『存在と時間』を読む Part.26

  第27節 日常的な自己存在と<世人>

 これまでの分析によれば、世界のうちの現存在は、灯台モデルによって捉えることはできず、あたかも空虚な場所であるかのように、つねに他の場所から自己へと反照し、自己に立ち戻るというプロセスでしか、自己を認識できないとされてきました(Part.22参照)。この空虚さは、事物の認識においてだけではなく、他者との関係においても確認できます。わたしたちがもつ欲望は多くの場合、自己から発したものであるよりも、他者との関係で生まれてきたものではないでしょうか。
 わたしたちがさまざまな事物を手に入れようとするのは、他者に対する顧慮そのものではなく、基本的に事物に向けられた配慮的な気遣いです。しかしこの配慮的な気遣いを動かしているものは、実は他者に対する顧慮なのです。

Im Besorgen dessen, was man mit, für und gegen die Anderen ergriffen hat, ruht ständig die Sorge um einen Unterschied gegen die Anderen, sei es auch nur, um den Unterschied gegen sie auszugleichen, sei es, daß das eigene Dasein - gegen die Anderen zurückbleibend - im Verhältnis zu ihnen aufholen will, sei es, daß das Dasein im Vorrang über die Anderen darauf aus ist, sie niederzuhalten. Das Miteinandersein ist - ihm selbst verborgen - von der Sorge um diesen Abstand beunruhigt. Existenzial ausgedrückt, es hat den Charakter der Abständigkeit. Je unauffälliger diese Seinsart dem alltäglichen Dasein selbst ist, um so hartnäckiger und ursprünglicher wirkt sie sich aus. (p.126)
ひとは他者たちとともに、他者たちのために、他者たちに対抗して獲得したものを配慮的に気遣うのだが、そこには他者たちとの<差異>についての気遣いがつねに含まれている。こうした気遣いが行われるのは、たんに他者たちを自己と違うものとして差別したことの埋め合わせのためであったり、それぞれに固有の現存在が、他者たちにたいして遅れをとっているために、他者たちとの関係のうちで、こうした遅れを取り戻したいと考えるためであったりする。また、現存在が他者たちにたいして優位にあるときに、他者たちを抑えつけておこうとするためであることもあるだろう。共同相互存在は、このような他者たちとの<隔たり>について気遣いするため、みずから意識することなく、安らぎがえられなくなっている。実存論的には、これは”疎遠さ”という性格をそなえている。この存在様式は、日常的な現存在自身には目立たないものとなっているが、実はそれだけ執拗に、根源的なものとして働いているのである。

 事物についての気遣いのうちに、「他者たちとともに、他者たちのために、他者たちに対抗して獲得したものを配慮的に気遣う」という他者への顧慮という核がそなわっています。事物に向けられる配慮的な気遣いは、同時に、他者に対する顧慮的な気遣いの連関のうちでしか実現されません。そしてそこには、「他者たちとの<差異>についての気遣いがつねに含まれている」のです。言うならば、現存在には他者との違いをつけようとしたり、逆に他者と違わないようにしようとしたりすることが、本質的な傾向としてあるということです。
 この「他者との<差異>についての気遣い」の動機として、ハイデガーは3つを挙げています。第1は、「たんに他者たちを自己と違うものとして差別したことの埋め合わせのため」です。これは他者に対して違いを誇示した後の心理的な補償のようなものとして考えられています。
 第2は、「他者たちにたいして遅れをとっているために、他者たちとの関係のうちで、こうした遅れを取り戻したいと考えるため」という動機です。この動機は、すでにわたしに対して違いをつけている他者への対抗心です。
 第3は、わたしが他者に対してすでに違いを誇示しており、そうした優位を維持するために「他者たちを抑えつけておこうとするため」であることもあるでしょう。第1の動機が他者と違わないことに配慮しているのに対し、この第3の動機は、他者との違いをつけることに配慮しています。
 これらのどの動機にしても、「共同相互存在は、このような他者たちとの<隔たり>について気遣いするため、みずから意識することなく、安らぎがえられなくなってい」ます。この存在様式は、実存論的には、他者たちとの「”疎遠さ”」という性格をそなえていると指摘されます。これは、「日常的な現存在自身には目立たないものとなっているが、実はそれだけ執拗に、根源的なものとして働いている」のです。

