『存在と時間』を読む Part.83

  第79節 現存在の時間性と時間についての配慮的な気遣い

 これまで本書において詳細に検討されてきたように、現存在は他の存在者とは明確に異なる存在のしかたをしています。現存在は、みずからの存在においてこの存在そのものが問われるような、実存する存在者であると同時に、世界内存在として、世界のうちで配慮的に気遣う存在者です。また現存在は、手元的な存在者に配慮的な気遣いを行い、共同現存在に顧慮的な気遣いを行う存在者です。さらに現存在は、そのような存在者として世界のうちに被投され、世界のうちで頽落している存在者です。
 このような現存在の「そこに現に」というありかたの根本的な特徴は、現存在が時間的な存在者であることです。そのことを何よりも示すのが、現存在は世界について、顧慮する共同現存在について、そして配慮する手元的な存在者や道具について解釈し、その解釈の内容を他者にあるいはみずからに語り掛ける存在であり、それについて語ることにおいて、”みずからを”不断に語りだしているということです。語ることは、時間のなかでしか行われないからです。

Das umsichtig verständige Besorgen gründet in der Zeitlichkeit und zwar im Modus des gewärtigend-behaltenden Gegenwärtigens. Als besorgendes Verrechnen, Planen, Vorsorgen und Verhüten sagt es immer schon, ob lautlich vernehmbar oder nicht: >dann< - soll das geschehen, >zuvor< - jenes seine Erledigung finden, >jetzt< - das nachgeholt werden, was >damals< mißlang und entging. (p.406)
目配りによって理解するこの配慮的な気遣いは、時間性を根拠とするものであり、予期的に保持しながら現在化するという時間性の様態を根拠とする。配慮的な気遣いによって計算し、企画し、用意し、予防する働きにおいて、目配りによって理解する配慮的な気遣いは、語られた言葉として聞こえるかどうかは別として、〈”「そのときは」”こうしよう〉とか、あれをなすべきだが、〈”「その前に」”これを片付けておこう〉とか、〈”「かつては」”失敗したことを今度は失敗しないように、”「今は」”うまくやろう〉などと、つねにすでに語っているのである。

 現存在はこうした気遣いのもとで、言葉として聞こえるかどうかは別として、将来について、過去について「〈”「そのときは」”こうしよう〉とか、あれをなすべきだが、〈”「その前に」”これを片付けておこう〉とか、〈”「かつては」”失敗したことを今度は失敗しないように、”「今は」”うまくやろう〉」などと、心のうちで語っているものです。こうした語りはすでに”今は”としての現在、”かつては”としての既往、”そのときは”としての将来の3つの時間性を含むものとなっています。ですから現存在の「目配りによって理解するこの配慮的な気遣いは、時間性を根拠とするものであり、予期的に保持しながら現在化するという時間性の様態を根拠とする」と言えるでしょう。
 この時間性についてさらに詳しく考えてみると、「かつては」ということは、過ぎ去った時間における出来事についての記憶が「保持」させていることを示しており、そこに既往の時間の契機が含まれています。「そのときは」ということは、これから訪れる時間に起こる出来事についてある意図をもって「予期」していることを示しており、そこに将来の時間の契機が含まれます。それだけではなく、現在を示すはずの「今は」という意図のうちには、前回の過去の時間における失敗についての記憶が含まれているのです。このように現存在は、予期しながら保持しつつ、もしくは予期しながら忘却しつつあることが暗黙のうちに語りだされています。そして「今は」において、この既往の記憶の保持と将来の意図と予期とが、今の時点において統合され、現在化されているのです。

 このように現存在は世界のうちで時間性という構造のうちで生きています。すでにハイデガーは、他者と生きる世界のもとでのこうした時間性について、「世界時間」という概念で規定していました(Part.82参照)。現存在は「時間内部性」のうちで、こうした公共的な「世界時間」を生きているのです。この「世界時間」には、日付可能性、伸び広がり、公共性、世界性などの特徴がありますが、ここではまず日付可能性について考察しましょう。

Jedes >dann< aber ist als solches ein >dann, wann ...<, jedes >damals< ein >damals, als ...<, jedes >jetzt< ein >jetzt, da ...<. Wir nennen diese scheinbar selbstverständliche Bezugsstruktur der >jetzt<, >damals< und >dann< die Datierbarkeit. (p.407)
すべての「そのときは」は”本来は”「~するそのときは」であり、すべての「かつては」は、「~したかつては」であり、すべての「今」は、「~する今は」である。「今は」「かつては」「そのときは」には、このように関係構造がそなわっているのであり、これはいかにも自明なことのようにみえる。わたしたちはこれを”日付可能性”と呼ぶ。

