『存在と時間』を読む Part.16

  第17節 指示とめじるし

 これまで手元存在者としての道具の存在構造を解釈してきましたが、そこで明らかになったのは、「指示」という現象でした。この指示と指示全体性が、何らかの意味で世界性そのものを構成する役割をはたすということで、この節では手元存在者の存在から出発ながら、それに基づいて指示そのものの現象を明確に捉えることが試みられます。そのために注目される道具は「めじるし」です。

Wir nehmen wieder den Ausgang beim Sein des Zuhandenen und zwar jetzt in der Absicht, das Phänomen der Verweisung selbst schärfer zu fassen. Zu diesem Zwecke versuchen wir eine ontologische Analyse eines solchen Zeugs, daran sich in einem mehrfachen Sinne >Verweisungen< vorfinden lassen. Dergleichen >Zeug< finden wir vor in den Zeichen. Mit diesem Wort wird vielerlei benannt: nicht nur verschiedene Arten von Zeichen, sondern das Zeichensein für ... kann selbst zu einer universalen Beziehungsart formalisiert werden, so daß die Zeichenstruktur selbst einen ontologischen Leitfaden abgibt für eine >Charakteristik< alles Seienden überhaupt. (p.77)
わたしたちはここでも、手元存在者の存在から出発しながら、これに基づいて"指示"そのものの現象をさらに明確に捉えることを試みてみよう。そのためにいくつかの意味でこうした「指示」をそなえている道具を、存在論的に分析することを試みてみよう。このような「道具」として考えられるのは、"めじるし"である。めじるしという語はさまざまな意味に使われる。さまざまな"種類"のめじるしがあるだけでなく、「~を示すめじるしである」という表現を"普遍的な関係様式"に形式化することができた場合には、めじるしの構造そのものが、あらゆる存在者一般を「性格づける」存在論的な導きの糸となることもあるのである。

 「めじるし」という道具は、製作のために使われる道具とは異なり、道具連関とそれが使われる世界を指し示すという目的をそなえています。ハイデガーによれば、めじるしには、その「めじるしの構造そのものが、あらゆる存在者一般を性格づける存在論的な導きの糸となる」ことができるという特別な性格をそなえているのです。こうした特別な性格をもつという理由から、めじるしは考察の対象となるのです。
 それでは「めじるし」とその特別な性格とは何なのか、考察をたどっていきましょう。

Zeichen sind aber zunächst selbst Zeuge, deren spezifischer Zeugcharakter im Zeigen besteht. Dergleichen Zeichen sind Wegmarken, Flursteine, der Sturmball für die Schiffahrt, Signale, Fahnen, Trauerzeichen und dergleichen. Das Zeigen kann als eine >Art< von Verweisen bestimmt werden. Verweisen ist, extrem formal genommen, ein Beziehen. Beziehung aber fungiert nicht als die Gattung für >Arten< von Verweisungen, die sich etwa zu Zeichen, Symbol, Ausdruck, Bedeutung differenzieren. Beziehung ist eine formale Bestimmung, die auf dem Wege der >Formalisierung< an jeder Art von Zusammenhängen jeglicher Sachhaltigkeit und Seinsweise direkt ablesbar wird. (p.77)
めじるしとはまずそれ自体が道具である。めじるしに特有の道具性格は、"表示する"ことにある。こうしためじるしとしては、道路標識、境界石、船舶の航行のための暴風標識気球、信号、旗、喪章などがある。このように表示することも、指示の「一種」と規定することができる。指示ということを極端なまでに形式化するならば、それは"関係づけ"をすることであると表現できる。しかし指示は、たとえばめじるし、象徴、表現、意義などのさまざまな「種」に分化されるが、この関係づけは、それらの種にたいして類の位置にあるわけではない。関係づけとは、さまざまな事象内容や存在様式の違いを無視して、あらゆる種類の連関のありかたを「形式化」することで直ちに読みとれる形式的な規定のことである。

