『存在と時間』を読む Part.35

  第36節 好奇心

 現存在の頽落の存在様式の分析の第2の視点は、実存の3つの根本的な存在様態のうちの「理解」の頽落した様態を、「まなざし」という視点から分析するものです。

Sicht wurde im Hinblick auf die Grundart alles daseinsmäßigen Erschließens, das Verstehen, im Sinne der genuinen Zueignung von Seiendem begriffen, zu dem sich Dasein gemäß seiner wesenhaften Seinsmöglichkeiten verhalten kann. (p.170)
わたしたちはすべての現存在にそなわる開示の根本様式である理解に基づいて、〈まなざし〉を把握した。この〈まなざし〉は、存在者を真の意味でわがものとする営みであり、現存在はみずからに本質的な存在可能にしたがって、これらの存在者に向かうことができるのである。

 世界内存在は内存在の開示性として「まなざし」をそなえています。そもそもこのまなざしは、「存在者を真の意味でわがものとする営みであり、現存在はみずからに本質的な存在可能にしたがって、これらの存在者に向かうことができる」という重要な役割をそなえているのでした。
 ハイデガーはこのまなざしは、哲学にとっては根源的な意味をもつものであることを指摘します。人間が認識するのは知覚によってであり、それも特に視覚によって対象を「見る」ことによってです。ハイデガーはこのような「見る」ことの優位に基づいて、どんなものにでも好奇のまなざしを向けようとする現存在の日常的な傾向を、「好奇心」と呼びます。

Die Grundverfassung der Sicht zeigt sich an einer eigentümlichen Seinstendenz der Alltäglichkeit zum >Sehen<. Wir bezeichnen sie mit dem Terminus Neugier, der charakteristischerweise nicht auf das Sehen eingeschränkt ist und die Tendenz zu einem eigentümlichen vernehmenden Begegnenlassen der Welt ausdrückt. (p.170)
〈まなざし〉の根本的な機構は、日常性には、「見ること」を好む特別な存在傾向があることのうちに示されている。わたしたちはこの存在傾向を”好奇心”という用語で呼ぶ。特徴的なことに、この好奇心という言葉は、ただ見ることだけにかぎらず、独特で知覚的な態度で世界と接しようとする傾向をも表現している。

 「好奇心」と訳す>Neugier<というドイツ語は、「新しい」を意味する>neu<に「渇望、貪欲」を意味する>Gier<という語を組み合わせて作られたもので、目新しいものを見たいと渇望することです。この「見る欲望」は、たんに人間の認識の背景にあるだけでなく、哲学の端緒にあったものだとハイデガーは指摘します。
 ハイデガーはここでアリストテレスやパルメニデスを引用して、古代ギリシア人が他の感覚の中でも「見ること」を重視していたことの証拠をいくつかあげています。その証拠の1つとなるようなギリシア語が>εἰδέναι<(エイデナイ)という語です。ハイデガーはこの語をドイツ語に訳す際に「見ること(>Sehen<)」と訳していますが、エイデナイは「知ること」も意味します。プラトンのイデアの概念とアリストテレスの形相(エイドス)の概念は、どちらもこの「見ること」(エイデナイ)から派生した語です。また、ハイデガーが引用する文章において、パルメニデスは、>εἶναι<(エイナイ)という語で、「存在すること」を表現しています。これらのことは、古代ギリシア人が「見ること」と第1哲学が考察する「存在」とを同一視していたことを示す証拠として、ここで挙げられています。
 さらにハイデガーは、「見ること」の優位について重要な考察を展開したアウグスティヌスの文を引用していますが、こちらはラテン語での長い引用になります。要約すると次のようになります。見ることは本来は視覚の働きですが、他の感覚能力についても、「見る」という語が使われるます。わたしたちは「そのコップを見て」という他に、味についても「味わって見て」とか、音についても「聞いて見て」だとか、硬さについても「どのくらい硬いか見て」とも言うでしょう。アウグスティヌスは、視覚の他の感覚能力においても「見る」という言葉が使われることに注目し、認識する際には眼の働きが優位に立つことを主張したのです。
 眼によって知覚しようとするこの傾向は、どのようなものなのでしょうか。好奇心という現象を、現存在の実存論的な機構において説明する必要があります。

