『存在と時間』を読む Part.33

  第34節 現ー存在と語り。言語

 これまで、情態性と理解、解釈についての考察が行われてきました。この節で、現存在の〈そこに現に〉の実存論的な構成の第3のカテゴリーである語りと言語のテーマが登場します。「語り」こそが、情態性と理解とならぶ、現存在の世界内存在の実存カテゴリーなのです。

Die Rede ist mit Befindlichkeit und Verstehen existenzial gleichursprünglich. Verständlichkeit ist auch schon vor der zueignenden Auslegung immer schon gegliedert. Rede ist die Artikulation der Verständlichkeit. Sie liegt daher der Auslegung und Aussage schon zugrunde. Das in der Auslegung, ursprünglicher mithin schon in der Rede Artikulierbare nannten wir den Sinn. Das in der redenden Artikulation Gegliederte als solches nennen wir das Bedeutungsganze. Dieses kann in Bedeutungen aufgelöst werden. Bedeutungen sind als das Artikulierte des Artikulierbaren immer sinnhaft. (p.161)
”語りは、実存論的には情態性と理解と等根源的なものである”。解釈によって理解がわがものとされる前から、了解可能性はつねにすでに構造化された状態になっていた。語りが、この了解可能性を分節するのである。だから語りはすでに解釈や言明の基礎となっているのである。わたしたちは解釈において、そしてさらに根源的にはこのようにすでに語りにおいて分節することができるものを〈意味〉と呼んでいたことになる。語りが分節することによって構造化したものを、わたしたちは意義の全体と名づける。この意義の全体はさらに個々の意義に分解することができる。個々の意義は、分節可能なものが分節されたものであるから、つねに意味をそなえている。

 語りは、情態性や理解と等根源的なものであるから、情態性のうちにも、理解のうちにも「語り」が含まれています。反対に、語りのうちには情態性も理解も含まれていると考えるべきです。
 まず語りが情態性と深い関係にあることから考えてみましょう。情態性は、理解と等根源的なものとして、ある解釈の可能性に対応しているものですが、現存在はこの解釈の可能性を言葉によって表現することでしか、理解することができません。自分の気分は何らかの言葉で表現しないかぎり、自分にも明確なものにはならないのです。たとえば不安であることと恐れていることは類似した感情ですが、現存在は自分のこうした気分を了解するためには、それを「なんとなく不安だ」とか、「怖い」などの言葉によって表現しなければなりません。情態性は言語によって初めて、自己にとっても他者にとっても理解できるようなものになります。
 また、解釈の派生的な様態としての言明のうちで、すでに語りが含まれていることは明らかにされてきました。とくに他者への伝達は、この語りという機能に依存しているのです。さらに他者に伝達する以前に、すでに了解可能性は言語によって分節されていました。「解釈によって理解がわがものとされる前から、了解可能性はつねにすでに構造化された状態になっていた」というのはそのことを指しています。そして「語りが、この了解可能性を分節する」のであり、したがって「語りはすでに解釈や言明の基礎となっている」と語られることになります。この分節可能性に基づいてハイデガーは、「意義の全体性」「意義」「意味」という概念を改めて定義し直すことになります。

Wenn die Rede, die Artikulation der Verständlichkeit des Da, ursprüngliches Existenzial der Erschlossenheit ist, diese aber primär konstituiert wird durch das In-der-Welt-sein, muß auch die Rede wesenhaft eine spezifisch weltliche Seinsart haben. Die befindliche Verständlichkeit des In-der-Welt-seins spricht sich als Rede aus. Das Bedeutungsganze der Verständlichkeit kommt zu Wort. Den Bedeutungen wachsen Worte zu. Nicht aber werden Wörterdinge mit Bedeutungen versehen. (p.161)
語りは、すでに述べたように〈そこに現に〉の了解可能性を分節するものであるから、開示性の根源的な実存カテゴリーである。そしてこの開示性は第1義的には世界内存在によって構成されるのだから、語りもまた本質的には、固有の”世界にかかわる”存在様式をそなえていることになる。世界内存在の情態的な了解可能性は、”語りとしてみずからについて話しだす”のである。了解可能性の意義の全体は、”言葉として語られる”。言葉において育ってくることで、その意義が生まれるのである。その反対に、言葉という事物に、意義が与えられるのではない。