 道具連関の指示構造を明確に示すためには、指示をその本来の目的とした道具である「めじるし」にいついて考察するのがわかりやすいでしょう。こうした指示そのものを目的とする道具としては、「道路標識、境界石、船舶の航行のための暴風標識気球、信号、旗、喪章」など、すぐに思いつくでしょう。これらは槌のように製作することではなく、指し示すことを機能とする道具です。
 このめじるしとして使われる道具は、その道具のもつ「さまざまな事象内容や存在様式の違い」とは別に、「あらゆる種類の連関のありかたを<形式化>すること」によって、指示の役割をはたしています。ハイデガーは、この指示の機能を「形式化」すると、「関係づけ」という概念が生まれると指摘しています。
 この「関係づけ」については、「指示は、たとえばめじるし、象徴、表現、意義などのさまざまな<種>に分化されるが、このこの関係づけは、それらの種にたいして類の位置にあるわけではない」と述べられています。そして「関係づけ」とは、道具のもつ「さまざまな事象内容や存在様式の違いを無視して、あらゆる種類の連関のありかたを<形式化>することで直ちに読みとれる形式的な規定のことである」と語られているのです。
 続けて次の段落も引用してみます。

Jede Verweisung ist eine Beziehung, aber nicht jede Beziehung ist eine Verweisung. Jede >Zeigung< ist eine Verweisung, aber nicht jedes Verweisen ist ein Zeigen. Darin liegt zugleich: jede >Zeigung< ist eine Beziehung, aber nicht jedes Beziehen ist ein Zeigen. Damit tritt der formal-allgemeine Charakter von Beziehung ans Licht. Für die Untersuchung der Phänomene Verweisung, Zeichen oder gar Bedeutung ist durch eine Charakteristik als Beziehung nichts gewonnen. Am Ende muß sogar gezeigt werden, daß >Beziehung< selbst wegen ihres formal-allgemeinen Charakters den ontologischen Ursprung in einer Verweisung hat. (p.77)
すべての指示は1つの関係づけであるが、その逆にすべての関係づけは指示であるとは言えない。すべての「表示」はある種の指示であるが、その逆にすべての指示がある種の表示であるとは言えない。したがってすべての「表示」はある種の関係づけであると言えるが、その逆にすべての関係づけが表示であるとは言えない。これによって、関係づけというものの形式的で普遍的な性格が明らかになってくる。だからわたしたちが指示やめじるしについて、まして意義のような現象について探求するときに、それらを関係づけとして性格づけても、何の役にも立たないのである。その反対に、「関係づけ」そのものが、その形式的で普遍的な性格の"ために"、指示のうちにその存在論的な源泉をもっていることが、最終的には示されねばならないのである。

 「関係づけ」には「形式的で普遍的な性格」がそなわっていると語られています。そして「<関係づけ>そのものが、その形式的で普遍的な性格の"ために"、指示のうちにその存在論的な源泉をもっていることが、最終的には示されねばならない」と言われていますが、この議論でハイデガーはどのようなことを考えているのでしょうか。
 まず「関係づけ」は「類と種の関係」にはないと指摘されています。類と種とは、序論でも説明されたように、アリストテレスが明確に規定したカテゴリー的な分類方法のことです(Part.1参照)。人間という種は哺乳類という類に、哺乳類は生物という類に含まれる1つの種であるように、「めじるし」は1つの種として、「道路標識、境界石、船舶の航行のための暴風標識気球、信号、旗、喪章など」を含みます。これらの個別の種類のものにとって「めじるし」という概念は、類の位置にあります。この「めじるし」はしかし「指示の一種」であり、「指示」は「めじるし」という種の概念にたいして類の位置にあります。指示、めじるし、旗は、類と種の系列関係のうちにあると言えるでしょう。
 ここで働いているのは「類的な普遍化」と呼べる抽象の営みであり、この普遍化の特徴は、概念の内容に基づいていることです。人間とは何かという問いに、それは哺乳類であると答え、哺乳類とは何かという問いにそれは生物であると答えるとき、問われているものが「何であるか」という本質や内容という観点から普遍化の営みが行われています。こうした普遍化を「類的な普遍化」と呼んだのが、ハイデガーの師にあたるフッサールです。
 フッサールは、ある概念を規定する際に、このような「類的な普遍化」とは違う方法を採用することもできるとし、それを「形式化」と呼びました。これはあるものをその本質(事象内容)からではなく、論理的に形式的なものへと普遍化することによって行われます。形式化の例としては、男1人、女3人ということと、りんごが1つ、みかんが3つということを、その内容に関係なく1,3と把握することがあげられるでしょう。引用文では、めじるしを類と種差によって分類するのではなく、その「事象内容や存在様式の違いを無視して」普遍化すると、そこから「関係づけ」という概念がえられることになると指摘されていますが、このような普遍化のことを「形式化」というように呼んでいるのです。この関係づけという概念は、「めじるし」や「指示」の概念を形式化することによってえられた形式的な規定であり、「関係づけは、それらの種にたいして類の位置にあるわけではない」と言われるのはそのためです。「めじるし」という指示の道具をその内容からではなく、その機能という形式から考察したものが「関係づけ」であり、それゆえに「形式的で普遍的な性格」がそなわっていると言われるのです。
 しかしそのために、「めじるし」について「関係づけ」という規定をしても、「めじるし」とは何かを規定するには「何の役にも立たない」ということになります。それは男が1人、女が3人いるという状態を、「1,3である」と答えることに等しいのです。だからそのようにするのではなく、「その反対に、<関係づけ>そのものが、その形式的で普遍的な性格の"ために"、指示のうちにその存在論的な源泉をもっていることが、最終的には示されねばならないのである」と言われるのです。これはつまり、関係づけということから「めじるし」や「指示」を考察するのではなく、めじるしや指示について考察することから、形式的で普遍的な性格をそなえている「関係づけ」そのものを見出すという道をたどるということです。

