『存在と時間』を読む Part.77

第73節 歴史の通俗的な了解と現存在の生起

 そもそも歴史という語が、実際に人類の歴史において起きた出来事や、こうした出来事について考察する学問としての歴史学を指すこともあることは、すでに確認したとおりです。そしてこの節では、この第1の意味での歴史的な出来事についての考察が展開されます。
 ハイデガーはこうした考察の手掛かりとして、通俗的な歴史の概念について、4つの語義から考察しようとします。歴史という言葉は多義的だからです。
 歴史についての第1の通俗的な概念は、「過ぎ去ったもの」という既往との関係を重視する用法にみられるものです。第2の概念は、とくに既往との関係が重視されず、ある事柄の「由来」を示す用法にみられるものです。第3の概念は、人間の集団や文化など歴史的な存在者の全体を指す用法にみられるものです。第4の概念は、伝承されてきたものを語る用法にみられるものです。

 まず既往との関係を重視する第1の用法については、既往が現在に与えた影響を重視する用法と、既往と現在の抽象的な関係性を重視する用法があります。前者には、消極的で欠如的な影響を強調する観点と、積極的な影響を強調する観点があります。「あれこれのものはもはや歴史に属している」という言葉はよく聞かれるでしょう。たとえば、「刀鍛冶はもはや歴史に属している」と言われた場合です。この言葉は、かつては刀鍛冶が盛んでしたが、今ではごくまれになっていることを意味しています。刀鍛冶は過去のもの、「過ぎ去ったもの」であることを強調しているのです。

>Vergangen< besagt hier einmal: nicht mehr vorhanden oder auch: zwar noch vorhanden, aber ohne >Wirkung< auf die >Gegenwart<. (p.378)
ここで「過ぎ去ったもの」とは、〈もはや眼前に存在しないもの〉であるか、あるいは〈まだ存在しているが、もはや「現在」には「影響」しないもの〉という意味である。

 「過ぎ去ったもの」とはこのような意味であり、ここでは現在にたいする過去の欠如的な影響が強調されています。
 あるいは「ひとは歴史から逃れることはできない」という表現もあります。これはたとえば「現代の日本は、植民地時代に犯した罪の歴史から逃れることはできない」などと語る場合です。

Hier meint Geschichte das Vergangene, aber gleichwohl noch Nachwirkende. (p.378)
この表現では歴史とは〈過ぎ去ったもの〉ではあるが、まだ〈影響しつづけているもの〉のことである。

 ここでは現在にたいする過去の積極的な影響が強調されています。このどちらの表現も、「歴史」がたんに過ぎ去った昔のことを思い出させるのではなく、現在とのかかわりが重視されているという特徴があります。
 このような現存在への「影響」という観点からみた「歴史」の語の用法とは違って、現在との抽象的な関係性を指摘する用法もあります。これはもはや現在との関係を直接にたどることができない歴史の出来事が語られる場合です。世界史年表などをひろげてみれば、古代から中世にアフリカ王国の歴史など、わたしたちの現在の生活とはほとんど関係がないとしか思えない遠い世界の多くの出来事もまた多く語られています。もちろん現代とそうした出来事の結びつきを辿ろうとすれば辿ることができるとしても、もはや過ぎ去った出来事にすぎないでしょう。
 あるいは過去の遺物であって、現在もなおその一部を目撃することができるものもあります。戦国時代に製造された刀がその一例であって、わたしたちはたとえばそれを博物館で目の当たりにして、500年前の時代に思いを馳せることができるでしょう。すなわちその刀には過去の片鱗が、いまだにその刀とともに現在的なものなのです。

 第2は、「由来としての歴史」という現在や未来との関係を重視する用法です。たとえば、あるお祭りが歴史的な意味のある風習と言われたなら、それはそのお祭りにどのような歴史的な背景と由来があるか、そしてこの風習が未来においてどのような発展を遂げるかが問われているのです。あるいは「時代を画する出来事」と呼ばれる出来事は、現代におけるその出来事が、未来においても大きな影響を与える重要な「歴史的な事件」として回顧されるであろうことを意味します。日本史におけるペリーの来航は、その後の日本が辿る道に大きな影響を及ぼした事件として、時代を画する出来事と呼ばれるに値するでしょう。

