『存在と時間』を読む Part.23

  第24節 現存在の空間性と空間

 世界内存在としての現存在は、配慮的な気遣いのうちで、自分の周囲に手元存在者を集め、それによって生活の場である「辺り」を構築しています。この「辺り」において、現存在はさまざまな存在者を「開けわたす」ことによって、それに適材適所性を割り当ててきたのでした。世界はそれによって「意味」をもつようになり、「有意義性」を獲得します。
 現存在はこの「辺り」に対して「方向づけ」をすることで、それに1つの空間的な配置を与え、適材適所性の連関である「辺り」のもつ方向づけは、現存在の周囲において1つの「空間」を作りだします。現存在が生きる空間は、机や椅子などのさまざまな道具で囲まれた生活空間であり、現存在はこの「辺り」に適切な「距離を取る」ことと「方向づけ」をすることで、道具を配置して生活しているのです。

Woraufhin der Raum vorgängig im Dasein entdeckt ist, das haben wir schon mit dem Phänomen der Gegend angezeigt. Wir verstehen sie als das Wohin der möglichen Zugehörigkeit des zuhandenen Zeugzusammenhanges, der als ausgerichtet entfernter, das heißt platzierter soll begegnen können. Die Gehörigkeit bestimmt sich aus der für die Welt konstitutiven Bedeutsamkeit und artikuliert innerhalb des möglichen Wohin das Hier- und Dorthin. Das Wohin überhaupt wird vorgezeichnet durch das in einem Worum-willen des Besorgens festgemachte Verweisungsganze, innerhalb dessen das freigebende Bewendenlassen sich verweist. (p.110)
現存在が空間をあらかじめ露呈させる<ところのその場所>を、わたしたちは<辺り>という現象によって示してきた。この<辺り>とは、<方向づけ>られ<距離を取ら>れることで、すなわち場所を配置されることで出会うはずの手元的に存在する道具連関が帰属することのできる<どちらに>のことである。この帰属性は、世界を構成する働きをする有意義性に基づいて規定され、そのありうる<どちらに>のうちで、<ここ>あるいは<あそこ>にと構造が定められるのである。この<どちらに>一般は、配慮する気遣いによる<そのための目的>と結びついた指示の全体によってあらかじめ素描されているのであり、この全体の内部で、<開けわたしながら>適材適所をえさせる働きが指示されるのである。

 「この<辺り>とは、<方向づけ>られ<距離を取ら>れることで、すなわち場所を配置されることで出会うはずの手元的に存在する道具連関が帰属することのできる<どちらに>のことであ」り、道具はこの<どちらに>のうちの「ここ」に、あるいは「あそこ」に、適材として適所に配置され、現存在の生活の用をなします。この<どちらに>の場は、<そのための目的>の連関と結びついた「指示の全体によってあらかじめ素描されている」のです。
 この場が現存在にとって1つの空間であることは間違いないでしょう。ハイデガーはこの空間性を次のように説明します。

Das für das In-der-Welt-sein konstitutive Begegnenlassen des innerweltlich Seienden ist ein >Raum-geben<. Dieses >Raum-geben<, das wir auch Einräumen nennen, ist das Freigeben des Zuhandenen auf seine Räumlichkeit. Dieses Einräumen ermöglicht als entdeckende Vorgabe einer möglichen bewandtnisbestimmten Platzganzheit die jeweilige faktische Orientierung. (p.111)
世界内存在にとって、世界内部的な存在者と出会うことは、世界内存在を構成する意味をもつことであり、それは「空間を与える」ことでもある。この「空間を与える」ことを、わたしたちは”場を空けること”とも呼ぶ。これは、手元的な存在者を、その空間性に向かって<開けわたす>ことである。この<場を空けること>は、適材適所性によって規定されている可能な場所の全体を露呈しつつ提示することであり、これによってそのたびごとに、事実的に方向を決定できるようになるのである。

 現存在が手元的な存在者を、その空間性に向かって<開けわたす>ことを、ハイデガーは「空間を与える」と呼び、これを「場を空けること」を言い換えています。この「場を空けること」は、現存在が世界のうちに適材適所性にしたがって、さまざまな道具を配置する場所としての空間を設定することです。現存在にとって「世界内部的な存在者と出会うことは、世界内存在を構成する意味をもつこと」なのであり、「場を空けること」で世界のうちで道具を配置し、それによって自分の「辺り」が作られ、こうして現存在は、世界のうちで自己を定位することができるようなります。「場を空けること」は、「辺り」や「方向づけ」と同じく実存カテゴリーなのです。