 あるものの「意義」は、それが適材適所性の関連のうちでどのような位置を占めるかによって決定され、有意義性も同じ文脈で使われていました。これにたいして「意味」の概念は、世界の適材適所性の文脈よりも、現存在が事物について了解したときに、「意味」が生まれると考えられてきました。どちらも現存在と世界のうちの事物との関係において、世界内存在の観点から考察されていました。
 これにたいしてここでは、「語り」の文脈において、現存在の実存の観点から、意味、意義、意義の全体性の概念が提起されます。「意義の全体性」とは、「語りが分節することによって構造化したもの」のことであり、「”言葉として語られる”」ものです。「意義」は、この意義の全体性を構成する個別の要素であり、「言葉において育ってくることで、その意義が生まれる」と指摘されています。また「意味」については、「解釈において、そしてさらに根源的にはこのようにすでに語りにおいて分節することができるものを〈意味〉と呼んでいた」、「個々の意義は、分節可能なものが分節されたものであるから、つねに意味をそなえている」と指摘されています。これらの概念について、順に整理してみましょう。

 「意義の全体性」という概念を考えるには、すでに手元存在者に構成される世界が、「有意義性」として定義されていたことを思い出す必要があります。世界は手元的な存在者の適材適所性の全体として分節されているのでした。この「有意義性」と「意義の全体性」は、世界の側から見るか、実存の側から見るかという違いをのぞくと、ほぼ同じことを語っているのは明らかでしょう。
 都市が街路と建物と公園で構成されているとすると、都市は世界を構造する事物としては、街路の有意義性と建物の有意義性と公園の有意義性のうちに分節され、これらの有意義性が現存在にとって、都市という全体の「意義の全体性」を構成しているのです。街路は歩くという目的のために、建物はそこに住むという目的のために、公園は一休みするという目的のためにというように、これらのすべては意義の全体性のうちで構成されており、現存在は自分のいる都市の有意義性と意義の全体性を無意識のうちに把握することができます。
 これらの意義の全体性を構成するのが個々の「意義」です。街路も建物も公園も意義をそなえており、それぞれの意義にたいして「言葉」が与えられています。「街路」「建物」「公園」という言葉は、都市の意義の全体性を構成する要素であるそれぞれの街路、建物、公園などのもつ意義を指し示すために使われています。
 街路は都市のうちで歩くための手段としての意義をそなえていますが、その意義だけではなく、自転車が通行する場所としての意義や、待ち合わせをするための場所としての意義もそなえています。待ち合わせをするために街路を使うとき、わたしたちは待ち合わせ場所としての街路の意義を分節しているのです。
 これにたいして「意味」とは、それぞれの意義にそなわった了解可能性の側面です。街路の意義は、個々の街路であり、そのさまざまな目的と手段の連関です。これらは街路にそなわる側面であり、たとえば建物が街路と同じ意義をもつことはありません。建物には建物の意義が固有に存在しているのです。「意義」がこのように対象にそなわる目的と手段の連関であるとすると、「意味」は世界に生きる現存在がこうした意義に含まれる目的と手段の連関を「投企する」可能性を提供するものであると言えるでしょう。すでに意味については、「あるものの了解可能性がそこで保たれているもの」と語られていました(Part.31参照)。
 わたしたちは意味によって、街路や建物が都市においてどのような意義をそなえているかを理解することができます。わたしたちが都市の街路に立って、周囲の建物や公園を眺めるとき、わたしたちは都市という意義の全体性を構成する個々の意義としてのそれぞれの建物や公園について知っており、それぞれの意義がそなえている多様な目的と手段の連関を、さまざまな形で利用することができることを知っているのです。
 たとえば建物は、そこにさまざまな事務所が設置される場所であり、喫茶店や書店などのお店を開いている場所です。わたしたちは建物に設置されているそれらを利用して、コーヒーを飲もうかな、とか、あの本を買おうかなというように、建物が提供しているさまざまな意義の分節に基づいて、自己のさまざまな行動を考えることができ、自己の可能な行動を「投企する」ことができます。都市を構造するさまざまな要素が、現存在の「投企」のためにどのような可能性を提供しているかを、現存在はその「意味」として把握するのです。
 街路や公園の「意義」は、都市におけるその意義の全体性のうちで、どのいうな目的で存在しているかという観点から明らかになりますが、その「意味」は、現存在がそれをどのような目的で利用するかという「投企」という観点から明らかにされるのです。