>Epochemachend< bestimmt es >gegenwärtig< eine >Zukunft<. Geschichte bedeutet hier einen Ereignis- und >Wirkungszusammenhang<, der sich durch >Vergangenheit<, >Gegenwart< und >Zukunft< hindurchzieht. (p.378)
そうしたものは「時代を画す」ものとして、「現在的」でありながら、「未来」を規定するのである。この用法では歴史は、「過去」「現在」「未来」を貫く出来事の連関であり、その「作用の連関」である。


 第3は、自然と対比した形での人間の集団や、集団的な文化などの「変動と運命」を示す用法です。日本人の歴史と言えば、たとえば日本人が「古事記」をどのように解釈し、どのように集団的なアイデンティティを維持しつづけたか、そしてどのようにして西欧思想を取り入れていったのかが考察されるのです。

 第4は、伝承されたものが「歴史」とみなされることがあります。「古事記」や「聖書」などは、神道やキリスト教を支え、説明する文章として伝えられたものですが、それ自体が1つの歴史となっています。

 これらの4つの語義についてハイデガーは、次のように総括します。

Wenn wir die genannten vier Bedeutungen in eins zusammennehmen, dann ergibt sich: Geschichte ist das in der Zeit sich begebende spezifische Geschehen des existierenden Daseins, so zwar, daß das im Miteinandersein >vergangene< und zugleich >überlieferte< und fortwirkende Geschehen im betonten Sinne als Geschichte gilt. (p.379)
これまであげた4つの語義をまとめてみると、歴史とは、実存する現存在が時間のなかで発生する特殊な生起のことである。共同相互存在のうちで、「過ぎ去ったもの」となっていながら、「伝承されて」、さらに影響を及ぼしつづけている生起が、とくに強調された意味での歴史と呼ばれるということになる。

 これらの4つの語義に共通しているのは、どれもが出来事の主体としての人間にかかわることです。しかし歴史と人間の関係についてはいくつもの考え方がありえます。

Ist das Dasein zuvor schon faktisch >vorhanden<, um dann gelegentlich >in eine Geschichte< zu geraten? Wird das Dasein erst geschichtlich durch eine Verflechtung mit Umständen und Begebenheiten? Oder wird durch das Geschehen allererst das Sein des Daseins konstituiert, so daß, nur weil Dasein in seinem Sein geschichtlich ist, so etwas wie Umstände, Begebenheiten und Geschicke ontologisch möglich sind? (p.379)
現存在はあらかじめ事実的にすでに「眼前的に存在」していて、その後で「ある歴史のうちに」ときおり登場するのだろうか。現存在はまずさまざまな事情や事件に巻き込まれて、はじめて歴史的に”なる”のだろうか。あるいは生起がまず現存在の存在を構成し、”現存在がその存在において歴史的であるからこそ”、事情、事件、運命のようなものが存在論的に可能になるのだろうか。

まず、「現存在はあらかじめ事実的にすでに〈眼前的に存在〉していて、その後で〈ある歴史のうちに〉ときおり登場する」という考え方があるでしょう。これは人間の実存を無視した考え方ですが、通俗的な歴史の概念ではよくみられるものです。江戸時代の歴史に登場する民衆を、時代劇をみるように、歴史のうちで名前を挙げられない無名の人々とみなすなら、それは人間を眼前的な存在者であるかのように考えるものであり、こうした誤謬に陥っているのです。
 また「現存在はまずさまざまな事情や事件に巻き込まれて、はじめて歴史的に”なる”」と考えることもあるでしょう。これも同じような誤った見方であるのは明らかです。たとえば戦国時代において、天下を統一した大名だけが歴史的に存在するわけではないからです。
 あるいは「生起がまず現存在の存在を構成し、”現存在がその存在において歴史的であるからこそ”、事情、事件、運命のようなものが存在論的に可能になる」という観点もありえます。これが本書を貫く考え方であり、存在論的に考えるなら、現存在が脱自的な時間性のうちで自分の人生の広がりのうちで、「”自分自身を”伸び広げている」(Part.76)という生起のありかたを経験するからこそ、歴史的な事件や運命が発生するのです。

