『存在と時間』を読む Part.13

 第3章 世界の世界性


  第14節 世界一般の世界性という理念

 世界内存在の「世界」という構造契機に注目するのが、この節の課題です。しかし、「世界」という語は多義的であって、本書で考察すべき世界とは何のことなのかをまず確認しておく必要があります。

 基礎存在論は現象学的に遂行されますが、「世界」を現象として記述するとはどのようなことかと、ハイデガーは問い掛けます。世界内部的に存在する存在者を列挙するのはどうでしょうか。わたしたちは家屋や樹木、人間、星などについて描写することができるし、こうした存在者の総体を「世界」と呼ぶこともできるでしょう。しかし、このような存在者的な記述は明らかに前現象学的な仕事であって、哲学としての現象学の仕事ではありません。現象学的な意味での「現象」とは、存在と存在構造としてみずからを示すもののことだからです(Part.5参照)。
 それでは世界内部的で眼前的な存在者の存在を提示し、それを概念的・カテゴリー的に確定するという道はどうでしょうか。この存在者は事物のことですが、これは自然の事物と、価値をおびた事物にわけて考えることができます。価値をおびた事物の事物的なありかたは、自然の事物の事物的なありかたに依拠するものであるため、主題となるべきは自然の事物の存在、すなわち自然そのものということになるでしょう。そして、このような自然の事物の存在性格とは、言い換えれば実体の存在性格は、その「実体性」にあります。それでは、実体性の存在論的な意味はどのようなものでしょうか。この問いが、「世界」を現象学的に記述するための1つの方向性を基礎づけることになりそうです。
 しかし、こうした実体性の問いが存在論的な問いであることは間違いありませんが、この問いによって本当に「世界」という現象を捉えることができるのでしょうか。ハイデガーは否と答えます。というのも、自然そのものもまた、1つの存在者であることに変わりはないからです。わたしたちは世界の内部でこの自然という存在者に出会いますが、そこにはすでに「世界」が前提されているのであり、眼前存在者の実体性について問いにおいては、世界の現象は飛び越されてしまっているのです。
 それでは自然の事物よりも価値をおびた事物に注目すべきなのでしょうか。現存在はその生活においては、これらの価値をおびた事物のもとにとどまっているものです。こうした事物こそ、わたしたちがそのうちで生活している世界を、本来的に示しているとも考えられるでしょう。しかしこれらの事物も、やはり世界の内部にある存在者にすぎないのです。

Weder die ontische Abschilderung des innerweltlichen Seienden, noch die ontologische Interpretation des Seins dieses Seienden treffen als solche auf das Phänomen >Welt<. In beiden Zugangsarten zum >objektiven Sein< ist schon und zwar in verschiedener Weise >Welt< >vorausgesetzt<. (p.64)
"世界内部的な存在者を存在者的に描写しても、世界内部的な存在者の存在について存在論的に解釈しても、それ自体では「世界」という現象に出会うことはないのである"。「客観的な存在」に近づこうとするこのどちらの方法においても、すでに、ただしさまざまに異なるありかたの「世界」が「前提されて」いるのである。


 それでは結局のところ、「世界」は世界内部的な存在者の規定とは言えないものなのでしょうか。しかし、わたしたちはこうした存在者を「世界」内部的な存在者と呼んでいます。また、「世界」は現存在の1つの存在性格にすぎないのでしょうか。すべての現存在が固有な世界をもっているとすると、「世界」とは何か主観的なものになるのではないでしょうか。そうだとすると、わたしたちがそのうちでたしかに存在している「共通の」世界はどのようにして可能になるのでしょうか。わたしたちが目指しているのは、あの世界やこの世界ではなく、「世界一般の世界性」です。わたしたちはどの道をたどれば、世界一般の世界性という現象に到達することができるのでしょうか。