 「日付可能性」とは、現存在が世界のうちで生きながら、将来、既往、現在という脱自的な時間構造のうちで生きているために、現存在のあらゆる行為には、特定の日付を与えうることを意味しています。すでに現存在はつねに「そのときは」「かつては」「今は」という時間的な構造のうちで生きていることを確認してきましたが、これらの構造は、多少なりとも規定された日付をそなえています。この日付は、公的な暦の日付である必要はなく、個人が心のうちだけで考えている「今日」「明日」「昨日」であってよいのです。
 これは自明のことに思えますが、ハイデガーはこの自明なことが明確に意識されていないことに注目し、現存在がその根底において時間的な存在であることを強調します。いくら「今は」「そのときは」「かつては」が時間であることは自明なこととして理解されているとしても、これらの言葉はそれが時間であることを意識せずに、たんなる副詞のように使われることが多いものです。これらが時間そのものであるとか、それがどうして可能であるのかとか、「時間」とは何を意味するのかということは、明確に把握されているわけではありません。ごく自明なこととみなされている事柄にこそ、分析すべき問題が含まれているものなのです。
 さらにこれらの副詞は、一応は時間は示す副詞として使われているとしても、このような時を示す言葉を使わない場合にも、日常の会話で使われる多くの言葉や表現には、その背後に暗黙のうちに時間の意味が込められていることが多いです。ハイデガーが挙げている実例は「寒い」という表現です。ある人が「寒い」と言ったとすれば、それは昨日は寒かったということでも、明日は寒いだろうということでもなく、それを語る「今」そのときに、その人が寒いと感じているということです。
 この言葉にはすでに「~する今は」という時刻が示されているのであり、これは時間の表現でもあります。「寒いだろう」と語るときには、その推測の表現のうちに、すでにこれから訪れる将来の日付において予期される事態が語られているのであり、これも時間の表現でもあります。「寒かった」と語るなら、それは過ぎ去った時間における体験が語られているのであり、そこには記憶のうちにある既往の時間がこめられているのです。
 さらに現存在が配慮的に気遣う手元的な存在者について語る場合にも、言葉にして語っていないとしても、「~する今は」とか「~するそのときは」とか「~したかつては」などの意味をこめて語っていると言えるでしょう。「槌がない」と言うなら、現在の「今」において槌が存在しないために、そう語った現存在が現実において困っていることを意味するでしょう。「槌がいる」と言うなら、そう語った現存在はこれから仕事をしようと「するそのとき」には槌が必要となるという予期をこめて語っているでしょう。「槌をもってくるのを忘れた」と語るなら、以前の時間において「槌をもってくる」という行為をする予定であったのに、そのことを忘却したために、「今」の時点において槌が存在しないという困った事態に陥っていることを語っているのです。

 このように考えるなら、現存在が語るすべての言葉は、語られている事柄について表現しながら、同時にその事態に暗黙のうちに含まれている時間的な契機についても語っていることになります。それによっていまこのときに、自分が置かれている事態についても語っているのであり、現存在はこうした言葉で「みずからを語りだしている」のです。

Warum spricht das Dasein im Ansprechen von Besorgtem, wenngleich meist ohne Verlautbarung, ein >jetzt, da ...<, >dann, wann ...<, >damals, als ...< mit aus? Weil das auslegende Ansprechen von ... sich mit ausspricht, das heißt das umsichtig verstehende Sein bei Zuhandenem, das dieses entdeckend begegnen läßt, und weil dieses sich mit auslegende Ansprechen und Besprechen in einem Gegenwärtigen gründet und nur als dieses möglich ist. (p.408)
現存在は配慮的に気遣っているものについて語るときには、たいていは言葉にして口頭で語ることはないとしても、なぜ「~する今は」とか「~するそのときは」とか「~したかつては」などの意味をこめて語っているのだろうか。それは、〈~について〉解釈しながら語ることは、同時に”みずから”について語るからである。すなわち手元的な存在者の”もとで”目配りしながら理解している”存在”、手元的な存在者を露呈させながら出会わせている存在が、みずからを語りだしているからである。それはまた、このような”みずからを”ともに解釈する語りや発言が、”現在化する働き”に依拠しているから、しかも現在化としてのみ可能だからである。