 このどの考え方を採用するとしても、歴史の語義において「過ぎ去ったもの」としての過去が優位にあることは間違いのないことです。歴史と時間性の関係を考察するには、この過去の優位について考察する必要があるでしょう。
 この問題を考えるために、ハイデガーは博物館に展示された椅子などの家具を実例としてあげています。同様のものとして、ここでは展示物としての刀について考えてみましょう。たとえば熱田神宮の「草薙館」には、国宝や重要文化財に指定された刀剣が複数展示されています。徳川家に忌避されるという妖刀の伝説で「村正」の刀は有名ですが、今になってみれば「美術品」にすぎないこうした刀は、どのような意味で歴史学の対象になることができるのでしょうか。
 このことが問題になるのは、こうした刀はわたしたちの眼の前に存在している事物であり、現在もまだ存在しているからです。それでいてこれは「歴史的な」事物という意味をそなえているのですが、それはどうしてでしょうか。それはこうした刀がまだ時間のうちに存在していて、日々古びていくからでしょうか。しかしそれはわたしたちが毎日使っている道具も同じことであり、こうした時間のうちに存在するという事実は、それを歴史的なものとすることはありません。それがもはや使われていないから「過去のもの」なのでしょうか。しかし納屋の中にしまわれている道具は過去のものであるとしても、「歴史的なもの」ではないでしょう。
 ですから古びているとか、現在において使われていないとかということは、あるものを「歴史的な」ものとする理由にはならないのです。それが「歴史的なもの」となったのは、それを使っていた現存在が生きていた世界がもはや「過ぎ去った」からです。室町時代の村正の活きていた世界は、もはや現代の世界とはきわめて異質な別の世界となっているからです。

Was ist >vergangen<? Nichts anderes als die Welt, innerhalb deren sie, zu einem Zeugzusammenhang gehörig, als Zuhandenes begegneten und von einem besorgenden, in-der-Welt-seienden Dasein gebraucht wurden. (p.380)
何が「過ぎ去った」のだろうか。過ぎ去ったのはほかならぬ”世界”である。それらはかつては特定の道具連関に属するものとして、その世界の内部で手元的な存在者として出会われていたのであり、配慮的な気遣いをする世界内存在である現存在が、それを使用していたのである。

 村正の刀を、「かつては特定の道具連関に属するものとして、その世界の内部で手元的な存在者として」使っていた現存在が属する世界が、もはや過ぎ去ったものとなったために、こうした刀は「歴史的なもの」とみなされるようになったのです。こうした世界はもはや存在しませんが、しかしかつての世界に世界内部的に存在していたものが、今もなお眼前的に存在しているのであり、今なお眼前的に存在しているとしても、過去に属することができるのです。しかしこの「世界がもはや存在しない」ということは、世界が、世界内存在として事実的に存在している実存する現存在のありかたで存在していないということを意味しています。

Der geschichtliche Charakter der noch erhaltenen Altertümer gründet also in der >Vergangenheit< des Daseins, dessen Welt sie zugehörten. (p.380)
このように、まだ保存されている骨董品の歴史的な性格は、それらが所属していた世界を生きていた現存在の「過ぎ去ったありかた」に基づいたものです。

 この過ぎ去った世界は、もはや眼に見えないもの、捉えがたいものです。それでもこの刀からみえてくるのは、過去の世界そのものというよりも、その世界のうちで実存していた現存在なのです。この世界は「〈現に既往して〉いた現存在の世界」なのです。