 現存在は共同相互存在としては、たえず他者を顧慮しつづけなければならなくなっているのであり、他者たちの支配のもとにあります。こうした存在様式によって生まれる現存在の他者への配慮のありかたは、実際には現存在に対して自己を忘却させる働きをするものであることは明らかでしょう。
 この「他者との<差異>についての気遣い」の、「他者」とは一体誰でしょうか。

Das Belieben der Anderen verfügt über die alltäglichen Seinsmöglichkeiten des Daseins. Diese Anderen sind dabei nicht bestimmte Andere. Im Gegenteil, jeder Andere kann sie vertreten. Entscheidend ist nur die unauffällige, vom Dasein als Mitsein unversehens schon übernommene Herrschaft der Anderen. Man selbst gehört zu den Anderen und verfestigt ihre Macht. >Die Anderen<, die man so nennt, um die eigene wesenhafte Zugehörigkeit zu ihnen zu verdecken, sind die, die im alltäglichen Miteinandersein zunächst und zumeist >da sind<. Das Wer ist nicht dieser und nicht jener, nicht man selbst und nicht einige und nicht die Summe Aller. Das >Wer< ist das Neutrum, das Man. (p.126)
現存在がさまざまにそなえている日常的な存在可能性を、他者たちの意向が自由に操っているのである。その際には、こうした他者たちとは”特定の”他者たちのことではない。反対に、どの他者でも、こうした他者たちでありうる。ここで決定的に重要なのは、共同存在である現存在がみずから意識せずに、他者たちによる目立たない支配を、すでに受けいれてしまっているということである。ひとは誰もがこうした他者たちの1人であり、その力を強めているのである。ひとはこうしたひとびとのことを「他者たち」と呼ぶが、それは自分自身も本質的にこうした他者たちに属していることを隠すためであり、こうした「他者たち」とは、日常的な共同相互存在において、さしあたりたいていは”「そこにいる」”ひとびとのことなのである。この<誰>とは、このひとでもあのひとでもなく、ひとそのものでもなく、数人のひとでもなく、すべてのひとびとの総計でもない。この「誰」とはとくに誰でもない中性的なもの、”世人”である。

 他者とは隣人であり、その他のすべての人であり、具体的にどの人と呼ぶことができません。「こうした他者たちとは”特定の”他者たちのことではな」く、「反対に、どの他者でも、こうした他者たちでありうる」ような「ひと」なのです。この任意の他者を、ハイデガーは「世人(>das Man<)」と呼びます。ドイツ語 >man< は、不定代名詞として「ひと、人々」のような意味で使われます。この >man< を名詞化して特別な概念としたのが >das Man< であり、これには中性名詞の冠詞 >das< 付されています。このようにすることでハイデガーは、「この<誰>とはとくに誰でもない中性的なもの」ということを表現しています。
 世人とは、現存在が「他者との<差異>についての気遣い」によってあくせくしながら自己を忘却してしまう任意の他者のことです。「ここで決定的に重要なのは、共同存在である現存在がみずから意識せずに、他者たちによる目立たない支配を、すでに受けいれてしまっているということである」と指摘されるように、この<差異>についての気遣いによって現存在は、世人による支配と独裁を生みだし、それを強める結果となっていることです。現存在はこうした気遣いのもと、みずからも世人の1人となります。というのも、この気遣いは世界で生きるあらゆる現存在を支配している共通のものだからです。「ひとは誰もがこうした他者たちの1人であり、その力を強めている」のです。
 わたしは他者との<差異>を気にして、流行の服や自動車、家、その他ステータスと呼ばれるような事物を手に入れようとします。その際に働いている動機は、先の3つのいずれかであっても構いません。そしてそのことにおいて、流行のものを身につけた人として、その社会でもっとも典型的な消費者になります。他者と同じように合わせようとする人はもとより、ステータスと呼ばれるものを手にすることによって、他者との違いをつけようをする人も、それを選びとることによって、実はその社会でもっとも典型的でありふれた、<差異のない>人なのです。誰もが他者と同じように選択し、また同じように選択しないというありかたにおいて、現存在はその現存在に固有のありかたを失っているのです。

 そのような世人と化した現存在の日常性におけるありかたを、ハイデガーはこの節で、「平均性」「均等性」「公共性」「存在免責」「迎合」「不断性」などのさまざまな概念を使って考察します。現存在は、他者との<差異>についてを気遣いながら、みずからが世人の支配のもとにあることを露呈します。これらは現代社会における現存在の「日常性の存在様式」と呼べるありかたです。

