質を規定されているような「被造物」として捉えられている、というのが、中世の哲学に対するハイデガーの説明です。神のみが本質と存在を一致させることができる存在者であり、人間を含むその他すべての存在者は、外の絶対者によって本質を仰がねばならないとされます。するとこのエクシステンティアには、被造物というニュアンスが込められていることになり、伝統的な意味としては事物的な存在者の存在様式を指す用語であった言えるでしょう。
 『存在と時間』には神が出てくる余地はありません。ハイデガーのエクシステンティアは伝統的な意味を示すものではなく、「外への存在」というように捉えなおされます。分析の対象となる存在者(私たち)は現存在であって、事物のような存在様式で存在しているのではありません。現存在はその他の事物とは異なり、それが「何であるか」という本質によって規定されるのではなく、その本質が語られるとすれば、それは「現実存在(エクシステンティア)から把握しなければならない」のです。エクシステンティアは事物の眼前存在という様式から、現存在の存在の実存という様式に意味が変わります。このような理由でハイデガーは、用語上の混乱を避けるために、伝統的な意味をもつエクシステンティアを眼前存在と呼び、現存在の存在を>Existenz<(エクシステンツ)と呼ぶと断っているのでした。
 現存在と呼ばれる存在者は、机や家や木のように、それが「何であるか」を示すのではなく、それが「存在するものであること」を示すのです。Das >Wesen< des Daseins liegt in seiner Existenz.("現存在の本質はその実存にある"。)

2. Das Sein, darum es diesem Seienden in seinem Sein geht, ist je meines. Dasein ist daher nie ontologisch zu fassen als Fall und Exemplar einer Gattung von Seiendem als Vorhandenem. Diesem Seienden ist sein Sein >gleichgültig<, genau besehen, es >ist< so, daß ihm sein Sein weder gleichgültig noch ungleichgültig sein kann. Das Ansprechen von Dasein muß gemäß dem Charakter der Jemeinigkeit dieses Seienden stets das Personalpronomen mitsagen: >ich bin<, >du bist<. (p.42)
第2に、この存在者がみずからの存在においてかかわっている"その"存在は、そのつどわたしの存在である。だから現存在は存在論的には、眼前的に存在する存在者のある類に含まれる事例や見本として把握することは決してできない。眼前存在者にとっては、その存在は「どうでもよい」のである。正確に言えば、眼前存在者にとってはその存在はどうでもよいことでも、どうでもよくないことでもありえるというのが、その「存在」のしかたなのである。現存在に話しかけるには、現存在の"各私性"の性格に応じて、「わたしが存在する」「君が存在する」というように、常に人称代名詞が添えられなければならない。

 2点目として指摘されるのは「各私性」、そのつどわたしであることです。各私性と訳すのは>Jemeinigkeit<というドイツ語ですが、これは>je<という「それぞれ、そのつど」を意味する語と、>mein<という「わたしの」を意味する語を組み合わせて作られています。ですからニュアンスとしては「そのつどわたしの」という感じでしょう。現存在はみずからの存在にかかわっている、みずからの存在が問題である、そうした仕方で存在していますが、そうした存在はそのつどその現存在自身の存在に他なりません。だからわたしが存在することは決して代理可能なものではなく、現存在と関係するときには「わたし」「君」といった人称代名詞が使用されることになるのです。
 存在は類ではないということは、序論ですでに述べられていました。類のような概念が適用可能な存在者は眼前的な存在者であって、「現存在は存在論的には、眼前的に存在する存在者のある類に含まれる事例や見本として把握することは決してできない」のです。「眼前存在者にとってはその存在はどうでもよいことでも、どうでもよくないことでもありえる」のだから、絶えずみずからの存在が問題である現存在とは相容れない存在の仕方をしていると言えるでしょう。

 そしてこの各私性と関連して、本書の魅力の1つである「本来性」と「非本来性」という概念が登場します。少し長くなりますが、要素が詰まっている個所であるので引用してみます。

