『存在と時間』を読む Part.39

  第40節 現存在の傑出した開示性としての〈不安〉という根本的な情態性

 前節で語られていたように、ハイデガーは現存在の根底的な情態性として「不安」の概念をあげていました。この不安についてはまだ提示されただけであり、それについてさらに考察するのが第40節の内容になります。まずは不安についての問いの提起から始められています。

Inwiefern ist die Angst eine ausgezeichnete Befindlichkeit? Wie wird in ihr das Dasein durch sein eigenes Sein vor es selbst gebracht, so daß phänomenologisch das in der Angst erschlossene Seiende als solches in seinem Sein bestimmt, bzw. diese Bestimmung zureichend vorbereitet werden kann? (p.184)
どこまで不安は傑出した情態性なのだろうか。不安のうちで現存在はどのようにして、みずからに固有の存在をつうじて、みずからの前に連れだされるのだろうか。不安において開示される存在者が、どのようにしてそうした存在者として、みずからの存在において現象学的に規定されるのだろうか、そしてこの規定がどのようにして、十分に準備されうるのだろうか。

 ハイデガーは不安の概念について3つの重要な問いを提起しています。第1の問いは、「不安のうちで現存在はどのようにして、みずからに固有の存在をつうじて、みずからの前に連れだされるのだろうか」というものです。これは不安のもつ威力についての問いと言えるでしょう。
 第2の問いは、「不安において開示される存在者が、どのようにしてそうした存在者として、みずからの存在において現象学的に規定されるのだろうか」というもので、これは不安において開示される現存在を、現象学的にどのように規定できるかという問いです。
 第3の問いは、そのための準備についての問いであり、「そしてこの規定がどのようにして、十分に準備されうるのだろうか」が問われることになります。
 これら3つの問いは、この段階ではただ提起されただけであり、ハイデガーがどのようにして不安を特権的な現象として考察するにいたったのかは、それほど明確には示されていません。それでも不安の現象に注目することで、現存在の実存を根本的に捉えることができると、ハイデガーは見込んでいました。
 現存在は世界のうちで頽落しており、日常性においてつねに自己に固有の存在から離れています。ハイデガーはこのことを「逃走」と呼び、不安はこのように自己から逃亡している現存在を襲うのだと言います。というのも、不安のもっとも重要な特徴は、現存在がみずからの前に連れだされることがあげられるからです。不安には現存在に自己に直面される力があると、ハイデガーは考えたのです。

 予告されていたように、不安の現象について考察するにあたって、まず不安と類似している「恐れ」という現象と対比することで、不安の現象を照らしだすことが試みられます。実は以前の恐れの考察は、この「不安」について考察するための準備のようなものだったのです。
 恐れの考察を覚えていらっしゃいますでしょうか(Part.29参照)。恐れは「<何について>恐れるか、恐れそのもの、<何のために>恐れるか」という3つの構造的な契機を手掛かりに考察されてきました。不安も情態性として、これと同じような構造をそなえていると考えることができます。ただし、この2つの現象には明確な違いがあります。

Die Interpretation der Furcht als Befindlichkeit zeigte: das Wovor der Furcht ist je ein innerweltliches, aus bestimmter Gegend, in der Nähe sich näherndes, abträgliches Seiendes, das ausbleiben kann. Im Verfallen kehrt sich das Dasein von ihm selbst ab. Das Wovor dieses Zurückweichens muß überhaupt den Charakter des Bedrohens haben; es ist jedoch Seiendes von der Seinsart des zurückweichenden Seienden, es ist das Dasein selbst. Das Wovor dieses Zurückweichens kann nicht als >Furchtbares< gefaßt werden, weil dergleichen immer als innerweltliches Seiendes begegnet. Die Bedrohung, die einzig >furchtbar< sein kann und die in der Furcht entdeckt wird, kommt immer von innerweltlichem Seienden her. (p.185)
情態性としての恐れの解釈から明らかになったのは、恐れの〈何から〉は、そのつど何らかの世界内部的な存在者であることだった。この存在者は特定の〈辺り〉から〈近さ〉へと近づいてくる存在者であり、この存在者は有害なものではあるが、あるいは襲ってこないかもしれないものである。これにたいして頽落においては、現存在は自分自身から離反する。この尻込みが尻込むその〈何から〉は、総じて〈脅かすもの〉という性格をそなえているに違いない。とはいえ、この〈何から〉は、〈尻込みする〉存在者という存在様式をそなえた存在者なのであり、これは現存在そのものである。こうした〈尻込みする〉ことの〈何から〉を、「恐ろしいもの」として捉えることはできない。そのような「恐ろしいもの」はつねに、世界内部的な存在者として出会うものだからである。脅かすものだけが、「恐ろしいもの」でありうるのであり、恐れのうちで露呈するものである。脅かすものは、つねに世界内部的な存在者のほうからやってくるのである。

