『存在と時間』を読む Part.34

   B 〈そこに現に〉の日常的な存在と現存在の頽落

 さて、ここからは第5章のB項に入ります。これまで内存在の〈そこに現に〉の実存論的な構成としての「情態性」「理解」「語り」が考察されてきましたが、これらは世界内存在の開示性に含まれる実存論的な構造でした。これに注目することは、現存在の実存に注目するということであり、ある意味ではその日常性から目を離すことでもあります。現存在は日常性においては世人として存在していることは、すでに指摘されていました。B項では現存在の日常性に注目して考察が進められることになります。

Die Frage erhebt sich jetzt: welches sind die existenzialen Charaktere der Erschlossenheit des In-der-Welt-seins, sofern dieses sich als alltägliches in der Seinsart des Man hält? Eignet diesem eine spezifische Befindlichkeit, ein besonderes Verstehen, Reden und Auslegen? Die Beantwortung dieser Fragen wird um so dringlicher, wenn wir daran erinnern, daß das Dasein zunächst und zumeist im Man aufgeht und von ihm gemeistert wird. Ist das Dasein als geworfenes In-der-Welt-sein nicht gerade zunächst in die Öffentlichkeit des Man geworfen? Und was bedeutet diese Öffentlichkeit anderes als die spezifische Erschlossenheit des Man? (p.167)
ここで問われる問いは、世界内存在は、日常的には世人という存在様式で存在しているのであるが、この世界内存在の開示性には実存論的にみて、どのような性格がそなわっているのか、また世人には、それに特有な情態性や、特別な理解、語り、解釈のありかたがそなわっているのかということである。現存在はさしあたりたいていは世人のうちに没頭しており、世人によって支配されていることを想起するならば、この問いに答えることがますます切実に必要とされる。現存在は被投された世界内存在であるのだから、さらにさしあたりは世人の公共性のうちに投げ込まれているのではないだろうか。この公共性は、世人に固有の開示性のことではないのだろうか。

 現存在は日常性においては世人として存在しているのであり、ハイデガーはこの世人の開示性を公共性と呼びます。内存在そのものを解明し、考察するためには、これまで考察してきた情態性、理解、語りという実存論的な構造が、公共性において、世人に固有の開示性として、どのような形で現れているかを考察することも重要です。世人にもまた「それに特有な情態性や、特別な理解、語り、解釈のありかた」がそなわっているはずだからです。
 現存在の日常性の分析においては、日常性における現存在の存在様態は「頽落」という言葉で呼ばれます。この頽落は、現存在の3つの実存論的な構造に対応する形で展開されます。世人の分析で最初に考察されるのが「世間話」ですが、これが現存在の「語り」が頽落した形態であるのは明らかでしょう。次に「理解」が頽落した「好奇心」(「解釈」もここに含まれることでしょう)、最後に「情態性」が頽落した「曖昧さ」が考察されることになります。そして第5章の最後の節では、これら3つの頽落した存在方式を総括する形で、頽落についてまとめて考察され、現存在の存在のありかたにおける本来性と非本来性という重要な区別が行われることになります。

Wenn das Verstehen primär als das Seinkönnen des Daseins begriffen werden muß, dann wird einer Analyse des dem Man zugehörigen Verstehens und Auslegens zu entnehmen sein, welche Möglichkeiten seines Seins das Dasein als Man erschlossen und sich zugeeignet hat. Diese Möglichkeiten selbst offenbaren dann aber eine wesenhafte Seinstendenz der Alltäglichkeit. Und diese muß schließlich, ontologisch zureichend expliziert, eine ursprüngliche Seinsart des Daseins enthüllen, so zwar, daß von ihr aus das angezeigte Phänomen der Geworfenheit in seiner existenzialen Konkretion aufweisbar wird. (p.167)
わたしたちは理解を第1義的には、現存在の存在可能として把握しなければならない。そこで見てとられるのは、世人にそなわる理解と解釈のありかたを分析することによって、世人としての現存在はみずからの存在のどのような可能性を開示しているか、そしてわがものとしているかということである。他方でこれらの可能性そのものは、日常性の本質的な存在傾向をあらわにするものである。そしてこの日常性について存在論的に十分に解明したならば、現存在の根源的な存在様式があらわになるはずである。こうした根源的な存在様式に基づいて、すでに示唆しておいた被投性という現象を、実存論的かつ具体的に提示できるようになるだろう。