 この節のタイトルにもある「言語」については、次のように語られます。

Die Hinausgesprochenheit der Rede ist die Sprache. Diese Wortganzheit, als in welcher die Rede ein eigenes >weltliches< Sein hat, wird so als innerweltlich Seiendes wie ein Zuhandenes vorfindlich. Die Sprache kann zerschlagen werden in vorhandene Wörterdinge. Die Rede ist existenzial Sprache, weil das Seiende, dessen Erschlossenheit sie bedeutungsmäßig artikuliert, die Seinsart des geworfenen, auf die >Welt< angewiesenen In-der-Welt-seins hat. (p.161)
語りが外に向かって発話されると、それが言語になる。言語は言葉の全体性であり、語りはその内部で固有の「世界的な」存在をそなえており、このように世界内部的な存在者になることで、手元存在するものと同じように、眼の前にみいだされるようになる。言語は破砕されて、眼前的に存在する言葉という事物になることもありうる。語りは実存論的に言語として存在する。というのも、語りが意義に応じてその開示性を分節してみせる存在者は、被投され、「世界」に委ねられた世界内存在という存在様式をそなえているからである。

 ハイデガーは、言葉というものがさまざまな存在様式をそなえていることに注目します。わたしたちが言葉を使って、たがいに意志を伝達しあうとき、言葉は意志を伝達するための道具となっています。刀匠に砂や槌を渡して、刀を作ってもらいたいという意志を身振りで表明する代わりに、言葉でそれを表明することができます。言葉は手元存在者のように、道具として利用することができます。
 また言葉は書かれたり、印刷されたりすることができ、書物として後の世代の他の人々に伝達することができます。この場合には言葉は「眼前的に存在する言葉という事物」となっているのであり、この事物としての言葉は、他者に意志を伝達するための道具であるよりは、歴史的に伝承されてきた1つの文化的な遺産となっていることもあるでしょう。たとえば、戦国時代の刀匠の、刀鍛冶におけるメモ書きというものは、現代においては博物館に展示されるようなものになっているでしょう。
 さらに言葉は、実存論的な働きを示すことがあります。「語りが意義に応じてその開示性を分節してみせる存在者は、被投され、〈世界〉に委ねられた世界内存在という存在様式をそなえている」のであり、現存在は言葉を語ることで、自己の本来のありかたを選択し、実存することができます。刀鍛冶にとって良い刀を製作するという目的のために必要なものは、「言葉において育ってくることで、その意義が生まれ」ます。現代まで残っているような刀鍛冶に固有の言葉というものは(たとえば「焼きを入れる」)、良い刀づくりのための必須の工程が言葉として表現され、見えるようになったものです。刀匠はこうした言葉を使いながら実存することで、良い刀を作るという刀鍛冶の目的を遂行するのです。