Und Dasein ist meines wiederum je in dieser oder jener Weise zu sein. Es hat sich schon immer irgendwie entschieden, in welcher Weise Dasein je meines ist. Das Seiende, dem es in seinem Sein um dieses selbst geht, verhält sich zu seinem Sein als seiner eigensten Möglichkeit. Dasein ist je seine Möglichkeit und es >hat< sie nicht nur noch eigenschaftkich als ein Vorhandenes. Und weil Dasein wesenhaft je seine Möglichkeit ist, kann dieses Seiende in seinem Sein sich selbst >wählen<, gewinnen, es kann sich verlieren, bzw. nie und nur >scheinbar< gewinnen. Verloren haben kann es sich nur und noch nicht sich gewonnen haben kann es nur, sofern es seinem Wesen nach mögliches eigentliches, das heißt sich zueigen ist. Die beiden Seinsmodi der Eigentlichkeit und Uneigentlichkeit - diese Ausdrücke sind im strengen Wortsinne terminologisch gewählt - gründen darin, daß Dasein überhaupt durch Jemeinigkeit bestimmt ist. Die Uneigentlichkeit des Daseins bedeutet aber nicht etwa ein >weniger< Sein oder einen >niedrigeren< Seinsgrad. Die Uneigentlichkeit kann vielmehr das Dasein nach seiner vollsten Konkretion bestimmen in seiner Geschäftigkeit, Angeregtheit, Interessiertheit, Genußfähigkeit. (p.42)
また、現存在はこのように存在するときも、あのように存在するときも、その各々のありかたで、わたしのものである。現存在がどのようにそのつどわたしのものであるかは、すでにつねに何らかの形で決定されている。この存在者は、みずから存在することにおいて、みずからの存在とかかわっているのであり、みずからに最も固有な可能性として、みずからの存在に向き合っているのである。現存在はそのつどみずからの可能性において"存在している"のであり、みずからの可能性をたんに眼前にある1つの特性として「もっている」のではない。そして現存在は本質からして、つねにみずからの可能性において存在しているために、その存在者は存在することにおいてみずからを「選びとり」、獲得することが"できる"のである。さらにみずからを喪失することも、まったく獲得しないことも、獲得しているように「みえるだけ」のこともありうるのである。現存在がみずからを喪失してしまったり、まだみずからを獲得していなかったりすることができるのは、現存在がその本質からして、"本来的なもの"になりうるものだからであり、みずからに固有なものであるからである。この"本来性"と"非本来性"という2つの存在様態は(これらの表現は厳密な語義を考慮して選ばれた用語である)、現存在がすべて各私性によって規定されていることを根拠とするのである。ただし現存在の非本来性というありかたは、現存在の存在が「稀薄」だとか、存在の程度が「低い」ということを意味するわけではない。むしろこの非本来性という形で存在している現存在は、忙しくしているとか、活気に満ちているとか、何かに関心をもっているとか、何かを楽しむことができるなど、きわめて充実した具体性において存在していることもあるのである。

 「本来性」と訳した>Eigentlichkeit<は、「固有性」というニュアンスも含まれています。ハイデガーは本来性ということで、ここで道徳を持ち出してきたわけでは決してありません。このnoteでは中山訳にしたがって「本来性」と訳しますが、そのような意味で感覚的に引っかかる場合には、そして各私性を強調したいのあれば、「固有性」と捉えてもよろしいかと思います。この本来性と非本来性の区別は、現存在の実存のありかたの差異として、本書で重要な意味をもつことになります。引用した文章には、これらの概念について次の4つの点が指摘されていますので、確認していきましょう。

第1に、「現存在はこのように存在するときも、あのように存在するときも、その各々のありかたで、わたしのものである」ということです。現存在はその各私性のために、「わたし」が本来的に存在したり、非本来的に存在したりすることができるのです。

第2に、「現存在はそのつどみずからの可能性において"存在している"のであり」、それは眼前存在者が「もっている」ような特性ではないことです。現存在は実存します。それは眼前存在者がもっているような性格ではなく、実存することによって本来性と非本来性という2つの存在様態を選択することができるのです。「現存在は本質からして、つねにみずからの可能性において存在しているために、その存在者は存在することにおいてみずからを"選びとり"、獲得することが"できる"のである」。

