『存在と時間』を読む Part.61

  第59節 良心の実存論的な解釈と通俗的な良心の解釈

 この節では、実存論的な良心の解釈と、通俗的な良心論の対比が行われます。通俗的な解釈は、存在論的な視点からみて疑わしいものであるとハイデガーは考えています。それでも通俗的な良心の経験も、何らかの形で前存在論的に、良心の現象にふさわしいものがあるのではないでしょうか。存在論的な分析には、日常的な良心の了解を無視して、こうした了解によって生まれた人間学的な良心の理論、あるいは心理学的、神学的な良心の理論を素通りする権利は認められないでしょう。
 ハイデガーはこの問題を考察するために、通俗的な良心論から提起される可能性のある4つの異論を検討しています。

Was die vulgäre Gewissensauslegung gegen die vorgelegte Interpretation des Gewissens als Aufruf der Sorge zum Schuldigsein einwenden möchte, ist ein Vierfaches: 1. Das Gewissen hat wesentlich kritische Funktion. 2. Das Gewissen spricht je relativ auf eine bestimmte vollzogene oder gewollte Tat. 3. Die >Stimme< ist erfahrungsgemäß nie so wurzelhaft auf das Sein des Daseins bezogen. 4. Die Interpretation trägt den Grundformen des Phänomens, dem >bösen< und >guten<, dem >rügenden< und >warnenden< Gewissen, keine Rechnung. (p.290)
これまで良心とは、〈負い目ある存在〉へと呼び起こす気遣いの呼び起こしであると解釈してきたが、この解釈にたいして通俗的な良心の解説は、次の4通りの異議を申し立てると考えられる。第1は、良心はその本質からして批判的な機能をもつものであるという異議である。第2は、良心はつねに特定の遂行された行為あるいは意志された行為について語るものであるという異議である。第3は、良心の「声」は、経験に即して考えると、現存在の存在にそれほど根源的に関連するものではないという異議である。第4は、ここに示した解釈では、「疚しい」良心と「疚しくない」良心、「叱責する」良心と「警告する」良心という良心の根本的な形式をまったく無視しているという異議である。

 第1の異論は、「良心はその本質からして批判的な機能をもつものである」という異論です。これは良心が自己にもっとも固有な存在可能に直面するというハイデガーの良心論にたいして、それが自己の存在様態にたいする「批判」としての機能を無視しているという点から異議を申し立てるものです。良心はそれを「もとう」と意志させるものか、それとも自己のありかたについて批判するものかという論点です。
 第2の異論は、良心とは、現存在が良心をもとうと意志することであるというハイデガーの理論にたいして、良心が意志ではなく「つねに特定の遂行された行為あるいは意志された行為について語るものである」と申し立てるものです。良心は意志そのものか、それともその人のなした行為について語るものかについての意見の対立です。
 第3の異論は、良心の呼び掛けが現存在のもっとも固有な存在可能性に向かって呼び掛けるものであるとハイデガーが主張することにたいして、「良心の〈声〉は、経験に即して考えると、現存在の存在にそれほど根源的に関連するものではない」ことを主張するものです。これは良心の根源性に関する論点です。
 第4の異論は、ハイデガーの良心論では「疚しい」良心と「疚しくない」良心の違い、「叱責する」良心と「警告する」良心の違いを区別することができず、「良心の根本的な形式をまったく無視している」ことを批判するものです。これは良心の分類にまつわる異議です。
 ハイデガーはこれらの異論にたいして、まず第4の異論、「疚しい」良心と「疚しくない」良心の対比という伝統的な区別から始めて、順に反論していくことになります。

 通俗的な良心論では、良心とは「善き」良心、すなわち咎めず、疚しさを感じない良心であるよりも、何よりも咎める良心、疚しさとして感じられる良心であることが指摘されることが多いです。この「疚しい良心」には、いくつかの重要な特徴があります。

