『存在と時間』を読む Part.9

  第10節 人間学、心理学、生物学と異なる現存在の分析論の領域の確定

 現存在、すなわち人間に対する学問は哲学だけではありません。人間学、心理学、生物学といった学問もやはり、異なる問題設定や方法によって人間について探究する学問です。しかし、存在論としての哲学はこうした学問よりも"先に"あるものだと言われてきました(Part.2、Part.8参照)。存在論によって、哲学ではない学問の領域が確定されるからです。そして存在論としての哲学は、現存在の実存論的な分析論からはじめられるとされたのでした(Part.2参照)。この節では、分析論が他の諸学とどのように異なるのか、それを明らかにすることを目的とします。

 はじめに、ハイデガーはデカルトのコギトの概念の批判をします。

In historischer Orientierung kann die Absicht der existenzialen Analytik also verdeutlicht werden: Descartes, dem man die Entdekkung des cogito sum als Ausgangsbasis des neuzeitlichen philosophischen Fragens zuschreibt, untersuchte das cogitare des ego - in gewissen Grenzen. Dagegen läßt er das sum völlig unerörtert, wenngleich es ebenso ursprünglich angesetzt wird wie das cogito. Die Analytik stellt die ontologische Frage nach dem Sein des sum. Ist dieses bestimmt, dann wird die Seinsart der cogitationes erst faßbar. (p.46)
実存論的な分析論が目指すものについて、哲学史的には次のように示すことができる。デカルトは近世の哲学的な問いの出発点となったコギト・スムを発見したとされている。デカルトがある限界の範囲においてではあるが、エゴのコギターレを考察したのは確かである。ところが"スム"のほうは、それがコギトと同じように根源的なものと想定されているにもかかわらず、まったく解明されないままにされていたのである。分析論では、このスムの存在について存在論的な問いを設定する。これが規定されてはじめて、さまざまなコギタティオネスの存在様式を把握できるようになるのである。

 用語の意味ですが、エゴは「わたし」、コギターレは「思考すること」、コギタティオネスは「思考作用」、スムは「わたしが存在すること」であり、コギト・スムは、「わたしは考える、わたしは存在する」となります。ここでのハイデガーの主張は明瞭で、デカルトはコギトについてはある限界において考察したけれども、スムについては考察しなかったということが言われています。コギトの概念では、思考する主体としてのエゴの「スムの存在について存在論的な問い」がまったく設定されていません。しかし実際には、この思考する主体がどのような存在であるのかが問題なのであって、それを考察する代わりに、デカルトは伝統的な主観の概念を無批判的に使用したというのが、ハイデガーのデカルト批判になります。

 続けてハイデガーは、なぜ私たち自身である存在者(人間)を呼ぶ名称として「主観」や「自我」といった言葉を使用せずに、「現存在」という用語を用いるのかについて説明しています。これはハイデガーの恣意的なわがままによる独自の用語であるわけではなく、この用語を使用するための理由があるのです。

Jede Idee von >Subject< macht noch - falls sie nicht durch eine vorgängige ontologische Grundbestimmung geläutert ist - den Ansatz des subjectum (ὑποκείμενον) ontologisch mit, so lebhaft man sich auch ontisch gegen die >Seelensubstanz< oder die >Verdinglichung des Bewußtseins< zur Wehr setzen mag. Dinglichkeit selbst bedarf erst einer Ausweisung ihrer ontologischen Herkunft, damit gefragt werden kann, was positiv denn nun unter dem nichtverdinglichten Sein des Subjekts, der Seele, des Bewußtseins, des Geistes, der Person zu verstehen sei. (p.46)
「主観」についてのあらゆる理念は、こうした理念をあらかじめ存在論的な根本規定によって純化しておかないかぎり、"存在論的にみると"スブイェクトゥム(ピュポケイメノン)という考え方を伴っているのである。その際、存在者的には「心的な実体」という概念や「意識の物化」という概念に、どれほど強く抵抗していたとしてもである。主観、心、意識、精神、人格の物化されていない"存在"を、どのような意味でいまや"積極的に"理解しうるかを考えるためにも、事物的なありかたそのものが存在論的にどのような由来をもつものであるかを、まず示しておく必要がある。

