『存在と時間』を読む Part.41

  第42節 現存在の前存在論的な自己解釈に基づいた気遣いとしての現存在の実存論的な解釈の検証

 ハイデガーはすでに、人間という存在者にとって適切な存在論的な基礎を獲得しようとすることを目指すなら、特別な概念装置が必要であることを強調してきました。人間という概念を使うなら、人間についてのさまざまな既存の定義に規定されてしまうのであり、しかもこうした伝統的な手掛かりは、存在論的には不透明なものでした。そのために、「人間」に代わる概念として、「現存在」という語を用いたのでした。
 それと同様に、現存在についての実存論的かつ存在論的な解釈においては、現存在の日常性における根本的なありかたを規定する概念として、ふつうの文脈では「憂慮、配慮、世話、保護」などの意味をもつ言葉である>Sorge<(気遣い)という語が採用されてきました。ハイデガーは、これまで説明なしにごく当たり前のように使ってきたこの概念について、この節において、哲学の歴史を振り返りながら、その根拠を示そうとします。
 こうした特別な用語を使う根拠づけは、存在論的な分析から示されるものではありません。存在論的な分析は、こうした概念に依拠して行われるものだからです。そのためこの概念を採用した根拠は、「前存在論的な」証言に依拠して行われることになります。

 前存在論的な証言として、ハイデガーがここで引用するのはローマの学者のヒュギヌスの『神話』に採録された寓話です。原注によると、ハイデガーはこれを、ドイツの精神史家のブルダッハの論考「ファウストと気遣い」で、たまたま発見したと語っています。こちらをそのまま以下に引用しますが、原文はラテン語であり、ハイデガーはブルダッハのドイツ語訳もその後に載せています。ここではドイツ語訳とその日本語訳をご紹介し、必要に応じてラテン語の意味を参照したいと思います。

 >Als einst die >Sorge< über einen Fluß ging, sah sie tonhaltiges Erdreich: sinnend nahm sie davon ein Stück und begann es zu formen. Während sie bei sich darüber nachdenkt, was sie geschaffen, tritt Jupiter hinzu. Ihn bittet die >Sorge<, daß er dem geformten Stück Ton Geist verleihe. Das gewährt ihr Jupiter gern. Als sie aber ihrem Gebilde nun ihren Namen beilegen wollte, verbot das Jupiter und verlangte, daß ihm sein Name gegeben werden müsse. Während über den Namen die >Sorge< und Jupiter stritten, erhob sich auch die Erde (Tellus) und begehrte, daß dem Gebilde ihr Name beigelegt werde, da sie ja doch ihm ein Stück ihres Leibes dargeboten habe. Die Streitenden nahmen Saturn zum Richter. Und ihnen erteilte Saturn folgende anscheinend gerechte Entscheidung: >Du, Jupiter, weil du den Geist gegeben hast, sollst bei seinem Tode den Geist, du, Erde, weil du den Körper geschenkt hast, sollst den Körper empfangen. Weil aber die >Sorge< dieses Wesen zuerst gebildet, so möge, so lange es lebt, die >Sorge< es besitzen. Weil aber über den Namen Streit besteht, so möge es >homo< heißen, da es aus humus (Erde) gemacht ist.< (p.198)
気遣い(クーラ)が川を渡っていたとき、そこに陶土の大地をみつけた、
クーラは物思いにふけりながら、その一塊を手にとって形作り始めた。
作り終えて思いをめぐらしていると、ユピテルがやってきた。
クーラはユピテルに、それに精神を与えてくださいと頼むと、彼は心よくうけいれた。
ところがその像にクーラが自分の名前をつけようとすると
ユピテルはそれを禁じて、自分の名前をつけるべきだと主張した。
クーラとユピテルが争っていると、大地(テルス)が身を起こし
自分の一部を与えたのだから、そのものの名は自分の名であると主張した
争う彼らはサトゥルヌスを裁判官にしたが、彼はもっともな裁きを下した
「ユピテルよ、汝は精神を与えたのだから、それが死するときに精神を取れ
大地よ、汝は身体を与えたのだから、それが死するときに身体を取れ
さてクーラよ、汝が初めてそれに形を与えたのだから、それが生きているあいだは手元におくがよい
しかしその名について汝らに争いがあるのであれば、
それは明らかに土(フムス)から作られたものだから、人間(ホモ)と呼ばれるがよい」

 気遣いと訳す>Sorge<は、ラテン語では>Cura<(クーラ)であり、これは「心配、注意、気配り、世話、治療」を意味する語です。この引用では人間が、土から生まれた身体と神から与えられた精神の結合体であること、しかし人間が生きるかぎりは、そのどちらでもなく、気遣い(クーラ)のもとにあることが語られています。

