『存在と時間』を読む Part.88(終)

  第83節 現存在の実存論的かつ時間的な分析論と、存在一般の意味への基礎存在論的な問い

 ハイデガーはこの節の冒頭で、これまでの考察の課題について次のように総括します。

Die Aufgabe der bisherigen Betrachtungen war, das ursprüngliche Ganze des faktischen Daseins hinsichtlich der Möglichkeiten des eigentlichen und uneigentlichen Existierens existenzial-ontologisch aus seinem Grunde zu interpretieren. (p.436)
これまでの考察の課題は、事実的な現存在の”根源的な全体”を、それが本来的に実存することも、非本来的に実存することもできるという側面に注目しながら、”現存在の根拠そのものから”、実存論的かつ存在論的に解釈することであった。

 そのための根拠となり、気遣いの存在意味としてあらわになったのが時間性でした。はじめに現存在の予備的で実存論的な分析論が、時間性をあらわにする前に準備しておいたことが、いまや現存在の存在の全体性にそなわる根源的な構造のうちに、すなわち時間性のうちに基礎づけられたのです。
 しかし、これまでの分析は全体的な『存在と時間』の当初の構成の前半部分にすぎません。実存論的で存在論的な現存在分析によって、さらに解明すべき根本的な問題が素描されたにすぎないと、ハイデガーは振り返っています。

Die Herausstellung der Seinsverfassung des Daseins bleibt aber gleichwohl nur ein Weg. Das Ziel ist die Ausarbeitung der Seinsfrage überhaupt. Die thematische Analytik der Existenz bedarf ihrerseits erst des Lichtes aus der zuvor geklärten Idee des Seins überhaupt. (p.436)
ただし現存在の存在機構を取り出す作業は、”1つの道”にすぎない。わたしたちの”目標”は、存在の問い一般について詳細に考察することにある。そして実存の”主題的な”分析は、あらかじめ存在一般の理念を解明しておいた上で、その理念の〈光〉のもとで行われるべきなのである。

 この目標のため、新たに提示される問いは、第1に、存在論は存在論的に基礎づけられるべきなのか、それとも基礎づけのためには存在者的な基礎のようなものが必要なのかという問いであり、第2に、どの存在者が、この基礎づけの機能を担うべきなのかという問いです。
 これらの問いは、存在と存在者の違いにかかわる存在論的な差異とは異なる存在者的な差異についての問いです。この存在者的な差異とは、実存する現存在の存在と、現存在ではない存在者の存在(たとえば眼前存在)との差異のことであり、この差異についての問いは、次のような3つの新たな問いを展開します。
 第1の新たな問いは、存在についての意識が、存在者についての意識と混同されることについての問いです。古代の存在論は事物の概念を使って考察していたために、意識を物象化する危険があったとされていますが、「物象化する」というのはどういうことなのか、そしてこれはどのようにして生まれるのかが問われる必要があります。
 第2の新たな問いは、伝統的な存在論がさしあたりの基礎とするのが、実存する現存在ではなく、さらに現存在が使用する手元的な存在者でもなく、眼前的な存在者であるのはどうしてなのかという問いです。手元的な存在者はもっと手近にあるというのに、存在はなぜ、眼前的に存在するものに基づいて把握されがちなのかという問いです。
 第3の新たな問いは、このように意識の物象化が、手元的な存在者ではなく、眼前的な存在者を基準として考察されることはどのような意味をもつかについての問いです。この問いは3つに分岐します。

Warum kommt diese Verdinglichung immer wieder zur Herrschaft? Wie ist das Sein des >Bewußtseins< positiv strukturiert, so daß Verdinglichung ihm unangemessen bleibt? Genügt überhaupt der >Unterschied< von >Bewußtsein< und >Ding< für eine ursprüngliche Aufrollung der ontologischen Problematik? (p.437)
この物象化がつねに支配的なものとなってきたのは”どうして”なのだろうか。物象化は意識にそぐわないと言われるのだが、それではこの「意識」の存在はどのような”積極的な”構造をそなえているのだろうか。そもそも「意識」と「物」の「差異」のような概念は、存在論の問題構成を根源的に展開するために、十分なものなのだろうか。