 こうした「日常性の存在様式」が世人の存在様式であり、「世人の実存論的な性格」となっています。その第1のものとして挙げられるのが「平均性」です。

Das Man hat selbst eigene Weisen zu sein. Die genannte Tendenz des Mitseins, die wir die Abständigkeit nannten, gründet darin, daß das Miteinandersein als solches die Durchschnittlichkeit besorgt. Sie ist ein existenzialer Charakter des Man. Dem Man geht es in seinem Sein wesentlich um sie. Deshalb hält es sich faktisch in der Durchschnittlichkeit dessen, was sich gehört, was man gelten läßt und was nicht, dem man Erfolg zubilligt, dem man ihn versagt. (p.127)
世人には、それに固有の多様なありかたがある。わたしたちが<疎遠さ>と名づけた共同存在にみられる傾向は、共同相互存在のありかたとして、”平均性”を配慮的に気遣うものだということから生まれるのである。この平均性とは、世人の実存論的な性格である。世人はその存在において本質的に、この平均性に関心をもっている。だから世人は事実としてこの平均性のうちに身を置いているのであり、これに基づいて何が平均的なものとして認められるか、何か妥当し、妥当しないか、どのようなものを成功として認めるか、あるいはそれを拒むかを決めているのである。

 世人に支配された現存在は、ひとが楽しむように楽しみ、喜び、悲しみ、怒ります。わたしたちが本を読み、それを批評するのは、ひとが読み、批評するようにです。わたしたちが大衆から身を引くことも、ひとが身を引くようにです。わたしたちはごく平均的な<ひと>としてふるまいます。こうした「ひと」は、ときに世論として表現されるでしょう。どのような意見が妥当なものかを判断するのは、わたしでもあなたでもなく、<ひと>であり、これは人々の平均性に基づいているのです。

Diese Durchschnittlichkeit in der Vorzeichnung dessen, was gewagt werden kann und darf, wacht über jede sich vordrängende Ausnahme. Jeder Vorrang wird geräuschlos niedergehalten. Alles Ursprüngliche ist über Nacht als längst bakannt geglättet. Alles Erkämpfte wird handlich. Jedes Geheimnis verliert seine Kraft. Die Sorge der Durchschnittlichkeit enthüllt wieder eine wesenhafte Tendenz des Daseins, die wir die Einebnung aller Seinsmöglichkeiten nennen. (p.127)
この平均性は、どのような企てを試みることができるか、試みてよいかという好みをあらかじめ定めておいて、例外的なものが登場してくるのを見張っているのである。優位をもつものはすべて、物音1つたてずに抑え込まれてしまう。創造的なものはすべて、一夜にして知り尽くされたもの、当たり障りのないものになってしまう。苦労して獲得されたものもすべて、手頃に手に入るものになる。どんな秘儀もその力を失う。この平均性の気遣いはここでも、現存在の別の本質的な傾向をあらわにするのである。これをすべての存在可能性の”均等化”と呼ぶことにしよう。

 現代社会の退屈さを作りだしているのも、こうした人々の平均的なありかたです。世人が平均性において支配を実現するプロセスとして、4つの例をあげています。
 第1に、「この平均性は、どのような企てを試みることができるか、試みてよいかという好みをあらかじめ定めておいて、例外的なものが登場してくるのを見張ってい」ます。平均性は、出る杭を打つのです。
 第2に、平均性によって、「優位をもつものはすべて、物音1つたてずに抑え込まれてしま」います。
 第3に、「創造的なものはすべて、一夜にして知り尽くされたもの、当たり障りのないものになってしま」います。平均性は、例外的で創造的なものをたんに抑えつけるだけではなく、あたかも当然のものであるかのように扱うことで、その創造性を否定し、奪ってしまいます。
 第4に、平均性はすべてのものを「手頃に手に入るもの」にしてしまいます。そこでは、他者に明かされない秘密の理論のようなものは存在しません。「どんな秘儀もその力を失」い、<差異>についての気遣いのもとで、どんなものもすべて、手頃に手に入るものにするのです。
 このようにして、<差異>についての気遣いは、平均的なものに帰着します。これはすべてを「”均等化”」することにほかなりません。世人の第2の特徴である「均等化」という存在様式は、現存在に固有な存在可能性を平均的なものにしてしまうのです。