 ラテン語のスブイェクトゥム、ギリシア語のピュポケイメノンは、「下に置かれたもの、基体」を意味する語です。「心的な実体」や「意識の物化」という概念から示唆されているとおり、基体という語には眼前存在するようなニュアンスが含まれています。「下に置かれたもの」とは、さまざまな変化においても、その下にあって変わらないものという意味での「基質」を表しており、この概念の背後には、変化を通じて存在し続ける実体という概念が潜んでいます。主体を意味するズプイェクト(Subjekt)の概念には、こうした「基質」という実体的な概念が潜んでいるのです。
 しかし現存在の分析論においては、こうした「主観」を前提として置いておくことはできません。なぜなら、実存的なありかたは眼前存在者のありかたとは全く異なるからです。主観や意識といったものを実体化しないようにするためには、そもそも「事物的なありかたそのものが存在論的にどのような由来をもつものであるかを、まず示しておく必要があ」ります。そのような吟味なしに主観や意識といった伝統的な用語を取り入れるならば、現存在分析にとっては混乱をもたらすことになるでしょう。このような理由から、ハイデガーは「現存在」という用語を使用するのだと説明しています。

Andrerseits liegt aber in der rechtverstandenen Tendenz aller wissenschaftlichen ernsthaften >Lebensphilosophie< - das Wort sagt so viel wie die Botanik der Pflanzen - unausdrücklich die Tendenz auf ein Verständnis des Seins des Daseins. Auffallend bleibt, und das ist ihr grundsätzlicher Mangel, daß >Leben< selbst nicht als eine Seinsart ontologisch zum Problem wird. (p.46)
また他方では、ごくまじめで学問的な「生の哲学」(この言葉は植物の植物学のような冗語である)の傾向を適切に理解するならば、そこには現存在の存在を理解しようとする傾向が、目立たない形ではあるがひそんでいる。ただし生の哲学においては、「生」そのものが1つの存在様態として存在論的に問題とされることがない。これはきわめて奇異なことであり、原理的な欠陥となっている。

 ハイデガーがここで言及している「生の哲学」とは、主観や意識の実体化を避け、人間を1つの「生単位」として考察することを唱える現代哲学の1つです。ハイデガーはそうした傾向を持つ研究者としてディルタイをあげ、彼の「精神科学的心理学」については、心的な要素や原子のようなものによって心的な生を構成しようとはせずに、「生の全体」とその「形態(ゲシュタルト)」を目指しているようにみえると言っています。しかしこの「精神科学的心理学」の真の重要性は、その試みに先立って、常に「生」を問う途上にあったことにあると、すなわちこの心理学が「生の哲学」の流れのうちにあったことだと指摘します。
 ハイデガーは生の哲学の重要性を認めながらも、こうした「生」の概念が存在論的には未規定なままに放置されていると考えています。「ただし生の哲学においては、<生>そのものが1つの存在様態として存在論的に問題とされることがない。これはきわめて奇異なことであり、原理的な欠陥となっている」。ディルタイや他の生の哲学の展開者-たとえばベルクソン-には、存在論的な吟味を経ずに「生」の概念を使用したというのが、生の哲学批判としてのハイデガーの見解です。
 ところで、原書「Sein und Zeit」においては、上記の引用文4行目の>Daseins< の欄外書き込みに「Nein!」と書かれています。つまり、生の哲学には「現存在の存在を理解しようとする傾向が、目立たない形ではあるがひそんでいる」という文に対して「そうではない!」と書かれていることになります。ハイデガーの目的は存在の意味を解明することにあり、それこそが哲学の最も根本的な仕事だと言われきました。ここで「そうではない!」と否定することで、ハイデガーにとっては、生の哲学はそのような目的を志向するまでには到達していないと捉えられていたのだと考えられるでしょう。