 人間の五感のうちで、聞くことや見ることは、ある距離を必要とする感覚であり、見ることには「遠さと近さ」の関係がそなわっています。すでに指摘されてきたように、世界内部的な存在者は、手元存在者として現存在の周囲に、まなざしがすぐにとどくところに存在しています。これらの手元的な存在者は、現存在の「近さ」において初めて役立つものとなるのであり、だから仕事において現存在は、これらの存在者を配慮的な気遣いのもとで「近づける」のでした。
 ところで現存在は、つねに配慮的な気遣いのもとで仕事をしているわけではなく、仕事を中断したり、終えたりもします。

Das Besorgen kann zur Ruhe kommen im Sinne der ausruhenden Unterbrechung des Verrichtens oder als Fertigwerden. In der Ruhe verschwindet das Besorgen nicht, wohl aber wird die Umsicht frei, sie ist nicht mehr an die Werkwelt gebunden. Im Ausruhen legt sich die Sorge in die freigewordene Umsicht. Das umsichtige Entdecken der Werkwelt hat den Seinscharakter des Ent-fernens. Die freigewordene Umsicht hat nichts mehr zuhanden, dessen Näherung zu besorgen ist. Als wesenhaft ent-fernende verschafft sie sich neue Möglichkeiten des Ent-fernens; das besagt, sie tendiert aus dem nächst Zuhandenen weg in die ferne und fremde Welt. (p.172)
配慮的な気遣いは、こうした実行を中断して休むこともあるし、仕事を終えて休息するという意味で休むこともある。こうした休息において配慮的な気遣いがなくなるわけではないが、目配りのまなざしはそれによって解放される。目配りのまなざしはもはや仕事の世界にしばられていない。このように休息しているときに、気遣いは解放された目配りのまなざしのうちにとどまる。仕事の世界を目配りのまなざしによって露呈させる営みは、〈距離を取ること〉という存在性格をそなえている。しかし解放された目配りのまなざしには、もはや配慮的な気遣いによって〈近づける〉べきものが、手元にはまったくない。しかし目配りのまなざしの本質は〈距離を取る〉ことであるから、目配りのまなざしには〈距離を取ること〉の新しい可能性が生まれる。すなわち、身近にある手元的な存在者から離れて、遠くの見知らぬ世界に向かおうとする傾向があるのである。

 ただし、現存在が距離を取って近づけようとする「遠くの見知らぬ世界」は、手元的な存在として手元に近づけられるのではなく、ただその外見において、好奇心のまなざしで身近なものとされるのです。

Die Sorge wird zum Besorgen der Möglichkeiten, ausruhend verweilend die >Welt< nur in ihrem Aussehen zu sehen. Das Dasein sucht das Ferne, lediglich um es sich in seinem Aussehen nahe zu bringen. Das Dasein läßt sich einzig vom Aussehen der Welt mitnehmen, eine Seinsart, in der es besorgt, seiner selbst als In-der-Welt-seins ledig zu werden, ledig des Seins beim nächst alltäglichen Zuhandenen. (p.172)
気遣いは休息し滞在しながら、「世界」をその”外見”だけで見る可能性はないのかと、あれこれと配慮的に気遣う。現存在は、遠く離れたものをその〈外見〉だけで近づけようとして、そのためだけに遠くのものを求める。現存在はただ世界の外見だけに魅惑される。これは現存在の配慮的な気遣いの1つの存在様式であって、この存在様式において現存在は、世界内存在としての自分のありかたから、そして身近にある日常的な手元的な存在者にかかわる存在であることから、自由になろうとするのである。

