上川外務大臣「女性がうまずして」発言報道から考える日本の問題点。日本に必要な「実効力」とは

上川外務大臣が静岡県知事選の自民候補を応援する女性メインの会合で「女性がうまずして何が女性か」との発言をしたと共同通信が報じた。「身体的な問題などで産めない女性を傷つける発言だ」という趣旨での批判だ。
本当は、自民候補を指して、「この方を私たち女性の力で知事としなくては」という趣旨であり、共同通信の悪意ある切り取りなのは明らかだ。
だが今回は共同通信が間違えているということを批判することが本筋ではない。
そうではなく、間違いが「実効的」な形で糺されないこと、糺されずに広まって実際に悪影響が生じ、それがそのまま放置され、批判が出たとしても結局ナアナアになるということが「報道」を中心に日本のいろんなところで起きているように感じる。このことを今回論じたい。


私が最初に共同通信の記事を見たとき「うまず」というようにひらがなの表記であったことに違和感を感じたし、上川大臣がこんな不用意なことを言うのかも疑問に思った。
案の定切り取りだったわけだが、最初は「産まず」というように漢字だったようで、報じ方のおかしさの指摘を受けた後もなおこのような報道を続けたことがわかる。

今回上川大臣が応援している自民党候補は男性で、最初なぜこの候補を知事にするのが女性としての役割かのように言うのか意味がわからなかった。
どうやら女性がメインの会合だったらしく、静岡が地元の上川大臣は「この場に集まった女性のみなさまに自分はここまで育てていただいた」という想いから「今回もみなさんの力でこの素晴らしい候補を静岡県知事に」というニュアンスだったのだろう。
政治家の失言は自分を応援してくれるこのような比較的クローズドな場でリップサービス的にした発言が切り取られるケースが多い。

それでも女性を強調する意味はやはりはっきりとはわからなかった。茂木健一郎さんも「うまずして女性なのか、という文言自体、女性の属性に結びつけた表現。無意識にそういう意識があったのではないか、ということは否定できない」との意見だ。
逆に三浦瑠璃さんは「家事や育児をしながら選挙活動にも協力してくれる聴衆の女性たちのプライドをくすぐりたかったのだろう」と推測している。会場の空気感や参加者がどんな属性なのか詳しくわからないが、「まあそうなのかもなあ」とは感じた。
女性が産む力強さのようなものを表現した側面はたしかにあるのだろうが、肯定的な力強さにどこまでもいちゃもんをつけるのは困難な人に寄り添うのではなく、単なる僻み根性だ。産まない人、産めない人を積極的に貶めることと区別しないといけない。
そして本当に傷つく人がいることを問題視するなら共同通信の振る舞いこそが困難な人を最も傷つけているだろう。わざわざ拡声器となってその人たちの耳に届けているのだから。もちろん本当に問題のある発言をしているなら、そのような発言をする人物だと報じることに意義はあるのだが。
茂木さんは聴衆に上川大臣支援の女性が多かったことや三浦瑠璃さんの推測まで考えつかなかったのかもしれない。


今回の報道に対して他にも様々な反応がある。「切り取りはけしからん、事実をきちんと報道しろ」という当たり前の反応が多いが、タイトルしか目にしない人、一部野党を含めて与党をとにかく貶めたい人はこれを批判している。「これの趣旨がわからないやつはどんな学歴なんだ?」という感想もあるが、学歴は関係ない。有権者のほとんど全ての人は中学を卒業しているはずだからだ。

政治闘争なのでとにかく相手の脚を引っ張るということが一部野党の行動原理となっているのだろうが、野党の中にもそこまで拙劣なことをしない党もあるわけで、揚げ足取りだけで自分のポジションを維持できる、もっと言えば自分たちを応援している支持者はそんな低レベルなやり方で喜ぶと見くびっているのだろう。