>Weltlichkeit< ist ein ontologischer Begriff und meint die Struktur eines Konstitutiven Momentes des In-der-Welt seins. Dieses aber kennen wir als existenziale Bestimmung des Daseins. Weltlichkeit ist demnach selbst ein Existenzial. Wenn wir ontologisch nach der >Welt< fragen, dann verlassen wir keineswegs das thematische Feld der Analytik des Daseins. >Welt< ist ontologisch keine Bestimmung des Seienden, das wesenhaft das Dasein nicht ist, sondern ein Charakter des Daseins selbst. Das schließt nicht aus, daß der Weg der Untersuchung des Phänomens >Welt< über das innerweltlich Seiende und sein Sein genommen werden muß. Die Aufgabe einer phänomenologischen >beschreibung< der Welt liegt so wenig offen zutage, daß schon ihre zureichende Bestimmung wesentliche ontologische Klärungen verlangt. (p.64)
「世界性」は存在論的な概念であり、世界内存在の1つの構成的な契機の構造である。しかしわたしたちは他方で、世界内存在とは現存在の実存論的な規定であることを知っている。だから世界性は、それ自体が1つの実存カテゴリーなのである。存在論的に「世界」について問うときには、わたしたちは決して現存在の分析論の主題的な領域から離れることはない。存在論的にみる限り、「世界」はその本質からして、現存在"ではない"存在者についての規定ではなく、現存在そのものの性格なのである。しかしだからといって、「世界」という現象を探究するための道が、世界内部的な存在者とその存在への問いを経由すべきではないということにはならない。世界を現象学的に「記述する」という課題は明瞭なものではないのであり、この課題を十分に規定するためにも、本質的な存在論的な解明が必要なのである。

 存在論は、現象学的な考察であるとともに実存論的な解釈学でもあるのでした(Part.6参照)。世界性とは存在論的な概念でありかつ、実存カテゴリーでもあります。だから「存在論的に<世界>について問うときには、わたしたちは決して現存在の分析論の主題的な領域から離れることはない」のであり、本質的に「世界」とは、先に見てきたような眼前存在者の規定ではなくて、「現存在そのものの性格」なのです。したがって世界という現象を捉えるためには、基礎存在論としての現存在の分析論を遂行する必要があるのです。

 ここでハイデガーは、これまでの考察において使用されてきた「世界」という言葉の多様な意味を4つにわけて整理しています。

1. Welt wird als ontischer Begriff verwendet und bedeutet dann das All des Seienden, das innerhalb der Welt vorhanden sein kann.

2. Welt fungiert als ontologischer Terminus und bedeutet das Sein des unter n. 1 genannten Seienden. Und zwar kann >Welt< zum Titel der Region werden, die je eine Mannigfaltigkeit von Seiendem umspannt; z. B. bedeutet Welt soviel wie in der Rede von der >Welt< des Mathematikers die Region der möglichen Gegenstände der Mathematik. (p.64)
第1に、世界は存在者的な概念として使用され、この語は世界の内部で眼前的に存在しうる存在者の全体を意味する。

第2に、世界は存在論的な用語として機能し、第1項であげた存在者の存在を意味する。またこの意味では「世界」という語は、それぞれ多様な存在者を包括する領域の名称となることがある。たとえば数学者の「世界」と言う場合、世界は数学の対象となりうるすべてのものの領域を指すことになる。

 「世界」の語の第1の使用のされ方は、家屋や樹木、人間、星などについて描写し、こうした存在者の総体を「世界」と呼ぶというものです。これがもっともわかりやすい意味での世界と言えるでしょう。
 第2の意味は、世界内部的な存在者の存在を示したり、こうした存在者を包括する領域を指すものです。「世界」を眼前存在者の総体とみなす視座においては、その存在である「実体性」こそが考察の対象になるべきものとして提起されることになります。

3. Welt kann wiederum in einem ontischen Sinne verstanden werden, jetzt aber nicht als das Seiende, das das Dasein wesenhaft nicht ist und das innerweltlich begegnen kann, sondern als das, >worin< ein faktisches Dasein als dieses >lebt<. Welt hat hier eine vorontologisch existenzielle Bedeutung. Hierbei bestehen wieder verschiedene Möglichkeiten: Welt meint die >öffentliche< Wir-Welt oder die >eigene< und nächste (häusliche) Umwelt.