 この「遠さ」をその外見において近づけようとする営みは、現存在が日常生活からしばらく離れて、非日常の世界で経験したいという欲望と結びついたものであるとハイデガーは指摘します。たとえば海外旅行によって、「現存在は、世界内存在としての自分のありかたから、そして身近にある日常的な手元的な存在者にかかわる存在であることから、自由になろうとする」のです。ただしそれは日常性から完全に離れることを意味するものではなく、しばらくの間、好奇心の促すままに、日常の生活を忘れることができるだけであり、休暇が終わると、また日常の生活に戻るのです。

Die freigewordene Neugier besorgt aber zu sehen, nicht um das Gesehene zu verstehen, das heißt in ein Sein zu ihm zu kommen, sondern nur um zu sehen. Sie sucht das Neue nur, um von ihm erneut zu Neuem abzuspringen. Nicht um zu erfassen und um wissend in der Wahrheit zu sein, geht es der Sorge dieses Sehens, sondern um Möglichkeiten des Sichüberlassens an die Welt. (p.172)
自由になった好奇心が、配慮的な気遣いにおいて見ようとするのは、見たものを理解すること、すなわち見られたものにかかわる存在になることではなく、”ただ”見るために見ようとすることである。好奇心はただ新奇なものを求めるだけであり、しかもそこからまた別の新奇なものに跳び移るためである。この〈見ること〉が気遣うのは、把握することでも、知ることにおいて真理であることでもなく、世界に向けてみずからを委ねることができるかどうかである。


 ハイデガーは、このような好奇心の働きは3つの特徴で構成されると考えています。

Daher ist die Neugier durch ein spezifisches Unverweilen beim Nächsten charakterisiert. Sie sucht daher auch nicht die Muße des betrachtenden Verweilens, sondern Unruhe und Aufregung durch das immer Neue und den Wechsel des Begegnenden. In ihrem Unverweilen besorgt die Neugier die ständige Möglichkeit der Zerstreuung. Die Neugier hat nichts zu tun mit dem bewundernden Betrachten des Seienden, dem θαυμάζειν, ihr liegt nicht daran, durch Verwunderung in das Nichtverstehen gebracht zu werden, sondern sie besorgt ein Wissen, aber lediglich um gewußt zu haben. Die beiden für die Neugier konstitutiven Momente des Unverweilens in der besorgten Umwelt und der Zerstreuung in neue Möglichkeiten fundieren den dritten Wesenscharakter dieses Phänomens, den wir die Aufenthaltslosigkeit nennen. Die Neugier ist überall und nirgends. Dieser Modus des In-der-Welt-seins enthüllt eine neue Seinsart des alltäglichen Daseins, in der es sich ständig entwurzelt. (p.172)
このため好奇心は、もっとも身近なもののもとにとどまらない固有な”落ち着きのなさ”を特徴とする。好奇心はこうして、観察しながらとどまるための閑暇を求めず、つねに新奇なものを求め、つねに新たなものに出会うことを求め、それによって生まれる不断の活動と興奮を求めるのである。好奇心は落ち着きなくとどまることをせず、つねに”気晴らし”の可能性を配慮的に気遣っている。好奇心は、感嘆しながら存在者を観察することとしての〈驚くこと〉とはまったく関係がない。驚くことによっては、自分の無知の自覚に導かれるが、好奇心はそれには関心をもたない。好奇心は配慮的に気遣うことで知ろうとするが、それはたんにすでに知ってしまった状態になるためである。このように好奇心を構成する2つの契機があるー配慮的に気遣われる環境世界における”落ち着きのなさ”と、新たな可能性を求める”気晴らし”である。そしてこの2つの契機が、好奇心という現象の第3の本質的な性格を基礎づける。これをわたしたちは”所在のなさ”と呼ぶことにしよう。好奇心はいたるところにいるが、どこにもいない。世界内存在のこの様態によって、日常的な現存在の新たな存在様式があらわにされる。そしてこの存在様式において現存在は、たえまなく〈根を失って〉いるのである。