 ハイデガーがこのように形式化について考察しようとするのは、道具連関が1つの指示の構造をそなえていることを、前節までで説明されたのとは別の側面から照らしだそうとするためです。道具連関の指示構造を明確に示すためには、こうした指示をその本来の目的とした道具である「めじるし」について考察する必要があるのです。この道具としてのめじるしの目的は「表示する」ことであり、ハイデガーはこうしためじるしの模範的な例として、自動車の方向指示器をあげています。これは右折するときには右側に、左折するときには左側に提示される赤い矢印の形をしたものです。

Das >Verweisen< als Zeigen gründet vielmehr in der Seinsstruktur von Zeug, in der Dienlichkeit zu. Diese macht ein Seiendes nicht schon zum Zeichen. Auch das Zeug >Hammer< ist durch eine Dienlichkeit konstituiert, dadurch aber wird der Hammer nicht zum Zeichen. Die >Verweisung< Zeigen ist die ontische Konkretion des Wozu einer Dienlichkeit und bestimmt ein Zeug zu diesem. Die Verweisung >Dienlichkeit zu< ist dagegen eine ontologisch-kategoriale Bestimmtheit des Zeugs als Zeug. Daß das Wozu der Dienlichkeit im Zeigen seine Konkretion erhält, ist der Zeugverfassung als solcher zufällig. Im rohen wird schon an diesem Beispiel des Zeichens der Unterschied zwischen Verweisung als Dienlichkeit und Verweisung als Zeigen sichtbar. Beide fallen so wenig zusammen, daß sie in ihrer Einheit die Konkretion einer bestimmten Zeugart erst ermöglichen. (p.78)
表示という意味での「指示」は、むしろ道具の存在構造に依拠している。すなわちそれが存在することが、ある有用性をそなえていることに依拠しているのである。ただしこうした存在構造をそなえているだけでは、ある存在者はまだめじるしにはならない。だから「ハンマー」という道具は、有用性という存在構造をそなえているものの、それだけでめじるしになるわけではない。表示するという意味での「指示」は、ある有用性のもつ<何のために>が存在者的に具体的に示されたものであり、ある道具をこの用途に規定するのである。これにたいして、「~のために役立つ」という意味での指示は、道具"としての"道具にそなわっている存在論的でカテゴリー的な規定である。有用性のもつ<何のために>が、とくに表示として具体化されるかどうかは、道具機能そのものからみると偶然的なものである。このめじるしの例からみても、有用性としての指示と表示としての指示の違いはほぼ明らかである。この2つの指示はほとんど一致するところはなく、むしろこの両方が統一されることで、ある種の道具が初めて具体的なものとして可能になるのである。