 ここで考えておくべきことは、この頽落という概念には大きな問題が含まれるということです。現存在は日常性のうちで生活しており、それがそもそも世界内存在ということでした。これは「世界内存在は、日常的には世人という存在様式で存在している」と明言されている通りで、現存在の「日常性について存在論的に十分に解明したならば、現存在の根源的な存在様式があらわになるはずである」と、ハイデガーは考えています。そして「現存在の根源的な存在様式」と呼ばれてるものが何かというと、「頽落」なのです。
 しかし「頽落(>Verfallen<)」という語から明らかなようにに、それは根源的なありかた、現存在の実存から失墜した状態のはずです。現存在は世界内存在としては、頽落しているのが根源的な存在様式ですが、その状態では固有の自己を実存していないことになります。それでは頽落が現存在の根源的な存在様式であると考えるのは適切なことなのでしょうか。
 あるいは、頽落が世界内存在としての現存在の根源的な存在様式であるかぎり、現存在はこの存在様態から「覚醒する」ことで、本来的な実存に立ち戻ることができると考えることができるかもしれません。この場合、世人と実存との対立の構図において、世界内存在は根源的に世人として公共性のうちに生き、現存在は実存において根源的に自己に覚醒すると考えられます。この構図がどこまで有効であるのかは、以下の考察に進みながらも念頭に置いておくべきでしょう。

Zunächst ist gefordert, die Erschlossenheit des Man, das heißt die alltägliche Seinsart von Rede, Sicht und Auslegung, an bestimmten Phänomenen sichtbar zu machen. Mit Bezug auf diese mag die Bemerkung nicht überflüssig sein, daß die Interpretation eine rein ontologische Absicht hat und von einer moralisierenden Kritik des alltäglichen Daseins und von >kulturphilosophischen< Aspirationen weit entfernt ist. (p.167)
さしあたり必要とされるのは、世人の開示性、すなわち世人の語り、まなざし、解釈の日常的な存在様式を、特定の現象に即して明らかにすることである。これらの現象について付言しておくべきことは、わたしたちの解釈は純粋に存在論的な意図で行われるものであって、日常的な現存在の道徳主義的な批判とも、「文化哲学的な」野心とも、かけ離れたものであるということである。

 以下で、現存在の世人への頽落の存在様態が、「世人の語り、まなざし、解釈の日常的な存在様式」という3つの観点から考察されることになります。これらの観点から、先に挙げた「世間話」「好奇心」「曖昧さ」のそれぞれが分析されることになるでしょう。


  第35節 世間話

 まず世人の日常的な存在様式として、「語り」がどのように頽落するかという問題が検討されます。語りは頽落することで、「世間話(>Gerede<)」として現れます。前節では、すでに語りの否定的な形態として多弁が指摘されていましたが、世間話はたんなる多弁ではなく、語りが世人の存在様態にいかに取り込まれているかを示す重要な存在様態です。
 世間話は語りが頽落したものなので、語りの構造に基づいて、世間話の構造が分析されることになります。どのように世間話は成立するのでしょうか。