Die noch vorhandenen Altertümer haben einen >Vergangenheits<- und Geschichtscharakter auf Grund ihrer zeughaften Zugehörigkeit zu und Herkunft aus einer gewesenen Welt eines da-gewesenen Daseins. Dieses ist das primär Geschichtliche. (p.380)
今なお眼前的に存在する骨董品が「過去」としての性格を、その歴史的な性格をもっているのは、〈かつてそこにあった〉既往的な世界に道具として所属していたからであり、そしてその世界に由来するものであるからである。その世界は、〈現に既往して〉いた現存在の世界なのである。この現存在が第1義的に歴史的なものである。

 何よりも歴史的なものは、刀や鎧そのものではなく、もはや捉えることのできなくなった世界のうちで〈現に既往して〉いた現存在なのです。そしてこのように現存在が「歴史的なもの」としての意味をもつことができるのは、現存在が時間的な存在であり、その存在のうちに既往の意味が含まれているからです。現存在は、みずからの時間性の時熟において、将来的に既往しながら現在化しているからこそ、時間的に存在しているのであり、現存在が時間的な存在であるからこそ、刀や鎧などの遺物が、たとえば戦国時代の世界をまざまざと浮かび上がらせるものとして、「歴史的なもの」となることができるのです。

 このようにして、現存在の時間的な存在という性格こそが、過去の遺物を「歴史的なもの」にします。ハイデガーは歴史的なものについて、現存在と他の存在者をわけて考えます。

Primär geschichtlich - behaupten wir - ist das Dasein. Sekundär geschichtlich aber das innerweltlich Begegnende, nicht nur das zuhandene Zeug im weitesten Sinne, sondern auch die Umweltnatur als >geschichtlicher Boden<. Wir nennen das nichtdaseinsmäßige Seiende, das auf Grund seiner Weltzugehörigkeit geschichtlich ist, das Welt-geschichtliche. (p.381)
わたしたちが主張しているのは、”第1義的に”歴史的に存在しているのは現存在であるが、”第2義的には”世界内部的に出会うものもまた、歴史的に存在しているということである。そしてもっとも広義の手元的な道具だけではなく、環境世界の”自然”もまた、「歴史の土台」となるものとして、歴史的に存在しているのである。現存在ではないが、それが世界に所属することに基づいて歴史的であるような存在者のことを、わたしたちは〈世界-歴史的なもの〉と名づけることにしよう。

 現存在そのものは「歴史的なもの」という性格をすでにおびていますが、世界の道具類や人間を囲む自然もまた、この現存在の作りだした過去の世界に所属することによって、「歴史的なもの」という性格をおびます。
 過去の歴史はこのような「歴史的な」現存在と「世界-歴史的な」事物で構成されます。このように歴史の存在論的な考察から明らかになったのは、根本において人間という現存在が歴史の第1義的な主体であるという、なかば当然なことでした。こうした歴史の存在論的な分析が終了した後に新たに問われるのは、このような歴史的な現存在が歴史を作りだすために果たしている存在論的で実存論的な役割がどのようなものなのかということです。

Allein die These: >Das Dasein ist geschichtlich< meint nicht nur das ontische Faktum, daß der Mensch ein mehr oder minder wichtiges >Atom< im Getriebe der Weltgeschichte darstellt und der Spielball der Umstände und Ereignisse bleibt, sondern stellt das Problem: inwiefern und auf Grund welcher ontologischen Bedingungen gehört zur Subjektivität des >geschichtlichen< Subjekts die Geschichtlichkeit als Wesensverfassung? (p.382)
しかし「現存在は歴史的に存在する」というテーゼが主張しようとしているのは、人間は世界史の営みのうちで、それを構成する多少とも重要ではあれ「原子」のようなものにすぎず、さまざまな事情や出来事にもてあそばれる手毬のようなものにすぎないという存在者的な事実だけではない。このテーゼは、”歴史性は、「歴史的な」主体の主体性を構成する本質的な機構であるが、それはどうしてそうなのか、そしてどのような存在論的な条件を根拠としているのか”という問題を提起しているのである。


 今回は以上になります。次回もまたよろしくお願いします。

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