 生の哲学には、存在論的な考察が欠けているために、「生」の概念に対する適切な概念装置がなく、それが考察の限界を規定していたと指摘されます(余談ですが、「概念装置」というのは >Begrifflichkeit< を訳したものとなっており、存在者的な「概念」という用語に対して存在論的な「概念装置」というニュアンスをもつ用語となっています。「概念性」と訳すことも可能でしょう)。

Diese Grenzen teilen aber mit Dilthey und Bergson alle von ihnen bestimmten Richtungen des >Personalismus< und alle Tendenzen auf eine philosophische Anthropologie. Auch die grundsätzlich radikalere und durchsichtigere phänomenologische Interpretation der Personalität kommt nicht in die Dimension der Frage nach dem Sein des Daseins. Bei allen Unterschieden des Fragens, der Durchführung und der weltanschaulichen Orientierung stimmen die Interpretationen der Personalität bei Husserl und Scheler im Negativen überein. Sie stellen die Frage nach dem >Personsein< selbst nicht mehr. (p.47)
ディルタイやベルクソンによって規定された「人格主義」的な方向や、哲学的な人間学を目指す傾向はすべて、ディルタイやベルクソンとともに、こうした限界をそなえているのである。現象学における人格性の解釈は、原則的にはるかに根底的で優れた洞察をもたらすものではあるが、やはり現存在の存在への問いを問う次元にまでは到達していない。フッサールとシェーラーにみられる人格性の解釈は、その問いの設定、考察方法、世界観的な方向性においてはまったく異なるものであるが、消極的な側面では一致している。2人とも「人格として"存在すること"」そのものについては、それ以上は問わないのである。

 ハイデガーの師であるフッサールは、心理学は「意識の自然科学」ではあっても意識そのものを考察する学問ではなく、意識そのものを考察するのは現象学の役割だと考えました。現象学とは「意識の現象学」であって、自然科学で素朴にうけいれられている対象の認識そのものを主題とする学問なのです。こうした現象学が取り扱うのが「純粋意識」と呼ばれるものです。これに対して純粋意識を自然化することによって成立する心理主義は、意識をあたかも「物」であるかのように考える「意識の自然化」という誤謬の上に成り立っているというのがフッサールの批判です。
 ところで、純粋な意識だけでは、外的な世界において体験することがどうして可能なのかについて答えることができなくなってしまいます。そこでフッサールは、純粋自我とは別に、外的な世界を経験する主体として「人格」の概念を持ち込みました。こうした人格が対象を志向することによって、主体は世界と関係を持つことができるようになるとされたのです。しかし、ハイデガーによれば、フッサールが想定した経験において現れる人格については、その存在への問いは究明されないままにとどめられています。というのも、この人格概念は主体と世界の架け橋として提起されたものの、フッサールの純粋意識への現象学的な還元によって斥けられてしまい、結局のところこうした人格の意識の存在を問うことが原理的に不可能になってしまっているからです。
 また、フッサールの弟子であるシェーラーは、世界において経験する存在者、体験において直接的にともに体験される統一体のことを「人格」と呼び、それを体験そのものとも、体験する作用とも、その作用のうちで実体化されるものとも区別しました。つまりシェーラーにおいても、フッサールと同様に、主体の物化を回避しようとする傾向がみられるということです。ただしシェーラーにおいて問題なのは、こうした作用遂行のありかたや作用遂行者のありかたについての存在論的な考察がまったく試みられていないことです。人格は作用を遂行するものと規定しても、「遂行する」ということの存在論的な意味がどのようなものなのか、人格の存在様式は存在論的にどのように規定されるべきなのかといった視点が欠けているのです。
 このように、フッサールとシェーラーの考察、すなわち「現象学における人格性の解釈は、原則的にはるかに根底的で優れた洞察をもたらすものではあるが、やはり現存在の存在への問いを問う次元にまでは到達していない」というのがハイデガーの下した評価です。こうした試みは哲学的な人間学として分類されることができますが、人格概念には存在論的な観点が欠如していること、そしてそのために人間存在を全体的に考察できないことが批判点としてあげられます。「2人とも<人格として"存在すること">そのものについては、それ以上は問わないのである」というのは、そうした存在論的な観点が欠如していることを指摘しているのです。