 この「みずからを語りだす」という行為は、「”みずからを”ともに解釈する語りや発言が、”現在化する働き”に依拠しているから、しかも現在化としてのみ可能」なのです。すなわち、予期しながら保持する現在化は、みずからについて解釈します。これが可能であるのは、この現在化がそれ自体において脱自的に開かれているからであり、みずからにたいしてそのつどつねに開示されているからです。このように現存在の行動や予期や記憶や発言などのすべての行為は、時間的なものとしてのみ可能なのです。

Weil die Zeitlichkeit die Gelichtetheit des Da ekstatisch-horizontal konstituiert, deshalb ist sie ursprünglich im Da schon immer auslegbar und somit bekannt. Das sich auslegende Gegenwärtigen, das heißt das im >jetzt< angesprochene Ausgelegte nennen wir >Zeit<. (p.408)
”時間性は、〈そこに現に〉が明るくされているありかたを脱自的かつ地平的に構成するものであるから、そのために時間性は根源的に〈そこに現に〉においてすでにつねに解釈可能であり、したがってそうしたものとして熟知されている”。みずからを解釈しながら現在化することを、すなわち「今」において語りだされ、解釈されるものを、わたしたちは「時間」と名づける。

 ハイデガーはむしろ、現存在のすべての行為のうちに時間的な契機が含まれているという事態のほうから、時間を定義してみせます。このような規定が可能なのは、何よりも現存在の存在様態はつねに将来、既往、現在という3つの時間的な契機によって構築される脱自的な構造によって規定され、それによって可能になっているからです。「~する今は」のうちには、現在の脱自的な性格がひそんでいるのであり、現在のすべての行為は、時間性の脱自的な機構を反映したものなのです。
 このように「日付可能性」は、まさに現存在の時間性の脱自的なありかたを示したものです。逆に言えば、「今は」「そのときは」「かつては」の日付可能性の構造は、それらが時間性という共通の幹から生まれたものでありながら、それ自身もまた時間であることを証明するものなのです。この時間性は、現存在のすべての行動を可能にし、それを規定する背景となっているのであり、「地平」を構築しています。「今は」「そのときは」「かつては」はどれもこうした地平に属するものであり、そのために日付可能性という性格をそなえているのです。

 現存在が配慮的に気遣う時間概念である「世界時間」の第2の特徴は、時間の「伸び広がり」です。通俗的な時間概念では、時間を「今」連続の契機で考える傾向がありました。この時間論では時とは「今」の瞬間であり、瞬時に過ぎ去る刹那です。
 こうした時間論はたしかに、わたしたちがその存在を確信できる「今」という現前的な瞬間の確実さに依拠しているので分かりやすいものです。しかしこの「今」は、等質で断片的なものであって、そこにはいかなる内容もなく、ただ過ぎ去って、過去になる一瞬であるという意味しかありません。ですがわたしたちが生きている時間は、このように刹那的なものではないはずです。わたしたちが「明日には旅行にでかけよう」と考えるなら、明日までの時間は「今」の連続で埋め尽くされているわけではなく、「まだ今ではない」明日として、すでにこの「今」のうちで予期され、明日の朝の旅立ちまでの時間の持続が考えにいれられているでしょう。今日のうちに旅行に必要なものをそろえておこうとか、着ていくものを決めておこうとか、何時に出発するかなどを考えて、行動するものです。

Das gegenwärtigende Gewärtigen versteht das >bis dahin<. Das Auslegen artikuliert dieses >bis dahin< - es nämlich >seine Zeit hat<, als das Inzwischen, das gleichfalls Datierbarkeitsbezug hat. Er kommt im >während dessen ...< zum Ausdruck. Das Besorgen kann das >während< selbst wieder gewärtigend artikulieren durch weitere >dann<-Angaben. (p.409)
現在化する予期は、「それまで」を理解する。そして解釈はこの「それまで」を、つまり「まだ時間がある」を、”それまでのあいだは”として分節するが、これも同じように日付可能性の連関をそなえている。それは「~がつづいているあいだ」において表現されている。配慮的な気遣いはこの「つづいているあいだ」を、さらに予期的に分節して、また新たな「そのとき」を告知することができる。

 わたしたちは旅行にでかけるまでの時間を「”それまでのあいだは”として分節するが、これも同じように日付可能性の連関をそなえている」のです。この「それまでのあいだ」は、「~がつづいているあいだ」とみなされ、旅行の準備のあれこれが思い描かれます。そして旅行に必要なものを買い出しに出かける「そのとき」には、ついでにカフェに寄ろうとか、郵便物を出そうとか、これから「そのとき」になすべきさまざまな行動を計画するのですが、それが「また新たな〈そのとき〉を告知する」ということです。