 世人の第3の特徴として指摘されるのが「公共性」です。

Abständigkeit, Durchschnittlichkeit, Einebnung konstituieren als Seinsweisen des Man das, was wir als >die Öffentlichkeit< kennen. Sie regelt zunächst alle Welt- und Daseinsauslegung und behält in allem Recht. Und das nicht auf Grund eines ausgezeichneten und primären Seinsverhältnisses zu den >Dingen<, nicht weil sie über eine ausdrücklich zugeeignete Durchsichtigkeit des Daseins verfügt, sondern auf Grund des Nichteingehens >auf die Sachen<, weil sie unempfindlich ist gegen alle Unterschiede des Niveaus und der Echtheit. Die Öffentlichkeit verdunkelt alles und gibt das so Verdeckte als das Bekannte und jedem Zugängliche aus. (p.127)
他者との<疎遠さ>、平均性、均等性は、世人の存在のありかたを示すものであって、これがすでに「公共性」として知られてきたものを構成する。この公共性は、すべての世界解釈と現存在解釈をさしあたり規制し、すべてのことで自分の正しさを主張する。それが正しいというのは、「物事」にかんして、傑出した第1義的な存在関係をそなえているからではないし、現存在が身につけた明示的な洞察をしているからでもない。その反対に、「事象そのもの」に決して立ち入らないからである。つまり公共性は、すべての水準の違いと真偽の差異にまったく無感覚だからである。公共性はすべてのものを不明確なものとしてしまい、このようにして隠蔽されたものを、周知のものであり、誰もが近づくことのできるものであると言い触らすのである。

 公共性の第1の特徴は、個人的な意見や解釈を却下しながら、「すべての世界解釈と現存在解釈をさしあたり規制し、すべてのことで自分の正しさを主張する」ことです。しかも、公共性がこのようにみずからの正しさを僭称することができるのは、それが現存在についての洞察をもたずに、「すべての水準の違いと真偽の差異にまったく無感覚だから」です。公共性は「<事象そのもの>に決して立ち入らない」のです。
 公共性の第2の特徴は、真の意味での真理を知らずに、「すべてのものを不明確なものとしてしまい、このようにして隠蔽されたものを、周知のものであり、誰もが近づくことのできるものであると言い触らす」ことにあります。この公共性は、人々をこうしたあいまいさへと誘惑するのであり、こうした公共性に対立することが、私的な実存のありかたであると誤認されるのです。私的な実存は、公共性を否定することありかたによって、みずからが実存していることを実感できるのですが、それは公共性の罠にすぎず、そこでは私的なものの無力が露呈されているだけなのです。

 世人の第4の特徴は、存在免責です。

Das Man ist überall dabei, doch so, daß es sich auch schon immer davongeschlichen hat, wo das Dasein auf Entscheidung drängt. Weil das Man jedoch alles Urteilen und Entscheiden vorgibt, nimmt es dem jeweiligen Dasein die Verantwortlichkeit ab. Das Man kann es sich gleichsam leisten, daß >man< sich ständig auf es beruft. Es kann am leichtsten alles verantworten, weil keiner es ist, der für etwas einzustehen braucht. Das Man >war< es immer und doch kann gesagt werden, >keiner< ist es gewesen. In der Alltäglichkeit des Daseins wird das meiste durch das, von dem wir sagen müssen, keiner war es. (p.127)
世人はどこにでもいる。しかも現存在が決断を迫られるときには、世人はすでにつねに姿を消してしまっている。だが世人はあらゆる決定と決断をすでに与えてしまっているので、それぞれの現存在はもはや責任というものを取ることができなくなっている。「ひと」はいつも世人をひきあいにだそうとするが、世人はそれを平然とうけいれることができる。世人はすべてのことについて軽々と責任をひきうけるが、それはどの「ひと」も、責任をとる必要のある「ひと」ではないからである。世人こそ、その責任をとる必要のあるひとで”あった”が、それでもやはり「誰も」責任をとる必要のあるひとでは「なかった」と言われるのである。現存在の日常性においては、多くのことが、誰もが責任をとる必要のあるひとではなかったと言わざるをえないようなことによって起こされているのである。