第3に、現存在は「その本質からして、"本来的なもの"になりうるもの」であり、「みずからに固有なものである」ことである。これは、現存在は、本来性と非本来性という2つの可能な存在様態を選択することができますが、現存在は本質的に本来的なものになるべきだということを意味します。非本来的な現存在が「みずからを喪失することも、まったく獲得しないことも、獲得しているように"みえるだけ"のこともありうる」とされていることから、本来的であることは、みずからを獲得していることを意味することが明確にされています。

第4に、「現存在の非本来性というありかたは、現存在の存在が"稀薄"だとか、存在の程度が"低い"ということを意味するわけではない」ということです。「むしろこの非本来性という形で存在している現存在は、忙しくしているとか、活気に満ちているとか、何かに関心をもっているとか、何かを楽しむことができるなど、きわめて充実した具体性において存在していることもあるのである」。本来性にせよ非本来性にせよ、そのようなありかたで存在していることを、現存在がみずから選択していることを忘れてはならないでしょう。

 さて、これまで現存在の2つの性格が素描されてきました。第1が、エセンティアよりも「エクシステンティア」が優位にあること、第2が、「各私性」です。この2つの性格が示していることは、現存在の分析論は、眼前存在者を分析するようにはいかず、特殊な領域で展開されるものであるということです。眼前存在者は客観的で事物的な存在様態をとっているものですが、それは現存在とは異なる存在者です。だから、こうした存在者を分析する視点と、現存在を分析する視点は異なるものでなければなりません。この視点を定めておくことは、現存在を存在論的に分析するための本質的な作業の1つとなるでしょう。
 現存在は眼前存在者のように、その本質において存在しているのではなく、その可能性において存在しているものです。

Das Dasein bestimmt sich als Seiendes je aus einer Möglichkeit, die es ist und d.h. zugleich in seinem Sein irgendwie versteht. Das ist der formale Sinn der Existenzverfassung des Daseins. Darin liegt aber für die ontologische Interpretation dieses Seienden die Anweisung, die Problematik seines Seins aus der Existenzialität seiner Existenz zu entwickeln. (p.43)
現存在は、その各々がある可能性を"生きている"のであり、同時にみずからの存在においてこの可能性を何らかの形で理解しているものであるから、現存在はつねにこの可能性に基づいて、みずからを存在者として規定しているのである。これが現存在の実存機構の形式的な意味である。そこに、現存在の実存の実存性に基づいて現存在の存在という問題構成を展開する、この存在者を"存在論的に"解釈するための指針があるのである。

 ただしハイデガーは、実存という現存在に固有の存在様式の具体的な理念に基づいて、現存在の存在を分析することを避けています。序論でも言われていたように、現存在の実存のありかたは、特定の実存のおける「差異」のうちに解釈するべきではないのです。

Das Dasein soll im Ausgang der Analyse gerade nicht in der Differenz eines bestimmten Existierens interpretiert, sondern in seinem indifferenten Zunächst und Zumeist aufgedeckt werden. Diese Indifferenz der Alltäglichkeit des Daseins ist nicht nichts, sondern ein positiver phänomenaler Charakter dieses Seienden. Aus dieser Seinsart heraus und in sie zurück ist alles Existieren, wie es ist. Wir nennen diese alltägliche Indifferenz des Daseins Durchschnittlichkeit. (p.43)
分析を始めるにあたっては、現存在は特定の実存のありかたにおける差異のうちに解釈されるべきではない。そうではなく、現存在の差異のない、さしあたりたいていのうちにあらわにされるべきである。この現存在の日常性の差異のなさは、"何ものでもないものではなく"、この存在者の積極的な現象的性格の1つなのである。すべての実存は、このような存在様式のうちから登場し、このような存在様式のうちにもどっていくという形で存在するのである。私たちはこうした現存在の日常的な差異のなさを、"平均的なありかた"と呼ぶ。