 「恐れ」が世界内部的な存在者にかかわる恐れであるのにたいして、「不安」は現存在の自己への不安であるのです。このように、構造的には同じでも明確な違いがあるのであり、ハイデガーはこれらの現象の類似点と相違点に注目することで、不安の現象の特別な意味を明らかにしようとします。

 それではまず、「恐れの対象」、すなわち「何について」恐れるかについて考えてみましょう。すでに指摘されたように、現存在が恐れるのは世界内部的に出会うものであり、共同現存在であったり、手元存在者であったり、眼前存在者であったりするのでした。現存在が恐れるのは、世界の事物や他者などであって、自己そのものではありません。この構造契機における不安と恐れの最大の違いは、恐れは自己への恐れを伴わず、世界で出会うものを恐れるのにたいして、不安は自己において不安を感じるということにあります。

Das Wovor der Angst ist das In-der-Welt-sein als solches. Wie unterscheidet sich phänomenal das, wovor die Angst sich ängstet, von dem, wovor die Furcht sich fürchtet? Das Wovor der Angst ist kein innerweltliches Seiendes. Daher kann es damit wesenhaft keine Bewandtnis haben. Die Bedrohung hat nicht den Charakter einer bestimmten Abträglichkeit, die das Bedrohte in der bestimmten Hinsicht auf ein besonderes faktisches Seinkönnen trifft. Das Wovor der Angst ist völlig unbestimmt. Diese Unbestimmtheit läßt nicht nur faktisch unentschieden, welches innerweltliche Seiende droht, sondern besagt, daß überhaupt das innerweltliche Seiende nicht >relevant< ist. Nichts von dem, was innerhalb der Welt zuhanden und vorhanden ist, fungiert als das, wovor die Angst sich ängstet. Die innerweltlich entdeckte Bewandtnisganzheit des Zuhandenen und Vorhandenen ist als solche überhaupt ohne Belang. Sie sinkt in sich zusammen. Die Welt hat den Charakter völliger Unbedeutsamkeit. In der Angst begegnet nicht dieses oder jenes, mit dem es als Bedrohlichem eine Bewandtnis haben könnte. (p.186)
”不安が〈何を前に〉して不安を感じるかというと、世界内存在そのものを前にしてなのである”。それでは不安が〈その前で〉不安を感じるものと、恐れが〈その前で〉恐れるものとは、現象的にどのような違いがあるのだろうか。不安が〈何を前に〉不安を感じているかというと、それは世界内部的な存在者ではない。だから世界内部的な存在者は、〈何を前に〉によってはその本質からして、適材適所性というものをまったく持つことができない。脅かすものは、脅かされた者を、何か特定の事実的な存在可能にかんして何らかの見地から襲ってくるような特定の有害性をそなえていないのである。不安が〈何を前に〉不安を感じているかということ、それはまったく未規定なものにである。それが未規定であるからこそ、どのような世界内部的な存在者が脅かしてくるかを事実的に決定できないだけでなく、そもそも世界的な存在者は「かかわりがない」と言われるのである。世界の内部で手元的に存在するものも眼前的に存在するものも、その〈何を前に〉不安を感じさせるような働きをすることは決してない。手元的な存在者や眼前的な存在者について、世界内部的に露呈された適材適所性の全体性は、そうしたものとしては一般的にまったく重要ではないのである。こうした適材適所性の全体性はおのずと崩壊する。世界はまったく意義をもたないものという性格をおびるようになる。不安になるときには、脅かすものとして、適材適所性をもつことのできるあれこれのものに出会うことはないのである。

 恐れをもたらすものは害をなすものでしたが、不安を引き起こすものは、現存在に特定の害を与えるようなものではありません。不安がもたらすものは「脅かされた者を、何か特定の事実的な存在可能にかんして何らかの見地から襲ってくるような特定の有害性をそなえていない」のです。また、恐れの場合には、そこから脅かすものが近づいてくる〈辺り〉についても、〈脅かすもの〉についても、すでに周知されていましたが、「不安が〈何を前に〉不安を感じているかということ、それはまったく未規定なもの」にです。

