『存在と時間』を読む Part.14

 A 環境世界性と世界性一般の分析

  第15節 環境世界において出会う存在者の存在

 前節までで確認されたことは、現存在が日常の生活のうちで生きている世界は、近代哲学で考察されてきた被造物の世界という意味での自然としての世界ではなく、環境世界です。環境世界と訳すドイツ語は >Umwelt< ですが、注目すべきは前綴りの >um< です。ウムというこの前置詞は大きく分けて4つの重要な意味をそなえており、第1に「あるものの周囲に」という空間的な意味、第2に「ある頃に」という時間的な意味、第3に「あるものについて」という関連の意味、そして第4に「あるもののために」という目的の意味をもっています。このうち、現存在分析において特に重視されるのが第1の空間的な意味と、第4の目的を示す意味ですが、それについてはこの節の進行の途中で明らかになるでしょう。
 ウムの前綴りがつく世界(ヴェルト)、環境世界(ウムヴェルト)とは、現存在を囲み、現存在の周りにある世界のことを指します。この世界と現存在の関係は、「内部性」ではなく「内存在」であることはすでに考察されてきました(Part.11参照)。この節では、たんに世界の事物を眺めているだけではない現存在と世界との密接な関係を「交渉(>Umgang<)」と呼びます。

Der Umgang hat sich schon zerstreut in eine Mannigfaltigkeit von Weisen des Besorgens. Die nächste Art des Umganges ist, wie gezeigt wurde, aber nicht das nur noch vernehmende Erkennen, sondern das hantierende, gebrauchende Besorgen, das seine eigene >Erkenntnis< hat. Die phänomenologische Frage gilt zunächst dem Sein des in solchem Besorgen begegnenden Seienden. Zur Sicherung des hier verlangten Sehens bedarf es einer methodischen Vorbemerkung. (p.67)
この交渉は、配慮的な気遣いの多様なありかたのうちに、すでに分散して行われている。すでに示したように、もっとも身近な交渉のありかたは、もはや知覚するだけの認識のようなものではなく、事物を操作し、使用する配慮的な気遣いであるが、これにはそれに固有の「認識」がそなわっている。わたしたちはまず、このような配慮的な気遣いにおいて出会う存在者の存在について、現象学的に問おうとするのである。ここで求められるまなざしを明確なものとするために、あらかじめ方法的な注意点を確認しておく必要があるだろう。

 環境世界の中での交渉には、「配慮的な気遣いの多様なありかたのうちに、すでに分散して行われている」という特徴があります。わたしたちの日常の生活において、「知覚するだけの認識」という形で事物と交渉することは稀ではないでしょうか。机やコップなどのわたしたちの周囲にあるものが、1つの事物として眺められることは稀であり、ふつうはそれらは道具として「操作し、使用」されるはずです。周囲のものは、それをたんに認識する目的で知覚されることはなく、生活の中で使われるためにそこにあります。こうした関係は、すでに「配慮的な気遣い」という言葉で表現されてきたのでした(Part.11参照)。
 それでは現象学的に問う際の、方法的な注意点とはなんでしょうか。

Das phänomenologisch vorthematische Seiende, hier also das Gebrauchte, in Herstellung Befindliche, wird zugänglich in einem Sichversetzen in solches Besorgen. Streng genommen ist diese Rede von einem Sichversetzen irreführend; denn in diese Seinsart des besorgenden Umgangs brauchen wir uns nicht erst zu versetzen. Das alltägliche Dasein ist schon immer in dieser Weise, z. B.: die Tür öffnend, mache ich Gebrauch von der Klinke. (p.67)
現象学的に予備的な主題となる存在者は、ここでは使用されつつあるものや製作されつつあるものである。そうした配慮的な気遣いのうちに身を移すのでなければ、こうした存在者に近づくことはできない。ただし厳密には、この身を移すという表現には誤解を招くところがある。というのは、わたしたちはことさらに身を移して、こうした配慮的な気遣いによる交渉という存在様式へと進む必要はないからである。日常的な現存在は、すでにつねにこのようなありかたで"存在している"のである。たとえばドアを開くときには、ドアノブを使っているのである。

 「予備的な主題となる存在者」は >vorthematische Seiende< を訳したものですが、>vor< という語には「前」という意味があり、「前存在論的」を表す >vorontologisch< や、「前現象学的」を表す >vorphänomenologisch< と前綴りを共有します。第1篇のタイトルにも「予備的な」という語が入っていますが、こちらは >vorbereitende< を訳したものであり、こちらは「準備的な」という意味が濃いものとなっています。>thematisch< の語は「主題的」と訳せる語であるので、本来の主題ではない前現象学的な土台というように捉えるが良いかと思います。本来の主題とは、存在者ではなく「存在」なのですが、ここではまず世界のうちで出会う「存在者」に対して現象学的に近づく道を確保することを試みるので、「予備的な主題となる存在者」と言われることになるのです。
 ハイデガーは、そのような存在者は「使用されつつあるものや製作されつつあるもの」のことだと指摘します。現存在は配慮的な気遣いのうちで、世界内部的な存在者と交渉し、「すでにつねにこのようなありかたで"存在している"」のです。それはたとえば、ドアを開くときには、そのためのドアノブをまず認識する前に、すでに「ドアノブを使っている」という現象のうちに見出すことができるでしょう。
 しかし伝統的な哲学の世界では、世界と人間の関係について考察するときには、「認識」というありかたがまず重視されてきました。これまで説明されてきたように、この認識という観点からでは、その対象となる事物を「事物性」や「実体性」などのカテゴリーにおいて捉えようとするのです。しかし配慮的な気遣いのうちでわたしたちが出会っている存在者を、このような意味で存在するものであると考えるなら、ドアノブの「ドアを開けるためのもの」という性格はまったく隠されてしまいます。
 また、まず事物を想定しておいて、それに「価値をおびた」事物という性格を与えることもありますが、この価値を「おびる」という存在論的な構造はやはり不明なままです。こうした表現では、現存在が配慮的な気遣いのもとでの交渉において出会うものの現象的な存在性格は隠されたままなのです。