Als existenziale Verfassung der Erschlossenheit des Daseins ist die Rede konstitutiv für dessen Existenz. Zum redenden Sprechen gehören als Möglichkeiten Hören und Schweigen. An diesen Phänomenen wird die konstitutive Funktion der Rede für die Existenzialität der Existenz erst völlig deutlich. Zunächst geht es um die Herausarbeitung der Struktur der Rede als solcher. (p.161)
語りはこのように現存在の開示性の実存論的な機構であるから、現存在の実存を構成するものでありうる。語りつつある言語には、可能性として”聞くこと”と”沈黙すること”が含まれる。語りが実存の実存性を構成する機能をはたしていることは、この2つの現象において初めて完全に明確になる。まず語りそのものの構造を明らかにすることから始めよう。

 「語りつつある言語には、可能性として”聞くこと”と”沈黙すること”が含まれる」と指摘されていますが、それらの分析を実行する前に、まずは語りそのものの構造の分析から始められます。ハイデガーは語りについて4つの構造契機をあげています。

Die Rede ist die bedeutungsmäßige Gliederung der befindlichen Verständlichkeit des In-der-Welt-seins. Als konstitutive Momente gehören ihr zu: das Worüber der Rede (das Beredete), das Geredete als solches, die Mitteilung und die Bekundung. Das sind keine Eigenschaften, die sich nur empirisch an der Sprache aufraffen lassen, sondern in der Seinsverfassung des Daseins verwurzelte existenziale Charaktere, die so etwas wie Sprache ontologisch erst ermöglichen. (p.162)
語りは、世界内存在の情態的な了解可能性を、意義に即して構造化することである。こうした語りを構成する契機としては、語りが〈それについて〉語る事柄(語られたこと)、語られている事柄そのもの、伝達、告知などがある。これらは言語においてただ経験的に集められた特性のようなものではなく、現存在の存在機構に根ざした実存論的な性格である。こうした性格によってこそ、言語のようなものが存在論的に初めて可能となる。

 まず語りには、「語りが〈それについて〉語る事柄」があります。これはすべての語りがある主題について語ることを目指したものであるということです。この契機は、言明の主語と述語の規定に該当するものと言えるでしょう。「まだ鉄は熱い」という文では、「鉄」について語っているのであり、「語られたこと」について語られているのです。

 語りにはさらに、「語られている事柄そのもの」があります。「まだ鉄は熱い」という文では、鉄は熱を帯びているという事実が語られています。たしかに鉄について語られていますが、その語られたことは、鉄が熱いという事実です。伝達されるのは、この鉄が熱いという事実であり、これが語られた内容、つまり「語られている事柄そのもの」です。

 語りはある事柄について、何かを語るだけではなく、語るという言語行為において、さらに別の要素を伝達します。「まだ鉄が熱い」という語りは、「だからそれに触れるな」とか、「もっと冷ませ」だとかいうような、会話を交わされた人々の間で暗黙のうちに了解され、合意されていることにたいする働きかけをします。これが語りの第3の構造契機である「伝達」です。

Mitteilung ist nie so etwas wie ein Transport von Erlebnissen, zum Beispiel Meinungen und Wünschen aus dem Inneren des einen Subjekts in das Innere des anderen. Mitdasein ist wesenhaft schon offenbar in der Mitbefindlichkeit und im Mitverstehen. Das Mitsein wird in der Rede >ausdrücklich< geteilt, das heißt es ist schon, nur ungeteilt als nicht ergriffenes und zugeeignetes. (p.162)
伝達は、意見や願望などの体験を、ある主観の内面から別の主観の内面へと運ぶようなことではない。共同現存在はその本質からして、共同的な情態性と共同の理解において、すでにあらわにされている。共同存在は語りにおいて「明示的に」”分かちあわれる”のである。すなわち共同存在は、それとして把握されず、わがものとされることなしに、はっきりと分かちあわれることなしに、すでに”存在している”のである。