Das >Gewissenserlebnis< taucht auf nach der vollzogenen Tat bzw. Unterlassung. Die Stimme folgt dem Vergehen nach und weist zurück auf das vorgefallene Ereignis, wodurch sich das Dasein mit Schuld beladen hat. Wenn das Gewissen ein >Schuldigsein< bekundet, dann kann sich das nicht vollziehen als Aufruf zu ..., sondern als erinnerndes Verweisen auf die zugezogene Schuld. (p.290)
「良心の体験」は、ある行為をなし終えた”後で”、あるいはある行為をしなかった”後で”現れる。良心の声は、過誤が犯された後に現れて、現存在がみずからに負い目を招いた出来事を、後になってから告発するのである。その良心はたしかに〈負い目ある存在〉を告知するのだが、それは〈~に向けて呼び起こす〉という形で告知するのではなく、招いてしまった負い目を思い出させながら指摘するという形で告知するのである。

 呼び掛ける良心は現存在に、みずからの固有な存在可能に目覚めさせるものであり、現存在の”未来”のありかたを変えさせようとします。これにたいして咎める良心は、現存在が”過去”においてすでにある行為を選択し、実行した後になって、あるいは実行しなかった後になって、現存在を告発します。現存在は過去のみずからの行為あるいは不作為について後悔させられるのです。
 また、この良心は呼び掛ける良心と同じように、現存在がみずから「負い目ある存在」であることを認識させますが、「呼び掛け」の場合とは違って、この「負い目」は、他の存在者にたいして自分が行ったことにたいする「負い目」です。この良心は「招いてしまった負い目を思い出させながら指摘するという形で告知する」のであり、いわば道徳的な負い目なのです。
 これにたいして良心の「呼び掛け」が現存在に負わせる負い目は、現存在が存在することに本質的に属する”存在論的な”負い目です。良心の呼び掛けは、みずからが存在論的な負い目のある存在であることを自覚させることによって、現存在にたいしてみずからのもっとも固有な存在可能に「〈~に向けて呼び起こす〉という形で告知する」ものです。現存在はみずからの行為を道徳的な観点から反省するのではなく、それまでみずからの存在可能について目覚めておらず、世人のうちに頽落していたことに自覚させられるのであり、自己喪失の状態から呼び覚まされるのです。

 ハイデガーはさらに、呼び掛ける良心と対比した場合の疚しい良心の特徴を提起しながら、この疚しい良心の概念の背後にある伝統的な良心論を批判しようとします。第1にハイデガーは、咎める良心という考え方には、存在論的に実存する者について語るのではなく、眼前存在について語るという概念的な枠組みが暗黙のうちに想定されていることを批判します(この概念的な枠組みはすでに「予持」と呼ばれていました)。

Wenn die gekennzeichnete Interpretation des >bösen< Gewissens auf halbem Wege stehen bliebe? Daß dem so ist, erhellt aus der ontologischen Vorhabe, in die das Phänomen mit der genannten Interpretation gebracht wird. Die Stimme ist etwas, das auftaucht, in der Abfolge der vorhandenen Erlebnisse seine Stelle hat und dem Erlebnis der Tat nachfolgt. Aber weder der Ruf noch die geschehene Tat noch die aufgeladene Schuld sind Vorkommnisse vom Charakter des Vorhandenen, das abläuft. Der Ruf hat die Seinsart der Sorge. (p.290)
ここに示した「疚しい」良心の解釈が、中途半端なものだとしたらどうだろうか。この解釈が中途半端なものであることは、この解釈において良心の現象がどのような存在論的な〈予持〉のうちにあるかを調べてみれば明らかになる。すなわち良心の声は、唐突に現れて、眼前的に存在する体験の経過のうちに座を占め、行為の体験にその後からつづくものとされている。しかし呼び掛けも、実行された行為も、身に招いた負い目も、時間の経過にしたがう眼前的なものという性格をもつ出来事ではない。呼び掛けは、気遣いという存在様式をそなえたものである。