また一般の人が「リテラシーを身に付けるべきだ」という意見もある。それももちろん大切だが、日々自分の現場を忙しく生きる一般の人に、事実や重要な論点を正しくわかりやすく伝えるのがメディアの役割だろう。それをイチイチ、ウソでたらめや歪曲、捏造、扇動のような悪意までを想定して見なきゃいけないとしたらそんなメディアはいらないだろう。
報道の自由、表現の自由といった自由や権利は、「正しい」ことをやる自由や権利だ。この点が見過ごされていることが多い。正確には見過ごされているのではなく正しさが通らない、実現しないということが問題であり、今回言いたいのはまさにその点だ。

特に関心がない人の中には上川大臣が「本当にそんなこと言った」と思う人も出てくる。そしてこれが実際に選挙の結果などにも響いてくる。
ネットでいくらこれが間違いだと言われてもオールドメディアしか見ない人や忙しい人は誤解したままとなる。

逆に例えば自民党の裏金問題は、報道されても糺されていないと感じる人もいるだろうが、政治家はその実態を報道されることで選挙で落とされるから糺されうるのだ。政治家にとって選挙が生命線であり、主権者が許さないとなればその座を追われる。実際先日の衆院補選では自民党はお灸を据えられている。
しかし共同通信は指摘された後も直さないどころか海外にも「日本の外相がこんな発言をした」と広めているらしいし、一般の人の中には報道を信じたままの人も出てくるというのも先ほど言った通りだ。
日本の外相という点で言うと、海外への捏造報道は自民党や野党を貶めるというより日本国を貶めていることになる。

思うにマスコミは第四の権力ではなく、第一の権力だ。政治家でさえ報道で痛手を負うのにマスコミは情報の与え手としてほぼ独占的に振る舞うから明らかな捏造でさえそれが訂正されるのは難しい。
そして一部の人が気付いても厚かましくいられる。雰囲気で権力者を叩けば一定数の喝采を得られるし、本当のところを調べない人も多いからだ。
報道の自由は非常に大切なものだが、正しく使わない者にその権利を与えるのは本当に正義なのか。
「正しい報道をしないやつは罰則だ」という法律を作ろうとするだけでも、またワーワー喚くだろう。
報道の自由を棄損しているのは法律を作る側ではなく、権利の濫用をしている側であるにも関わらず。

地上波は限られた公共の電波として、放送法で「政治的中立性」を求められるが、どんな偏向報道があろうとも「停波」という言葉を政治家が出しただけで騒ぎになる。このように正しい権力の行使さえも忌避される。
これはもちろん偏向報道に気付かせない偏向報道のせいでもあるのだが、いくら正しくても「権力の行使」というものが日本人にとってなんとなく怖いという感性もあるのではないかと思う。
ある日突然例えばTBSが全く映らなくなる、ということが起こったとして「これこれこういう理由で正しいです」という理屈以上に、何か怖いという情緒や常識的な感覚が優先される。
本来違法な状態ならきちんと停波すべきなのだ。これが実効性ある対処となる。

他にも、外国人生活保護も違法なはずだが、単なる官僚の通達でこれまで何となく続けられてきた。
もちろん、やむなく必要な状況であるような外国人を道端で野垂れ死なせるのは人道的に残酷だ。
しかしそういった緊急避難的なものを「準用」している違法な状態を「急に本国に追い返すのはかわいそう」のようなエモーションや空気を醸成することで継続させているとしたらよくない。どこまでが許されるのかきちんと整理し、その通りに実行すべきだ。


週刊誌などによる名誉毀損訴訟でも、賠償額が安いとかなり前から指摘されていたが、これもまだ直らない。
これまで数百万がせいぜいだったため書き得などと言われていたが、それがいきなり億単位になるのは「穏やかではない」といったところか。
億の損失がデタラメな報道で出たとしたら、デタラメを流した側が億の賠償すべきなのは言うまでもない。なぜ悪くない側が億の損失を理不尽に背負わなくてはならないのか。
このように賠償命令に実効性がない結果、デタラメな週刊誌報道は居直って続けられている。

迷惑系や私人逮捕系などのYouTuberも金銭的、もしくはそれ以外の利得を越える損失を与えてそのような行動をやめさせないことが問題だ。彼らに至っては嫌われても批判されても目立って再生数が稼げればいいわけで、その生命線を断つことが必要だ。
批判が無意味な輩の代表格だろう。
もし「表現の自由を尊重すべき」と言うならば、チャンネル削除以外で間違った行動をやめさせる実効性ある対策を示すべきだ。