 それでは現存在が世界で出会うものを、単なる事物や価値おびた事物としてではなく、存在論的に、現象学的に正しく考察するためには、どのようにすればよいでしょうか。

Wir nennen das im Besorgen begegnende Seiende das Zeug. Im Umgang sind vorfindlich Schreibzeug, Nähzeug, Werk-, Fahr-, Meßzeug. Die Seinsart von Zeug ist herauszustellen. Das geschieht am Leitfaden der vorherigen Umgrenzung dessen, was ein Zeug zu Zeug macht, der Zeughaftigkeit. (p.68)
わたしたちは配慮的な気遣いで出会う存在者を"道具"と名づける。交渉のうちでみいだされるのは、書く道具、縫う道具、工作する道具、運転する道具、測定する道具などである。こうした道具の存在様式を明らかにする必要がある。そのための導きの糸となるのは、道具を道具たらしめるもの、すなわち道具性を前もって確定しておく作業である。

 伝統的な哲学で考える「事物」は、自然の事物であるとされることが多いですが、実際にわたしたちが日ごろの生活で自然のままの事物に出会うことはほとんどありません。道具はもとより木や川でさえも、人間の手が加えられたものであることが多いはずです。ある木は街路樹のために植えられますし、ある川は発電のために利用されていることもあるでしょう。これらは人間が使うための「道具」という性格をおびているのです。だからこそ、「こうした道具の存在様式を明らかにする必要がある」のであり、これらの道具の存在様式である「道具性」を規定しようとするのです。
 それでは、何が「道具を道具たらしめる」のでしょうか。道具に固有な特徴は「道具性」と呼ばれますが、ハイデガーは道具性の特徴を3つにまとめています。

Ein Zeug >ist< strenggenommen nie. Zum Sein von Zeug gehört je immer ein Zeugganzes, darin es dieses Zeug sein kann, das es ist. Zeug ist wesenhaft >etwas, um zu ..<. Die verschiedenen Weisen des >Um-zu< wie Dienlichkeit, Beiträglichkeit, Verwendbarkeit, Handlichkeit konstituieren eine Zeugganzheit. In der Struktur >Um-zu< liegt eine Verweisung von etwas auf etwas. Das mit diesem Titel angezeigte Phänomen kann erst in den folgenden Analysen in seiner ontologischen Genesis sichtbar gemacht werden. Vorläufig gilt es, eine Verweisungsmannigfaltigkeit phänomenal in den Blick zu bekommen. (p.68)
厳密な意味では、道具は決して"1つ"だけで「存在する」ことはない。ある道具が存在するとき、そのつどつねに何らかの道具立て全体がそこに含まれているのであり、こうした道具全体が存在することで、道具はまさにその道具になることができる。道具とは本質的に「~のための何か」である。この「~のため」ということには、有用であること、役に立つこと、使用できること、使いやすいことなど、さまざまなありかたがあるが、これらが道具立て全体のもつ1つの全体性を構成する。「~のため」という構造には、何かあるものを別の何かあるもののために"指示する"ということが含まれている。この指示という名称で示した現象は、以下の分析でその存在論的な発生について明らかにすることで、明確にすることができるだろう。ここではさしあたり、この指示関係をその多様性において、現象的に眺めておくことが重要である。