 戦国時代にある人が刀匠を訪ね、刀の製作を依頼したとすると、刀を作ってほしいと頼む言葉によって、その人が次の戦に行くということを刀匠と共有します。その際には、じきに戦があるというその国の実情と、戦に出るという緊張感とが「明示的に」共有され、その人と刀匠の「共同的な情態性と共同の理解」が「分かちあわれる」ことになるでしょう。

 ハイデガーはさらに、語りの第4の構造契機として、「告知」をあげています。

Alle Rede über ..., die in ihrem Geredeten mitteilt, hat zugleich den Charakter des Sichaussprechens. Redend spricht sich Dasein aus, nicht weil es zunächst als >Inneres< gegen ein Draußen abgekapselt ist, sondern weil es als In-der-Welt-sein verstehend schon >draußen< ist. Das Ausgesprochene ist gerade das Draußensein, das heißt die jeweilige Weise der Befindlichkeit (der Stimmung), von der gezeigt wurde, daß sie die volle Erschlossenheit des In-Seins betrifft. (p.162)
〈~について〉の語りはすべて、それが語ったことによって伝達するものであるが、この語りには同時に、”みずからを語りつくす”という性格がある。現存在が語りながらみずからを”外へと”語るのであるが、それは現存在がさしあたっては「内的なもの」として、外部にたいして隔絶されているからではなく、世界内存在として理解しながら、すでに「外部に」存在しているからである。語りつくされたことは、まさに外部的な存在であり、すなわちそのつどの情態性(気分)の示すありかたである。この情態性が、内存在の完全な開示性にかかわるものであることはすでに指摘した。

 「刀を作ってほしい」と語った人は、その言葉によって、語った相手に対して、自分が戦場に行く緊張や決意を同時に表現することになります。わたしたちが語る言葉の多くは、このように語る本人の心のありかたを表明するものであることが多いでしょう。言葉は発話した人物の「そのつどの情態性(気分)の示すありかた」を開示するのであり、「この情態性が、内存在の完全な開示性にかかわるもの」なのです。語りにはこのように情態的な内存在を告知する働きがあるのであり、そうした気分は、語り手の言語的な指標としての抑揚や口調などに表現されることになります。「告知」は、発話した人物の内的な感情が相手に伝えられるという構造契機なのです。
 語りは「世界内存在の情態的な了解可能性を、意義に即して構造化すること」ですから、つねにこうした4つの構造契機をかねそなえているのであり、言明の機能とは違う形で、世界内存在としての現存在の実存論的な機能をはたしているのです。

 さて、語りそのものの分析の次は、「聞くこと」についての分析が始められます。

Das Hören auf ... ist das existenziale Offensein des Daseins als Mitsein für den Anderen. Das Hören konstituiert sogar die primär und eigentliche Offenheit des Daseins für sein eigenstes Seinkönnen, als Hören der Stimme des Freundes, den jedes Dasein bei sich trägt. Das Dasein hört, weil es versteht. Als verstehendes In-der-Welt-sein mit den Anderen ist es dem Mitdasein und ihm selbst >hörig< und in dieser Hörigkeit zugehörig. Das Aufeinander-hören, in dem sich das Mitsein ausbildet, hat die möglichen Weisen des Folgens, Mitgehens, die privativen Modi des Nicht-Hörens, des Widersetzens, des Trotzens, der Abkehr. (p.163)
〈~に耳を傾ける〉ことは、共同存在としてのある現存在が、他者にたいして実存論的に開かれていることである。〈聞くこと〉はさらに、それぞれの現存在の心にそなわる友の声に耳を傾けることとして、現存在がみずからにもっとも固有な存在可能へ向かって第1義的に、しかも本来的に開かれていることを構成する。現存在は理解するから、聞くのである。他者とともにあり、理解しつつある世界内存在として、現存在は共同現存在と自己自身に「耳を傾けつつ」存在しているのであり、この〈耳を傾ける姿勢〉において、連帯的なのである。共同存在はたがいに耳を傾けあうことにおいて育つ。こうした〈たがいに耳を傾けあうこと〉に可能なありかたとしてはつき従うことや、ともに進むことがあり、欠如的な様態としては、耳を傾けないこと、抵抗すること、頑固になること、離反することなどがある。