 しかし現存在は、「辺り」や空間性にも特別に注目しながら生活しているわけではありません。この空間性は、現存在の目配りにおいて立ち現れているものですが、日常的には手元的な存在者の<目立たなさ>のうちにあります。ここでハイデガーは、空間そのもののは、目配りのうちに潜在的にしか認識されていないものではありますが、「辺り」「方向づけ」「場を空けること」などの実存カテゴリーを介して認識できるようになると考えています。
 この空間そのもの、つまり自然科学的なまなざしのもとで発見される空間は、世界のうちで目配りのまなざしによって発見される空間とは異なるものであり、それの認識のためには、道具のもつ手元存在性は捨象される必要があります。この視点の転換はある意味では必然的なものでしょう。人類が大がかりな建築や開発を行えるようになるためには、こうした純粋な空間性が目配りにとって主題となる必要なあり、計算や測量はそれに基づいて可能になってきたからです。こうして自然科学的なまなざしが生まれるとともに、土地を人間が住む場所としての「辺り」とみなすまなざしの他に、純粋な3次元的で均質な空間としてみなすまなざしが生まれることになりました。この空間は、手元存在者としての道具が環境世界を失って、眼前存在者としてみられるときに発見される空間ですから、無世界的な空間だと言えます。

 このように、手元存在者を眺めるまなざしが、眼前存在者を眺めるまなざしに変質するときに、初めて純粋な意味での空間という概念が登場することになります。このような世界内存在の存在論に基づいた空間の概念からすると、カントの純粋直観の形式としての空間の概念が問題を含むものであるのは明らかです。

Der Raum ist weder im Subjekt, noch ist die Welt im Raum. Der Raum ist vielmehr >in< der Welt, sofern das für das Dasein konstitutive In-der-Welt-sein Raum erschlossen hat. Der Raum befindet sich nicht im Subjekt, noch betrachtet dieses die Welt, >als ob< sie in einem Raum sei, sondern das ontologisch wohlverstandene >Subjekt<, das Dasein, ist in einem ursprünglichen Sinn räumlich. Und weil das Dasein in der beschriebenen Weise räumlich ist, zeigt sich der Raum als Apriori. Dieser Titel besagt nicht so etwas wie vorgängige Zugehörigkeit zu einem zunächst noch weltlosen Subjekt, das einen Raum aus sich hinauswirft. Apriorität besagt hier: Vorgängigkeit des Begegnens von Raum (als Gegend) im jeweiligen umweltlichen Begegnen des Zuhandenen. (p.111)
”空間は主観のうちにあるのではないし、世界は空間のうちにあるのでもない”。現存在を構成する世界内存在が空間を開示しているかぎりで、むしろ空間は世界の「うちに」あるのである。空間が主観のうちにあることはなく、主観が世界をあたかも空間のうちにある「かのように」観察するのでもない。存在論的に正しく理解された「主観」が、すなわち現存在が、根源的な意味で空間的なのである。そしてこれまで述べてきたようなありかたで現存在が空間的であるからこそ、空間はアプリオリなものとして現れる。このアプリオリという呼び名は、空間が初めはまだ無世界的に存在している主観にもとから属していて、この主観が空間を自分の内部から外部へと投射するようなことを意味するものではない。ここで空間のアプリオリ性とは、現存在が環境世界において、そのつど手元的な存在者と出会うときに、<辺り>としての空間につねに先だって出会っているということを意味する。

 カントによれば、空間と時間は感性の純粋な形式として、主観のうちにアプリオリに存在するものだとされていました。そして「主観が世界をあたかも空間のうちにある<かのように>観察する」とされています。このカントの理論に対してハイデガーは、次の2点から批判を加えます。
 第1に、空間が主観のうちにあると考えることはできません。カントの空間論は、灯台モデルに依拠しており、認識を、主体が世界に向けるまなざしとその形式に根拠づけようとするものです(灯台モデルについては、Part.22参照)。しかしハイデガーは、現存在が世界内存在として、さまざまな手元存在者に囲まれて生きているという事実のために「根源的な意味で空間的」であるからこそ、さまざまな事物が空間のうちに配置されるようになると考えます。主体のうちに直観の形式としての空間があるのではなく、周囲を囲む道具のもつ空間的な性格のために、主体は「そのつど手元的な存在者と出会うときに、<辺り>としての空間につねに先だって出会っている」のです。
 第2に、空間を感性のうちにアプリオリにそなわる直観の形式であると考えることはできません。これもまた灯台モデルに基づいた考え方であり、これは「空間が初めはまだ無世界的に存在している主観にもとから属していて、この主観が空間を自分の内部から外部へと投射する」ようなイメージをもつことから生まれた考え方なのです。
 カントはこのように時間と空間は、主体の感性にアプリオリに存在する形式であると考えましたが、こうした考え方はある意味では自然科学的なまなざしのもとで、世界において存在する人間のありかたを再構成したものであることを、ハイデガーは批判するのです。こうした自然科学的なまなざしは、世界の事物を眼前存在者とみるまなざしによって生まれたものであり、世界のうちで実存する人間の存在様式には、いかにそぐわないものであるかを、ハイデガーはこれまでの存在論的な考察で明らかにしてきたのです。現存在は世界内存在として、道具連関のうちに生きているのであり、その生き方こそが存在論的にみて根源的で原初的なものなのです。