 人は誰しも、みずからの行為については、何らかの責任を負わざるをえません。どのような場合にも、人はある決断を下すのであり、その決断と行為に対しては責任を負うはずです。しかし世界では、現存在はみずから決断を下す機会が奪われていることが多いです。「世人はあらゆる決定と決断をすでに与えてしまっているので、それぞれの現存在はもはや責任というものを取ることができなくなっている」のです。
 たとえば「同調圧力」や「いじめ」などの現象は、こうした場の空気の支配をごくわかりやすく示しているのではないでしょうか。これらの現象においては、その場の空気を読まずに行動することは、その人にとって何らかの不利な結果が起こる可能性が高いものです。とはいえ、この空気の責任者を探しだし、その者の責任を問うことはかなり困難になるでしょう。こうした現象はその場の空気が生んだものであるだけに、誰もがほかの人が始めたのだと主張することができるからです。このどこにもいて、どこにもいないのが世人です。誰もがこの世人の一員であり、誰もが世人そのものではないので、「世人こそ、その責任をとる必要のあるひとで”あった”が、それでもやはり<誰も>責任をとる必要のあるひとでは<なかった>と言われる」のです。
 これは、現存在からみずからの責任を免除するという意味では、現存在に歪な恩恵を与えるものです。ハイデガーは、現存在の存在様式そのものを侵し、変えていくこの免責を「存在免責」と呼びます。世人によるこの免責は、現存在の存在そのものにかかわる免責なのです。
 この存在免責にはさらに別の効果もあります。

Das Man entlastet so das jeweilige Dasein in seiner Alltäglichkeit. Nicht nur das; mit dieser Seinsentlastung kommt das Man dem Dasein entgegen, sofern in diesem die Tendenz zum Leichtnehmen und Leichtmachen liegt. Und weil das Man mit der Seinsentlastung dem jeweiligen Dasein ständig entgegenkommt, behält es und verfestigt es seine hartnäckige Herrschaft.
Jeder ist der Andere und Keiner es selbst. Das Man, mit dem sich die Frage nach dem Wer des alltäglichen Daseins beantwortet, ist das Niemand, dem alles Dasein im Untereinandersein sich je schon ausgeliefert hat. (p.127)
こうしてそれぞれの現存在はその日常性において、世人によって”免責される”。それだけではない。現存在には、軽々しく引き受け、軽々しく行為する傾向があるために、世人はこの存在免責によって、現存在に迎合するのである。そして世人がこの存在免責によってたえずそれぞれの現存在に迎合しつづけるので、世人はその根強い支配力を維持し、さらに強化するのである。
誰もが他者であり、誰一人として自分自身ではない。日常的な現存在であるのは”誰なのか”という問いには、それは”世人”であると答えられる。この世人とは、”誰でもないひと”であり、この誰でもないひとに、すべての現存在は、<たがいに重なりあうように存在>しながら、みずからをつねにすでに引き渡してしまっているのである。

 存在免責は、現存在を決断と行為から免責し、軽々しく決断し、行為する傾向を強めます。それによって「世人はその根強い支配力を維持し、さらに強化する」のです。この「迎合」が、世人の第5の特徴になります。
 このような世人の迎合と存在免責の力はきわめて強いものであるために、やがては現存在は自己を喪失し、どこにでもいる「ひと」と同じような存在となり、「すべての現存在は、<たがいに重なりあうように存在>しながら、みずからをつねにすでに引き渡してしまっている」のです。

 世人の第6の特徴として、ハイデガーは「不断性」という概念を挙げています。

In den herausgestellten Seinscharakteren des alltäglichen Untereinanderseins, Abständigkeit, Durchschnittlichkeit, Einebnung, Öffentlichkeit, Seinsentlastung und Entgegenkommen liegt die nächste >Ständigkeit< des Daseins. Diese Ständigkeit betrifft nicht das fortwährende Vorhandensein von etwas, sondern die Seinsart des Daseins als Mitsein. In den genannten Modi seiend hat das Selbst des eigenen Daseins und das Selbst des Andern sich noch nicht gefunden bzw. verloren. (p.128)
日常的な<たがいに重なりあうように存在>している現存在の存在性格についてこれまで、疎遠さ、平均性、均等化、公共性、存在免責、迎合などをとりだしてきたが、こうした存在性格には現存在のもっとも身近な「不断性」が示されている。この不断性とは、何かが不断に眼前的な存在者として存在しつづけることを示すのではなく、共同存在としての現存在の存在様式にかかわるものである。ここに示したさまざまな様態において存在するとき、それぞれの固有の現存在の自己と他者の自己は、みずからをまだみいだしていないか、あるいはすでに失っているのである。