 つまりハイデガーは、この差異のなさが、世界で生きる現存在にもっとも普通にみられる存在様態であると言っているのであり、この状態にある現存在からこそ分析を始めるべきであると主張するのです。現存在が本来性というありかたで存在していることは、極めて稀なことであるとされています。本来的なありかたをする現存在とは、固有を生きる特殊な状態であって、決して「平均的なありかた」ではありません。現存在の分析は、人間の特殊なケースである理想的なありかたに依拠して行うことはできず、ほとんどすべての人が「さしあたりたいてい」はそのうちにある差異のなさ、すなわちこの本来性を喪失した頽落の状態から始められる必要があります(Part.3)。例外的なありかたの分析ではなく、日常性のうちに頽落した状態とその分析が、現存在の存在論的な分析のための積極的なてがかりとなるのです。

 ハイデガーは、差異のなさのうちに頽落している現存在のありかたを「平均的なありかた」と呼び、そのようなありかたが現存在の「日常性」を構成していることを指摘します。しかし、この誰もがそうである平均的で日常的なありかたは、頽落したありかたとして軽視すべきものではないのです。こうした非本来性においても、現存在の実存的なありかたの構造をみてとることができるのです。

Die durchschnittliche Alltäglichkeit des Daseins darf aber nicht als ein bloßer >Aspekt< genommen werden. Auch in ihr und selbst im Modus der Uneigentlichkeit liegt a priori die Struktur der Existenzialität. Auch in ihr geht es dem Dasein in bestimmer Weise um sein Sein, zu dem es sich im Modus der durchschnittlichen Alltäglichkeit verhält und sei es auch nur im Modus der Flucht davor und des Vergessens seiner. (p.44)
しかし現存在の平均的な日常性は、単なる「外観」にすぎないものと捉えられてはならない。こうした平均的な日常性のうちにも、いやまさにこの非本来性の様態のうちにすら、実存性の構造がアプリオリに存在しているのである。この平均的な日常性においても、現存在はみずからの存在に特定のしかたでかかわっているのであり、平均的な日常性という様態で、みずからの存在にかかわっているのである。たとえ"それから"逃げ出すとか、"それ"を忘却するという様態であるにしても。

 ここで述べられているような、みずからの存在から逃げだしたり忘却したりする様態は、現存在分析が進むにつれその実態が明らかにされます。大切なのは、たとえ非本来的なありかたで存在しているとしても、そこに実存性の構造を見出すことができるということであり、逆に言えば、こうした構造によって、非本来的なありかたすらも可能になっているということです。

Was ontisch in der Weise der Durchschnittlichkeit ist, kann ontologisch sehr wohl in prägnanten Strukturen gefaßt werden, die sich strukturell von ontologischen Bestimmungen etwa eines eigentlichen Seins des Daseins nicht unterscheiden. (p.44)
存在者的にみれば平均的なありかたで"存在している"ものも、存在論的にみれば現存在の"本来的な"存在にみられる存在論的な規定と、構造的には違わない簡潔な構造において把握されることもありうるのである。

 こうして存在論的な分析は、この存在者的な「平均的なありかた」の考察から、出発するのです。

 このように「さしあたりたいてい」は頽落した日常性というありかたのうちにある現存在の存在を分析するには、通常の事物を分析する概念の枠組みとは異なる概念構成が必要となります。そのような概念構成は「実存カテゴリー」と呼ばれます。

Alle Explikate, die der Analytik des Daseins entspringen, sind gewonnen im Hinblick auf seine Existenzstruktur. Weil sie sich aus der Existenzialität bestimmen, nennen wir die Seinscharaktere des Daseins Existenzialien. Sie sind scharf zu trennen von den Seinsbestimmungen des nicht daseinsmäßigen Seienden, die wir Kategorien nennen. (p.44)
現存在の分析論によって生じるすべての説明は、現存在の実存構造に注目したものである。こうした説明は実存性から規定されるので、現存在の存在性格を"実存カテゴリー"と呼ぶことにする。この実存カテゴリーは、現存在ではない存在者の存在規定である"カテゴリー"と呼ぶものとは異なるものとして、明確に区別される必要がある。

 カテゴリーについては序論でも既に述べられていました(Part.1参照)。カテゴリーとは、すべての命題において語られる構成概念として機能するもののことであり、アリストテレスはそれを10つあるとし、カントはそれを「量、質、関係、様態」の4つに整理し直したのでした。
 ハイデガーは、このカテゴリーを「もっとも広義の眼前存在」だけに適用されるものと規定し、現存在に適用される概念構成を、これと区別して「実存カテゴリー」と呼びます。