 次にハイデガーは、シェーラーの哲学的な人間学の試みの有効性を認めながらも、それが人間の存在を存在論的に無規定なままにしていること、そしてその大きな原因が伝統的なキリスト教の人間学にあることを指摘します。

Was aber die grundsätzliche Frage nach dem Sein des Daseins verbaut oder mißleitet, ist die durchgängige Orientierung an der antik-christlichen Anthropologie, über deren unzureichende ontologischen Fundamente auch Personalismus und Lebensphilosophie hinwegsehen. (p.47)
しかしこうした試みははどれも、古代のキリスト教的な人間学の方向づけを基盤としているのであって、そのために現存在の存在への原理的な問いが妨げられ、逸脱させられてしまっている。人格主義も生の哲学も、人間学の存在論的な基盤が不十分なものであることを見逃しているのである。

 この伝統的な人間学には、2つの要素があるとハイデガーは言います。

1. Die Definition des Menschen: ζῷον λόγον ἔχον in der Interpretation: animal rationale, vernünftiges Lebewesen. Die Seinsart des ζῷον wird aber hier verstanden im Sinne des Vorhandenseins und Vorkommens. Der λόγος ist eine höhere Ausstattung, deren Seinsart ebenso dunkel bleibt wie die des so zusammengesetzten Seienden.
2. Der andere Leitfaden für die Bestimmung des Seins und Wesens des Menschen ist ein theologischer: και είπεν ο θεός ποιήσωμεν κατ΄ εικόνα ημετέραν και καθ΄ ομοίωσιν, faciamus hominem ad imaginem nostram et similitudinem nostram. Die christlich-theologische Anthropologie gewinnt von hier aus unter Mitaufnahme der antiken Definition eine Auslegung des Seienden, das wir Mensch nennen. Aber gleichwie das Sein Gottes ontologisch mit den Mitteln der antiken Ontologie interpretiert wird, so erst recht das Sein des ens finitum. (p.48)
第1の要素は、人間の定義にかかわるものである。まず人間は「ゾーオン・ロゴン・エコン」と定義されているが、これは人間が理性的な動物と解釈されているということである。このゾーオンの存在様式は、眼前存在として現前するものという意味で理解されている。ロゴスはこの動物がそなえている高次の資質とされているが、その存在様式は不明なままであり、このようにして合成された存在者の存在様式もまた、不明なままである。
人間の存在と本質を規定するための第2の導きの糸は、"神学的なもの"である。「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。このキリスト教神学の人間学は、古代的な人間の定義も援用しながら、聖書のこの言葉に基づいて、わたしたちが人間と呼ぶ存在者を解釈してきたのである。しかし存在論的にはそもそも神の存在が、古代的な存在論をもちいて解釈されているのであるから、有限な存在者の存在にいたっては、なおさら古代の存在論に基づいて解釈されたのである。

 「ゾーオン・ロゴン・エコン」とは「言葉をもつ動物」という意味であり、アリストテレスが『政治学』において記した人間についての定義です。ここでは人間は動物という類の1つの種として定義されており、眼前存在者の1つであるかのようにみなされています(Part.1参照)。
 第2の要素は、キリスト教的なものです。こちらでは『創世記』において、人間が神の似姿であるとされていることに基づいて、人間は動物のうちで神に似た特権的な存在であると定義されました。この神に似た存在ということには、人間には人間を越えでていくような「超越」の思想がひそでいます。他の動物にはそなわっていないこうした超越こそが、人間という種を特権的たらしめているものだと言われるのです。
 ところで、これら2つの点において共通しているのは、人間は動物という類の中で理解されているこということです。人間にそなわっている「言葉をもつ」ことや「超越」というので考えられているのは種差であって、結局のところ人間は他の動物とともに神によって造られた存在であるとされている、すなわち「眼前存在として現前するものという意味で理解されている」のです。
 このような西洋哲学の人間観の伝統は、デカルトのコギトにも受け継がれています。デカルトは、人間を「思考するもの」である精神と「広がりをもつもの」である身体が結びついたものであるとしました。人間に神と同じように思惟する実体があるという意味では、人間は被造物を超越していると言えますが、しかし同時に、人間は身体をもつものとして他の被造物と同じ立場にあります。「思考するもの」としての人間はキリスト教的な神の似姿であるけれども、「広がりをもつもの」として人間はアリストテレス的な動物の1種にすぎません。しかも、精神と身体がどのようにかかわることができるのかといった問いには、デカルトは明確に答えることがありませんでした。デカルトの人間の概念は、伝統的な西洋哲学の人間観につきまとう矛盾した関係をそのまま維持していると言えるでしょう。
 こうした矛盾は人間の存在を眼前存在とみなしたことに端を発します。したがって重要なのは、眼前存在者に適用される定義を人間にもちいることはせずに、異なるやり方でそれを実行することであるのです。そしてそれこそが存在論的な考察なのです。