 方向指示器が模範的なめじるしであるのは、2つの特徴によってです。第1は、このめじるしは、自動車の運転のために本質的に必要なものではなく、自動車がこれから移動しようとする方向を「表示する」という目的のためだけに使われている道具であることです。この道具は、自動車という道具を使う道具連関のうちに含まれますが、ハンドルやタイヤのように、その道具の本来の有用性が自動車の本質的な機能をはたすためのものではありません。
 たとえば、槌は打つことを本来の機能としてそなえていますが、それを店先にぶら下げることで、この店がどのような営みをしている店なのかを表示するための「めじるし」としても利用することができるでしょう。槌は鋼を鍛えるという本来の機能を発揮するとき鉄と金床を指示しますが、この指示関係は槌としての道具に有用性がそなわっている限りで、その有用性に基づいて生まれます。「~のために役立つ」という意味での指示は、すなわち「有用性」は、「道具"としての"道具にそなわっている存在論的でカテゴリー的な規定である」のであり、槌を店先にぶら下げて、表示を目的とするめじるしにするということは、「道具機能そのものからみると偶然的なもの」にすぎません。この例からも、「有用性としての指示と表示としての指示の違いはほぼ明らか」でしょう。
 槌は本来はもともとの目的に適った有用性によって道具として使われ、堂宇グレン間のうちでのみ鉄や金床などの他の道具を「指示する」という機能をそなえています。これに対して方向指示器は、表示するという指示の機能をそもそも目指したものなのです。
 この方向指示器という道具の第2の特徴は、それが槌と違って、その道具を操作する本人だけではなく、その道具が含まれる大きな環境のうちに存在する他の人々にも指示を与え、他の人々もまた、それを利用できることにあります。自動車が右折するか左折するかということは、歩行者や他の自動車の運転手にも重要な情報を与えます。もしも歩行者が方向指示器を目にしても、それをただ眺めるだけならば、それを真の意味で把握したことにはならないでしょう。歩行者はその道具が指示することにしたがって、立ち止まったり、身を避けたりというような適切な行動をとることが、すなわち「目配り」をすることが求められるのです。

 このように、槌が仕事場という道具連関のうちでもつ「指示」と、方向指示器が自動車という道具連関のうちでもつ「指示」には、重要な違いがあります。槌はその道具としての本来的な機能をはたすことで、道具連関の全体を指示します。しかしそれは道具そのものであって、指示することを目指す道具ではありません。これに対して方向指示器は、それだけでは道具としての機能をはたすことができないものであり、それは「表示としての指示」の機能をはたしています。それはいわば、自動車という道具の道具であり、自動車を使う運転手や、その他の道路使用者のふるまいのために役立つ道具です。その意味で、この道具は現存在という世界内存在に向けられている道具なのであり、いわば「存在論的な」意味をもつ道具であると言えるでしょう。
 方向指示器は、自動車が進む方向を示すための用途において、現存在「のために役立つ」という意味での指示の機能をそなえており、これは「道具"としての"道具にそなわっている存在論的でカテゴリー的な規定」であります。これは槌をめじるしにする場合とは異なり、本来の意味での「めじるし」なのです。このめじるしが存在論的な機能をそなえているのは、この道具が道具連関の中に存在しているだけではなく、その環境のうちに存在する現存在に対して特定の行動を促すためです。方向指示器をみたらそれにふさわしい行動をとることが求められるように、現存在はこうした表示する道具と適切な形で交渉する必要があるのです。「めじるし」は道具連関を指し示すたんなる道具ではなく、現存在と世界との関係に依拠しているのです。

Zeichen der beschriebenen Art lassen Zuhandenes begegnen, genauer, einen Zusammenhang desselben so zugänglich werden, daß der besorgende Umgang sich eine Orientierung gibt und sichert. Zeichen ist nicht ein Ding, das zu einem anderen Ding in zeigender Beziehung steht, sondern ein Zeug, das ein Zeugganzes ausdrücklich in die Umsicht hebt, so daß sich in eins damit die Weltmäßigkeit des Zuhandenen meldet. Im Anzeichen und Vorzeichen >zeigt sich<, >was kommt<, aber nicht im Sinne eines nur Vorkommenden, das zu dem schon Vorhandenen hinzukommt; das >was kommt< ist solches, darauf wir uns gefaßt machen, bzw. >nicht gefaßt waren<, sofern wir uns mit anderem befaßten. Am Rückzeichen wird umsichtig zugänglich, was sich zugetragen und abgespielt. Das Merkzeichen zeigt, >woran< man jeweils ist. Die Zeichen zeigen primär immer das, >worin< man lebt, wobei das Besorgen sich aufhält, welche Bewandtnis es damit hat. (p.79)
ここで説明してきたような種類のめじるしは、手元存在者を出会わせるものである。正確には、配慮的な気遣いによる交渉にたいして、その進むべき方向を示し、確実なものとすべく、さまざまな手元存在者の連関を理解させるものである。めじるしは、別の物と表示関係にある物のことではない。"めじるしとは、道具の全体を明示的に目配りにもたらし、それと同時に、その手元存在者の世界適合性が告げられるようにする道具のことである"。兆候や前兆では、「やがてやってくる」ものが「みずからを告げる」のだが、それはすでに眼前的に存在しているものに加わるものとして、何かが眼の前に現れるという意味ではない。「やがてやってくる」ものとは、わたしたちがそれにそなえて心構えするもの、あるいはわたしたちがほかのことに気を取られていて、「心構えをしていなかった」もののことである。また形跡を見れば、すでに何が起きていたか、何が演じられたかを、目配りで見てとることができる。標識は、そのつど何を「心がけておく」べきか、<その何を>を示している。このようにこれらのめじるしが第1義的につねに示すのは、わたしたちが「そのうちで」生きているところであり、配慮的な気遣いが<そのもとに>とどまるところであり、そしてそこにいかなる<適材適所性>があるかである。