Gemäß der durchschnittlichen Verständlichkeit, die in der beim Sichaussprechen gesprochenen Sprache schon liegt, kann die mitgeteilte Rede weitgehend verstanden werden, ohne daß sich der Hörende in ein ursprünglich verstehendes Sein zum Worüber der Rede bringt. Man versteht nicht so sehr das beredete Seiende, sondern man hört schon nur auf das Geredete als solches. Dieses wird verstanden, das Worüber nur ungefähr, obenhin; man meint dasselbe, weil man das Gesagte gemeinsam in derselben Durchschnittlichkeit versteht. (p.168)
みずから語りだした〈語り〉において示された言語には、すでに平均的な了解可能性が含まれている。この平均的な了解可能性に応じて、伝達された語りは十分に理解できるようになる。その際に聞き手は、語りが〈それについて〉語る存在者を根源的に理解しつつ存在するわけではない。ひとは語られている存在者について理解するというよりも、すでにただ語られたことそのものしか、耳にとめていない。語られたことは理解されるものの、語りが〈それについて〉語る存在者については、ただおおまかに理解するにすぎない。ひとはみな語られたことについて”同じ”平均的なありかたで理解しているので、”同じ”ような意見をもつようになるのである。

 「語る」という営みにおいては、語る言葉のうちにすでに現存在と世界、他者と自己について了解し、解釈した内容が含まれています。この際、「聞き手は、語りが〈それについて〉語る存在者を根源的に理解しつつ存在するわけではない」と指摘されているように、世間話においては、語られた存在者とのあいだの第1義的な存在連関を失ってしまっています。つまり頽落した語りでは、この存在者を根源的にわがものにするというありかたで伝達が行われることがなく、「ひとがそう言うのだから、そうなのだ」というように伝達されることになるということです。「ひとはみな語られたことについて”同じ”平均的なありかたで理解しているので、”同じ”ような意見をもつようになる」というわけです。
 この語りは自己とのかかわりからではなく、世間一般に流布している書物や新聞、雑誌などで語られている内容を、考えもせずにそのまま読みかじりで伝えるという形をとることも、他者との対話のうちで教えられたことを、考えもせずにそのまま聞きかじりで伝えるという形をとることもあるでしょう。この地に足がついていない語りは、真の意味で理解するという課題から現存在を免除するだけでなく、無差別な了解可能性を作りだし、この了解可能性にとっては、もはや理解できないことは何もないというような感覚まで与えるのです。
 このような語りが、日常性のうちで頽落した現存在の「語り」なのであり、わたしたちにとってもお馴染みのありかたです。日常生活において、テレビを何となくいつもつけていることがあるでしょう。世間話においては、何を語るかよりも、とにかく何かを語っているということそのものが大切なことなのです。しかしハイデガーは、この一見無害に思えるような語りが、現存在の実存に大きな影響を及ぼすことを指摘しています。

Die Rede, die zur wesenhaften Seinsverfassung des Daseins gehört und dessen Erschlossenheit mit ausmacht, hat die Möglichkeit, zum Gerede zu werden und als dieses das In-der-Welt-sein nicht so sehr in einem gegliederten Verständnis offenzuhalten, sondern zu verschließen und das innerweltlich Seiende zu verdecken. Hierzu bedarf es nicht einer Absicht auf Täuschung. Das Gerede hat nicht die Seinsart des bewußten Ausgebens von etwas als etwas. (p.169)
語りは、現存在の本質的な存在機構に属するものであり、現存在の開示性をともに構成するものであるが、他方では世間話になってしまう可能性がある。そして世間話になった語りは、世界内存在を構造化された了解のもとに開示するのではなく、むしろそれを閉鎖してしまい、世界内部的な存在者を覆い隠すのである。そのためには世間話が、欺こうという意図をもつ必要はない。世間話は、あるものを別のものとして”意図的に言いたてる”ような存在様式をそなえていないのである。

 世間話は、世界内存在を公共性のうちに閉じ込め、世界内存在が自己の実存に直面するのを妨げる役割をはたします。「世間話になった語りは、世界内存在を構造化された了解のもとに開示するのではなく、むしろそれを閉鎖してしまい、世界内部的な存在者を覆い隠す」のです。加えて世間話とは、誰かを欺くために虚偽を述べることでもないはずです。ある出来事について伝達されるたびに尾ひれがついていって、事実とは全然異なるものとなることがあるでしょう。しかしそれを語る現存在には、決して欺こうという意図があるわけではなく、しかもそのことについて理解していると思っているのですから、語られたことの第1義的な存在連関に立ち戻ることを怠ります。この意味で世間話とは、「開示」ではなく最初からある種の「閉鎖」なのです。