 伝統的な良心論では、「良心の声は、唐突に現れて、眼前的に存在する体験の経過のうちに座を占め、行為の体験にその後からつづくものとされている」という特徴がありますが、これにたいして良心の「呼び掛けは、気遣いという存在様式をそなえたものである」という違いがあります。この気遣いは、現存在の世界内存在としての根本的な存在様式であり、それは時間的な経過に対応して、発生したり消滅したりするものではありません。

In ihm >ist< das Dasein sich selbst vorweg, so zwar, daß es sich zugleich zurückrichtet auf seine Geworfenheit. Nur der nächste Ansatz des Daseins als Abfolgezusammenhang eines Nacheinander von Erlebnissen ermöglicht es, die Stimme als etwas Nachkommendes, Späteres und daher notwendig Zurückverweisendes zu nehmen. (p.291)
呼び掛けにおいて現存在は、自己に先立って「存在して」いる。しかも現存在は同時に、自己をその被投性にさかのぼらせるという形で存在しているのである。現存在を理解するための最初の手掛かりとして、現存在とは相次いで発生する体験の順序の連関であるとみなされている。そうすることで、良心の声を後から訪れるもの、遅れてくるもの、したがって必然的に過去にさかのぼって叱責するものと解釈することができるのである。

 良心の声が、ある出来事の後に現存在を訪れると考えることは、すなわち「良心の声を後から訪れるもの、遅れてくるもの、したがって必然的に過去にさかのぼって叱責するもの」と解釈するということであり、これはすなわち現存在を「相次いで発生する体験の順序の連関である」と考えるということです。

Die Stimme ruft wohl zurück, aber über die geschehene Tat zurück in das geworfene Schuldigsein, das >früher< ist als jede Verschuldung. Der Rückruf ruft aber zugleich vor auf das Schuldigsein als in der eigenen Existenz zu ergreifendes, so daß das eigentliche existenzielle Schuldigsein gerade erst dem Ruf >nachfolgt<, nicht umgekehrt. (p.291)
たしかに声は呼び戻すものである。しかしその声は、すでに実行された行為を超えて、いかなる過誤よりも「先にある」被投された〈負い目ある存在〉へと呼び戻すのである。だからこの呼び戻しは同時に、みずからに固有な実存において把握すべき〈負い目ある”存在”〉へ向けて、現存在を呼び出すのである。すなわち本来的な実存的な〈負い目ある”存在”〉が呼び掛けの「後につづく」のであって、その逆ではない。

 良心の呼び掛けは、「疚しい良心」のように現存在をある過去の被投的な存在に呼び戻すのではなく、「みずからに固有な実存において把握すべき〈負い目ある”存在”〉へ向けて、現存在を呼び出す」のです。この良心の声は、「すでに実行された行為を超えて、いかなる過誤よりも〈先にある〉被投された〈負い目ある存在〉へと呼び戻す」のであり、それは存在者的な負い目を”超えて”、存在論的な負い目へと呼び戻すということです。呼び掛けられた後に、現存在は「本来的な実存的な〈負い目ある”存在”〉」となるのであり、以前に何らかの過誤があったから良心の声が生じるわけではないのです。
 良心の呼び掛けは、過去に存在したものではなく、それまで存在していなかった「未来に」ある本来的な現存在としての〈負い目存在〉を呼び出すのであって、時間的な意味はまったく異なります。ハイデガーはこのことを次のように指摘します。

Die Folgeordnung ablaufender Erlebnisse gibt nicht die phänomenale Struktur des Existierens. (p.291)
”時間的に経過する体験の継続する順序という観点では、実存の現象的な構造は示せないのである”。

 実存する現存在にふさわしい良心の現象は、眼前的に存在する体験の経過において、何らかの行為の体験にその後からつづくものという伝統的な良心論の解釈からでは、示すことはできないのです。