 道具の重要な特徴は、それらがどれも何らかの「目的」をもって集められていることにあります。ドアノブはドアを開ける「ために」、木は日陰を作る「ために」というように、道具には何らかの目的がそなわっているのです。だから日常の生活で出会うすべての事物は、人間の生活という目的のためにあると考えても良いでしょう。「道具とは本質的に<~のための何か>である」のです。道具性の第1の特徴は、道具が別の目的のために存在していることです。
 この道具の「~のため」というのは、>Um-zu< を訳したものになります。このnoteの最初の方で紹介したように、ウムには目的を示す意味があります。たとえば「何かを買うために」という文は、ドイツ語では >um etwas zu kaufen< と表現されますが、このうち >etwas< とは「何か」を意味し、>kaufen< は「買う」という動詞の不定形であり、>zu< は前置詞です。この構文から、ハイデガーはウムとツーだけを取り出して、「~のため」ということを >Um-zu< と表現したのです。
 第2の特徴は、現存在の日常生活はこのウムツーという道具の結びつきで構成されており、それが1つの大きな連関を作り出しているということです。「厳密な意味では、道具は決して"1つ"だけで<存在する>ことはない」のです。食事を作るためのキッチンでは、食材を切るための包丁が必要であり、そのためのまな板も必要です。さらにまな板を洗うための水道の蛇口も必要ですし、洗ったものを拭くためのふきんも要るでしょう。このように道具というものは、つねに他の道具に属しあう関係のもとで存在しているのであって、「事物」がそれだけで現れて、それらの総体として1つの部屋を満たすというようなことにはならないのです。道具が道具を呼ぶこうした連関の中で初めて、1つの道具が道具として使えるようになります。これをハイデガーは 「道具立ての全体性」(>Zeugganzheit< )と呼びます。
 第3の特徴は、このように道具にはその目的と用途がそなわっていて、しかも1つの道具はその用途と結びついた他の道具を指し示すということである。こうした道具立ての全体性が構成されることで、道具は単にその直接の用途だけではなく、その他の道具の全体とともに作り上げる製品と、その製品の用途を示します。たとえば刀鍛冶は、刀という製品を作るために鉄や槌や炉を使います。槌には鉄を打って鍛えるという用途がありますが、それは刀という製品を目指してそうするのであることや、その刀がどのような用途のものなのかをも示しています。道具の最終的な用途とは、製品を作り上げることなのです。そしてこの最終的な用途とは、現存在が世界のうちで日常生活を送るために必要とする用途です。刀は、かつては戦場に赴く侍のための道具であり、戦のない現代では観賞用として利用されたりするでしょう。このように道具は同時に、現存在としての人間の存在様式と暮らし方そのもののために必要なものだというのがわかるでしょう。
 ここで注意すべきは以下の点です。

Das Nächstbegegnende, obzwar nicht thematisch Erfaßte, ist das Zimmer, und dieses wiederum nicht als das >Zwischen den vier Wänden< in einem geometrischen räumlichen Sinne - sondern als Wohnzeug. Aus ihm heraus zeigt sich die >Einrichtung<, in dieser das jeweilige >einzelne< Zeug. Vor diesem ist je schon eine Zeugganzheit entdeckt. (p.68)
わたしたちがもっとも身近に出会うものは、たとえ主題的に把握されてはいないとしても、部屋である。わたしたちはこの部屋というものに、「4つの壁に囲まれたあいだ」としての幾何学的な空間という意味ではなく、住む道具として出会っているのである。この部屋のほうから、そなえつけられた「調度」が現れてくるのであり、この調度のうちで、おのおの「個別の」道具が現れてくる。個別の道具に気づく"前から"、すでに道具立ての全体性が露呈されているのである。

 まず個別の道具が発見され、次にその他の道具とその全体性が発見され、最後にその最終的な用途が明らかになるというのではありません。方向はまったく逆なのです。わたしたちはまず「住む道具」としての部屋のようなものに出会い、その次にその部屋にある個々の製品としての道具が姿を現し、次にその製品としての道具を作るための道具の全体性があらわになり、そして最後にその全体性を構成する個別の道具が明らかになります。「この部屋のほうから、そなえつけられた<調度>が現れてくるのであり、この調度のうちで、おのおの<個別の>道具が現れてくる。個別の道具に気づく"前から"、すでに道具立ての全体性が露呈されているのである」というのは、このような道具の全体性の「先取り」のことを指摘しています。

 ところで、道具性の第1の特徴に関連して、道具の用途はそれを使う作業においてあらわになるということがあげられます。槌がどのような道具であるかが明らかになるのは、それを振るって何かを打つときです。槌を見たことがない人でも、それが使われている状態を目撃すれば、槌という道具が「何のため」に存在するかを了解することができるでしょう。

Der je auf das Zeug zugeschnittene Umgang, darin es sich einzig genuin in seinem Sein zeigen kann, z. B. das Hämmern mit dem Hammer, erfaßt weder dieses Seiende thematisch als vorkommendes Ding, noch weiß etwa gar das Gebrauchen um die Zeugstruktur als solche. Das Hämmern hat nicht lediglich noch ein Wissen um den Zeugcharakter des Hammers, sondern es hat sich dieses Zeug so zugeeignet, wie es angemessener nicht möglich ist. In solchem gebrauchenden Umgang unterstellt sich das Besorgen dem für das jeweilige Zeug konstitutiven Um-zu; je weniger das Hammerding nur begafft wird, je zugreifender es gebraucht wird, um so ursprünglicher wird das Verhältnis zu ihm, um so unverhüllter begegnet es als das, was es ist, als Zeug. Das Hämmern selbst entdeckt die spezifische >Handlichkeit< des Hammers. (p.69)
道具がその存在においてみずからの真正なありかたを示すことができるのは、たとえばハンマーを振るって何かを叩く場合のように、その道具にそれぞれふさわしい形で行われる交渉においてである。こうした交渉は、ハンマーのような存在者を、現前する事物として主題的に"把握する"ものではないし、ましてそのような道具を使用するときにも、道具構造そのものについて知っているわけでもない。ハンマーを振るって叩くという作業は、単にハンマーという道具の性格を知っていることだけを意味するのではない。これ以上にふさわしい形はありえないほど、この道具をしっかり自分のものとして使っているのである。こうした交渉において道具を使用する際の配慮的な気遣いは、それぞれの道具を構成している<~のために>というありかたに服しているのである。ハンマーという事物をたんにぼんやりと眺めるのではなく、それを手に取って使えば使うほど、ハンマーという事物との関係はますます根源的なものになる。そのときハンマーはみずからのありかた覆い隠すことなく、すなわち道具として出会うようになるのである。ハンマーを振るうことそのことにおいて、ハンマーに独特の「手頃さ」を発見するのである。