Daher >sieht< die Angst auch nicht ein bestimmtes >Hier< und >Dort<, aus dem her sich das Bedrohliche nähert. Daß das Bedrohende nirgends ist, charakterisiert das Wovor der Angst. Diese >weiß nicht<, was es ist, davor sie sich ängstet. >Nirgends< aber bedeutet nicht nichts, sondern darin liegt Gegend überhaupt, Erschlossenheit von Welt überhaupt für das wesenhaft räumliche In-Sein. Das Drohende kann sich deshalb auch nicht aus einer bestimmten Richtung her innerhalb der Nähe nähern, es ist schon >da< - und doch nirgends, es ist so nah, daß es beengt und einem den Atem verschlägt - und doch nirgends. (p.186)
だから不安は、そこから脅かすものが近づいてくる特定の「ここ」とか「あそこ」をまったく「見る」ことがない。脅かすものが”どこにもない”ということが、不安を感じさせる〈何を前に〉の性格である。不安は自分が何を前にして不安を感じているかを「知らない」のである。しかしこの「どこにもない」ということは、何もないということではない。そこには〈辺り〉全般が、本質的に空間的な内存在にとっての世界一般の開示性が含まれているのである。このため〈脅かすもの〉は、〈近さ〉の内部において、特定の方向から近づいてくるものでもありえないのであり、それはすでに「そこに現に」あるのであり、しかもどこにもないのである。それは胸苦しくさせ、息もできなくさせるほど近くにあるが、どこにもないのである。

 恐れをもたらすものは特定の〈辺り〉から襲ってくるものでしたが、「不安は、そこから脅かすものが近づいてくる特定の〈ここ〉とか〈あそこ〉をまったく〈見る〉ことがな」く、「脅かすものが”どこにもない”ということが、不安を感じさせる〈何を前に〉の性格である」と指摘されています。そして、「〈脅かすもの〉は、〈近さ〉の内部において、特定の方向から近づいてくるものでもありえないのであり、それはすでに〈そこに現に〉あるのであり、しかもどこにもない」のです。
 これらの特徴からみるに、第1の構造契機である「恐れの対象」としての「何について」という契機からみても、不安は恐れと類似してはいますが重要な違いをそなえています。

Im Wovor der Angst wird das >Nichts ist es und nirgends< offenbar. Die Aufsässigkeit des innerweltlichen Nichts und Nirgends besagt phänomenal: das Wovor der Angst ist die Welt als solche. Die völlige Unbedeutsamkeit, die sich im Nichts und Nirgends bekundet, bedeutet nicht Weltabwesenheit, sondern besagt, daß das innerweltlich Seiende an ihm selbst so völlig belanglos ist, daß auf dem Grunde dieser Unbedeutsamkeit des Innerweltlichen die Welt in ihrer Weltlichkeit sich einzig noch aufdrängt. (p.186)
こうした不安を感じさせる〈何を前に〉こそが、この「それは無であり、どこにもない」ということをあらわにするのである。世界内部的には無であり、どこにもないものが現存在にこれほど手強く立ち向かうということは現象的には、”不安を感じさせる〈何を前に〉は世界そのものである”ということを意味しているのである。この無と〈どこにもいない〉ことのうちで、まったくの意義の欠如が告げられるのであるが、これは世界が不在であることを示すのではない。これが告げているのは、世界内部的な存在者は、そのものとしてまったく重要ではないものであり、そのために世界内部的なものがこのように”意義のないものであること”を背景にして、世界がその世界性においてひたすらなおも迫ってくるということである。

 恐れでは、現存在が恐れるのは手元的な存在者であるか、眼前的な存在者であるか、共同現存在でした。これにたいして不安では、脅かすものはこうした個別の存在者ではありません。「”不安を感じさせる〈何を前に〉は世界そのものである”」のであり、これは「無」であることだと指摘されています。この「無」とは、世界が存在しなくなることではなく、世界の有意義性と手元的な存在者の適材適所性が消滅することを意味しています。「これが告げているのは、世界内部的な存在者は、そのものとしてまったく重要ではないものであり、そのために世界内部的なものがこのように”意義のないものであること」なのであり、このような有意義性の消滅を背景にして、「世界がその世界性においてひたすらなおも迫ってくる」ために、現存在は不安に襲われるのです。