 このように「疚しい」良心の性格づけでは、根源的な現象に到達することができないのだとすると、「疚しくない」良心の性格づけによっても、これは期待できないでしょう。そのことは、この「疚しくない」良心というものを、良心の独立した形態とみなすか、本質からして「疚しい」良心に依拠したものとみなすかということとは、関係のないことです。
 前者の場合、疚しい良心が現存在の「悪」を告知するものだとすると、疚しくない良心というものは現存在の「善」を告知するものということになるでしょう。これは「わたしは善い人間だ」と言い聞かせる良心です。自分にそのように言うことができる人間は、善いひとだけでしょうが、しかし善いひとというものは、そのようなことを自分について確認したいと望むものでしょうか。自分が無辜であると言うことができる人は、善き人間です。しかし善き人間であれば、そのように主張することが、みずからの主張そのものの正しさと善性を正面から否定するものであることを、自覚しないでいることはできないでしょう。この言葉は、語られるときにすでにみずからの道徳性を否定する言葉なのです。
 このような帰結になることを避けるために、後者の場合のように「疚しくない」良心は「疚しい」良心の欠如したものと解釈される必要があるでしょう。この考え方によると、疚しくない良心というものは、呼び掛けが現れないという体験であり、わたしには咎められるべきものが何もないという体験だということになります。しかしこの疚しい良心の欠落はどのように体験されたのでしょうか。欠如を体験するということは、以前に存在していたものが、その時点で失われていることを体験するということであり、最初からないものの欠如を体験するということはできないはずです。良心が現存在に良心の「欠如」を呼び掛けるということがありうるでしょうか。この主張では、咎められるべきこと行わなかったことを確信するなら、それは疚しい良心が欠如していることであり、それが疚しくない良心だということになります。しかしこの考えは、明らかに良心の「呼び掛け」という概念の意味をまったく無視するものであり、実際には良心の現象という性格をまったくそなえておらず、「わたしには咎めるべきものが何もない」とみずから言い聞かせる自己説得にすぎません。後者の場合は、そもそも良心の現象ではまったくないのです。

Sofern die Rede von einem >guten< Gewissen der Gewissenserfahrung des alltäglichen Daseins entspringt, verrät dieses damit nur, daß es, auch wenn es vom >schlechten< Gewissen spricht, das Phänomen im Grunde nicht trifft. Denn faktisch orientiert sich die Idee des >schlechten< an der des >guten< Gewissens. Die alltägliche Auslegung hält sich in der Dimension des besorgenden Verrechnens und Ausgleichens von >Schuld< und >Unschuld<. In diesem Horizont wird dann die Gewissensstimme >erlebt<. (p.292)
「疚しくない」良心についての〈語り〉はそもそも、日常的な現存在の良心についての経験から生まれてきたものである。そしてこのことは、この日常的な現存在は「疚しい」良心について語っているときにも、その良心の現象を根底において捉えることができていないことを明らかにしているのである。というのも、「疚しい」良心の理念は、事実的にみて、「疚しくない」良心の理念に方向づけて考えられているからである。こうした日常的な解釈は、配慮的な気遣いをしつつ精算し、「負い目」と「負い目なし」の収支を合わせる次元にとどまっているのである。そして良心の声もこの地平で「体験される」ということになる。

 通俗的な良心論はこのように、良心を人間の心のうちで語る声とみなし、この声による呼び掛けの欠如が、その人の道徳性を保証すると考えようとしますが、この場合には、「疚しい良心」として語る良心の声の概念は、「〈疚しくない〉良心の理念に方向づけて考えられている」とみなすことができるでしょう。こうした良心論では、良心の声が聞こえないことが、その人の善性を示すと考えるのであり、呼び掛けによって現存在が自己に固有の存在可能に立ち戻るかどうかは、まったく考慮にいれていないのです。

