『存在と時間』を読む Part.18

 第18節の続きからになります。

 世界のうちのすべてのものにその適材適所性をみいだす現存在は、それらの適材適所性によって自己の目的を実現しようとします。適材適所性という概念のうちには、そもそも「~のため」という目的の概念が含まれていたのであり、これが世界性の全体の目的連関を形成するのです。

Das im folgenden noch eingehender zu analysierende Verstehen hält die angezeigten Bezüge in einer vorgängigen Erschlossenheit. Im vertrauten Sich-darin-halten hält es sich diese vor als das, worin sich sein Verweisen bewegt. Das Verstehen läßt sich in und von diesen Bezügen selbst verweisen. Den Bezugscharakter dieser Bezüge des Verweisens fassen wir als be-deuten. In der Vertrautheit mit diesen Bezügen >bedeutet< das Dasein ihm selbst, es gibt sich ursprünglich sein Sein und Seinkönnen zu verstehen hinsichtlich seines In-der-Welt-seins. Das Worumwillen bedeutet ein Um-zu, dieses ein Dazu, dieses ein Wobei des Bewendenlassens, dieses ein Womit der Bewandtnis. Diese Bezüge sind unter sich selbst als ursprüngliche Ganzheit verklammert, sie sind, was sie sind, als dieses Be-deuten, darin das Dasein ihm selbst vorgängig sein In-der-Welt-sein zu verstehen gibt. Das Bezugsganze dieses Bedeutens nennen wir die Bedeutsamkeit. Sie ist das, was die Struktur der Welt, dessen, worin Dasein als solches je schon ist, ausmacht. (p.87)
”理解”については、後にさらに詳細に分析するが、理解のうちには、すでに示してきた関連が、あらかじめ開示された形で保持されている。理解はこうした関連のうちにみずからを親しく維持しながら、こうした関連こそがみずからの指示が働くべき場面として、自分の”前に”保持しているのである。理解はこれらの関連のうちで、それらの関連そのものによって、みずからを指示させるのである。指示の働きのうちにあるこうした諸関連の関連づけという性格を、わたしたちは”意義を示す働き”と呼ぶ。現存在はこれらの諸関連との親しみ深さのうちに、自分自身に「意義を示す働き」をするのである。すなわち現存在はみずからの世界内存在について、自己の存在と存在可能を根源的に理解させるのである。<そのための目的>は、<~のため>の意義を示す働きをし、<~のため>は<そのために>の意義を示す働きをし、<そのために>は適所をえさせる<何のもとで>の意義を示す働きをし、<何のもとで>は適材適所性をもたらす適材としての<何によって>の意義を示す働きをする。これらの関連は、たがいに根源的な全体性を構成しながら相互に関係しあっているのであり、<意義を示す働き>として、こうした関連として成立しているのである。この<意義を示す働き>のうちで現存在は、みずからの世界内存在を先だってみずからに理解させているのである。この<意義を示す働き>の関連の全体を、わたしたちは”有意義性”と名づける。この有意義性は世界の構造であり、この世界の構造のもとに現存在はつねにすでにそうしたものとして存在しているのである。

 適材適所性と目的連関の総体は、「たがいに根源的な全体性を構成しながら相互に関係しあっている」のであり、ハイデガーは「指示の働きのうちにあるこうした諸関連の関連づけという性格」を、「”意義を示す働き”」と呼び、そしてこの<意義を示す働き>の関連の全体を「”有意義性”」と名づけます。「この有意義性は世界の構造であり、この世界の構造のもとに現存在はつねにすでにそうしたものとして存在している」のであり、現存在はこうした有意義性を了解し、それに親しんでいま。「この<意義を示す働き>のうちで現存在は、みずからの世界内存在を先だってみずからに理解させている」のです。