 ハイデガーは、存在論的な差異と存在者的な差異についてのこれらの新たな問いに答えるには、存在一般の意味への問いという当初の問題の考察をさらに深める必要があると考えます。そのための道筋としてハイデガーが提起するのが、時間性の根源的な時熟の様態をどのように解釈するべきかという問いを考察する道です。

Die existenzial-ontologische Verfassung der Daseinsganzheit gründet in der Zeitlichkeit. Demnach muß eine ursprüngliche Zeitigungsweise der ekstatischen Zeitlichkeit selbst den ekstatischen Entwurf von Sein überhaupt ermöglichen. Wie ist dieser Zeitigungsmodus der Zeitlichkeit zu interpretieren? Führt ein Weg von der ursprünglichen Zeit zum Sinn des Seins? Offenbart sich die Zeit selbst als Horizont des Seins? (p.437)
現存在の全体性の実存論的かつ存在論的な機構は、時間性を根拠としている。そうだとすると、脱自的な時間性そのものの根源的な時熟のありかたが、存在一般の脱自的な投企を可能にするに違いない。この時間性の時熟の様態をどのように解釈すべきだろうか。根源的”時間”から、”存在”の意味へと、一本の道がつながっているのだろうか。”時間”そのものが、みずからが”存在”の地平であることを明らかにするのだろうか。

 これまでは存在一般の意味への問いを考察するために、現存在の存在への実存論的で存在論的な考察を行ってきました。この考察によって、「現存在を時間性に基づいて解釈し、時間を存在への問いの超越論的な地平として説明する」(Part.7)という課題が実現されたのです。この問いは現存在の存在了解に導かれた「存在から時間へ」という問いでした。これからの考察で必要とされているのは、この道を逆にたどること、「根源的”時間”から、”存在”の意味へと」歩むことです。この問いは「時間から存在へ」という反転となるでしょう(この第1部第2篇「現存在と時間性」の次に予定されていた第3篇のタイトルが「時間と存在」となっていることからも、このような反転の作業が行われるはずだったことが読み取れるでしょう)。

 ハイデガーが当初から予定していたこの問いの方向性の反転は、本書の構想の内部では実現されませんでした。ハイデガーは第2部として予告されていた「時性の問題構成を導きの糸として、存在論の歴史を現象学的に解体する作業」(Part.7)は、当初の構想のままでは実現できないことを自覚し、そのための本書の後半部分の執筆を放棄したのでした。
 ハイデガーがどうして第2部の執筆を放棄したかについては、さまざまな考察が展開されています。たとえば木田元編著の「ハイデガー『存在と時間』の構築」は、『存在と時間』既刊部分の解説しつつ、未完部分を構築するという刺激的な試みを遂行しており、おすすめの一冊です。

 第2部の執筆を断念したとはいえ、ハイデガーはその後もさらに新たな思考を紡ぎつづけています。第2部をどのように展開しようとしていたかは、『現象学の根本問題』にその道筋を読み取ることができます。

 とくに後年の技術論は、人間の自然に向かう姿勢という根本的なところから技術の意味について考察するものであり、現代において技術がはたす役割について考えるうえで、貴重な手掛かりとなると思います。

 興味のある方はこれらの書物を手に取ってみてはいかがでしょうか。


 第72節から第83節までの内容(Part.76からPart.88)は、光文社古典新訳文庫の中山元訳『存在と時間』の第8分冊を参考にさせていただきました。

 この訳書は初学者にもわかりやすい文体で書かれており、付録として詳細な解説もついています。このnoteも、基本的にその解説に習って書いたもので、執筆にあたり訳書としてはもっともお世話になった書物です。『存在と時間』を読んでみたいという方は、こちらの訳書から入ることをおすすめします。

 以上で、刊行された『存在と時間』のすべての内容を読み通してきたことになります。このnote、「『存在と時間』を読む」は実際のところ、ここまで長くなるとは思いませんでした。わたしのまとめかたに問題があったり、必要以上に引用文を載せてしまったのもありますが、やはりわたしにとって本書の内容が重厚で充実していることを感じさせる機会となりました。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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