 ところで、これまで空間について考察されてきましたが、空間の存在様式とはどのようなものでしょうか。

Dem Dasein wird gemäß seinem In-der-Welt-sein je schon entdeckter Raum, obzwar unthematisch, vorgegeben. Der Raum an ihm selbst dagegen bleibt hinsichtlich der in ihm beschlossenen reinen Möglichkeiten des puren Räumlichseins von etwas zunächst noch verdeckt. Daß der Raum sich wesenhaft in einer Welt zeigt, entscheidet noch nicht über die Art seines Seins. Er braucht nicht die Seinsart eines selbst räumlich Zuhandenen oder Vorhandenen zu haben. Das Sein des Raumes hat auch nicht die Seinsart des Daseins. Daraus, daß das Sein des Raumes selbst nicht in der Seinsart der res extensa begriffen werden kann, folgt weder, daß er ontologisch bestimmt werden muß als >Phänomen< dieser res - er wäre im Sein nicht von ihr unterschieden - noch gar, daß das Sein des Raumes dem der res cogitans gleichgesetzt und als bloß >subjektives< begriffen werden könnte, von der Fragwürdigkeit des Seins dieses Subjektes ganz abgesehen. (p.112)
現存在には、その世界内存在としてのありかたのために、まだ主題的なものとはなっていないとしても、つねにすでに露呈された空間が前もって与えられている。しかし空間そのものは現存在にとって、まださしあたりは覆い隠されたものとなっている。この空間には、何かあるものがひたすら空間的に存在する純然たる可能性が含まれているのだが、これについては、空間はまだ隠されているのである。空間はその本質からしてみずからを”ある世界のうちで示す”のであるが、このことはまだ空間の存在の様式を決定するものではない。空間は、それ自身で空間的に手元的にあるいは眼前的に存在するという存在様式をそなえているとはかぎらない。また空間の存在は、現存在のような存在様式をもつものでもない。空間そのものの存在は、<広がりのあるもの>の存在様式から理解することはできないが、そのことからして、空間は存在論的にみて、こうしたものの「現象」として規定されなければならないということにはならない。そうだとすると空間はその存在においてこれらのものと区別できなくなるのである。まして、空間の存在を<思考するもの>の存在と同じものとみなして、たんに「主観的な」ものとして把握できるということにもならない。そもそもこうした主観の”存在”そのものが疑問とされるのである。

 空間の問題を存在論的に了解するために重要なのは、空間の存在への問いを、その空間性に注目しつつ、その問題構成を存在一般の可能性を解明する方向へ進めていくことだとハイデガーは言います。そしてこうした空間性は世界を基礎としなければ露呈されないものです。空間は世界をともに構成するものであり、そのことは現存在が世界内存在という根本的な機構のために、本質的に空間性をそなえたものであることに対応しているのです。だからこそ、空間の存在論を遂行しようと試みるならば、やはりまずは現存在分析を避けて通ることはできません。そして、存在一般の可能性が原理的に洞察されたとき、空間の存在様式も明らかになることでしょう。


 以上で第24節は終わりです。これをもって『存在と時間』第1部第1篇第3章「世界の世界性」が完了しました。世界内存在の「世界」に注目した分析が、これで1段落したということになります。ハイデガーの世界の考察はいかがでしたでしょうか。

 次回から、第4章に入ります。第4章では、世界内存在の3つの契機のうち「誰か」と問われる存在者について注目し、以前から予告されていたように、「世人」が考察の対象となります。それでは、またよろしくお願いします。

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