Diese vorontologische Zeugnis gewinnt dadurch eine besondere Bedeutung, daß es nicht nur überhaupt die >Sorge< als das sieht, dem das menschliche Dasein >zeitlebens< gehört, sondern daß dieser Vorrang der >Sorge< im Zusammenhang mit der bekannten Auffassung des Menschen als des Kompositums aus Leib (Erde) und Geist heraustritt. Cura prima finxit: Dieses Seiende hat den >Ursprung< seines Seins in der Sorge. Cura teneat, quamdiu vixerit: Das Seiende wird von diesem Ursprung nicht entlassen, sondern festgehalten, von ihm durchherrscht, solange dieses Seiende >in der Welt ist<. Das >In-der-Welt-sein< hat die seinsmäßige Prägung der >Sorge<. (p.198)
この前存在論的な証言が特別な意義をそなえているのは、人間という現存在が「それが生きているあいだ」は一般に「気遣い」に属するものであると考えているだけでなく、人間を身体(土)と精神で構成されたものであるという周知の人間観との関係で、この「気遣い」の優位が確認されているためである。クーラは、「”初めて”それに形を与えた」のであり、この人間という存在者は気遣いのうちに、みずからの存在の根源をもっているのである。「クーラよ・・・・・・それが生きているあいだは手元におくがよい」。すなわちこの存在者はこの根源から放免されることはなく、「世界のうちに存在する」かぎりで、この根源につなぎとめられ、それにすみずみまで支配されるのである。「世界内存在」はその存在において、「気遣い」の刻印をうけているのである。

 現存在は世界内存在として、世界のうちでつねに気遣いしつづける存在であることが強調されています。

Worin das >ursprüngliche< Sein dieses Gebildes zu sehen sei, darüber steht die Entscheidung bei Saturnus, der >Zeit<. Die in der Fabel ausgedrückte vorontologische Wesensbestimmung des Menschen hat sonach im vorhinein die Seinsart in den Blick genommen, die seinen zeitlichen Wandel in der Welt durchherrscht. (p.198)
この像の「根源的」存在のありかをどこにみいだすかについて決定を下したのはサトゥルヌス、すなわち「時間」である。このようにこの寓話のうちで表現されている人間の前存在論的な本質規定は、人間の”世界のうちでの時間的な経過”をすみずみまで支配している”まさにその”存在様式を、始めから考慮にいれていたのである。

 サトゥルヌスとは、ローマにおける時間の神のことであり、ギリシア神話のクロノスのことです。ここで時間が、現存在の根源的な存在を裁決したというのは、この後の存在論的な考察(現存在と時間性)につながっていくことを示しています。

 さらにハイデガーは、この気遣い(クーラ)という概念の歴史を考察しながら、それがたんに「不安な心遣い」を意味するだけではなかったことを指摘します。

Die Bedeutungsgeschichte des ontischen Begriffes >cura< läßt sogar noch weitere Grundstrukturen des Daseins durchblicken. Burdach macht auf einen Doppelsinn des Terminus >cura< aufmerksam, wonach er nicht nur >ängstliche Bemühung< bedeutet, sondern auch >Sorgfalt<, >Hingabe<. So schreibt Seneca in seinem letzten Brief (ep. 124): >Unter den vier existierenden Naturen (Baum, Tier, Mensch, Gott) unterscheiden sich die beiden letzten, die allein mit Vernunft begabt sind, dadurch, daß Gott unsterblich, der Mensch sterblich ist. Bei ihnen nun vollendet das Gute des Einen, nämlich Gottes, seine Natur, bei dem andern, dem Menschen, die Sorge (cura): unius bonum natura perficit, dei scilicet, alterius cura, hominis.< (p.199)
さらにこの「クーラ」という存在者的な概念がどのような意義の変化を経験しているかという歴史を調べてみると、そこから現存在の別の根本的な構造が透けるようにしてみえてくる。ブルダッハは、「クーラ」という用語には2重の意味があることに注意を促している。この語は「不安げな心遣い」を意味するだけでなく、「入念さ」とか「献身」をも意味すると語っているのである。たとえばセネカは、最後の道徳書簡において(書簡124番)、「自然には、次の4種類がある。つまり、樹木、動物、人間、神の4種類だが、最後の2つだけに理性があるが、人間が死すべきものであり、神が不死なるものだという点に違いがある。それゆえ、このうちの一方の者、すなわち神の善を完成させるのはその本性であり、他方の者、すなわち人間の善を完成させるのは配慮(クーラ)なのである」と語っている。