 すでに確認してきたように、わたしたちが日常の生活で出会うほとんどすべての事物は、こうした道具としての側面をそなえています。そしてその道具としての側面は、その事物がどのようにして使われるかを目撃することで確認できるのです。さらに、「ハンマーという事物をたんにぼんやりと眺めるのではなく、それを手に取って使えば使うほど、ハンマーという事物との関係はますます根源的なものになる」と言われているように、「道具がその存在においてみずからの真正なありかたを示す」には、使う側にもそれなりの能力が求められているということが読み取れます。たとえば刀匠が打った刀を初心者と熟練者の2人が使用するとき、その刀の真価をより発揮することができるのはやはり熟練者の方でしょう。それはともかく、道具は実際に使用することにおいて、それに独特の「手頃さ」が見えてくるようになると指摘されます。

Die Seinsart von Zeug, in der es sich von ihm selbst her offenbart, nennen wir die Zuhandenheit. Nur weil zeug dieses >An-sich-sein< hat und nicht lediglich noch vorkommt, ist es handlich im weitesten Sinne und verfügbar. Das schärfste Nur-noch-hinsehen auf das so und so beschaffene >Aussehen< von Dingen vermag Zuhandenes nicht zu entdecken. Der nur >theoretisch< hinsehende Blick auf Dinge entbehrt des Verstehens von Zuhandenheit. Der gebrauchend-hantierende Umgang ist aber nicht blind, er hat seine eigene Sichtart, die das Hantieren führt und ihm seine spezifische Sicherheit verleiht. Der Umgang mit Zeug unterstellt sich der Verweisungsmannigfaltigkeit des >Um-zu<. Die Sicht eines solchen Sichfügens ist die Umsicht. (p.69)
道具がおのれ自身のほうから、みずからをあらわにする存在様式を、わたしたちは"手元存在性"と呼ぶ。道具は"こうした"ありかたを「そのものの存在」としてそなえているのであり、ただたんに現前するものではないからこそ、道具はもっとも広義の意味で手頃なもの、自由に使うことができるものなのである。さまざまな性質をそなえた事物の「外見」をどれほど鋭く見つめても、それをたんに"眺めやる"だけであれば、手元的に存在するものを発見することはできない。事物を「理論的に」眺めやるだけのまなざしには、手元存在性についての理解が欠如しているのである。他方で、道具を使い、操作する交渉にはまなざしが欠けているわけではなく、そこには固有のまなざしの様式がそなわっているのであり、これが道具を操作する動作を導き、そうした動作に固有の確実さを与えている。道具との交渉は、「~のため」という多様な指示関係に服しているのである。このように、この関係に適応していることにそなわるまなざしを、"目配り"と呼ぶ。

 ハイデガーは、道具の存在様式を「手元存在性(ツハンデンハイト)」と呼びます。この >Zuhandenheit< という語は、「手元に」を意味する副詞 >zuhanden< を名詞化した語と考えることができます。この語は存在様式を示す語となっているために、「手元に」という意味に「存在のありかた」というニュアンスを加えて「手元存在性」と訳されます。眼前存在性の語 >Vorhandenheit< は、「前」を意味する >vor< に、「手」を意味する >hand< が組み合わされたものであり、「手元存在性」と対比させて「手前存在性」とも訳すことができるでしょう。しかし、山や川や星などの自然の事物を含む眼前存在者一般は、手で使うことを意図していないものが多いです。これらのものは手前にあるのではなく、手の届かないところに、眼の前にあるものでしょう。そのため、中山訳では >Vorhandenheit< は「眼前存在性」と訳されるのです。
 この手元存在者と眼前存在者の主要な違いについて、ハイデガーは3点を指摘しています。第1に手元存在者は、「手頃なもの、自由に使うことができるもの」だと言われます。これに対して眼前存在者は、「ただたんに現前するもの」です。
 第2に手元存在者の存在様式や意味については、ただその外見を眺めているだけでは理解できないことが多いが、眼前存在者は「さまざまな性質をそなえた事物の<外見>」を観察するならば、それがどのようなものであるかを判断することができるし、そこに基本的な判断の根拠があるという違いがあります。たとえば眼前存在としての星は、その輝きの強さ、大きさ、色、位置などを観察することでどのような星であるのかを判断することができるし、それに基づいてその他の星との違いを示し、分類することができるでしょう。これはまなざしの前に自分の正体をあらわにするものなのです。これに対して手元存在は、それがどのようなものであるかは観察するだけでは理解できないことが多いです。それを「どれほど鋭く見つめても、それをたんに"眺めやる"だけであれば、手元的に存在するものを発見することはできない」のです。道具は実際に使ってみなければ、あるいは実際に使われているところを調べてみなければ、その本当の存在様式を理解することはできません。
 第3に、それぞれの存在者にふさわしい「まなざし」に違いがある。眼前存在者については、それを観察し、分析するまなざしが必要であり、これは理論的な態度のまなざしです。これに対して手元存在者については、「~のため」という目的を考慮に入れて、それがどのような目的のために作られたのかを調べるまなざしが必要です。このまなざしをハイデガーは、「目配り」(>Umsicht<)と呼びます。これは「~のため」の目的を示す >um< という語を、「まなざし」を示す >Sicht< という語の前につけて作られた語になっており、「道具を使い、操作する交渉」に「固有のまなざし」となっています。