 ハイデガーはこのように「疚しい良心」と「疚しくない良心」の概念について考察してきましたが、そこで今では「警告する良心」と「叱責する良心」の違いについても、決定を下すことができるようになっています。警告する良心は、呼び掛ける良心に近い現象のようにみえますが、これはたんに見掛けだけものです。
 というのも、警告する良心が警告するのは、現存在が何らかの行為を「なすべきではない」ということだけだからです。警告する良心は、人が過誤を犯すことから免れるように調整する機能をはたしているにすぎません。この良心は、ある行為をする前にその人に警告して、行為を抑止するのですが、この行為がどのようにして抑止されるかは、語ることができません。
 これを語ることができるのは、良心の「呼び掛け」だけです。良心の呼び掛けは、警告しながら現存在の存在可能を目指しているものであり、現存在は自分のあるべきありかたについて思いを巡らせることができます。これによって現存在は「〈負い目ある存在〉においてみずからを理解することを目指」すようになります。

Die Erfahrung eines warnenden Gewissens sieht die Stimme wiederum nur orientiert auf die gewollte Tat, vor der sie bewahren will. Die Warnung, als Unterbindung des Gewollten, ist aber nur deshalb möglich, weil der >warnende< Ruf auf das Seinkönnen des Daseins zielt, das ist auf das Sichverstehen im Schuldigsein, an dem erst das >Gewollte< zerbricht. (p.292)
警告する良心の経験もまた、良心の声というものを、その主体が意志している行為について、その行為をなすことに警戒せよと告げるものとみなしているのである。この意志された行為を抑止するという警告が可能になるのは、呼び掛けが「警告しながら」現存在の存在可能を目指しているからであり、負い目ある存在においてみずからを理解することを目指しているからにほかならない。この負い目ある存在にいたって初めて、その「意志された行為」が挫かれるのである。

 現存在がこのような「なすべきではない」行為を抑止することができるのは、現存在がみずからに固有の存在可能に直面し、〈負い目ある存在〉へと呼び起こされるためです。警告する良心の声は、良心の呼び掛けが現存在を負い目ある存在へと呼び起こすことによって、初めてその効果を発揮します。ところが通俗的な良心論で想定する良心の声は、たんなる悪しき行為を戒める警告の声であって、何が悪しき行為であるかは、世人の常識の及ぶ範囲においてしか考えようとしません。こうした警告する良心の声が可能になるのは、「呼び掛けが〈警告しながら〉現存在の存在可能を目指しているからであり、負い目ある存在においてみずからを理解することを目指しているから」ですが、通俗的な良心の解釈は、それを自覚するまでにはいたらないのです。

 このように、「疚しい良心」と「疚しくない良心」の区別について、通俗的な良心論が良心の存在者的な考察に依拠したものにすぎないことを指摘することで、第3の異論に反論するための準備が整ったのです。ハイデガーが示した第3の異論は、良心の声は、経験的には現存在の存在にそれほど根源的に関連するものではないのではないかという異議でした。というのも、日常的な良心経験では、〈負い目ある存在〉へと向かって呼び覚まされるようなことは知られていないのはたしかだからです。
 この異論は良心についての日常的な経験に依拠するものであり、ハイデガーはまず2つの疑問を示します。それは日常的な経験というものは、良心の呼び掛けの意味をまったく含んでいないのではないか、こうした呼び掛けの意味は、存在論的な解釈によってしか明らかにならないのではないかという疑問と、日常的な良心の経験に基づいた良心論は、良心という現象を分析するための適切な存在論的な地平を確保していないのではないかという疑問です。
 現存在の本質的な存在様式である頽落は、みずからを配慮的に気遣う世界の側から存在者的に理解しているのでした。つまりこの場合は、みずからを存在論的には眼前的な存在という意味で解釈していることになります。

Daraus erwächst aber eine zweifache Verdeckung des Phänomens: Die Theorie sieht eine in ihrer Seinsart zumeist sogar ganz unbestimmte Abfolge von Erlebnissen oder >psychischen Vorgängen<. Der Erfahrung begegnet das Gewissen als Richter und Mahner, mit dem das Dasein rechnend verhandelt. (p.293)
そうであれば、この良心の現象について2つの隠蔽が発生することになる。まず理論の面では、こうした理論は良心について、さまざまな体験や「心理的な過程」の継続をみるのであるが、それがどのような存在様式のものであるかは、まったく規定しないままなのである。また良心の経験は裁判官や警告者としての良心と出会うのであり、現存在はこの良心と、打算に基づいて取引をするとみなすのである。