 ハイデガーはまず、「聞くこと」がすでに何かについて理解しながら聞く営みであることを強調し、その後で「聞き取ること」には2つの意味があることを指摘します。他者の語りを聞いて理解するという意味での「聞き取ること」と、自己のうちで語る良心の言葉に耳を傾けるという意味での「聞き取ること」です。この2つの「聞き取ること」を軸として、ハイデガーはこの節では「聞くこと」の意味を考察します。

 第1の考察のテーマとなるのは、世界内存在としての現存在の「聞くこと」であり、この「聞くこと」は理解する現存在のありかたと不可分で、こうしたありかたを作りだすものです。現存在の了解可能性は、「聞くこと」を重要な軸にしています。
 世界内存在として存在する現存在は、すべての物音を耳にして、それが何であるかを、すでに理解しているものです。まず耳にある音が聞こえて、現存在がそれを「何の音であるか」と解釈し、判断するのではなく、音は聞こえたときからすでに、生活の中の何かの音として聞こえるのであり、こうした音に囲まれていることで、現存在は世界における自己の位置を把握することができます。

Auf dem Grunde dieses existenzial primären Hörenkönnens ist so etwas möglich wie Horchen, das selbst phänomenal noch ursprünglicher ist als das, was man in der Psychologie >zunächst< als Hören bestimmt, das Empfinden von Tönen und das Vernehmen von Lauten. Auch das Horchen hat die Seinsart des verstehenden Hörens. >Zunächst< hören wir nie und nimmer Geräusche und Lautkomplexe, sondern den knarrenden Wagen, das Motorrad. Man hört die Kolonne auf dem Marsch, den Nordwind, den klopfenden Specht, das knisternde Feuer. (p.163)
この実存論的に第1義的な〈聞きうること〉に基づいて、”聞き耳を立てる”ようなことも可能になる。このことは、心理学では「さしあたり」〈聞くこと〉として規定されていること、すなわち音響の感受や音声の知覚などよりも、現象的にはさらに根源的なものである。〈聞き耳を立てる〉ことは、理解しながら聞くことの存在様式である。わたしたちが「さしあたり」耳にするのは、たんなる騒音や音のざわめきではなく、車のきしむ音であり、オートバイの音なのである。わたしたちは行進中の縦隊の足音、北風、幹をつつくキツツキの音、ぱちぱちとはぜる火の音を聞くのである。

 道を歩いていて車の音が聞こえたなら、わきによけることが必要ですし、玄関の音が聞こえたら、誰かが入ってきたことを考えるでしょう。生きることは周囲の物音を意識するともなしに聞くことなのであり、これは生きるために不可欠な「聞くこと」の営みなのです。
 それに対して、耳に聞こえてくる音を、純粋な騒音として聞くのは、きわめて困難なことです。後ろから車が接近してきている音を、純粋な騒音として聞こうとするためには、人為的で複雑な身構えをする必要があり、人間の知覚についてきわめて偏った想定をする必要があります。物音が純粋な騒音としてではなく、生活の中の音としてさしあたり聞こえるということは、現存在が世界内存在として、世界内部的な存在者のもとに身を置いており、心理学的な〈感覚〉のもとにいるのではないことを示す現象的な証拠です。〈聞き耳を立てる〉ことは、「音響の感受や音声の知覚などよりも、現象的にはさらに根源的なものである」のです。