 現存在は不断に世人の支配のもとにあります。このことは「何かが不断に眼前的な存在者として存在しつづけることを示すのではなく、共同存在としての現存在の存在様式にかかわるもの」です。現存在は絶えず、こうした共同存在として世人の支配のもとにあり、平均性などのさまざまな特徴を「不断に」示しつづけるのです。

 現存在が眼前的に存在しないのと同じように、世人も眼前的に存在するものではありません。しかも世人は、公然とふるまえばふるまうほど捉えにくくなり、隠蔽されたものとなります。しかし世人は、どこにもいない存在ではありますが、無ではありません。

Dem unvoreingenommenen ontisch-ontologischen >Sehen< enthüllt es sich als das >realste Subjekt< der Alltäglichkeit. Und wenn es nicht zugänglich ist wie ein vorhandener Stein, dann entscheidet das nicht im mindesten über seine Seinsart. Man darf weder vorschnell dekretieren, dieses Man ist >eigentlich< nichts, noch der Meinung huldigen, das Phänomen sei ontologisch interpretiert, wenn man es etwa als nachträglich zusammengeschlossenes Resultat des Zusammenvorhandenseins mehrerer Subjekte >erklärt<. Vielmehr muß sich umgekehrt die Ausarbeitung der Seinsbegriffe nach diesen unabweisbaren Phänomenen richten. (p.128)
存在者的かつ存在論的に先入観のないまなざしで「見る」ならば、世人は日常性のなかで「もっとも実在的な主体」であることがあらわになる。そしてわたしたちは世人に、眼の前にある石のように近づくことはできないとしても、このことはその存在様式についていかなる決定を下すものでもない。この世人というものは「本来は」無にすぎないと即断することはできない。また複数の主体が集まって眼前的に存在したのちに事後的に合成して生まれたものであると「説明」することで、この現象は存在論的に解釈されたのであるという見解を信奉してもならない。むしろ反対に、どうしても否定することのできないこれらの現象に基づいて、さまざまな存在概念を仕上げる必要があるのである。

 世人は、人々が一致して認めることができるような客観的な存在ではないし、反対に人々の主観のうちだけに存在するものでもありません。実在性が現存在にふさわしい存在という意味で理解するなら、「世人は日常性のなかで<もっとも実在的な主体>」です。世界に存在するのは、わたしやあなたなどの個人であるよりも、こうした世人であると考える方が適切であると、ハイデガーは指摘しています。

Das Man ist ein Existenzial und gehört als ursprüngliches Phänomen zur positiven Verfassung des Daseins. Es hat selbst wieder verschiedene Möglichkeiten seiner daseinsmäßigen Konkretion. Eindringlichkeit und Ausdrücklichkeit seiner Herrschaft können geschichtlich wechseln. (p.129)
”世人は実存カテゴリーであり、根源的な現象として、現存在の積極的な機構に属するものである。世人自身はまた、現存在にふさわしいかたちで具体化される多様な可能性をそなえている。世人による支配がどの程度まで強力なものであるか、そして明確な形で表現されるかは、歴史的に変化することがありうる。

 世人とは、「実存カテゴリーであり、根源的な現象として、現存在の積極的な機構に属するもの」なのです。世人は現存在の実存カテゴリーとして、「共同存在としての現存在の存在様式かかわる」ものであるだけに、現存在は<誰>かという問いには、世人であるという答えが出されることになります。「日常的な現存在であるのは”誰なのか”という問いには、それは”世人”であると答えられる」のです。

 ここで重要な問いが生まれることになります。このように不断に世人が現存在を支配しているならば、現存在の実存を規定するはずの「自己」はどこにいったのかという問いです。そもそも実存するということは、自己であることを意味していました。「現存在はつねに自らを自己の実存から理解している。現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身の可能性から、自己を理解しているのである」(Part.2参照)。するとこのように現存在は現存在自身ではなく、世人であるとなると、現存在がみずからを理解するはずの「自己」はどうなったのでしょうか。
 世人の支配のもとで現存在は、自己を喪失しているとハイデガーは指摘します。世人としての自己が現存在の自己の代わりをなすとき、「それぞれの固有の現存在の自己と他者の自己は、みずからをまだみいだしていないか、あるいはすでに失っている」ということになります。日常的な現存在の「もっとも実在的な主体」とは、それぞれの現存在の固有な自己ではなく、世人なのです。
 少々長いですが原文をはさみます。