Das Dasein ist in seiner Vertrautheit mit der Bedeutsamkeit die ontische Bedingung der Möglichkeit der Entdeckbarkeit von Seiendem, das in der Seinsart der Bewandtnis (Zuhandenheit) in einer Welt begegnet und sich so in seinem An-sich bekunden kann. Dasein ist als solches je dieses, mit seinem Sein ist wesenhaft schon ein Zusammenhang von Zuhandenem entdeckt - Dasein hat sich, sofern es ist, je schon auf eine begegnende >Welt< angewiesen, zu seinem Sein gehört wesenhaft diese Angewiesenheit. (p.87)
”現存在が有意義性に親しんでいることは、存在者が露呈されることが可能であるための存在者的な条件である。存在者は適材適所性(手元存在性)という存在様式のもとで、世界のうちで現存在と出会うのであり、そのようにしてみずからに固有のありかたにおいて、みずからを告げ知らせることができるのである”。現存在は現存在であるかぎり、そのつどこのような存在者であり、現存在が存在することで、手元存在者の連関が本質的なものとしてすでに露呈されているのである。現存在はそのようにして”存在する”かぎり、みずからをつねにすでに出会うべき「世界」へと差し向けられたものとしているのであり、現存在の存在には、このように世界に”差し向けられていること”が本質的なものとしてそなわっているのである。

 現存在は存在論的にはまず何よりも、世界のうちから、みずからの目的を実現することを目指す存在として自己を了解しています。この世界のうちの目的連関は、現存在の個々の生と目的に先立つアプリオリなものであり、政界は現存在に「アプリオリに完了した状態」のものとして登場します(Part.17参照)。現存在の自己理解はまず、こうしたアプリオリに完了した世界の側から行われるのです。
 このように現存在は世界のうちの目的連関のもとで世界内存在として存在していますが、世界は、>Worum-willen< である現存在にとって、「有意義なもの」として立ち現れます。この現存在と世界との「親しみ深さ」のために、現存在は世界に依存して生きるようになりますが、そのことをハイデガーは >angewiesen< という言葉で示します。現存在は、手元存在材者の適材適所性の連関のうちで生きているという意味では、「みずからをつねにすでに出会うべき<世界>へと差し向けられたものとしている」のです。そのため「現存在の存在には、このように世界に”差し向けられていること”が本質的なものとしてそなわっている」ことになります。
 この「差し向けられている」と訳される >angewiesen< という語には、2つの重要な意味があります。この言葉は「割り当てる」「指定する」「指図する」などの意味を持つ >anweisen< という動詞の過去分詞形で、「割り当てられた」「指図された」などの意味をもつと同時に、>auf j-et⁴ angewiesen sein< という表現で、「~に頼らざるをえない」「~に依存している」という意味をそなえています。
 現存在は世界のうちに、手元存在者の目的連関のうちに事故の生きる場所と意味をみいだすという意味で、世界へと割り当てられ、指定されて生きています。しかし同時に現存在は、自己の幸福を実現するという目的において、世界に全面的に依存し、世界を頼りにしながら生きています。したがってこの両方の意味で、現存在は世界に世界に >angewiesen< していると言えるでしょう。

Die Bedeutsamkeit selbst aber, mit der das Dasein je schon vertraut ist, birgt in sich die ontologische Bedingung der Möglichkeit dafür, daß das verstehende Dasein als auslegendes so etwas wie >Bedeutungen< erschließen kann, die ihrerseits wieder das mögliche Sein von Wort und Sprache fundieren. (p.87)
現存在はつねにすでにこの有意義性に親しんでいるのだが、この有意義性そのものは、理解する現存在が解釈しながら、「意義」のようなものを開示することができるようにするための存在論的な条件を含んでいる。そしてこうした「意義」がさらに、言葉や言語の存在の可能性を根拠づけているのである。