 次に恐れの理由、「何のために」という構造契機について見ていきましょう。

Die Angst ist nicht nur Angst vor ..., sondern als Befindlichkeit zugleich Angst um... Worum die Angst sich abängstet, ist nicht eine bestimmte Seinsart und Möglichkeit des Daseins. Die Bedrohung ist ja selbst unbestimmt und vermag daher nicht auf dieses oder jenes faktisch konkrete Seinkönnen bedrohend einzudringen. Worum sich die Angst ängstet, ist das In-der-Welt-sein selbst. (p.187)
不安は「~についての不安」であるだけでなく、情態性として、「"~のための不安"」でもある。不安が〈そのために〉不安を感じているものは、現存在の”特定の”存在様式でも可能性でもない。脅かすものは、それ自体が未規定なものであり、だからあれこれの事実的で具体的な存在可能のうちに、脅かしつつ侵入してくることはできない。不安が〈そのために〉不安を感じているものは、世界内存在そのものである。

 現存在が何かを恐れるのは、それによって自己の存在可能が脅かされるからでした。しかし不安においては、特定の存在可能にたいする脅威は感じられていません。その脅威は「それ自体が未規定なものであり、だからあれこれの事実的で具体的な存在可能のうちに、脅かしつつ侵入してくる」といった性質のものではありません。不安が「何のために」怯えるかというと、それは「世界内存在そのもの」なのです。

 しかし不安は、現存在をたんに脅かすものであるだけではなく、現存在に「自由」をもたらすものでもあると、ハイデガーは言います。自由をもたらす不安のこの働きは、3つの段階において確認できます。
 まず不安は現存在から「世界」を奪います。不安に襲われた現存在にはもはや、気を紛らわすべきものがなくなってしまうのであり、世界のうちのあらゆる存在者が、現存在にとって意味のないものとなります。

In der Angst versinkt das umweltlich Zuhandene, überhaupt das innerweltlich Seiende. Die >Welt< vermag nichts mehr zu bieten, ebensowenig das Mitdasein Anderer. Die Angst benimmt so dem Dasein die Möglichkeit, verfallend sich aus der >Welt< und der öffentlichen Ausgelegtheit zu verstehen. Sie wirft das Dasein auf das zurück, worum es sich ängstet, sein eigentliches In-der-Welt-sein-können. (p.187)
不安のうちでは、環境世界的な手元的な存在者、一般に世界内部的な存在者は崩れ落ちてしまう。「世界」はもはや、何も提示できるものがなくなり、他者との共同現存在もまた、何も提示できるものがなくなる。このように不安のために現存在は、「世界」について、また公共的に解釈されたありかたのうちで頽落しながら、みずからを理解する可能性を失ってしまう。不安は現存在を、〈そのために〉不安を感じているものへ、すなわち現存在の本来的な世界内存在可能へと投げ返すのである。

 「世界」が現存在にとって意味のないものになること、これが現存在が世界から離脱して自由なものとなるために必要な第1の条件です。
 第2の段階において現存在は、世界において自己を喪失していることができなくなり、自己に立ち戻ります。「不安のために現存在は、〈世界〉について、また公共的に解釈されたありかたのうちで頽落しながら、みずからを理解する可能性を失ってしまう。不安は現存在を、〈そのために〉不安を感じているものへ、すなわち現存在の本来的な世界内存在可能へと投げ返すのである」。
 第3の段階において現存在は孤独な存在として、自己の可能存在を認識し、自由な存在として、それに向かって投企するようになります。

Die Angst vereinzelt das Dasein auf sein eigenstes In-der-Welt-sein, das als verstehendes wesenhaft auf Möglichkeiten sich entwirft. Mit dem Worum des Sichängstens erschließt daher die Angst das Dasein als Möglichsein und zwar als das, das es einzig von ihm selbst her als vereinzeltes in der Vereinzelung sein kann. (p.188)
不安によって現存在は、それにもっとも固有な世界内存在へと孤独化され、世界内存在は理解する存在として、本質からしてさまざまな可能性へとみずからを投企するようになる。このように不安は、〈そのために〉不安を感じているものを開示するとともに、現存在を”可能存在として”開示する。孤独になった現存在は、そのように孤独になることで、ただひたすら自分自身からしかそれでありえないような可能存在なのである。