 最後にハイデガーは、心理学と生物学についても言及します。

Dasselbe gilt nicht minder von der >Psychologie<, deren anthropologische Tendenzen heute unverkennbar sind. Das fehlende onotologische Fundament kann auch nicht dadurch ersetzt werden, daß man Anthropologie und Psychologie in eine allgemeine Biologie einbaut. In der Ordnung des möglichen Erfassens und Auslegens ist die Biologie als >Wissenschaft vom Leben< in der Ontologie des Daseins fundiert, wenn auch nicht ausschließlich in ihr. Leben ist eine eigene Seinsart, aber wesenhaft nur zugänglich im Dasein. (p.49)
同じことは、現在では人間学的な傾向が目立ってきた「"心理学"」についても言える。心理学には存在論的な基盤が欠如しているのであり、人間学と心理学を一般的な"生物学"のうちに組み入れたとしても、そのことでこうした基盤に代えることはできない。生物学が把握し解釈する順序からすれば、この学は「生命の科学」として、現存在の存在論のうちに基礎をもつものである(もちろんそこだけではないにせよ)。生命は独自の存在様式であるが、本質的に現存在のうちでしか近づくことができないものである。

 上記の引用では、心理学と同時に生物学にも存在論的な基盤が欠如していることが批判されていますが、これは序論でも「領域的な存在論」のところで述べられていました(Part.2参照)。既存の科学的な学問は、客観性を重視する一方で、それらの学問が無批判的に依拠する根本概念には手を出すことができません。それは形而上学の領域に踏み込むことであり、科学性からは排除されるべき領域だからです。そしてこうした根本概念の考察を行うことができるのは、基礎存在論だけだというのがハイデガーの主張であり、したがって、存在論こそが諸科学の基礎づけを行う学であると考えられているのです。

Mit dem Hinweis auf das Fehlen einer eindeutigen, ontologisch zureichend begründeten Antwort auf die Frage nach der Seinsart deises Seienden, das wir selbst sind, in der Anthropologie, Psychologie und Biologie, ist über die positive Arbeit dieser Disziplinen kein Ueteil gefällt. Andrerseits muß aber immer wieder zum Bewußtsein gebracht werden, daß diese ontologischen Fundamente nie nachträglich aus dem empirischen Material hypothetisch erschlossen werden können, daß sie vielmehr auch dann immer schon >da< sind, wenn empirisches Material auch nur gesammelt wird. Daß die positive Forschung diese Fundamente nicht sieht und für selbstverständlich hält, ist kein Beweis dafür, daß sie nicht zum Grunde liegen und in einem radikaleren Sinne problematisch sind, als es je eine These der positiven Wissenschaft sein kann. (p.50)
これまで、人間学、心理学、生物学によっては、わたしたち自身である存在者の"存在様式"を問おうとしても、存在論的に十分な根拠のある一義的な答えを示すことができないことを指摘してきた。ただしこれは、こうした学問の実証的な仕事に、何らかの判断を下そうとするものではない。ただしこうした存在論的な基盤を、経験的な資料に基づいて事後的に仮定によって推論することはできないのであり、経験的な資料を"収集する"段階においても、こうした存在論的な基盤がつねにすでに「そこに」おいて働いていることを、つねに繰り返し意識しておく必要がある。こうした学問の実証的な研究は、存在論的な基盤に目を向けようとせず、それをむしろ自明なものとみなしているが、こうした基盤がこれらの研究の土台となっていること、そして個々の実証科学のテーゼがもちえないほどの根源的な意味で重要な問題を含んでいるものであることは、否定できないのである。

