『存在と時間』を読む Part.38

 第6章 現存在の存在としての気遣い

  第39節 現存在の構造全体の根源的な全体性への問い

 第2章から第5章までの分析によって、現存在が世界において示すさまざまな存在様式が解明されてきました。第2章では世界内存在一般について考察され、第3章では世界内存在を構成する3つの契機を示す概念「世界」「世人」「内存在」のうちの「世界」の概念が、第4章では「世人」の概念が、そして第5章では「内存在」について、および世人における現存在の頽落について考察されてきました。
 これまでの考察は世界内存在の構造を、それを構成する契機に注目して行われたものでした。そして今度は、世界内存在というありかたの構造を、それを構成する諸契機に分割することによってだけではなく、統一的な存在様態として考察する必要があります。第6章の目的は、この統一を考察することであり、それは次の問いに表現されます。

wie ist existenzial-ontologisch die Ganzheit des aufgezeigten Strukturganzen zu bestimmen? (p.181)
”提示された構造全体の全体性は、実存論的かつ存在論的にどのように規定すべきか”。

 ハイデガーは現存在の平均的な日常性について、これまで解明されてきた存在様態をまとめて表現しています。

Die durchschnittliche Alltäglichkeit des Daseins kann demnach bestimmt werden als das verfallend-erschlossene, geworfen-entwerfende In-der-Welt-sein, dem es in seinem Sein bei der >Welt< und im Mitsein mit Anderen um das eigenste Seinkönnen selbst geht. (p.181)
”現存在の平均的な日常性”を規定して、”それは頽落しつつ開示され、被投的に投企する世界内存在であり、この世界内存在は「世界」のもとでのみずからの存在と他者との共同存在において、みずからにもっとも固有な存在可能そのものにかかわっている存在である”と規定することができる。

 しかしこの表現にはまだ、それを全体的にみわたすまなざしが欠けています。この第6章では、他者とともに世界に生きる現存在の実存論的で存在存的な観点から、このまなざしを獲得することを目指すことになります。

Zugänglich wird uns das Sein des Daseins, das ontologisch das Strukturganze als solches trägt, in einem vollen Durchblick durch dieses Ganze auf ein ursprünglich einheitliches Phänomen, das im Ganzen schon liegt, so daß es jedes Strukturmoment in seiner strukturalen Möglichkeit ontologisch fundiert. (p.181)
構造の全体性そのものを担っている現存在の存在に近づくことができるためには、”1つの”根源的に統一的な現象を”目指した”まなざしが、しかもこの全体を”貫いて”見通すまなざしが必要なのである。というのも、この統一的な現象は、全体のうちにすでに存在しており、それが構造契機のそれぞれを、その構造的な可能性において、存在論的に基礎づけているからである。

 このまなざしはどのようにして確保できるのでしょうか。まず、そのまなざしは、現存在の存在のありかたをみずからに開示している存在了解に注目するものでなければなりません。

Zur ontologischen Struktur des Daseins gehört Seinsverständnis. Seiend ist es ihm selbst in seinem Sein erschlossen. Befindlichkeit und Verstehen konstituieren die Seinsart dieser Erschlossenheit. Gibt es eine verstehende Befindlichkeit im Dasein, in der es ihm selbst in ausgezeichneter Weise erschlossen ist? (p.182)
現存在の存在論的な構造には、存在了解がそなわっている。現存在は存在しつつ、その存在においてみずからに開示されている。この開示性の存在様式を構成するのが、情態性と理解である。現存在の理解しつつある情態性のうちで、卓越したありかたで現存在がみずからに開示されているものが何かあるだろうか。

 現存在の開示性を構成するのは情態性と理解です。そして現存在は存在了解によってみずからに開示されているのであるから、「現存在の理解しつつある情態性のうちで、卓越したありかたで現存在がみずからに開示されているもの」をまずは探すべきだということになります。
 次に、この「卓越したありかた」ということについてですが、これには次の条件を満たす必要があります。