 ハイデガーは、理論と経験の2つの側面から、この議論に反論します。理論の側面からは、通俗的な良心論はさまざまな体験や「心理的な過程」を列挙するとしても、「それがどのような存在様式のものであるかは、まったく規定しないまま」にしていることが指摘されます。また経験の側面としては、通俗的な良心論では良心を「裁判官や警告者」とみなした上で、「現存在はこの良心と、打算に基づいて取引をするとみな」していることが指摘されます。
 ハイデガーはこのように指摘することで、通俗的な良心論は、良心体験の存在様式を問わないものであるため、現存在の実存のありかたを隠蔽する世人の良心論と同じ性格のものとなっていること、そしてこの良心論では、良心が現存在をそのもっとも固有な存在可能へと向かって呼び掛けるという本質的な特徴を無視していることを明らかにするのです。

Die Berufung auf den Umkreis dessen, was die alltägliche Gewissenserfahrung als einzige Instanz für die Gewissensinterpretation kennt, wird sich erst dann ins Recht setzen können, wenn sie zuvor bedacht hat, ob in ihr das Gewissen überhaupt eigentlich zugänglich werden kann. (p.293)
日常的な良心の経験こそが、良心の解釈のための唯一の審級であるとみなそうとするならば、この日常的な良心の経験という領域において、わたしたちが良心そのものに本来的に接近することができるかどうかを、あらかじめ十分に考察してからでなければ、その正しさを主張することはできないだろう。

 第3の異論については基本的に、日常的な良心の経験を「良心の解釈のための唯一の審級」とみなすことはできないこと、むしろこうした経験が「良心そのものに本来的に接近することができるかどうか」をあらかじめ考察する存在論的な解釈こそが、良心を考察するための唯一の審級となることを主張することで、反論されるのです。

 第2の異論は、良心の声が特定の実現された行為や意志された行為にかかわるものであるという日常的な経験を、実存論的な良心の解釈が考慮にいれていないことを指摘するものでした。この異論にたいしてハイデガーは、良心の声がこのような特定の行為について語るという日常的な経験があるのはたしかですが、特定の行為についての良心の声による判断を重視しすぎると、良心が現存在にみずからの存在可能について呼び掛けるという需要な役割を無視することになると指摘します。
 常識的な良心の解釈は、良心の実際のありかたに依拠していると考えていますが、結局のところはその常識性のために、呼び掛けが開示するものの範囲を狭めてしまっているのです。そのように解釈することは、良心の機能を、すでに犯された過誤を指摘したり、または起こりうる過誤を防ぐという役割にまで貶めてしまうことになります。

Gleich als wäre das Dasein ein >Haushalt<, dessen Verschuldungen nur ordentlich ausgeglichen zu werden brauchen, damit das Selbst als unbeteiligter Zuschauer >neben< diesen Erlebnisabläufen stehen kann. (p.293)
それでは現存在は「家計」のようなものとなり、その過誤はきちんと収支を合わせる必要があるのであって、これが済めば自己はこれらの体験の流れの「傍ら」で、関係のない傍観者として眺めていることができるようになってしまうだろう。

 良心にそのような役割を負わせることは、良心に現存在の良心の「収支合わせ」や「家計」の取締をさせるようなものです。それでは良心の呼び掛けが目指すのは、過誤があればこれを弁済させて、良心を「疚しくない」ものとすることになってしまうでしょう。