 めじるしの機能について、ハイデガーは3つの特徴を指摘しています。第1に、めじるしは通常の道具とは異なる存在論的な構造をそなえており、そのことによって現存在を「手元存在者を出会わせる」役割をはたします。このめじるしは現存在にとって、「さまざまな手元存在者の連関を理解させるもの」になるのです。このようにめじるしの第1の機能は、現存在に手元存在者の世界の連関を指し示すことです。「めじるしが第1義的につねに示すのは、わたしたちが<そのうちで>生きているところ」なのです。
 第2に、めじるしは、こうした手元存在者の世界のありかたを現存在に理解させます。めじるしは現存在に、「"道具の全体を明示的に目配りにもたらし、それと同時に、その手元存在者の世界適合性が告げられるようにする"」のです。めじるし第2の機能は、現存在に手元存在者のその世界適合性を自覚させることにあります。めじるしは、現存在の「配慮的な気遣いが<そのもとに>とどまるところ」を示すのです。
 第3に、現存在はめじるしによって、さまざまな道具がその道具世界のうちで適切な場所に配置されていることを認識します。方向指示器は、道路や標識を含む交通の体系のうちで、その自動車のはたすべき役割と、その役割を実現するために現存在がふるまうべき行動を同時に示しています。めじるしの第3の機能は、現存在にとって手元存在者が「いかなる<適材適所性>があるか」を示すことです。

 ところで、方向指示器のようなめじるしは自然に生まれたものではなく、人間が指示の役割をはたさせるために作りだしたものです。しかし、すべてのめじるしがこのように作成されたわけではなく、めじるしのうちには、自然のうちにある特徴を発見し、それをめじるしとして定めることによって作られたものもあります。

Was zum Zeichen genommen ist, wird durch seine Zuhandenheit erst zugänglich. Wenn zum Beispiel in der Landbestellung der Südwind als Zeichen für Regen >gilt<, dann ist diese >Geltung< oder der an diesem Seienden >haftende Wert< nicht eine Dreingabe zu einem an sich schon Vorhandenen, der Luftströmung und einer bestimmten geographischen Richtung. Als dieses nur noch Vorkommende, als welches er meteorologisch zugänglich sein mag, ist der Südwind nie zunächst vorhanden, um dann gelegentlich die Funktion eines Vorzeichens zu übernehmen. Vielmehr entdeckt die Umsicht der Landbestellung in der Weise des Rechnungtragens gerade erst den Südwind in seinem Sein. (p.80)
めじるしとして採用されたものは、めじるしになることで手元存在性を獲得し、そのことによってわたしたちはこれに近づくことができるようになる。たとえば農地の耕作の際には南風が、雨の降る前触れのめじるしとして「通用している」としよう。この場合に、こうした「通用しているという事実」、あるいは存在者が「おびている価値」は、すでに眼前的に存在している気流や特定の地理学的な方位におまけのようにつけ加えられたものではない。この南風は、気象学的にそのものとして確認することのできるような、たんに訪れてくるものとして、"まず眼前的に存在していて"、それからときに前兆としての役割をひきうけるようなものでは"決してない"。むしろ農地の耕作における目配りが、南風を考慮にいれることで、初めて南風がその存在において露呈されるのである。