Wenn die existenziale Analytik des Daseins über ihre fundamentalontologische Funktion grundsätzliche Klarheit behalten soll, dann muß sie für die Bewältigung ihrer vorläufigen Aufgabe, der Herausstellung des Seins des Daseins, eine der weitgehendsten und ursprünglichsten Erschließungsmöglichkeiten suchen, die im Dasein selbst liegt. Die Weise des Erschließens, in der das Dasein sich vor sich selbst bringt, muß so sein, daß in ihr das Dasein selbst in gewisser Weise vereinfacht zugänglich wird. Mit dem in ihr Erschlossenen muß dann die Strukturganzheit des gesuchten Seins elementar ans Licht kommen. (p.182)
現存在の実存論的な分析論においては、その基礎存在論としての機能のうちに、原理的な明晰さを維持すべきである。そしてこの実存論的な分析論は、現存在の存在をあらわにするという当面の課題を実現するためには、現存在そのもののうちにありながら、”もっとも広範でもっとも根源的に”現存在を開示しうるものの1つをみいだす必要がある。現存在がみずからをその前で明らかにするこうした開示は、そのうちで、ある意味で”単純化された形で”、現存在に近づくことができるようなありかたをしているものでなければならない。そしてそのような形で開示されたものにおいて、探し求められている存在の構造の全体性が、基本的な形で明るみにだされるようなものでなければならない。

 その条件とは、「”もっとも広範でもっとも根源的に”現存在を開示しうるもの」、「ある意味で”単純化された形で”、現存在に近づくことができるようなありかたをしているもの」、「そのような形で開示されたものにおいて、探し求められている存在の構造の全体性が、基本的な形で明るみにだされるようなもの」だと述べられています。これらの条件を満たすものとして提起されるのが「不安」という現象です。

Als eine solchen methodischen Erfordernissen genügende Befindlichkeit wird das Phänomen der Angst der Analyse zugrundegelegt. (p.182)
このような方法論的な諸条件を満たす情態性として、”不安”の現象を分析の基礎に置くことにする。

 広く知られているように、『存在と時間』では「不安」が1つの重要な概念でしょう。この不安の現象については、次の節から詳細な考察が開始されますが、その際にはすでに考察されてきた「恐れ」という現象との違いを調べることで、不安の概念が確定されることになります。

Die Angst gibt als Seinsmöglichkeit des Daseins in eins mit dem in ihr erschlossenen Dasein selbst den phänomenalen Boden für die explizite Fassung der ursprünglichen Seinsganzheit des Daseins. Dessen Sein enthüllt sich als die Sorge. Die ontologische Ausarbeitung dieses existenzialen Grundphänomens verlangt die Abgrenzung gegen Phänomene, die zunächst mit der Sorge identifiziert werden möchten. Dergleichen Phänomene sind Wille, Wunsch, Hang, und Drang. Sorge kann aus ihnen nicht abgeleitet werden, weil sie selbst in ihr fundiert sind. (p.182)
不安は現存在の存在可能性として、そこで開示される現存在そのものを明かすとともに、現存在の根源的な存在の全体性を明示的に把握するための現象的な土台を提供してくれるのである。このようにして現存在の存在は”気遣い”であることが明らかになる。この気遣いという実存論的な根本現象を存在論的に詳細に考察するためには、気遣いと同じものとみられがちなさまざまな現象との違いを明確にしながら、その概念の範囲を確定する必要がある。こうしたさまざまな現象として、意志、願望、性向、衝動などがある。ただし気遣いは、これらの概念から導きだすことはできない。これらの現象そのものが、気遣いを根拠としているからである。

 先の引用文中で、「現存在の理解しつつある情態性のうちで、卓越したありかたで現存在がみずからに開示されているもの」と言われていたものこそが「不安」です。そしてこの根底的な視点がわたしたちに与えてくれるが、「”気遣い”」という概念です。こちらも『存在と時間』は有名な概念であり、第6章の課題は、主にこの「気遣い」を考察することにあるといっても良いでしょう。

 不安についての具体的な考察にとりかかる前に、この章の構成を確認しておきましょう。第39節で「現存在の構造全体の根源的な全体性への問い」の手掛かりとして、その手掛かりとなるべき諸条件を満たした現象として不安が取り上げられた後、第40節ではこの不安という根本的な情態性についての考察が深められます。
 さらに第41節では、不安の概念を考察することで、「現存在の根源的な存在の全体性を明示的に把握するための現象的な土台を提供してくれる」ことを確認します。この「現象的な土台」こそが「気遣い」であり、「この気遣いという実存論的な根本現象を存在論的に詳細に考察するためには、気遣いと同じものとみられがちなさまざまな現象との違いを明確にしながら、その概念の範囲を確定する必要がある」のです。
 次の第42節においては、気遣いについての実存論的な考察に先立って、現存在が前存在論的にではあっても、みずからを気遣いとして解釈していることが解明されます。
 第43節では、現存在ではない存在者の存在様態である手元存在性や眼前存在性について考察しながら、これまでの伝統的な存在論が、存在を第1に眼前存在の意味で理解してきたことが改めて確認され、こうした問題構成では、現存在の存在についても、存在の意味一般についても考察を深めることができないことが指摘されます。この節ではとくに、「事物性」とか「実在性」とか訳されることの多い>Realität<の概念をさらに鋭く規定することが試みられます。
 第44節では、伝統的に「知識と物の一致」として考えられてきた真理の概念を考察しながら、こうした概念が現存在の真理を考察する上でいかに不適切なものであるかが考察されます。