 最後に残されたのは第1の異論です。この異論は、良心は本質的に「批判的な」働きをもつものであるという異論でした。すでに第2、第3の異論への反論で示されたように、裁判官のように、特定の加護について批判し、警告するのは良心にとっては本質的な役割ではないはずです。しかし第1の異論は、良心のこうした批判的な機能に注目する必要があることを主張するものなのです。
 良心は実際には心の中の声として、積極的に勧告したり、命令したりするようなことはまったく目指していません。しかしすぐに理解できるように、こうしたことは良心が「消極的」な性格のものであることを示すものではありません。
 通俗的な良心論では、良心が「積極的」な内容をもつということは、良心が現存在の特定の行為や過誤について、明示的に勧告したり命令したりすることを意味し、消極的とは、良心がこうした批判的な機能を果たさないことを意味します。

Vermißt wird ein >positiver< Gehalt im Gerufenen aus der Erwartung einer jeweilig brauchbaren Angabe verfügbarer und berechenbarer sicherer Möglichkeiten des >Handelns<. Diese Erwartung gründet im Auslegungshorizont des verständigen Besorgens, der das Existieren des Daseins unter die Idee eines regelbaren Geschäftsganges zwingt. (p.294)
呼び掛けられている事柄のうちには、「積極的」な内容がみあたらないと考えるのは、人々が良心に、”自分が行為するにあたって自由に使うことができ、計算することのできるような確実な「行為すること」の可能性を、そのときどきに有益に指示してくれることを期待するから”である。こうした期待は、配慮的な気遣いをする常識的な解釈の地平によって生まれたものであり、こうした解釈の地平は現存在の実存を、管理可能な事業の運営方式のもとに押し込めようとするものである。

 このような期待が生まれるのは、この良心が「配慮的な気遣いをする常識的な解釈の地平」に依拠しているからであり、この「解釈の地平は現存在の実存を、管理可能な事業の運営方式のもとに押し込めようとする」ものと言えるでしょう。
 ハイデガーが展開する良心の実存論的な解釈では、良心はこのような意味で「世局的な」働きをすることはありません。良心は現存在に特定の行動について助言を与えることをその本来のつとめとすることはないからです。もし良心が現存在の現実の行動を規制するものであるなら、良心は実存に行為する可能性を拒絶するものとなってしまうでしょう。
 ただし良心はこのような意味で「積極的な」役割を果たすことはないものの、すでに通俗的な良心論の考えるような意味でただたんに消極的に働くものでもありません。というのも良心によって現存在は、実存することに向かって、もっとも固有な自己の存在可能に向かって呼び覚まされるからです。良心は実存論的な観点からは、もっとも積極的な役割を果たすのです。

 これまで4つの異論にたいする反論が行われてきましたが、通俗的な良心の解釈についての存在論的な批判は、誤解を招きがちなものであるかもしれません。すなわちハイデガーは、日常的な良心の経験は、”実存論的に”みて根源的なものではないことを証明しようとしたのですが、そのために、通俗的な良心の経験をしている現存在の”実存的な”道徳的な性質についても、何らかの判断を下しているのではないかと誤解されるかもしれません。
 しかしある人が良心について存在論的に十分に理解していないからといって、その人の実存が損なわれるわけではありませんし、その反対に、良心を実存論的に適切に解釈したからといって、その人が良心の呼び掛けを実存的に了解することが保証されるわけでもないでしょう。

Gleichwohl erschließt die existenzial ursprünglichere Interpretation auch Möglichkeiten ursprünglicheren existenziellen Verstehens, solange ontologisches Begreifen sich nicht von der ontischen Erfahrung abschnüren läßt. (p.295)
ただし存在論的な把握は、存在者的な経験から切り離すことができないのであるから、実存論的に根源的な解釈を実現することは、さらに根源的な実存的な了解の”可能性”を開示するのである。

 わたしたちは存在論的・実存論的に良心を解釈することで、さらに根源的に事実的な行為に向かって進む可能性が広がります。そしてそれによって、現存在のうちで開示されている現存在の実存の本来性の根本機構へと迫っていけるようになるはずなのです。


 今回は以上になります。次節では、本来的な存在可能の実存論的な構造について分析がされることになります。

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