Das Selbst des alltäglichen Daseins ist das Man-selbst, das wir von dem eigentlichen, das heißt eigens ergriffenen Selbst unterscheiden. Als Man-selbst ist das jeweilige Dasein in das Man zerstreut und muß sich erst finden. Diese Zerstreuung charakterisiert das >Subjekt< der Seinsart, die wir als das besorgende Aufgehen in der nächst begegnenden Welt kennen. Wenn das Dasein ihm selbst als Man-selbst vertraut ist, dann besagt das zugleich, daß das Man die nächste Auslegung der Welt und des In-der-Welt-seins vorzeichnet. Das Man-selbst, worum-willen das Dasein alltäglich ist, artikuliert den Verweisungszusammenhang der Bedeutsamkeit. Die Welt des Daseins gibt das begegnende Seiende auf eine Bewandtnisganzheit frei, die dem Man vertraut ist, und in den Grenzen, die mit der Durchschnittlichkeit des Man festgelegt sind. Zunächst ist das faktische Dasein in der durchschnittlich entdeckten Mitwelt. Zunächst >bin< nicht >ich< im Sinne des eigenen Selbst, sondern die Anderen in der Weise des Man. Aus diesem her und als dieses werde ich mir >selbst< zunächst >gegeben<. Zunächst ist das Dasein Man und zumeist bleibt es so. Wenn das Dasein die Welt eigens entdeckt und sich nahebringt, wenn es ihm selbst sein eigentliches Sein erschließt, dann vollzieht sich dieses Entdecken von >Welt< und Erschließen von Dasein immer als Wegräumen der Verdeckungen und Verdunkelungen, als Zerbrechen der Verstellungen, mit denen sich das Dasein gegen es selbst abriegelt. (p.129)
日常的な現存在の自己は、”世人自己”であり、わたしたちはこれを”本来的な自己”、すなわち固有につかみとられた”自己”と区別しておこう。世人自己として存在しているそれぞれの現存在は、世人のうちで”放心している”ので、ことさらにみずからをみつける必要がある。この<放心>は、すでにわたしたちが身近に出会う世界のうちに、配慮的な気遣いをしながら没頭することとして捉えた存在様式のうちにある「主体」の特徴である。現存在が世人自己としての自分自身に親しんでいるならば、それは世人によって世界と世界内存在のごく身近な解釈がすでに素描されていることを意味する。世人自己は、現存在が日常的に<そのための目的>として存在しているものであり、有意義性の指示連関の構造を定めているものである。現存在の世界は、そこで出会う存在者を、世人が親しんでいる適材適所性の全体に向けて、しかも世人の平均性によって確定された限度のうちで、<開けわたす>のである。”さしあたりは”、事実的な現存在は平均的に露呈された共同世界のうちに存在している。”さしあたりは”、固有の自己としての「わたし」が「存在している」のではなく、世人というありかたをした他者たちが存在しているのである。この世人のほうから、この世人として、わたしはわたし「自身」にさしあたり「与えられて」いるのである。さしあたり現存在は世人であり、そしてたいていはそのまま世人でありつづける。現存在が世界を固有なかたちで露呈させ、自分に近づけようとするならば、そして自分の本来の存在をみずからに開示しようとするならば、こうした「世界」の露呈と現存在の開示は、つねに現存在が自分を自分自身から遮断するために行っていた隠蔽や暗がりをとりのぞくことによって行われるのであり、偽装を破壊することによって行われるのである。

 ハイデガーにおいて自己とは、もともと現存在の実存の根拠となるもの、それによって現存在が実存しうるものです。自己自身であるありかたをハイデガーは「”本来的な自己”」あるいは「固有につかみとられた”自己”」と呼びます。しかし世界で現存在は、世人の支配のもとで、この「本来的な自己」を忘却しています。現存在である「わたし」、それは「”さしあたりは”、固有の自己としての<わたし>が<存在している>のではなく、世人というありかたをした他者たちが存在している」のです。
 自己は固有の自己としてではなく、他者として存在しているのであり、それが世人です。この頽落したありかたをハイデガーは「世人自己」と呼びます。この概念は、自己のもともとの概念を考えるなら、矛盾した概念です。自己は現存在の実存のありかたそのものだったはずだからです。
 しかし世人に支配され、世人にみずからの自己を委ねてしまった現存在は、知らず知らずのうちに、みずからの自己を喪失してしまっているのであり、この自己喪失は、たんに自己を見失って外部の世界へと赴き、そこでの活動の忙しさによって自己を喪失しているようなありかたではありません。そうではなく、主体は自己をもっていると考えていますが、しかしその自己の場所にいるのは共同存在である他者なのです。そして、「世人自己は、現存在が日常的に<そのための目的>として存在しているものであり、有意義性の指示連関の構造を定めているものである」と指摘されるように、現存在は自己の存在理由をこの「世人自己」のうちに求めるようにすらなっていきます。