 しかし同時に、現存在は世界内存在としては、本来この頽落に完全に規定されています。冒頭でも書きましたように、「現存在の根源的な存在様式」は「頽落」なのです。

Im Dasein hat sich je schon diese Ausgelegtheit des Geredes festgesetzt. Viels lernen wir zunächst in dieser Weise kennen, nicht weniges kommt über ein solches durchschnittliches Verständnis nie hinaus. Dieser alltäglichen Ausgelegtheit, in die das Dasein zunächst hineinwächst, vermag es sich nie zu entziehen. In ihr und aus ihr und gegen sie vollzieht sich alles echte Verstehen, Auslegen und Mitteilen, Wiederentdecken und neu Zueignen. Es ist nicht so, daß je ein Dasein unberührt und unverführt durch diese Ausgelegtheit vor das freie Land einer >Welt< an sich gestellt würde, um nur zu schauen, was ihm begegnet. (p.169)
現存在においてはこのような世間話による解釈が、そのつどすでに固定されている。わたしたちは多くのことをさしあたり、このようなありかたで知るのであり、こうした平均的な理解の水準を超えて知るようになるものはごく少ないのである。現存在はこのような日常的に解釈されたことのうちで育ってくるのであり、これから逃れることはない。すべての真なる理解、解釈、伝達、新たな露呈、みずからの新たな獲得は、こうした解釈のうちで、そうした解釈に基づき、あるいはそれに抵抗して実現される。いつか現存在が、この解釈された内容に汚染されず、誘惑もされずに、「世界」自体という自由な土地を目の当たりにして、自分が出会うものをしっかりと見つめるようなことには、決してならない。

 現存在は世界内存在であるかぎり、まず頽落しています。「現存在はこのような日常的に解釈されたことのうちで育ってくるのであり、これから逃れることはない」と指摘されているとおりであり、現存在が新たに何かを理解するとしても、それはすでに人々によって作られたこうした解釈に基づくほかはありません。「すべての真なる理解、解釈、伝達、新たな露呈、みずからの新たな獲得は、こうした解釈のうちで、そうした解釈に基づき、あるいはそれに抵抗して実現される」のです。
 ですから、現存在が本来的に実存するようになるとしても、それは現存在の世界内存在における頽落から飛躍して外にでることによってではなく、そのうちですでにつねに頽落している自己と向き合うことによってだと言えるでしょう。「いつか現存在が、この解釈された内容に汚染されず、誘惑もされずに、〈世界〉自体という自由な土地を目の当たりにして、自分が出会うものをしっかりと見つめるようなことには、決してならない」のです。本来的に実存することは、決して頽落からの脱却ではないことに注意しましょう。

 そしてもう1つ忘れてはならないのが、頽落しうるということもまた、実存する現存在だけに可能なことだということです。

Nur Seiendes, dessen Erschlossenheit durch die befindlich-verstehende Rede konstituiert ist, das heißt in dieser ontologischen Verfassung sein Da, das >In-der-Welt< ist, hat die Seinsmöglichkeit solcher Entwurzelung, die so wenig ein Nichtsein des Daseins ausmacht als vielmehr seine alltäglichste und hartnäckigste >Realität<. (p.170)
このように〈根を失った〉存在でありうるのは、情態的に理解する語りによって構成された開示性をそなえた存在者だけであり、言い換えればこの存在論的な機構においてみずからの〈そこに現に〉であり、「世界内」の存在”である”存在者だけである。この〈根を失った〉ありかたは、現存在の非存在をなすものであるどころか、現存在のもっとも日常的で、きわめて根強い「実在性」をなすものである。


 今回は以上になります。次回は「理解」の頽落した様態、「好奇心」が分析されます。

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