 道具には、ある目的のために存在し、複数の道具によって1つの全体性を構成し、また個々の道具の直接的な目的とは別に、最終的な用途と目的を指し示しているという特徴がありました。こうした特徴からは、使用されている1つの道具を見ることで、さらに多くのものが見えてくるということがわかります。このようにそのものを眺めることで、他のものがそのまなざしのうちに浮かんでくる現象を、ハイデガーは「指示」(>Verweisung<)という語で示しています。道具は、その道具立ての全体性において、他の道具と仕事を指し示すのであり、そこから「指示全体性」生まれると言われます。

Das Zuhandene ist weder überhaupt theoretisch erfaßt, noch ist es selbst für die Umsicht zunächst umsichtig thematisch. Das Eigentümliche des zunächst Zuhandenen ist es, in seiner Zuhandenheit sich gleichsam zurückzuziehen, um gerade eigentlich zuhanden zu sein. Das, wobei der alltägliche Umgang sich zunächst aufhält, sind auch nicht die Werkzeuge selbst, sondern das Werk, das jeweilig Herzustellende, ist das primär Besorgte und daher auch Zuhandene. Das Werk trägt die Verweisungsganzheit, innerhalb derer das Zeug begegnet. (p.69)
手元存在者は、そもそも理論的に捉えられているのでもなく、目配りにとっても、その目配りにふさわしい形で主題となっていない。さしあたり手元存在者にそなわる特徴は、その手元存在性においていわば目立たないことであり、このような目立たなさにおいて、本来的な意味で手元に存在しているのである。また日常的な交渉の場について考えてみると、こうした交渉の場は仕事道具そのものではなく、むしろ仕事こそがこうした場なのである。そのつど製作されるべきものこそが、第1義的に配慮的な気遣いの対象となっているものであり、こうしたものこそが、第1義的に手元に存在しているのである。この仕事こそが、指示全体性を担っているのであり、道具はこの全体性の内部で出会うのである。

 ある人が刀匠が鉄を槌で打っているのを見て、「何をしているのですか」と尋ねたとします。このとき尋ねた人には鉄を槌で打っていることは目で見て明白ですから、「鉄を打っている」という返答には満足しないでしょう。そうではなく、尋ねた人が求める答えは、「不純物を取り除いているところだ」とか「刀の形に打ち延ばしているところだ」といったような、その作業を何「のため」にやっているのかということではないでしょうか。槌が鉄を打つという直接の用途において指し示しているのは、その「打つ」という用途だけではなく、刀という最終的な目的を指し示しています。個々の道具は刀「のため」にそこにあり、尋ねた人はこうした連関を了解しつつ尋ねているのです。上記の引用で「仕事」と訳したのは >Werk< という語ですが、これは「仕事、製品、作品」などの意味があります。この例では「刀」こそが >Werk< に対応するものであり、「この仕事こそが、指示全体性を担っている」ということになります。そしてこの仕事に必要な槌などの道具は、「この全体性の内部で出会う」のです。

Das herzustellende Werk als das Wozu von Hammer, Hobel, Nadel hat seinerseits die Seinsart des Zeugs. Der herzustellende Schuh ist zum Tragen (Schuhzeug), die verfertigte Uhr zur Zeitablesung. Das im besorgenden Umgang vornehmlich begegnende Werk - das in Arbeit befindliche - läßt in seiner ihm wesenhaft zugehörigen Verwendbarkeit je schon mitbegegnen das Wozu seiner Verwendbarkeit. Das bestellte Werk ist seinerseits nur auf dem Grunde seines Gebrauchs und des in diesem entdeckten Verweisungszusammenhanges von Seiendem. (p.70)
製作されるべき製品は、ハンマー、カンナ、針などが"何のために"使われるかを示す当の対象となるものであり、この製品もまたそれ自体が、道具という存在様式をそなえている。製作されるべき靴は、履くためのもの(履物)であり、製造された時計は、時刻を知るためのものである。製品は、何よりも配慮する気遣いの交渉において出会うものであり、この製作中の製品においては、それに本質的にそなわっている使用可能性のうちで、"その"使用可能性が向けられている何のためにとしての用途が、そのつどすでに見えるようになっているのである。注文された製品もまたそれ自体、その使用と、この使用において露呈されるさまざまな存在者の指示連関に基づいてのみ、存在するのである。