 不安は、「現存在を”可能存在として”開示」し、「孤独になった現存在は、そのように孤独になることで、ただひたすら自分自身からしかそれでありえないような可能存在」となるのです(ここで「可能存在」と訳した>Möglichsein<という概念については、Part.30参照)。
 このようにして、現存在は不安をきっかけとして、世人への頽落から自己の可能存在に立ち戻り、さらに自己の自由を認識するようになります。

Die Angst offenbart im Dasein das Sein zum eigensten Seinkönnen, das heißt das Freisein für die Freiheit des Sich-selbst-wählens und -ergreifens. Die Angst bringt das Dasein vor sein Freisein für ... (propensio in ... ) die Eigentlichkeit seines Seins als Möglichkeit, die es immer schon ist. Dieses Sein aber ist es zugleich, dem das Dasein als In-der-Welt-sein überantwortet ist. (p.188)
不安は現存在のうちに、もっとも固有な存在可能に”向かう存在”をあらわにする。この存在は、自己自身を選択し、掌握する自由へと”開かれている自由な存在”である。現存在はつねにすでに、可能性としてはみずからの存在の本来性に向かって開かれているという意味で自由であったのだが、不安は現存在にこの本来性”に向かって開かれている”こと(プロペンシオ・イン)を自覚させるのである。しかしこの存在は同時に、世界内存在である現存在がそれに向かって身を委ねている存在なのである。

 文中の>propensio in<(プロペンシオ・イン)というのはラテン語で、「~への性向、傾向」というような意味に訳せます。「現存在はつねにすでに、可能性としてはみずからの存在の本来性に向かって開かれているという意味で自由であった」と指摘されているように、不安が現存在を襲う以上、現存在にはそもそもの傾向として、本来性へと向かう存在なのであるということが読み取れるでしょう。

 恐れにおいては「何について」の恐れと、「何のために」の恐れは、まったく異なる意味をそなえていました。恐れる現存在は、世界のうちで脅威をもたらす世界内部的な存在者にたいして、「それについて」恐れます。そして現存在が恐れる理由は、現存在がもともとそなえていた存在可能が実現されない可能性があるからであり、それが「それゆえに」の恐れです。
 ところが不安の情態性においては、「何について」の不安は、世界内存在そのものについての不安です。「”不安が〈何を前に〉して不安を感じるかというと、世界内存在そのものを前にして”」でした。また、現存在は「何のために」不安を感じるかというと、それは恐れのように具体的な存在可能が実現されないからではなく、「不安が〈そのために〉不安を感じているものは、世界内存在そのものである」からです。このように不安においては、「何について」の不安と「何のために」の不安はどちらも、世界内存在そのものの不安なのです。

Das, worum die Angst sich ängstet, enthüllt sich als das, wovor sie sich ängstet: das In-der-Welt-sein. Die Selbigkeit des Wovor der Angst und ihres Worum erstreckt sich sogar auf das Sichängsten selbst. Denn dieses ist als Befindlichkeit eine Grundart des In-der-Welt-seins. Die existenziale Selbigkeit des Erschließens mit dem Erschlossenen, so zwar, daß in diesem die Welt als Welt, das In-Sein als vereinzeltes, reines, geworfenes Seinkönnen erschlossen ist, macht deutlich, daß mit dem Phänomen der Angst eine ausgezeichnete Befindlichkeit Thema der Interpretation geworden ist. (p.188)
不安が”そのために”不安を感じているものは、不安が”何について”不安を感じているものであること、すなわち世界内存在であることが、このようにしてあらわにされた。不安が〈そのために〉不安を感じているものが、不安が〈それについて〉不安を感じているものと同一のものであることは、不安を感じるということそのものにも該当する。不安になることも、情態性として、世界内存在の根本的な様式の1つだからである。このように、”開示するものと開示されるものが実存論的に同一であること、開示されたものにおいて、世界が世界として開示されていること、孤独になった純粋に被投的な存在可能としての内存在が開示されているということが明らかにするのは、わたしたちが捉えたこの不安という現象によって、ある傑出した情態性が解釈の主題になっているということである”。

 こうして、不安という情態性こそが、卓越したありかたで現存在がみずからに開示されているものとして取り上げられることになります。

 不安はこのようにして、根本的な情態性として開示します。ここでハイデガーは、不安のもたらす感じとして「不気味さ」という表現を用いています。これについては、ドイツ語でみてみるとよりわかりやすくなります。