4. Welt bezeichnet schließlich den ontologisch-existenzalen Begriff der Weltlichkeit. Die Weltlichkeit selbst ist modifikabel zu dem jeweiligen Strukturganzen besonderer >Welten<, beschließt aber in sich das Apriori von Weltlichkeit überhaupt. Wir nehmen den Ausdruck Welt terminologish für die unter n. 3 fixierte Bedeutung in Anspruch. Wird er zuweilen im erstgenannten Sinne gebraucht, dann wird diese Bedeutung durch Anführungszeichen markiert. (p.65)
第3に、世界をふたたび存在者的な意味で理解し、ただし今度は世界内部的に出会うことができる存在者であって、本質的に現存在ではない存在者を意味するのではなく、事実的な現存在が"「そのうちで」"事実的な現存在として「生活している」ところを意味することがある。この場合には、世界という語は前存在論的に実存的な意義をそなえている。これについてはさまざまな可能性が考えられる。世界は「公共的な」わたしたちの世界を意味することも、「自分だけの」世界や、もっと身近な(家庭的な)環境世界を意味することもある。

第4として最後に、世界は"世界性"という存在論的で実存論的な概念を示す。世界性そのものは、特殊な「諸世界」のそれぞれの構造の全体に合わせて変容することができるが、そのうちに世界性一般というアプリオリなものを含んでいるのである。以下では、世界という語は第3項で規定した意味を示すために使うことにする。そしてときに第1項で示した意味で使うときには、「世界」と括弧で囲んで示すことにする。

 先の2つと異なり、「世界」の第3第4の意味は、世界のうちで生きる現存在の実存という視点から考察されています。第3は、現存在からみた存在者の総体を、世界として解釈するものです。この視点では世界は「わたしたちの世界」や「公共的な世界」として考えられることになり、「事実的な現存在が"そのうちで"事実的な現存在として<生活している>ところを意味する」ようになります。ただし、「この場合には、世界という語は前存在論的に実存的な意義をそなえている」のであって、この視点は存在者的なものにとどまります。
 第4は、世界という概念を、現存在の実存する場として理解するものです。このように理解された世界は、「"世界性"という存在論的で実存論的な概念」を意味することになり、この世界こそが、本書での実存論的な考察の対象となる世界です。この世界概念のうちにこそ、わたしたちが目指している「世界性一般というアプリオリなもの」があると言われます。
 なお、世界の2つの存在者的な概念のうちで、現存在の世界を世界と呼び、眼前存在者の世界を「世界」と括弧つきで呼ぶことが明記されています。以下ではそれにしたがって、世界の語を使用していきます。

Ein Blick auf die bisherige Ontologie zeigt, daß mit dem Verfehlen der Daseinsverfassung des In-der-Welt-seins ein Überspringen des Phänomens der Weltlichkeit zusammengeht. Statt dessen versucht man die Welt aus dem Sein des Seienden zu interpretieren, das innerweltlich vorhanden, überdies aber zunächst gar nicht entdeckt ist, aus der Natur. Natur ist - ontologisch-kategorial verstanden - ein Grenzfall des Seins von möglichem innerweltlichen Seienden. Das Seiende als Natur in diesem Sinne kann das Dasein nur in einem bestimmten Modus seines In-der-Welt-seins entdecken. Dieses Erkennen hat den Charakter einer bestimmten Entweltlichung der Welt. >Natur< als der kategoriale Inbegriff von Seinsstrukturen eines bestimmten innerweltlich begegnenden Seienden vermag nie Weltlichkeit verständlich zu machen. Ebenso ist auch das Phänomen >Natur< etwa im Sinne das Naturbegriffes der Romantik erst aus dem Weltbegriff, d. h. der Analytik des Daseins her ontologisch faßbar. (p.65)
これまでの存在論的な探究を振り返ってみると、世界内存在という現存在の機構が捉え損なわれているだけでなく、それと同時に世界性の現象もまた"飛び越されて"きたことが明らかである。その代わりに、世界内部的に眼前存在する存在者、そしてさしあたりまったく露呈されていない存在者の存在から、すなわち自然のほうから、世界を解釈しようとしてきたのである。存在論的かつカテゴリー的にみるかぎり、自然とは世界内部的に存在しうる存在者の存在の極限的な事例である。現存在が存在者をこのように自然として露呈させることができるのは、現存在の世界内存在にそなわる特定の様態においてだけである。このように認識することには、ある意味では世界を非世界化するという性格がそなわっているのである。その場合には「自然」という概念は、世界内部的に出会う特定の存在者の存在構造をカテゴリー的に統括したものとなるのであり、この自然の概念によっては、"世界性"を決して理解できないのである。同様に、たとえばロマン派的な自然概念の意味での「自然」という現象も、こうした世界概念に基づいてしか、すなわち現存在の分析論によらなければ、存在論的に捉えることはできないのである。