 この場合の南風のようなめじるしは、人間が作成したものではありませんが、人々がその地域で農業活動を続けてきたことによって、こうした営みのうちで働かされる目配りによって、「初めて露呈させることができる」ものです。たとえばそれは、農地の耕作の際には「雨の降る前触れのめじるし」として利用されることになりますが、このような合図の道具として手元存在性を獲得することで、「わたしたちはこれに近づくことができるようになる」と言われています。
 このめじるしは方向指示器とはかなり性格が異なります。南風のようなめじるしは、人間が作りだしたものでもなければ、操作できるものでもないし、他者に自分がこれから行う行為を告げるものでもありません。南風は、農作業を開始する時期が訪れたことを、その共同体の全員が把握するための合図となるものです。それは世界における現存在の行動を促すものであり、これによって現存在は世界内存在としてのありかたを十全に満たしていくことになります。このめじるしは道具連関のうちの1つの道具であるよりも、さまざまな道具連関が使われ始めるためのきっかけとなるものなのです。

Aber, wird man entgegnen, was zum Zeichen genommen wird, muß doch zuvor an ihm selbst zugänglich geworden und vor der Zeichenstiftung erfaßt sein. Gewiß, es muß überhaupt schon in irgendeiner Weise vorfindlich sein. Die Frage bleibt nur, wie in diesem vorgängigen Begegnen das Seiende entdeckt ist, ob als pures vorkommendes Ding und nicht vielmehr als unverstandenes Zeug, als Zuhandenes, mit dem man bislang >nichts anzufangen< wußte, was sich demnach der Umsicht noch verhüllte. Man darf auch hier wieder nicht die umsichtig noch unentdeckten Zeugcharaktere von Zuhandenem interpretieren als bloße Dinglichkeit, vorgegeben für ein Erfassen des nur noch Vorhandenen. (p.81)
しかしここで異論が提起され、めじるしとして採用されるべき"そのもの"は、それ以前にすでにそのものとして近づくことができ、めじるしとして定められる"以前"に把握されていなければならなかったのではないかと、主張されるかもしれない。たしかにそのとおりであり、そのものはそれ以前に、何らかのありかたですでにみいだされていなければならなかったのである。しかし問題なのは、このようにしてあらかじめ出会っていたときに、その存在者が"どのような"ものとして露呈されていたかということである。それがたんに眼の前に現れる事物として知られていたか、それともまだ理解されていない道具として手元に存在していたのかが問題なのである。すなわちそれまでは手元に存在しているものの、「どうにも捉えようのない」ものとして存在していたので、めくばりのまなざしにとって覆われていたのではないだろうか。これについては、"目配りがまだ露呈させていなかった手元的な存在者の道具性格を、ただ眼の前に存在するにすぎないものを把握する態度にあらかじめ与えられているような、たんなる事物性として解釈してはならないのである"。

 南風はめじるしとして現存在が近づけるものとなる以前には、どのように存在していたのでしょうか。南風は、それがめじるしであることが発見される前から存在していたものですが、その際には誰も気にかけていなかったか、まだ用途が理解されていない道具として存在していたというのが、ハイデガーが主張するところです。「それまでは手元に存在しているものの、<どうにも捉えようのない>ものとして存在していたので、めくばりのまなざしにとって覆われていたのではないだろうか」と語られているように、南風はめじるしとして発見される前からすでに手元的に存在していたのではないかと指摘されています。南風は目配りのまなざしにとって覆われているという形で存在していたのですが、そのありかたを「ただ眼の前に存在するにすぎないものを把握する態度にあらかじめ与えられているような、たんなる事物性として解釈してはならない」のです。めじるしとしての自然現象は、現存在の配慮的な気遣いによる目配りによって、農耕を始める合図として初めてその存在において露呈されるようになったのですが、だからといって、それ以前には眼前存在していたということにはならないことに注意しましょう。

 このように、南風という自然現象は、かつては誰も気にかけなかったものとして、目立たないものでしたが、世界において現存在がそれをめじるしとして発見したことによって、めじるしのきわめて目立つという性格をそなえるようになったのです。すでに説明されたように、槌などの製作のための道具は「目立たなさ」という性格をそなえていましたが、道具としてのめじるしの特徴的な性格は、この「目立つ」ことにあります。こうした性格とともにめじるしは、単なる道具とは違って、世界を了解するために特別な役割をはたしているのです。