Befindlichkeit, so wurde früher gesagt, macht offenbar, >wie einem ist<. In der Angst ist einem >unheimlich<. Darin kommt zunächst die eigentümliche Unbestimmtheit dessen, wobei sich das Dasein in der Angst befindet, zum Ausdruck: das Nichts und Nirgends. Unheimlichkeit meint aber dabei zugleich das Nicht-zuhause-sein. Bei der ersten phänomenalen Anzeige der Grundverfassung des Daseins und der Klärung des existenzialen Sinnes von In-Sein im Unterschied von der kategorialen Bedeutung der >Inwendigkeit< wurde das In-Sein bestimmt als Wohnen bei ..., Vertrautsein mit ... Dieser Charakter des In-Seins wurde kann konkreter sichtbar gemacht durch die alltägliche Öffentlichkeit des Man, das die beruhigte Selbstsicherheit, das selbstverständliche >Zuhause-sein< in die durchschnittliche Alltäglichkeit des Daseins bringt. Die Angst dagegen holt das Dasein aus seinem verfallenden Aufgehen in der >Welt< zurück. Die alltägliche Vertrautheit bricht in sich zusammen. Das Dasein ist vereinzelt, das jedoch als In-der-Welt-sein. Das In-Sein kommt in den existenzialen >Modus< des Un-zuhause. Nichts anderes meint die Rede von der >Unheimlichkeit<. (p.188)
すでに述べたように情態性は、「ひとがどのようにあるか」を明らかにする。不安においてはひとは”「不気味な」”感じを抱く。そこでさしあたり表現されているのは、不安において現存在が身を置いているところが、奇妙なまでに無規定であるということである。それは無であり、〈どこでもない〉のである。〈不気味さ〉という言葉は同時に、〈居心地の悪さ〉も意味する。わたしたちが現存在の根本的な機構を最初に現象的に告示し、内存在の実存論的な意味について、「内部性」というカテゴリー的な意義との違いを明確に示しながら解明したときに、内存在を〈~のもとに住むこと〉として、〈~に馴染んでいること〉として規定した。さらにその後で、世人の日常的な公共性を明らかにすることによって、内存在のこの性格がさらに具体的な姿で示された。世人は現存在の平均的な日常性のうちに、くつろいだ安心感や自明の「居心地のよさ」を持ち込むのである。これにたいして不安は現存在を、頽落しながら「世界」のうちに没頭している状態から連れ戻す。こうして、日常的な馴染みがみずから崩壊する。現存在は孤独になるが、あくまでも世界内存在”として”孤独になるのである。このように内存在は”居心地の悪さ”という実存論的な「様態」に陥る。「不気味さ」という言葉はまさにこのことを語っているのである。

 「不気味さ」と訳す語は>Unheimlichkeit<です。これには否定を意味する>un<と「家」を意味する>Heim<という語が含まれています。また>Unheimlichkeit<と同じように、>Nicht-zuhause-sein<(居心地の悪さ)にも>Haus<(家)という語が入っており、「〈不気味さ〉という言葉は同時に、〈居心地の悪さ〉も意味する」と指摘されているのは、これらの語がもつ「家にいないこと」というニュアンスで語られたものとなっています。
 すでに内存在は、〈~のもとに住むこと〉、〈~に馴染んでいること〉として規定されていました(Part.11参照)。そして世人についての分析では、頽落は安らぎをもたらす働きがあることが指摘されてきました(Part.37参照)。頽落における安らぎの「居心地のよさ(>Zuhause-sein<)」は、自分が馴染んでいる家にいるというありかたを表現しています。ところが、「不安は現存在を、頽落しながら〈世界〉のうちに没頭している状態から連れ戻」します。するとそれまで馴染んでいた「世界」は現存在にとって意味のないものとなり、現存在は孤独化し、「内存在は”居心地の悪さ”という実存論的な〈様態〉に陥る」ことになります。このように「不気味さ」という語は、現存在が馴染んでいた家(世界)から外に出ることを表現しているのです。
 先取りするようですが、ハイデガーの考えるこの不安が、現存在がみずからの死に対して抱いている不安であることについて、ここで少しだけご紹介します。現存在が不安において脅かされているこの死ぬことは、世界のうちに自己が存在しなくなることであり、これには2つの側面があります。
 1つは、現存在が世界をもてなくなること、すなわち自己による世界の喪失です。現存在であるこのわたしはまだ物理的にはこの世界に生きているのですが、それまで生きていた世界、この馴染みの世界が消滅してしまったのです。
 もう1つは、世界がその現存在であるわたしをもてなくなること、すなわち世界による自己の喪失です。世界はまだ存在しつづけているのに、わたしの存在場所だけが空白になり、欠如するようになるのです。
 第1の場合における死は、現存在のさまざまな可能性をそなえた世界が消滅することです。死によって、現存在がそれまで世界のうちで維持してきた存在そのものが消滅し、現存在のうちにありえたさまざまな可能性もまた消滅します。第2の場合における死は、世界におけるわたしという現存在が消滅し、世界のうちで現存在がもちえたさまざまな可能性もまた同時に消滅することです。
 これをわたしのもっている可能性という観点から言い換えると、死ぬことは、現存在が世界でもっていたさまざまな可能性の芽が断ち切られることです。第1の場合には、わたしは”世界”を喪失し、世界でもっていたさまざまな可能性を喪失し、第2の場合には、世界は”わたし”を喪失し、それとともに世界が可能であったはずのわたしのさまざまな可能性を喪失します。いずれにしても、わたしの自己はこのことを予見し、世界における馴染みの存在場所を失い、「居心地が悪く」なります。そこに不安が生まれるのであり、この居心地の悪さから、不気味さが生まれます。