 「製作されるべき製品は、ハンマー、カンナ、針などが"何のために"使われるかを示す当の対象となる」と指摘されているように、最終的な目的である仕事は、指示全体性を担っています。この「何のため」というのは、>Wozu< という語です。>wo< が「どこ」という場を示すのに対して、ここでの >zu< は「その場に向かう」ということを示し、それらが合成された>Wozu< は、副詞として「何のため、何を目指して、何に向かって」という意味をもちます。ですからここでは >Wozu< というのは、個々の道具がそこに向かう最終的な目的の場であるということになります。
 個々の道具の最終的な目的である製品もまた、それ自体が1つの道具として存在することになります。その製作に使用される道具は、こうした製品の用途をも指し示しているのです。刀という製品は、戦場で敵を斬ったり、敵の攻撃を防いだりするために使われます。すると刀には、そうした用途を実現するための十分な強度が必要になるでしょう。槌という製作のための道具は、鉄をくり返し打つことによって強度を与えることができますが、そのように使用することにおいて、最終的な目的としての製品であり、また道具としての刀それ自体の用途をすでに指し示していることになるでしょう。「製作中の製品においては、それに本質的にそなわっている使用可能性のうちで、"その"使用可能性が向けられている何のためにとしての用途が、そのつどすでに見えるようになっている」のです。
 このように1つの道具は、その仕事に必要なその他の道具を指し示す「道具立ての全体性」を指し示しているだけでなく、その道具が指し示す「指示全体性」を示すことで、最終的な製品を使用する用途と、「この使用において露呈されるさまざまな存在者の指示連関」をあらわにするのです。

Das herzustellende Werk ist aber nicht allein verwendbar für ..., das Herstellen selbst ist je ein Verwenden von etwas für etwas. Im Werk liegt zugleich die Verweisung auf >Materialien<. Es ist angewiesen auf Leder, Faden, Nägel, u. dgl. Leder wiederum ist hergestellt aus Häuten. Diese sind Tieren abgenommen, die von anderen gezüchtet werden. Tiere kommen innerhalb der Welt auch ohne Züchtung vor, und such bei dieser stellt sich dieses Seiende in gewisser Weise selbst her. In der Umwelt wird demnach auch Seiendes zugänglich, das an ihm selbst herstellungsunbedürftig, immer schon zuhanden ist. Hammer, Zange, Nagel verweisen an ihnen selbst auf - sie bestehen aus - Stahl, Eisen, Erz, Gestein, Holz. Im gebrauchten Zeug ist durch den Gebrauch die >Natur< mitentdeckt, die >Natur< im Lichte der Naturprodukte. (p.70)
しかし製作されるべき製品は、たんに~のために使用できるだけではない。製作するということもまた、あるもの"を"あるもののためにそのつど使用することである。製品の中には同時に、その「材料」への指示が含まれている。製品は、皮革、糸、釘などに依存している。この皮革は獣皮から製造されたものである。そして獣皮はまた、ほかの人々が飼育した動物の皮を剝いだものである。動物は飼育されなくても世界の内部に登場しており、この動物という存在者は飼育されている場合にも、何らかの形でみずからを養って生きているものである。だから環境世界のうちでは、そのものとして生産する必要のないもの、そしてつねにすでに手元に利用できるようになっている存在者にも近づくことになるのである。ハンマー、やっとこ、釘などは、みずからにおいて鋼鉄、鉄、鉱石、岩石、木材などを指示しているのであり、これらのものでできているのである。このように、使用される道具において、その使用をつうじて、「自然」がともに露呈されているー自然素材の産物という視点からみられた「自然」が。

 道具が指し示す連関は他にもあり、それが広義の自然です。1つの道具はその他の道具との結びつきを指し示し、それら複数の道具によってある製品が作りだされることになりますが、この際製作に必要なのは、槌や炉のような人工的な道具だけではないはずです。というのも、そこには鉄という素材も必要になるからです。こうした素材は自然の事物であり、それを採掘するのは人間の手によりますが、鉄そのものとしては人工的に作りだされたものではありません。だから、ある製品のうちには、ただ自然に与えられた事物に手を加えた素材としての「材料」が含まれていることになります。このように「製品の中には同時に、その<材料>への指示が含まれている」のです。また、製品を作るために使用される槌や炉などの道具も、その製造の際には鉄や木、土や石などの素材を必要としますし、火を使用するためにも何らかのエネルギー源が求められます。どんな製品でも、それを製造するために「使用される道具において、その使用をつうじて、<自然>がともに露呈されている」ということになるでしょう。