 これまでめじるしについての解釈が行われてきましたが、この節の最後にハイデガーは、めじるしと指示の関係が3重の関係であることを示します。

1. Das Zeigen ist als mögliche Konkretion des Wozu einer Dienlichkeit in der Zeugstruktur überhaupt, im Um-zu (Verweisung) fundiert. 2. Das Zeigen des Zeichen gehört als Zeugcharakter eines Zuhandenen zu einer Zeugganzheit, zu einem Verweisungszusammenhang. 3. Das Zeichen ist nicht nur zuhanden mit anderem Zeug, sondern in seiner Zuhandenheit wird die Umwelt je für die Umsicht ausdrücklich zugänglich. Zeichen ist ein ontisch Zuhandenes, das als dieses bestimmte Zeug zugleich als etwas fungiert, was die ontologische Struktur der Zuhandenheit, Verweisungsganzheit und Weltlichkeit anzeigt. Darin ist der Vorzug dieses Zuhandenen innerhalb der umsichtig besorgten Umwelt verwurzelt. Die Verweisung selbst kann daher, soll sie ontologisch das Fundament für Zeichen sein, nicht selbst als Zeichen begriffen werden. Verweisung ist nicht die ontische Bestimmtheit eines Zuhandenen, wo sie doch Zuhandenheit selbst konstituiert. In welchem Sinne ist Verweisung die ontologische >Voraussetzung< des Zuhandenen, und inwiefern ist sie als dieses ontologische Fundament zugleich Konstituens der Weltlichkeit überhaupt?
第1に、表示することは、有用性の<何のために>のうちの1つの可能性を具体化したものであり、道具構造一般に、そして<~のため>という指示に根拠を置くものである。第2に、めじるしが行う表示は、ある手元的な存在者の道具性格である。この道具性格は、道具立ての全体性に、その指示連関に属するものである。第3に、めじるしはほかの道具とともに手元的に存在しているが、それだけではなく、その手元存在性によって、環境世界がそのつどつねに目配りにとって明示的な形で近づくことのできるものとなるのである。このようにして、"めじるしは存在者的に手元存在するものであるが、そのように規定された道具として、同時に手元存在性、指示全体性および世界性の存在論的な構造を告げ知らせる役割をはたしているのである"。このめじるしという手元存在者は、目配りが配慮的な気遣いを行う環境世界において特別な位置を占めているが、その理由はここにある。そして指示そのものは、存在論的にめじるしを基礎づける役割をはたすものであるから、それ自体はめじるしとして把握することができないものである。指示とは、手元存在性そのものを構成するものであるから、それは1つの手元存在者の存在者的な規定ではない。それでは指示が、手元存在者の存在論的な「前提」であるというのは、どのような意味においてだろうか。また指示はこのようにして存在論的な基礎となるものであると同時に、どのようにして世界性一般を構成するのだろうか。

 第1は、すでに指摘されたように、指示することには有用性としての指示と表示としての指示という2重の性格があることです。有用性は、その道具が本来何の目的のために作られたかという<何のために>(>Wozu<)に依拠しています。これはその道具が何のために存在するかという存在者的な性格が具体化されたものです。そして道具連関は全体として、この有用性が連鎖して作られる道具構造一般を示します。<~のため>(>Um-zu<)という目的構造における指示の役割に依拠することで、この道具連関のうちに、表示を目的としためじるしが作られるのです。
 第2に、めじるしの役割は表示としての指示を遂行することであり、これは手元的な存在者が1つの道具として担うものです。めじるしには他の道具とは異なる特別な性格がそなえられていますが、それでもやはり道具として、「道具立ての全体性に、その指示連関に属するものである」のです。
 第3に、めじるしは1つの道具として、手元存在としての性格で存在していますが、これは同時に、「"手元存在性、指示全体性および世界性の存在論的な構造を告げ知らせる役割をはたしている"」のです。めじるしは、道具の全体の世界と現存在の配慮のまなざしとの関係を凝縮する「適材適所性」を浮かび上がらせ、これによって現存在は、目配りのまなざしで世界を理解できるようになるのです。
 めじるしのこの3つの性格から、次の問いが生まれてきます。指示は手元存在性を構成するものですが、それ自体は手元存在ではなく、手元存在者の「存在論的な<前提>」です。それはどういうことでしょうか。また指示は手元存在の存在論的な基礎となりますが、それが「どのようにして世界性一般を構成する」のでしょうか。次節では、これらの問いを手掛かりにして、世界の世界性一般を考察することになります。


 長くなってしまいましたが、第17節はこれで以上となります。また次回もよろしくお願いします。

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