Nunmehr wird phänomenal sichtbar, wovor das Verfallen als Flucht flieht. Nicht vor innerweltlichem Seienden, sondern gerade zu diesem als dem Seienden, dabei das Besorgen, verloren in das Man, in beruhigter Vertrautheit sich aufhalten kann. Die verfallende Flucht in das Zuhause der Öffentlichkeit ist Flucht vor dem Unzuhause, das heißt der Unheimlichkeit, die im Dasein als geworfenen, ihm selbst in seinem Sein überantworteten In-der-Welt-sein liegt. (p.189)
このようにして、逃走としての頽落が〈その前から〉逃れているものが何であるかが、現象的に明らかになる。それは世界内部的な存在者”の前から”逃れているのではない。かえってこのような世界内部的な存在者の”もとへ”、世人のうちにわれを失っている配慮的な気遣いが、安楽な馴染み深さにおいて滞在できるもののところへと、逃れているのである。頽落しつつある逃走は、公共的なものの居心地のよさの”うちに”逃走するのであるが、これは居心地の悪さから、すなわち不気味さ”の前から”の逃走である。そして不気味さは、その存在において自分自身へと引き渡されている被投的な世界内存在としての現存在のうちにひそんでいるのである。

 現存在は世界内存在として、世界のうちに居場所をみいだし、そこに馴染んで生きていました。不安は、現存在が馴染んでいた世界内存在に問題が発生したことを示す兆候ですが、これは世人という頽落の存在様態から覚醒する正の兆候です。これが「正の」兆候であるのは、もともと現存在には本来性への傾向がそなわっているとハイデガーが指摘するとおりです。現存在は不安によって、それまでの居心地好く馴染んでいた生き方に反省を強いられることになります。
 ハイデガーにとってはこの世界の居心地のよさは、現存在が世人のうちに頽落していたことを告げるものです。現存在は、自己の本来的な存在と自己の可能性から「逃走」し、「世人のうちにわれを失っている配慮的な気遣いが、安楽な馴染み深さにおいて滞在できるもののところへと、逃れている」のです。
 しかし現存在のうちには、こうした逃走からの覚醒をうながすものがつねにひそんでいるとハイデガーは考えているのであり、それが「不気味なもの」です。それは現存在そのものから現存在を襲ってくる脅かすものなのであり、「不気味さは、その存在において自分自身へと引き渡されている被投的な世界内存在としての現存在のうちにひそんでいるのである」と語られているように、世界内存在という本質からして、現存在の機構に、不安が根源的な情態性として含まれているのです。

 ここでハイデガーは、不安と恐れの関係について新たな特徴を指摘します。

Und nur weil die Angst latent das In-der-Welt-sein immer schon bestimmt, kann dieses als besorgend-befindliches Sein bei der >Welt< sich fürchten. Furcht ist an die >Welt< verfallene, uneigentliche und ihr selbst als solche verborgene Angst. (p.189)
そして不安が世界内存在をつねにすでに潜在的に規定しているからこそ、世界内存在は世界のもとで配慮的な気遣いをしつつある情態的な存在として、恐れを抱くことがありうる。恐れとは、「世界」に頽落した非本来的な不安であり、恐れにはそれが不安であることが隠されたままなのである。