Mit dem gewärtigend-gegenwärtigenden Verstehen des >während< wird das >Währen< artikuliert. Dieses Dauern ist wiederum die im sich Auslegen der Zeitlichkeit offenbare Zeit, die so jeweilig als >Spanne< unthematisch im Besorgen verstanden wird. Das gewärtigend-behaltende Gegenwärtigen legt nur deshalb ein gespanntes >während< >aus<, weil es dabei sich als die ekstatische Erstrecktheit der geschichtlichen Zeitlichkeit, wenngleich als solche unerkannt, erschlossen ist. (p.409)
「~がつづいているあいだ」の予期的で現在化的な理解とともに、その「そのあいだの持続」が分節される。この持続はさらに、時間性が”みずから”を解釈することのうちに明らかになる時間のことであり、この時間がそのつど「時間の間隔」として配慮的な気遣いのうちで非主題的な形で理解される。予期的で保持的な現在化はこのように”伸びのある”「つづいているあいだ」を「解」釈するのであるが、それはこれにともなってこの現在化がそれと気づかれないままに、歴史的な時間性の脱自的な”伸び広がり”として、”みずからに”開示されるからである。

 旅行の買い出しの途中でカフェにいるあいだとは、「時間の間隔」として理解されますが、この「時間の間隔」は、旅行のことを考える「配慮的な気遣いのうちで非主題的な形で理解され」ます。明日旅行に行くという「予期的で保持的な現在化はこのように”伸びのある”〈つづいているあいだ〉を〈解〉釈する」のであり、こうした間隔は「脱自的な”伸び広がり”」としてみずからに開示されるのです。ここで「解(>aus<)」が強調されているのは、>aus<というドイツ語には「内から外へ」という意味があり、それが時間性の”脱”自的な性格を表現しているからだと考えられます。時間性がこのような性格をもつからこそ、時間は伸び広がるのであり、これが「今」連続の通俗的な時間概念とは異なるものであることは明らかでしょう。

 配慮的な現存在の時間にこのような「伸び広がり」があるということは、逆の意味ではこうした予期によって伸び広がった時間で、将来の時間が埋め尽くされるということです。この伸びのある時間論はその裏面として、時間の「穴」を作りだすことがあるとハイデガーは指摘します。この「穴」は2つの意味で否定的な文脈で考えられています。
 第1は将来の時間がこの予期のための時間で占められてしまうために、現存在は自分自身については予期することなく、忘却してしまうということです。現存在の時間は、配慮的に気遣われているものに基づいて、すなわちその人が携わっていることに基づいて日付が打たれますが、この場合、現存在はみずからを世界内部的な存在者から理解していることになりますから、その時間はこうした存在者にふさわしいものとして理解されることになります。つまり、配慮的に気遣っているものに没頭している現存在の時間は、眼前的なありかたをする独立した「今」の連続的な継起としてみられることになるために、配慮的に気遣いにおける時間の間隔はあたかも断絶されているようにみえるのです。明日旅行にいくまでに、旅行に必要なものの買い出しにいくという時間の伸び広がりは、旅行する今、買い物する今というように独立した今の時間に解消され、現存在の時間に「穴」があくことになるのです。
 日常生活においては、自分が1日をどう過ごしていたかを思い出せなくなることがありますが、これは「穴」だらけになったこうしたまとまりのない時間のうちに生きていることによってだと、ハイデガーは考えています。ただし、このようにばらばらに寸断されているかのように思える時間も、脱自的に伸び広げられた時間性の1つの様態なのであり、予期せずに忘却する現在化というありかたのために生じる時間概念なのです。
 第2に、こうした「穴」があるということは、「わたしには時間がない」という語りにみられるような自分の時間を失っていることを意味しています。これには決意性がかかわっています。