 現存在は有意義性に親しみ、自己の生の意味をみいだしながら、世界の意味を了解することで生きていますが、ここに言語の発生の条件がみいだされます。現存在のこのような実存の機構が、「言葉や言語の存在の可能性」を根拠づけます。世界が意味の織物であるこということは、世界は言語の網の目で織りあげられているということだからです。
 ところが、ハイデガーは後に原文の >fundieren< のところの欄外に、>Umwahr. Sprache ist nicht aufgestockt, sondern ist das ursprüngliche Wesen der Wahrheit als Da.<(正しくない。言語というものは、積み重ねられて作られたものではなく、むしろ現としての真理の根源的な本質”である”)と書き込んでおり、言語が根拠づけられるものとして積み重ねられて作られたものではないことを指摘しています。しかし『存在と時間』のおいては、この問題は今後さらに詳細に検討されることになりますので、ここでは、適材適所性、了解、有意義性、意味、言語という諸概念の結びつきを確認しておくだけにしましょう。

 これまで、現存在は世界のうちで、世界内存在という実存の存在様式のもとにあることが確認されてきましたが、この構造はここではまだ1つの地平として想定されただけであり、この世界とはどのようなものか、現存在は世界においてどのように生きているかという問題は、この地平をさらに詳しく考察することによって明らかにされる必要があります。こうした考察が、第3章のC項以下で展開されることになりますが、ハイデガーはその前にB項において、デカルトの世界概念を手掛かりに、伝統的な世界理解の背後にある事物の存在様式について考察することを試みます。
 そのためにハイデガーは、これまで検討してきた世界における存在者の3つの存在様式を改めてとりあげ、簡単に点検します。

Innerhalb des jetzigen Untersuchungsfeldes sind die wiederholt markierten Unterschiede der Strukturen und Dimensionen der ontologischen Problematik grundsätzlich auseinanderzuhalten: 1. das Sein des zunächst begegnenden innerweltlichen Seienden (Zuhandenheit); 2. das Sein des Seienden (Vorhandenheit), da in einem eigenständig entdeckenden Durchgang durch das zunächst begegnende Seiende vorfindlich und bestimmbar wird; 3. das Sein der ontischen Bedingung der Möglichkeit der Entdeckbarkeit von innerweltlichem Seienden überhaupt, die Weltlichkeit von Welt. Das letztgenannte Sein ist eine existenziale Bestimmung des In-der-Welt-seins, das heißt des Daseins. Die beiden vorgenannten Begriffe von Sein sind Kategorien und betreffen Seiendes von nicht daseinsartigem Sein. (p.88)
現在わたしたちが分析を進めている分野において、存在論的な問題構成の構造と次元について、これまで繰り返し指摘しておいた差異が存在していることを原理的に明確に区別しておく必要がある。これらの差異は第1に、さしあたり出会われる世界内部的な存在者の存在、すなわち手元存在性であり、第2に、さしあたり出会われる存在者をつうじて、それを露呈することを目指す独自の態度で進んでいくときにみいだされ、規定される”その”存在者の存在、すなわち眼前存在性であり、第3に、世界内部的な存在者一般を露呈させることができるための存在者的な条件の存在、すなわち世界の世界性である。第3に挙げた存在は、世界内存在、すなわち現存在の”実存論的な”規定である。これにたいして第1と第2の存在の概念は”カテゴリー的な”ものであり、現存在の存在様式ではない存在様式をそなえた存在者に適用されるものである。