Existenzialien und Kategorien sind die beiden Grundmöglichkeiten von Seinscharakteren. Das ihnen entsprechende Seiende fordert eine je verschiedene Weise des primären Befragens: Seiendes ist ein Wer (Existenz) oder ein Was (Vorhandenheit im weitesten Sinne). Über den Zusammenhang der beiden Modi von Seinscharakteren kann erst aus dem geklärten Horizont der Seinsfrage gehandelt werden. (p.45)
実存カテゴリーとカテゴリーは、存在性格の2つの根本的な可能性である。それぞれに該当する存在者は、第1義的な問い掛けにあたっては、それぞれに異なるありかたが求められるのである。一方は"誰"いう存在者であり、その存在のありかたは実存である。もう一方は"何"という存在者であり、その存在のありかたはもっとも広義の眼前存在である。存在者の存在性格のこの2つの様態にどのような連関があるかを論じるには、まず存在への問いの地平を明らかにしなければならない。

 現存在分析において重要なのは、もちろん「誰」と呼ばれる存在者の存在のありかたであり、したがって実存カテゴリーこそがこの分析に適切な概念構成となります。事物的な存在者に適用されるカテゴリーとは混同しないように注意しましょう。

 さて、この節の最後の段落です。

In der Einleitung wurde schon angedeutet, daß in der existenzialen Analytik des Daseins eine Aufgabe mitgefördert wird, deren Dringlichkeit kaum geringer ist als die der Seinsfrage selbst: Die Freilegung des Apriori, das sichtbar sein muß, soll die Frage, >was der Mensch sei<, philosophisch erörtert werden können. Die existenziale Analytik des Daseins liegt vor jeder Psychologie, Anthropologie und erst recht Biologie. In der Abgrenzung gegen diese möglichen Untersuchungen des Daseins kann das Thema der Analytik noch eine schärfere Umgrenzung erhalten. Ihre Notwendigkeit läßt sich damit zugleich noch eindringlicher beweisen. (p.45)
序論ですでに示唆したように、現存在の実存論的な分析論において、存在への問いに劣らない緊急の課題を達成する必要がある。その課題とは、"人間についての"アプリオリなものを見えるようにしておくということである。「人間とは何か」という問いを哲学的に解明できるようにするには、こうしたアプリオリなものをあらわに示しておかねばならない。現存在の実存論的な分析論は、いかなる心理学や人間学よりも、ましてや生物学などよりも"先にある"ものである。しかしこれらの学問も、現存在を探究することができるのであるから、こうした試みと分析論との違いを示しておけば、この分析論の主題の輪郭をさらに明確に提示することができるだろう。それによって同時に、この分析論の必然性が差し迫ったものであることも、より立ちいって証明することができるだろう。

 ハイデガーは、現存在の実存論的な分析論の緊急な課題として、「"人間についての"アプリオリなものを見えるようにしておく」ことをあげています。ここで人間存在におけるアプリオリなものとして示唆されているのは、平均的な日常性です。誰もがそのようなありかたをしている存在様態がアプリオリな形で、現存在のさまざまな存在のありかたを可能にしているのです。
 そしてこうしたアプリオリ性をそなえているために、現存在分析は、他のさまざまな学問よりも「"先にある"」と言われ、それを根拠づけるようなものとなっています。次節では、現存在分析のこのアプリオリ性について考察が行われます。特に、「人間とは何か」という問いを哲学的に解明できるようにする学問、すなわち哲学的人間学と分析論との違いを明確にすることが次の節の大きな課題となります。というのも、ハイデガーの存在論的な考察はしばしば、哲学的な人間学の1つとみなされてきたからです。しかし実際には、哲学的人間学も、現存在の実存論的な分析論が担う「"人間についての"アプリオリなもの」によって根拠づけられるものなのです。


 これで第9節は終わりです。『存在と時間』はこれ以後どんどん面白くなっていきますので、気に入っていただければ、次回以降も是非よろしくお願いします。ここまで見ていただき、ありがとうございました。

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