 存在論的な基盤について、「こうした基盤がこれらの研究の土台となっている」と言われていることや、「個々の実証科学のテーゼがもちえないほどの根源的な意味で重要な問題を含んでいる」と言われていることからもわかるように、ハイデガーは存在論が諸科学の基礎づけを行う学であることを強調しています。そして本書の考察が、人間学、心理学、生物学とは異なる領域で行われるものであるということが、こうして結論付けられました。
 また存在論的な基盤は、それを経験的な資料を収集し、「経験的な資料に基づいて事後的に仮定によって推論することはできない」ものだと言われています。つまり、こうした基盤は諸学のアプリオリな前提になっているということです。このアプリオリ性について、ハイデガーは上記の引用の最後の >kann< のところに原注を付しています。最後にここを確認します。

Aber Erschließung des Apriori ist nicht >aprioristische< Konstruktion. Durch E. Husserl haben wir wieder den Sinn aller echten philosophischen >Empirie< nicht nur verstehen, sondern auch das hierfür notwendige Werkzeug handhaben gelernt. Der >Apriorismus< ist die Methode jeder wissenschaftlichen Philosophie, die sich selbst versteht. Weil er nichts mit Konstruktion zu tun hat, verlangt die Aprioriforschung die rechte Bereitung des phänomenalen Bodens. Der nächste Horizont, der für die Analytik des Daseins bereitgestellt werden muß, liegt in seiner durchschnittlichen Alltäglichkeit. (p.50)
ただしアプリオリの開示は、「アプリオリな」構成ではない。E・フッサールのおかげで、わたしたちはあらゆる真正な哲学的な「経験」の意味を改めて理解しただけではなく、そのために必要な道具の扱い方も学んだのだった。「アプリオリ主義」が、みずからについて理解している学問的な哲学の方法である。ただしこれは構成とはまったくかかわりのないことであるから、アプリオリなものについての研究は、現象的な土台の適切な準備が必要なのである。現存在の分析論のために準備されなければならないもっとも身近な地平は、現存在の平均的な日常性のうちにある。

 フッサール以前のアプリオリの概念は、認識する主体の主観性の問題とは関係がないもの、「経験に依拠しない認識」というように考えられてきました。これに対してフッサールの現象学では、アプリオリとは、たんに認識に先立つ概念だけではなく、そもそも認識を可能にするような条件のようなものとして捉えられています。たとえば、わたしたちがあるものを認識する際に見つける色や形は、経験的に発見されるものです。しかしあるものに色や形があることというのは、わたしたちがそれを認識する以前からそこにあるものとして想定することができます。こうした想定は、このあるものが、言ってみれば「色性」や「物体性」をもっていることを示しているのであり、これらはあるものの認識の条件となっていると考えることができるでしょう。つまり、フッサールやハイデガーにおいてアプリオリとは、認識において経験に依拠するかどうかではなく、存在するものの存在の性格として規定するという意味をもつものとされたのです。
 このような意味で存在論的な基盤、すなわち基礎存在論は、アプリオリなものとして提示されたのでした。そして「現存在の分析論のために準備されなければならないもっとも身近な地平は、現存在の平均的な日常性のうちにある」と言われているように、基礎存在論は現存在の平均的な日常性についての分析からはじめられなければならないのです。


 第10節をお届けしました。第1章は次の第11節までとなっています。今回は本文からの引用の文章量が多かったと思いますが、もし「もっと多めに」や「もっと少なく」等の要望がありましたら、コメントしていただければ次回以降の参考にさせていただきたいと思います。

 それでは、次回もよろしくお願いします。

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