 第1の存在様式は、現存在が「さしあたり出会われる世界内部的な存在者」の存在様式であり、これは有用な道具である事物の手元存在性です。第2は、こうした手元存在者について考察していくときに、現存在がそれらを自然科学の対象として「それを露呈することを目指す独自の態度で」考察するときに確認される存在様式で、これは客観的で抽象的な観点からみた事物の存在様式である眼前存在性です。第3は、現存在が「世界内部的な存在者一般を露呈させることができるための存在者的な条件」であり、これは世界の世界性です。これは「現存在の”実存論的な”規定」でもあります。
 手元存在性と眼前存在性は、存在者に適用されるカテゴリー的な概念であり、世界内存在は、現存在に適用される実存カテゴリー的な概念です。この点について2つのことを確認しておきましょう。第1に、世界内部的に存在するもののカテゴリーを、世界内存在としての現存在に適用してはならないということです。ハイデガーは、この2つのものは存在論的に異なる身分をそなえているのであり、それぞれに適切な考察方法が必要であることを、これまで明確にしてきました。第2に、この世界内部的な存在者という概念もまた、存在論的に、すなわち現存在の観点から定められたものであるということです。この2つはどちらも存在論的な概念なのであり、その意味では、デカルトの哲学のように、精神をもつ人間と、広がりだけをもつ事物のように、人間と世界がどちらも実体であるかのように考えた上で、これらの実体の違いを区別しようとする考え方には、存在論的にみて重要な欠陥があるのです。事物が事物として人間とは異なるものとみなされるのも、また人間からみた視点によるものなのです。

 このように世界に存在する事物と現存在の存在様式について、3種類の存在論的な分類を確認した後に、ハイデガーが予想される2つの疑問を提起し、それに答える準備をします。
 第1の疑問は、手元存在者の概念のもとで、世界に存在する事物をすべて、現存在がみずからの目的を実現するための手段という観点から眺めることは適切なものかどうかという疑問です。この観点からみると、世界に存在するすべてのものが、この人間という目的のための手段とみなされてしまい、そのそのものの存在、その「実体」としてのありかたが無視されてしまうことになります。しかしカントの物自体のように、対象は人間の認識による現象とは別に、実体としても存在するものではないでしょうか。事物を手元存在性の観点からみるのは、人間中心主義的な観点ではないでしょうか。
 第2の疑問は、「関係の体系」としての指示連関は思考されたものであることを考えると、世界内部的な存在者の存在が、純粋な思考のうちに解消されてしまうのではないかという疑問です。これは観念論への疑問と言えるでしょう。
 ハイデガーはこの2つの疑問について、この節ではごく簡単に答えています。

Den Verweisungszusammenhang, der als Bedeutsamkeit die Weltlichkeit konstituiert, kann man formal im Sinne eines Relationssystems fassen. Nur ist zu beachten, daß dergleichen Formalisierungen die Phänomene so weit nivellieren, daß der eigentliche phänomenale Gehalt verloren geht, zumal bei so >einfachen< Bezügen, wie sie die Bedeutsamkeit in sich birgt. Diese >Relationen< und >Relate< des Um-zu, des Um-willen, des Womit einer Bewandtnis widerstreben ihrem phänomenalen Gehalt nach jeder mathematischen Funktionalisierung; sie sind auch nichts Gedachtes, in einem >Denken< erst Gesetztes, sondern Bezüge, darin besorgende Umsicht als solche je schon sich aufhält. Dieses >Relationssystem< als Konstitutivum der Weltlichkeit verflüchtigt das Sein des innerweltlich Zuhandenen so wenig, daß aud dem Grunde von Weltlichkeit der Welt dieses Seiende in seinem >substanziellen< >An-sich< allererst entdeckbar ist. Und erst wenn innerweltliches Seiendes überhaupt begegnen kann, besteht die Möglichkeit, im Felde dieses Seienden das nur noch Vorhandene zugänglich zu machen. Dieses Seiende kann auf Grund seines Nur-noch-Vorhandenseins hinsichtlich seiner >Eigenschaften< mathematisch in >Funktionsbegriffen< bestimmt werden. Funktionsbegriffe dieser Art sind ontologisch überhaupt nur möglich mit Bezug auf Seiendes, dessen Sein den Charakter reiner Substanzialität hat. Funktionsbegriffe sind immer nur als formalisierte Substanzbegriffe möglich. (p.88)
有意義性として世界性を構成する指示連関は、形式的には関係の体系という意味で理解することができる。ただしそこで注意する必要があるのは、このような形式化によって現象が著しく平均化されてしまい、現象の本来の内容が失われてしまうということである。とくに有意義性のうちに含まれている「単純な」関連の場合には、その危険性が高いのである。こうした<~のため>、<そのため>、適材適所性の<何によって>などのあいだの「関係」や「関係項」は、そこに含まれる現象的な内容のために、数学的に関数化することがふさわしくないものである。またこれらのものは「思考」のうちで初めて定式化されるという意味で、「思考されたもの」ではなく、配慮的な気遣いをする目配りのうちにつねにすでに宿っている諸関連なのである。世界性を構成する要素であるこれらの「関係体系」は、世界内部的に手元存在するものの存在を消滅させてしまうようなものではなく、反対に世界の世界性という根拠があることで、こうした存在者が初めてその「実体的な」「そのもの性」において、露呈させられることができるようになる。そしてそもそも世界内部的な存在者に出会うことが可能であるからこそ、これらの存在者全体の領域で、ただ眼前的に存在するだけのものに近づくことができるのである。この存在者は、<ただ眼前的に存在するだけのもの>というありかたに基づいて、それぞれの「特性」について数学的に「関数概念」で規定することはできる。しかしこうした関数概念が存在論的にそもそも可能であるのは、純粋な実体性という存在性格をそなえた存在者においてだけである。関数概念は、形式化された実体概念としてしか、可能ではないのである。