Das hergestellte Werk verweist nicht nur auf das Wozu seiner Verwendbarkeit und das Woraus seines Bestehens, in einfachen handwerklichen Zuständen liegt in ihm zugleich die Verweisung auf den Träger und Benutzer. Das Werk wird ihm auf den Leib zugeschnitten, er >ist< im Entstehen des Werkes mit dabei. In der Herstellung von Dutzendware fehlt diese konstitutive Verweisung keineswegs; sie ist nur unbestimmt, zeigt auf Beliebige, den Durchschnitt. Mit dem Werk begegnet demnach nicht allein Seiendes, das zuhanden ist, sondern auch Seiendes von der Seinsart des Menschen, dem das Hergestellte in seinem Besorgen zuhanden wird; in eins damit begegnet die Welt, in der die Träger und Verbraucher leben, die zugleich die unsere ist. Das je besorgte Werk ist nicht nur in der häuslichen Welt der Werkstatt etwa zuhanden, sondern in der öffentlichen Welt. Mit dieser ist die Umweltnatur entdeckt und jedem zugänglich. In den Wegen, Straßen, Brücken, Gebäuden ist durch das Besorgen die Natur in bestimmter Richtung entdeckt. (p.70)
製作された製品は、その使用可能性を示す<何のために>と、それが何から作られたかを示す<何から>を指示するだけではない。単純な手工業的な状態では、製品にはそれを着用する者や利用する者への指示もまた含まれているのである。その製品は、その人の身丈に合わせて作られたものであり、その人は製品の発生の場に「いあわせている」のである。ダースで売られる製品の製作の場合にも、このような構成するための指示が欠けているわけでは決してない。ただ指示が不特定になり、任意の人々を、その平均を示しているだけである。そうだとすればこのようにわたしたちは製品とともに、手元的に存在している存在者に出会うだけではなく、人間という存在様式のもとにある存在者にも出会うのである。製作されたものは、人間の配慮的な気遣いのうちで手元的に使われるのであり、わたしたちはこうした存在者にも出会う。それとともにわたしたちは、着用する人々や消費する人々が生活している世界、同時にわたしたちの世界でもあるこの世界とも出会うのである。このようにそのつど配慮的に気遣われている製品は、たんに仕事場という家庭的な世界で手元に存在しているだけではなく、"公共的な世界"においても手元的に存在している。この公共的な世界とともに"環境世界的な自然"が露呈され、誰にでも近づけるものとなっている。道路や街道において、橋梁や建物において、わたしたちの配慮的な気遣いをつうじて、自然が特定の観点から露呈されているのである。

 道具の第1の特徴は、「その使用可能性を示す<何のために>」としての用途を示すことにあり、第2の特徴は、「それが何から作られたかを示す<何から>」としての材料を示すことにありました。そしてここで提起されている道具の第3の特徴は、それが道具連関のうちから、最終的な用途としての現存在の生活の目的と存在のありかたを示すことにあります。それは製品を使う者である現存在のありかたへの指示であり、その製品を「着用する者や利用する者への指示」なのです。ある衣服をあつらえるときには、それを着用する人間を考慮にいれているのであり、その衣服をみると、それを着用する人間が思い浮かびます。たとえばLLサイズの道着をみれば、それを注文した人が大柄な武道家であることを想像することができますし、また、その道着にある流派の名前が刺繍されていたり、帯の色も見られるのであれば、その人がどこにどのように属しているのかも見てとることができるでしょう。こうした製品とともに、わたしたちは「手元的に存在している存在者に出会うだけではなく、人間という存在様式のもとにある存在者にも出会う」のであり、こうした製品を着用する人々の生活する世界とも出会うことになります。
 製品が向けられた現存在への指示は同時に、現存在が住む世界への指示でもあります。このとき、道具とその製品は3重の意味で、世界と自然を指し示します。まず製品は、その製品が使われる目的を示し、それによって同時に、その製品が使われる世界のありかたを指し示します。鎧という製品は、そのした防具が使われるような戦国の世界を指し示すのです。
 次に製品は、その製品が向けられた現存在としての人間を指し示すと同時に、こうした製品を「着用する人々や消費する人々が生活している世界、同時にわたしたちの世界でもあるこの世界」を示します。鎧はそれを着用する現存在の存在様態を示すと同時に、その現存在が生活している世界と自然のありかたを指し示すのです。
 さらに製品は、その製品が製造された素材と、その素材が獲得された世界と自然を指し示します。鎧はそれに用いられる素材を示し、そうした製品に使用される素材を提供している自然世界と、現存在のかかわりを示すのです。戦国時代の鎧と現代の防弾チョッキを比較してみると、これら製品の素材の異なりとともに、その素材をそこで使用することができるだけの工業の進展具合、そうした社会に住む現存在の存在様式が前提されているのがみえてくるのでしょう。
 このように手元存在者は3重の意味で世界と自然を指し示しますが、こうした指示連関において示された自然が、自然科学の対象となる自然とは異なる性格のものであることは明らかでしょう。そして現代においては、製品の素材は人々の身近な自然環境からではなく、「公共的な世界」となった環境世界から入手されています。「この公共的な世界とともに"環境世界的な自然"が露呈され、誰にでも近づけるものとなっている」のであり、世界の「道路や街道において、橋梁や建物において、わたしたちの配慮的な気遣いをつうじて、自然が特定の観点から露呈されている」のです。この自然は天文学者の対象となる天体ではないですし、動物学者が対象となる生物でもありません。自然はもはや客観的な科学の対象であるよりも、わたしたちの世界において生きられている自然になっています。このことは逆に、こうした製品について考察することで、その製品の背後にある世界と自然を発見することができることを意味します。鎧1つをみても、さまざまな目配りの視野の広さにおいて、自然と環境世界が露呈されているのがわかるのです。