 こうした生活の音に囲まれながら、現存在は共同現存在でもあります。世界内存在として他者とともに生きる現存在は、他者の言葉に耳を傾け、世界について、他者について、自己について理解します。他者が語るからこそ、現存在はその言葉に耳を傾けるのですから、「聞く」営みは、とくに「語り」と密接に結びついています。
 他者の語りに耳を傾けることは、「共同存在としてのある現存在が、他者にたいして実存論的に開かれている」というありかたをしているということだと指摘されています。「共同存在はたがいに耳を傾けあうことにおいて育」ち、「こうした〈たがいに耳を傾けあうこと〉に可能なありかたとしてはつき従うことや、ともに進むことがあり、欠如的な様態としては、耳を傾けないこと、抵抗すること、頑固になること、離反することなどがある」のです。
 他者の言葉を聞き取ることができなかった場合や、知らない外国語で語られた場合にも、わたしたちはそれを「音の多様な集まり」として受け取るのではなく、さしあたりは理解できないが、ともかく人間の言葉として聞いています。このように、現存在はつねに理解する存在であり、理解しようとする存在であるために、周囲から聞こえてくる言葉には耳を傾けます。わたしたちはよく聞こえなかったときに、「分からなかった」と言うことがありますが、これは〈聞くこと〉が理解と結びついていることによる現象なのであり、偶然のことではないのです。

 第2の種類の「聞き取ること」として、自己のうちで語る良心の言葉に耳を傾けることが含まれます。これはすでに指摘されてきたように、自己を喪失した状態から、もっとも固有な自己を取り戻すことです。それが〈聞くこと〉の、「それぞれの現存在の心にそなわる友の声に耳を傾けることとして、現存在がみずからにもっとも固有な存在可能へ向かって第1義的に、しかも本来的に開かれていることを構成する」営みです。
 この自己に耳を傾けること、自分の良心の声を聞くことについては、後の節で詳しく取り上げられることになります。ここでは、良心の声を聞くには、発話することのない声に耳を傾けることとして、「沈黙すること」が必要になるということをおさえておきましょう。以下では、沈黙することの実存論的で存在論的な重要性について、この節で語られていることをまとめてみましょう。

 語ることには、いくつもの重要な働きがあります。語ることは第1に、自己を表現することであり、現存在が世界内存在として実存するために不可欠な営みです。「世界内存在の情態的な了解可能性は、”語りとしてみずからについて話しだす”」のであり、現存在が自己の感情や気分について語りだすことによって、現存在は自己を他者に露呈させます。「語りには同時に、”みずからを語りつくす”という性格がある」のでした。
 第2に、語ることは現存在が共同現存在として、共同相互存在として存在するために不可欠の手段です。他者に対して自己の感情や思考を伝達することは、他者とともに世界を構築するために不可欠の営みであり、言葉を語ることで、共同相互存在としての現存在があらわにされるのです。
 第3に、語ることは自己と直面して自己を語るための必須の手段です。語りには情態的な内存在を告知する働きがあるのであり、これは他者に実存論的な可能性を伝達する手段なのです。

 このように語りには、現存在が世界のうちで自己を認識し、世界で共同現存在として存在し、さらに自己の固有のありかたと向き合う実存の存在様態を作りだす重要な働きをするものです。このように語りは積極的な働きをするものですが、その反面、消極的な形をとる「語り」としての沈黙も、同じように重要な働きをします。

Dasselbe existenziale Fundament hat eine andere wesenhafte Möglichkeit des Redens, das Schweigen. Wer im Miteinanderreden schweigt, kann eigentlicher >zu verstehen geben<, das heißt das Verständnis ausbilden, als der, dem das Wort nicht ausgeht. Mit dem Viel-sprechen über etwas ist nicht im mindesten gewährleistet, daß dadurch das Verständnis weiter gebracht wird. Im Gegenteil: das weitläufige Bereden verdeckt und bringt das Verstandene in die Scheinklarheit, das heißt Unverständlichkeit der Trivialität. (p.164)
語ることの別の本質的な可能性として、”沈黙すること”があるが、この行為も同じ実存論的な基礎をそなえている。たがいに語りあっていながらも沈黙している人は、語る言葉が尽きないような人よりも、さらに本来的に「理解させる」ことが、了解を深めることができるものである。あることについて多くを語ったからといって、了解がさらに深まるという保証はまったくない。その反対であり、多弁を弄することは理解されたものを隠蔽することであり、すでに理解されていたことに見掛けだけの明瞭さを与え、ありきたりの表現によって理解しがたさのうちにひきずりこむのである。