 伝統的な哲学の「世界」の概念では、世界を「世界」として、眼前存在者の総体、すなわち伝統的な意味での自然として捉えているために、この観点からは現存在の世界と世界性については考察することができないのです。この観点では「世界内存在という現存在の機構が捉え損なわれているだけでなく、それと同時に世界性の現象もまた"飛び越されて"きた」のです。このような伝統的な世界の考察では、世界が世界としてではなく「世界」としてしか考察されないために、こうした自然としての世界の認識には、「ある意味では世界を非世界化するという性格がそなわっている」と言われるのです。
 世界性の現象に近づくためには、何らかの適切な現象的な手掛かりが必要になります。こうした手掛かりを獲得することで、飛び越しが起こらないように予防策を講じておく必要があるのです。

Die methodische Anweisung hierfür wurde schon gegeben. Das In-der-Welt-sein und sonach auch die Welt sollen im Horizont der durchschnittlichen Alltäglichkeit als der nächsten Seinsart des Daseins zum Thema der Analytik werden. Dem alltäglichen In-der-Welt-sein ist nachzugehen, und im phänomenalen Anhalt an dieses muß so etwas wie Welt in den Blick kommen. (p.66)
そのためにどのような方法が必要かについては、すでに指摘してある。わたしたちはこれにしたがって、世界内存在と世界を、現存在の"もっとも身近な"存在様式である平均的な日常性の地平において、分析論の主題としなければならない。すなわち、日常的な世界内存在を追跡することで、この世界内存在を現象的な手掛かりとして、世界というものを視野にいれようとするのである。

 伝統的な哲学の「世界」の考察は、デカルトが示した「広がりのあるもの」としての実体の概念を手掛かりに行われてきました。そしてこの実体と対比する形で、人間の精神を「思考するもの」と呼び、これもまた実体とみなしたのです。このデカルトの実体の概念の出発点となったのは、広がりのあるものであり、すなわち空間のうちで場を占めるものでした。こうした想定において現存在としての人間は、方法論的に、空間の占める実体から考察されてきたのです。これに対して、世界と世界性の現象を考察するハイデガーの方法、「世界内存在と世界を、現存在の"もっとも身近な"存在様式である平均的な日常性の地平において、分析論の主題」とするという方法は、現存在を眼前存在者とは存在論的に異なる存在者であることを明らかにし、「思考するもの」としてのレス・コギタンスとは存在者的にも存在論的にも異なるものであることを明確に示します。そのため、デカルトのように空間を占める実体の概念を手掛かりとして人間を考察するのではなく、人間を現存在として定義して、この現存在から、現存在としての性格をもたない事物を眼前存在者として考察するという、反対の方向で考察がなされることになります。現存在分析は、自然から現存在とその世界を理解しようとするのではなく、現存在から自然とその「世界」のありかたを理解しようとするのです。

 この存在論的な考察は、世界内存在についての考察であり、この第3章は<世界>の極に重心をおいて考察するものです。この考察は、次の3つの部分で構成されます。

A. Analyse der Umweltlichkeit und Weltlichkeit überhaupt. B. Illustrierende Abhebung der Analyse der Weltlichkeit gegen die Ontologie der >Welt< bei Descartes. C. Das Umhafte der Umwelt und die >Räumlichkeit< des Daseins. (p.66)
A 環境世界性と世界性一般の分析
B デカルトにおける「世界」の存在論と対比した世界性の分析の例示
C 環境世界のまわり性と現存在の「空間性」

 「環境世界性と世界性一般の分析」では、世界性について、それを環境世界性と世界性一般という観点から考察します。「デカルトにおける<世界>の存在論と対比した世界性の分析の例示」では、デカルト哲学の世界の分析の方法論と、その逆の方向を向いた世界性の分析を対比して示します。「環境世界のまわり性と現存在の<空間性>」では、「世界」の世界性としての「まわり性」の概念と、現存在の「空間性」の概念を対比しながら、世界内存在の空間性について詳細に考察することになります。


 今回は以上になります。次回は考察の3つの段階のうち、Aに入っていきます。

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