 さて、この説の終わりにさしかかって、ハイデガーは手元存在性と眼前存在性の関係について次のように指摘します。

Die Seinsart dieses Seienden ist die Zuhandenheit. Sie darf jedoch nicht als bloßer Auffassungscharakter verstanden werden, als würden dem zunächst begegnenden >Seienden< solche >Aspekte< aufgeredet, als würde ein zunächst an sich vorhandener Weltstoff in dieser Weise >subjektiv gefärbt<. Eine so gerichtete Interpretation übersieht, daß hierfür das Seiende zuvor als pures Vorhandenes verstanden und entdeckt sein und in der Folge des entdeckenden und aneignenden Umgangs mit der >Welt< Vorrang und Führung haben müßte. Das widerstreitet aber schon dem ontologischen Sinn des Erkennens, das wir als fundierten Modus des In-der-Welt-sein aufgezeigt haben. Dieses dringt erst über das im Besorgen Zuhandene zur Freilegung des nur noch Vorhandenen vor. Zuhandenheit ist die ontologisch-kategoriale Bestimmung von Seiendem, wie es >an sich< ist. Aber Zuhandenes >gibt es< doch nur auf dem Grunde von Vorhandenem. Folgt aber - diese These einmal zugestanden - hieraus, daß Zuhandenheit ontologisch in Vorhandenheit fundiert ist? (p.71)
このような存在者の存在様式は手元存在性である。しかしこれはたんにわたしたちが把握する性格とみなすべきではない。そのように理解すると、わたしたちがさしあたり出会う「存在者」に、こうした「外観」を押しつけたかのようであり、さしあたりそのものとしては眼前的に存在している世界の素材が、このようなありかたで「主観的に色づけされた」かのように思いがちである。しかしこのような方向に進む解釈が見落としてしまうのは、そのように解釈することができるためには、存在者がまず純粋に眼前存在するものとして理解され、露呈されていなければならないはずであり、それを露呈させ、自分のものとする「世界」との交渉において、このように理解された存在者が優位に立ち、指導的な立場にあるはずだということである。しかしこのような解釈は、認識という営みのもつ存在論的な意味と矛盾してしまう。すでに確認したように、認識するということは、世界内存在の"基礎づけられた"存在様態である。認識の営みは、配慮的な気遣いのうちにある手元存在者を"超えた"ときに初めて、たんに眼前存在するにすぎないものをあらわに示すのである。"手元存在性は、「そのものとして」存在している存在者の存在論的でカテゴリー的な規定である"。たしかに、手元に存在するものは、眼前存在するものを基礎として、初めて「与えられている」。この異論を認めるとしても、手元存在性は存在論的に、眼前存在性に基礎づけられていると結論できるものだろうか。

 第13節では、「認識作用は、世界内存在のうちに基礎づけられた現存在の1つの存在様態なのである」と指摘されていました(Part.12参照)。この存在のありかたにおいては、世界は眼前的に存在する認識すべき対象として考えられていました。これに対してこの節では、世界は手元存在する事物の指示連関のもとで、「露呈されるもの」とみなされています。認識作用と露呈させるという機能とは、どのような関係なのでしょうか。
 ハイデガーはすでにこれについて、「認識作用が、眼前的な存在者を考察しつつ規定するという営みとして可能となるためには、それに先立って、配慮的に気遣いながら世界と関係をもつことが、あらかじめ"欠如している"ことが必要になる」ことを指摘していました(同参照)。「何かを制作するとか、何かを操作するなどのすべての営みをみずから控えるとき」に初めて、「ただ~のもとにまだとどまっている」という存在様態が、認識を可能にするのです(同参照)。
 しかし、すでに手元存在の考察で示されたように、刀や鎧はまず使用されるべきもの、操作されるべきものであり、それらは道具として世界に存在しています。こうした道具を使うとき、現存在は自然を純粋に眼前的に存在するものをひたすら眺めているという存在様態とはかけはなれた状態にあるはずです。もちろん、わたしたちはこうした道具を使用するときにも、それを認識しています。しかしそれらは道具として、手元存在者の有用性と機能性において認識されているのであり、眼前存在者として認識されているわけではありません。このような「認識の営みは、配慮的な気遣いのうちにある手元存在者を"超えた"ときに初めて、たんに眼前存在するにすぎないものをあらわに示す」のです。
 この「超えた」ということについては、次節でさらに詳細に考察されることになります。そしてこれに関連して、道具についての手元存在性についての考察と、事物についての眼前存在性についての考察のどちらが優先されるかという問題が提起されることになります。世界は存在論的に考察すべき現存在が生きる世界なのでしょうか、それとも世界は科学的に考察すべき客観的な世界なのでしょうか。
 この2つの世界はどのような関係にあるのでしょうか。こうした世界現象を、存在論的にどのように性格づけるべきなのでしょうか。世界内部的な存在者の存在から、世界という現象を提示することができる道は、どこに開けているのでしょうか。この問題が次節の主要なテーマとなります。


 今回は以上となります。この節では、眼前存在性とともに世界内部的な存在者の存在のありかたを規定するものとして、手元存在性という新たな重要概念が登場しました。それだけに量が多くなってしまいましたが、次回はそれほど長くはないと思います。

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