Früher wurde das eigentliche und uneigentliche Existieren hinsichtlich der Modi der es fundierenden Zeitigung der Zeitlichkeit charakterisiert. Darnach zeitigt sich die Unentschlossenheit der uneigentlichen Existenz im Modus eines ungewärtigend-vergessenden Gegenwärtigens. Der Unentschlossene versteht sich aus den in solchem Gegenwärtigen begegnenden und wechselnd sich andrängenden nächsten Begebenheiten und Zu-fällen. An das Besorgte vielgeschäftig sich verlierend, verliert der Unentschlossene an es seine Zeit. (p.410)
わたしたちはすでに、本来的な実存と非本来的な実存について、それを基礎づける時間性の時熟のさまざまな様態に基づいて、その特徴を確認しておいた。それによると、非本来的な実存の不決断は、予期することなく忘却する現在化という様態において時熟するのだった。決断しない人は、こうした現在化のうちで出会い、次々と押し寄せてくる身近な出来事や偶発事に基づいて、自分を理解するのである。決断しない人は、配慮的に気遣われたものごとにせわしなく”みずからを”喪失しつつ、そのことで”自分の時間を失っている”のである。

 これが死への先駆において、自分の実存を取り戻そうと決断することのない現存在の実情です。日常性に頽落した現存在の時間は、このように穴だらけであり、「たえず時間を失っていて、決して時間を〈もつ〉ことがない」のです。

So wie der uneigentlich Existierende ständig Zeit verliert und nie solche >hat<, so bleibt es die Auszeichnung der Zeitlichkeit eigentlicher Existenz, daß sie in der Entschlossenheit nie Zeit verliert und >immer Zeit hat<. Denn die Zeitlichkeit der Entschlossenheit hat bezüglich ihrer Gegenwart den Charakter des Augenblicks. (p.410)
このように非本来的に実存する人は、たえず時間を失っていて、決して時間を「もつ」ことがない。これにたいして本来的な実存の時間性の卓越した特徴は、決意性において決して時間を失うことがなく、「つねに時間の余裕がある」ことにある。というのは、決意性の時間性は、その現在においてつねに”瞬視”という性格をそなえているからである。

 瞬視は将来と既往とで統一された本来的な現在の脱自態ですから、先駆的な決意性における現存在は、そのつどの状況に応じて何をするべきか、すなわち何に時間を使うべきかを見切っています。将来と既往を踏まえた現存在は、「今、今」とひたすらな現在化の穴だらけの時間を生きてはいませんので「つねに時間の余裕がある」ということになるのです。
 このように決意した現存在は自分の時間をもてるのにたいして、決意しない現存在は自分の時間を失っていますが、どちらにしても現存在は世界のうちに被投されて生きています。こうした生き方については次のように総括できるでしょう。

Das faktisch geworfene Dasein kann sich nur Zeit >nehmen< und solche verlieren, weil ihm als ekstatisch erstreckter Zeitlichkeit mit der in dieser gründenden Erschlossenheit des Da eine >Zeit< beschieden ist. (p.410)
”事実的に被投されている現存在が、自分のために時間を「かけたり」、失ったりすることができるのは、脱自的に伸び広がった時間性としての現存在に、その時間性に基づいて〈そこに現に〉が開示されているからであり、それとともに何らかの「時間」が授けられているからにほかならない”。

 〈今〉連続の時間論とは異なり、脱自的な時間の構造のもとで生きている現存在の時間性は、脱自的に伸びたものであり、「伸び広がり」をそなえたものなのです。

 このように現存在の時間は「伸び広がり」であると同時に、「穴だらけ」のものであり、きわめて個人的なもののように思えます。しかし現存在はつねに世界のうちで他なる共同現存在とともに生きているのであり、公共的で平均的な常識のうちに身を置いているため、個人的な時間だけで生きることはできません。個人的な「今」も、公共性のうちで語られているのです。

Die ausgelegte, ausgesprochene Zeit des jeweiligen Daseins ist daher als solche auf dem Grunde seines ekstatischen In-der-Welt-seins je auch schon veröffentlicht. Sofern nun das alltägliche Besorgen sich aus der besorgten >Welt< her versteht, kennt es die >Zeit<, die es sich nimmt, nicht als seine, sondern besorgend nützt es die Zeit aus, die >es gibt<, mit der man rechnet. (p.411)
したがってそれぞれの現存在の解釈され、語りだされた時間は、その脱自的な世界内存在に基づいて、そのつどすでに”公共的なものとなっていた”のである。そして日常的な配慮的な気遣いが、配慮的に気遣われた「世界」のほうから自己を理解するかぎり、配慮的な気遣いはそれが自分にかける「時間」を、”自分の時間として”識別して”いない”のであり、自然にある時間、そして”ひと”が計算にいれている時間を、配慮的に気遣いながら食い物にして”利用”し尽くすのである。

 次の節では、こうした公共的な時間について分析されることになります。


 今回は以上となります。次回もまた、よろしくお願いします。

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