 恐れは不安の一種であり、「恐れとは、〈世界〉に頽落した非本来的な不安」であるとハイデガーは言うのです。
 これはどういうことでしょうか。恐れはたしかに現存在に外部から加えられる危害を恐れます。しかし現存在が真の意味で恐れるのは、自己の存在可能の喪失であり、究極的には自己の死への恐れ、自己喪失の恐れです。先に述べたように、現存在は自分の死を恐れているのであり、不安もまた、自己の喪失への不安であり、自己の死への不安です。その意味で恐れは不安なのですが、現存在は頽落しているために、それが不安であることを認識できません。現存在が恐れているのは自己の死であるのに、そのことに眼が開かれていないのです。「恐れにはそれが不安であることが隠されたままなのである」。

 これまで見てきたように、現存在は不安によって世人への頽落から覚醒します。不安は現存在を孤独にするものであり、それによって、現存在はそれまでの世界とのつながりと居心地のよさを喪失してしまいます。この現象は、現存在が世界への逃走をやめて覚醒するために重要な意味をもつものなのです。

Zwar gehört zum Wesen jeder Befindlichkeit, je das volle In-der-Welt-sein nach allen seinen konstitutiven Momenten (Welt, In-Sein, Selbst) zu erschließen. Allein in der Angst liegt die Möglichkeit eines ausgezeichneten Erschließens, weil sie vereinzelt. Diese Vereinzelung holt das Dasen aus seinem Verfallen zurück und macht ihm Eigentlichkeit und Uneigentlichkeit als Möglichkeiten seines Seins offenbar. Diese Grundmöglichkeiten des Daseins, das je meines ist, zeigen sich in der Angst wie an ihnen selbst, unverstellt durch innerweltliches Seiendes, daran sich das Dasein zunächst und zumeist klammert. (p.190)
もちろんどの情態性もその本質からして、世界内存在の全体を、その構成契機(世界、内存在、自己)にわたってそのつど開示するものである。しかし不安は現存在を孤独にするものであるために、それを傑出した形で開示しうる可能性がそなわっているのである。この孤独にするという機能によって現存在はその頽落から連れもどされ、現存在の存在の2つの可能なありかたである本来性と非本来性が、現存在にあらわにされるのである。現存在のこの2つの根本的な可能性は、そのたびごとに〈わたしのもの〉であって、不安のうちでこそ、世界内部的な存在者によって歪められることなく、ありのままに現れてくるのである。現存在はさしあたりたいていは、この世界内部的な存在者のもとにすがりついているのである。

 不安によって現存在は世人への頽落から連れ戻され、「現存在の存在の2つの可能なありかたである本来性と非本来性が、現存在にあらわにされる」のです。この不安によって現存在は、自己の根本的な可能性に直面することができるようになります。
 ハイデガーがこの分析で明らかにしようとしているのは、不安は情態性の1つではありますが、現存在にその本来性と非本来性に直面させるという特権的な役割をはたすことにより、語り、理解、情態性という現存在の3つの実存的な存在様態よりも根源的なものであるということです。頽落しているそれらの様態(世間話、好奇心、曖昧さ)を、そこから本来的な語り、理解、情態性に連れ戻すのも、こうした不安の根源的な機能によるものなのです。
 次の節では、現存在を不安という観点から、全体的に把握できるかどうかを検討することになります。新たに生まれる問いは次のようなものです。

Inwiefern ist mit dieser existenzialen Interpretation der Angst ein phänomenaler Boden gewonnen für die Beantwortung der leitenden Frage nach dem Sein der Ganzheit des Strukturganzen des Dasein? (p.191)
それでは不安のこうした実存論的な解釈によって、現存在の構造全体の全体性のありかたを問う主導的な問いに答えるための現象的な土台は、どこまで獲得されただろうか。


 今回は以上になります。ハイデガーの「不安」についての考察はいかがだったでしょうか。この節の原注では、アウグスティヌスやルター、キルケゴールといった、キリスト教に多く影響を受けている人物たちの著作への参照が指示されています。一見するとキリスト教的世界観のみえない『存在と時間』も、背景としてはキリスト教に影響を受けていることが、この節では感じられるのではないでしょうか。

 それでは、また次回もよろしくお願いします。

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