 引用を続けます。

Die perfectio des Menschen, das Werden zu dem, was er in seinem Freisein für seine eigensten Möglichkeiten (dem Entwurf) sein kann, ist eine >Leistung< der >Sorge<. Gleichursprünglich bestimmt sie aber die Grundart dieses Seienden, gemäß der es an die besorgte Welt ausgeliefert ist (Geworfenheit). Der >Doppelsinn< von >cura< meint eine Grundverfassung in ihrer wesenhaft zweifachen Struktur des geworfenen Entwurfs. (p.199)
人間の完成とは、人間がその投企において、すなわちみずからにもっとも固有な可能性に〈向かって開かれていること〉において、それでありうるものへと生成することであるが、これは「気遣い」の「働き」なのである。しかし気遣いは他方で、この存在者が配慮的に気遣われる世界に委ねられているという根本的なありかた(被投性)をも、等根源的に規定しているのである。「気遣い(クーラ)」の「2重の意味」とは実は、本質的に2重のありかた、すなわち〈被投的な投企〉という構造をそなえた”1つの”根本的な機構を示したものなのである。

 ハイデガーはセネカを引用し、「人間の善を完成させるのは配慮(クーラ)なのである」と指摘しました。そして「人間の完成とは、人間がその投企において、すなわちみずからにもっとも固有な可能性に〈向かって開かれていること〉において、それでありうるものへと生成することであるが、これは〈気遣い〉の〈働き〉なのである」と語っています。ハイデガーは、「人間の善」とは、みずからにもっとも固有な可能性に向かって、その投企において「生成すること(>Werden<)」であり、つまりこれが本来性ということだと考えています。この文脈では、ハイデガーのキリスト教的な世界観がみてとれるでしょう。
 同時に、人間は世界に生きているのであるから、気遣いは「この存在者が配慮的に気遣われる世界に委ねられているという根本的なありかた(被投性)をも、等根源的に規定している」ことになります。現存在が、みずからにもっとも固有な可能性を忘却し世界に没頭していることも、気遣いの働きによるものなのです。
 前者は人間の実存における「投企」の構造を示すものであり、後者は人間の日常性における「被投性」の構造を示すものです。人間は気遣うときに、自己の実存に向けて投企することで、世界への没頭から解放され、本来的なありかたをすることもできるはずです。しかし他方では、世界内部的な存在者のもとに固執し、世界を気遣うことで、被投性のうちにあって頽落することもできるのです。これはどちらも気遣いの2つの顔なのであり、世界における現存在の「〈被投的な投企〉という構造」を示していることを、ハイデガーは指摘します。

 このように気遣いの2重の意味において、投企という能動的な概念と、被投性という受動的な概念との対比を読み込むことで、現存在の存在様式が、気遣いというありかたによって、象徴的に告げられることになります。
 第1篇のここまでの部分で、基礎存在論的な考察において必要とされる実存論的な概念と実存カテゴリーの重要なものがほぼすべて列挙され、考察されてきました。今後は、これらの実存論的な概念と実存カテゴリーを存在論的に、とくに時間との関係で考察する作業が展開されます。
 しかしその前にハイデガーは、これまでの考察において伝統的な哲学において問題として提起されてきた重要なテーマについて検討します。

Im Hinblick auf die leitende Frage nach dem Sinn von Sein und ihre Ausarbeitung muß sich jetzt aber die Untersuchung ausdrücklich des bisher Gewonnenen versichern. Dergleichen läßt sich aber durch äußerliche Zusammenfassung des Erörterten nicht erreichen. Vielmehr muß, was zu Beginn der existenzialen Analytik nur roh angezeigt werden konnte, mit Hilfe des Gewonnenen auf ein eindringlicheres Problemverständnis zugespitzt werden. (p.200)
しかしここまで考察を進めてきた段階で、存在の意味を問う主導的な問いと、その詳細な考察を考慮にいれながら、この探究においてこれまで獲得された成果を”明示的に”確認しておかねばならない。しかしそのためには、すでに解明されてきたことをたんに外的にまとめるだけであってはならない。むしろ実存論的な分析論の端緒ではごく概略的に告示することしかできなかったことを、これまでに獲得された成果に依拠しながら、さらに深く問題を了解するため、いっそう鋭く解釈し直さねばならない。

 これらの重要なテーマとは、世界の実在性の問題と、真理の問題の2つの問題構成です。これが次の2つの節のテーマとなります。


 今回は以上になります。この節は特に、考察の背景としてのキリスト教がみえた節だったと思います。クーラの考察のおり、ハイデガーは原注でアウグスティヌスの名前を出していますが、講義『アウグスティヌスと新プラトン主義』では、アウグスティヌスのキリスト教的な人間学的考察を取り上げながら、気遣いについて詳しい考察を行っています。興味をお持ちであれば、ぜひ参照してみてください。

 それでは、次回もよろしくお願いします。

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