 このように現存在の自己が「本来的な自己」であるのではなく、「世人自己」がその自己の位置を示しているということは、いくつかの重要な帰結をもたらします。
 第1は、現存在が世界のうちで「頽落」していることが、この「世人」と「世人自己」の概念によって明らかにされたことです。現存在は世界のうちで「放心」して生きています。「この<放心>は、すでにわたしたちが身近に出会う世界のうちに、配慮的な気遣いをしながら没頭することとして捉えた存在様式のうちにある<主体>の特徴」なのであり、現存在はこの世界のうちに没入して、自己を忘却するのです。
 第2は、現存在は世界に没頭して自己を忘却しているために、世界と世界の存在者について、存在論的に不適切な解釈をするようになります。現存在は世界に没頭しているために、世界現象そのものは<飛び越されて>しまうのであり、その代わりに世界内部的に眼前的に存在するもの、事物が登場することになるのです。そして現存在は自己についても世界のほうから理解し、それを世界内部的な存在者として眼前にみいだすことになります。現存在はみずからを世人自己から理解するので、自己を眼前存在者として解釈するようになるのです。
 第3に、このように現存在が自己を眼前存在者として把握しているため、世界のうちに共同存在している共同現存在としての他者もまた、眼前存在者として理解することになります。

 この節の終わりに、これまでの考察によって、現存在の根本的な機構を具体的に了解することができたのであり、世界内存在は、その日常性と平均性において明らかにされたと、ハイデガーは言います。そして、ここに来てハイデガーの存在論的な考察は、すでに遂行された現存在の存在機構の考察という課題のほかに、新たな課題を提起することになりました。すなわち、喪失された本来の自己をいかにして取り戻すかという課題です。この課題が、『存在と時間』のこれからの重要な考察を導く糸となっていくのです。

Wenn schon das Sein des alltäglichen Miteinanderseins, das sich scheinbar ontologisch der puren Vorhandenheit nähert, von dieser grundsätzlich verschieden ist, dann wird das Sein des eigentlichen Selbst noch weniger als Vorhandenheit begriffen werden können. Das eigentliche Selbstsein beruht nicht auf einem vom Man abgelösten Ausnahmezustand des Subjekts, sondern ist eine existenzielle Modifikation des Man als eines wesenhaften Existenzials. (p.130)
存在論的にはたんなる眼前存在性に近いもののようにみえる日常的な共同相互存在の存在でさえ、すでにこの眼前存在性とは原理的に異なるものであることを考えるならば、本来的な自己の存在は、なおさら眼前存在性として把握することはできないのである。”本来的な自己存在”は、世人というありかたから離脱した主体の例外的な状態ではなく、”本質的な実存カテゴリーである世人が、実存的に変様したものなのである”。

 この課題の遂行において忘れてはならないのは、「”本来的な自己存在”は、世人というありかたから離脱した主体の例外的な状態ではなく、”本質的な実存カテゴリーである世人が、実存的に変様したものなのである”」ということです。世人は現存在が頽落したありかたではありますが、それは現存在にとっては本質的なことであり、現存在が本来的な自己をつかみ取ったとき、この実存カテゴリーがなくなるわけではないのです。本来的な自己とは世人の変様なのであり、世人と切り離されたものでは決してありません。現存在が固有の自己にいたるまでのさしあたりのありかたが、世人自己なのです。現存在は最初に本来的な自己であったわけではなく、最初は世人であることに注意しましょう。


 以上、第27節をもって、第1篇第4章が完了しました。今回の投稿で、光文社古典新訳文庫の『存在と時間』の3分冊目までを完了しました。

 『存在と時間』を読んだことがない方には、こちらの中山訳は読みやすく、解説も丁寧でおすすめいたします。これまでの投稿でも、こちらに付録されている解説を大いに参考にさせていただいております。

 ハイデガーの考察はまだまだ続きます。次回からは第5章に入っていきます。

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