 第1の特徴は「落ち着きのなさ」です。配慮的な気遣いの世界において「自由」になった好奇心は、あらゆるものを見て、知ろうとします。それは「もっとも身近なもののもとにとどまらない固有な”落ち着きのなさ”を特徴とする」のです。この落ち着きのない好奇心が求めるのは、「つねに新奇なもの」であり、「つねに新たなもの」です。この新たなものにおいて好奇心は、第2の特徴である「気晴らし」をみいだそうとします。
 この2つ特徴のもとで、第3の特徴である「所在のなさ」が生まれます。現存在は好奇心に駆られて、みずからの居場所での落ち着きを失い、新奇なものを求めながら、やがて自己を喪失します。現存在は好奇心のもとで、「たえまなく〈根を失って〉いる」のです。
 余談ですが、上記の引用文中の>θαυμάζειν<(タウマゼイン)とは「驚き」のことです。この驚きとは、プラトンが『テアイテトス』で述べたような、哲学のはじまりとしての驚きです。わたしたちは自分が存在していることに対して驚きを感じることがあります。「わたしってなに?」、「どうしてわたしは存在しているんだろう」、「この世界はどうして存在しているんだろう」といった根本的な問いは、存在についての驚きを表現したものであり、わたしたちにとってはもっとも不思議なことでしょう。しかし「驚くことによっては、自分の無知の自覚に導かれるが、好奇心はそれには関心をもたない」のであり、好奇心は「たんにすでに知ってしまった状態になるため」に働きます。前節の世間話においても指摘されていたように、頽落している現存在にとっては、理解できないことはないのです。

 この好奇心は、すでに考察してきた世間話と協力しながら、現存在の頽落を深めます。

Das Gerede regiert auch die Wege der Neugier, es sagt, was man gelesen und gesehen haben muß. Das Überall-und-nirgends-sein der Neugier ist dem Gerede überantwortet. Diese beiden alltäglichen Seinsmodi der Rede und der Sicht sind in ihrer Entwurzelungstendenz nicht lediglich nebeneinander vorhanden, sondern eine Weise zu sein reißt die andere mit sich. Die Neugier, der nichts verschlossen, das Gerede, dem nichts unverstanden bleibt, geben sich, das heißt dem so seienden Dasein, die Bürgschaft eines vermeintlich echten >lebendigen Lebens<. Mit dieser Vermeintlichkeit aber zeigt sich ein drittes Phänomen, das die Erschlossenheit des alltäglichen Daseins charakterisiert. (p.173)
世間話はまた、好奇心の歩むべき道筋をも管理している。世間話は、ひとが読んでおくべき書物とか、ひとが見ておくべきものなどについて語る。好奇心は〈いたるところにいるが、どこにもいない〉という性格によって、世間話にふけっている。〈語り〉の日常的な存在様態である世間話と、〈まなざし〉の日常的な存在様態である〈好奇心〉は、いずれも〈根を失う〉という傾向をそなえたものとして、たんに併存しているのではなく、”一方の”ありかたが”他方の”ありかたを引きつけるのである。好奇心は何ごとも包み隠したままにしておかず、世間話は何ごとも理解しないではおかない。これらはみずからたがいに、すなわちそのように存在する現存在に、これこそ真の「生き生きとした生活」なのであるという保証を与える。しかしこの思い込みとともに、日常的な現存在の開示性を性格づける第3の現象が姿を現す。

 世間話と好奇心は、現存在が「根を失う」2つの存在様式ですが、これらはたがいに無関係なものではありません。現存在は日常生活において、好奇心に駆られて世間話に熱中することで、みずからの実存から目を背け、その根を失います。また世間話は現存在にみずからとは無関係の事柄を語り伝えて、新たに好奇心を駆り立てます。このように世間話と好奇心は、「”一方の”ありかたが”他方の”ありかたを引きつける」のであり、現存在に「生き生きとした生活」を送っているという幻想の保証を与えながら、現存在の「根を失っていること」というありかたをさらに深めるのです。このありかたから、現存在の第3の頽落の様態である「曖昧さ」が生まれることになります。


 今回は以上です。次回は、頽落の第3のありかた「曖昧さ」が考察されます。

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