 第1に、自己を表現するという〈語り〉の働きと同じように、沈黙することもまた、自己を表現するための重要な手段です。現存在は沈黙することで、自己を他者に提示することができます。
 第2に共同相互存在としての語りには、その否定的な様態として、多弁という様態があります。それは「多弁を弄することは理解されたものを隠蔽することであり、すでに理解されていたことに見掛けだけの明瞭さを与え、ありきたりの表現によって理解しがたさのうちにひきずりこむ」ことです。この否定的な働きを是正することができるのが、沈黙です。「たがいに語りあっていながらも沈黙している人は、語る言葉が尽きないような人よりも、さらに本来的に〈理解させる〉ことが、了解を深めることができるものである」と指摘されています。また、すでに考察してきた「聞くこと」は、「沈黙すること」によって初めて可能になることに留意するべきでしょう。耳を傾けるためには、沈黙することが必要です。
 第3に、実存としての語りの働きは、沈黙することにおいてもっとも顕著に示されます。

Um schweigen zu können, muß das Dasein etwas zu sagen haben, das heißt über eine eigentliche und reiche Erschlossenheit seiner selbst verfügen. Dann macht Verschwiegenheit offenbar und schlägt das >Gerede< nieder. Verschwiegenheit artikuliert als Modus des Redens die Verständlichkeit des Daseins so ursprünglich, daß ihr das echte Hörenkönnen und durchsichtige Miteinandersein entstammt. (p.165)
沈黙しうるためには、現存在には何か語るべきことがなければならない。すなわち自分自身の本来的で豊かな開示性が身近にそなわっていなければならない。そのときに〈黙していること〉が何かをあらわにするのであり、「世間話」を抑えるのである。〈黙していること〉は、語ることの1つの様態であって、現存在の了解可能性をきわめて根源的に分節するのである。そこからこそ、真の意味での〈聞きうること〉や、透明な共同相互存在が生まれるのである。

 ハイデハーは、沈黙することができるためには、現存在に何か語るべきことがなければならないことを指摘します。そしてそのために「自分自身の本来的で豊かな開示性が身近にそなわっていなければなら」ず、「そのときに〈黙していること〉が何かをあらわにする」のです。
 沈黙することは自己と向き合うことであり、自己の本来的で豊かな開示性を確認することです。「〈黙していること〉は、語ることの1つの様態であって、現存在の了解可能性をきわめて根源的に分節する」のであり、沈黙することは、「語りが実存の実存性を構成する機能をはたしていること」を初めて完全に明確に示すことです。沈黙することは、現存在を、そのもっとも固有な存在へと呼び起こし、連れ戻すことなのです。
 ただし、沈黙することについてはこの節では、ほとんど1段落分でしか説明されていません。語りのこの可能性は、後の節に入ってから、「良心」との関連でより詳細に考察されることになるでしょう。


 今回は以上になります。なるべく1つの記事に1つの節を割り当てるために、今回は省いてしまいましたが、ご紹介してきた内容の他に、ハイデガーはこの節で言語学の課題についても論じています。大雑把に言えば、実存カテゴリーである「語り」のアプリオリな構造をまず解明し、そうして得た存在論的な土台の上に言語学を据え直す必要があるといった内容で、やはり諸学に先行するべきは基礎存在論であるということがここでも一貫して言われています。興味のある方は是非、読んでみてください。

 この節をもって、第5章のA項は完了しました。次回もよろしくお願いします。

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