 まず第2の疑問について、世界の事物が「思考されたもの」とみなされるのではないかと考えることそのものが、世界についての予断に基づいたものであることを指摘します。これらのものが「思考されたもの」であると考えるのは、世界の事物が知覚的な認識と、この認識に基づいた思考の対象であると考える哲学の伝統に依拠するものです。事物がそもそも認識されうるのは、「配慮的な気遣いをする目配りのうちにつねにすでに宿っている諸関連」のためだと考えるべきなのです。
 第1の疑問については、世界のさまざまな対象が、人間の認識の彼方に、物自体としての「実体」として存在しているという考え方も、1つの予断であることを、ハイデガーは指摘します。この「実体」という概念は存在論的に考察してみるならば、「眼前存在」のありかたに相当するものなのです。これはいわば人間が世界において出会うさまざまな事物の手元存在性を抽象して、その対象を数学や自然科学の対象として考察しようとするときに生まれる概念なのです。このような抽象の後であれば、それを「数学的に<関数概念>で規定することはできる」でしょう。しかしこれは概念的な操作の後において初めて可能になることであり、こうした操作を加えなければ、「<ただ眼前的に存在するだけのもの>」というようなものは、世界のどこにも存在しないのです。
 このようにハイデガーは、世界の事物がまず現存在にとって利用できる道具として、手元存在者として存在しており、その存在性格を捨象した後に、初めて数学や自然科学の対象である「純粋な実体性という存在性格をそなえた存在者」のようなものを考えることができるようになると主張するのです。

 この問題はデカルトとカントの伝統にさかのぼる重要な問題です。唯物論と観念論、物自体と現象、実在論と唯名論というような対立関係など、近代哲学の中軸にかかわる問題がここに絡んできます。そのためハイデガーは次のB項で、デカルトの哲学を手掛かりにして、この問題についての考察を深めようとします。デカルトの哲学は、ハイデガーの世界内存在の理論に対する「極端な好ましくない事例」となっているからです。

Damit die spezifisch ontologische Problematik der Weltlichkeit sich noch schärfer abheben kann, soll vor der Weiterführung der Analyse die Interpretation der Weltlichkeit an einem extremen Gegenfall verdeutlicht werden. (p.88)
世界性に固有な存在論的な問題構成を、以下で鋭く浮き彫りにしてみよう。ただしそのために、分析をつづける前に、ある極端な好ましくない事例によって、世界性の解釈の特徴を明確にしておくことにしよう。


 2つのパートに分けましたが、第18節はこれで終わります。次回からは、第3章のB項「世界性の分析とデカルトによる世界の解釈の対比」に入っていくことになります。

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