Seiendes ist unabhängig von Erfahrung, Kenntnis und Erfassen, wodurch es erschlossen, entdeckt und bestimmt wird. Sein aber >ist< nur im Verstehen des Seienden, zu dessen Sein so etwas wie Seinsverständnis gehört. Sein kann daher unbegriffen sein, aber es ist nie völlig unverstanden. In der ontologischen Problematik wurden von altersher Sein und Wahrheit zusammengebracht, wenn nicht gar identifiziert. Darin dokumentiert sich, wenngleich in den ursprünglichen Gründen vielleicht verborgen, der notwendige Zusammenhang von Sein und Verständnis. Für die zureichende Vorbereitung der Seinsfrage bedarf es daher der ontologischen Klärung des Phänomens der Wahrheit. Sie vollzieht sich zunächst auf dem Boden dessen, was die voranstehende Interpretation mit den Phänomenen der Erschlossenheit und Entdecktheit, Auslegung und Aussage gewonnen hat. (p.183)
〈存在者〉は、それを開示し、露呈し、規定している経験、認識、把握などの営みとは独立して”存在する”。しかし〈存在〉は、おのれの存在のうちに存在了解のようなものをそなえている存在者の理解のうちだけに「存在する」のである。だから存在が把握されないことはあっても、まったく理解されていないということはありえない。存在論の問題構成においては、昔から”存在と真理”は、たとえまったく同じものと考えられない場合にも、結びつけられて考えられてきたのである。そのことのうちに、存在と了解にはある必然的な連関があることが証明されてきたのであるが、その根源的な根拠はおそらく隠されたままだったのである。存在の問いを十分に準備するためには、”真理”の現象を存在論的に解明する必要がある。この解明はさしあたり、これまで開示されたありかたと露呈されたありかた、解釈と言明という現象について、これまでの解釈によってえられた成果を土台にすることにしよう。

 余談ですが、この引用文の2行目の>Verstehen<(訳文では3行目の「理解」)のところには、欄外書き込みで次のように書かれています。

Aber dieses Verstehen als Hören. Das heißt aber niemals: >Sein< ist nur >subjektiv<, sondern Sein (qua Sein des Seienden) qua Differenz >im< Da-sein als geworfenem des (Wurfs).
しかし理解は、聞くこととして行われる。だからと言って、〈存在〉がたんに〈主観的な〉ものにすぎないというわけではない。むしろ存在は(存在者の存在として)、(投企)によって投企されたものとしての現ー存在に〈おいて〉、差異としてあるのである。

 現存在とは「そこに現に(>da<)」存在する存在者を指すのであり、現ー存在とはそのような現存在の存在を表現しています。この存在は他者との共同存在でもあるのであり、現存在はある主観の内部に閉じこもったたんに「主観的な」ものとして存在しているのではありません。現存在の日常性において、わたしたちが固有に理解していると思っている存在者は、頽落の公共性のうちで他者と同じように理解された存在者なのであり、それはある主観がそれだけで理解したものというわけではないのです。「むしろ存在は(存在者の存在として)、(投企)によって投企されたものとしての現ー存在に〈おいて〉、差異としてあるのである」と指摘されているように、ある存在者の存在は、現存在と共同現存在の投企の差異として理解されるべきなのです。
 たとえばペンについて、ある人はそれを手紙を書くためのものとして理解し、ある人はそれを歴史あるものとして理解し、またある人はそれを一時的に武器として理解するかもしれません。これがそのつどの現存在における投企の差異ということであり、存在とは閉ざされた主観による恣意的なものではなく、世界内存在として現存在の「理解」の働きによるものなのです。


 第39節はここまでです。次回は、現存在の根底的な情態性である「不安」の考察に入っていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?