他にも能登地震のとき、「ボランティアの方など、今は来ないでください」と要請されても能登に出向くYouTuberや政治家もいた。過激なことを言うようだが、彼らを銃殺できる法律を作るべきだと思う。
瓦礫の下で救出を待っている人がいるかもしれず、くだらないパフォーマンスをさせるために命が失われる可能性を見過ごした。銃殺までしなくても逮捕で済むと思われるかもしれないが、被災地は治安面でも不安を抱えており、言ってもわからないアホに警察などの人員を割いている余裕があるなら逮捕で済ませればよい。そうでなければさっさと決着をつけるべきだ。警告はしたのだから。
怖い発想だと思われるだろうが、救出や物資が届くのを待つ人がアホな目立ちたがり屋のために危険に晒されてもいいと考えるのかという話だ。暴力的な見掛けだというだけで判断してはダメだ。


またつばさの党による選挙妨害で逮捕者が出たが、彼らは安倍首相の北海道での演説が妨害されたことが裁判でも認められたのだから自分達も認められると考えているようだが、法律論としてはこれは間違いだ。あの裁判は選挙妨害ではなく、警察官の職務執行のあり方が適法かどうかだったということだ。
だが真の問題はそんな細かい法律論ではないように思う。拡声器を使ったとか使わないとかも関係なく、要は安倍首相の演説を聞きたかった人が聞けなかったということが問題なのだ。
警察官の職務執行のあり方やら裁判の結果やらは聴衆の権利を守ることができなかったのだ。
つばさの党の候補者たちはその点を言っていて、あれが許されるなら自分達の行動も許されると勘違いをしてしまった。
拡声器など使わなくとも多数人がタッグを組めば安倍首相の声はよく聞こえないだろう。これが放置された事実がある。駆除されず、聴衆の権利が侵害された点では安倍首相の件とつばさの党の件は同じように悪なのだ。本来は実効力ある駆除こそ必要だったのだ。



行政の継続性(外国人生活保護をナアナアで続けること)や判例(週刊誌の賠償額は今でもせいぜい数百万)を尊重するのは過去を適切に参照することで平等を担保しようとするものなのだろうが、不公正を維持するのはやはり間違っており、立法をし直したり、時代や状況の変化をそれこそマスコミが論点整理し、単なる批判に終わらずきちんと糺す実効力が求められる。

では今回のような歪曲報道にどう立ち向かえばよいのか。
一つはBPO的な制度を確立することだろう。
間違ったものは地上波や大手新聞で大きく報じなければならないといった決まりを作ることだ。
ただ、この場合間違った報道か、正しい報道かを誰が判定するのかが一番の問題となる。
「職業判定員」では「腐敗」は目に見えている。
裁判員のように一般の人を召集するやり方があるが、これについては断る権利のない義務として強制しないと再び無意味となる可能性がある。なぜなら召集に応じる人間が偏った人間であれば、今回の報道さえも「正しい」という判定が出かねない。
刑事裁判の裁判員なら感情的な判断はあり得ても思想的に偏ったものとはなりにくいだろうが、この手の話題だと偏った人間だけが判定に参加するなんてこともザラに起こりうる。しかし思想・信条の表明を伴う業務ともなるため判定員参加の一般人への義務化は相当ハードルが高いだろう。

他には政府のチャンネルを作って、反論が国民にきちんと伝わるようにするのもよいだろう。きちんと政府の立場での意見だと明示し、それに対してさらなる反論もありうるとするのだ。
だがこれは多チャンネル化同様、既得権側の抵抗が大きく、国策捜査やら死人まで出るだろうから実現は難しそうだ。それこそ実効性ある抵抗を喰らうことになる。
しかも芸能人や企業経営者など報道被害は政府の人間に限定されない。民間人の反論権をどこまで認めるかなど収拾がつかないのは目に見えている。

最も現実的なのは賠償額を大きくすることだ。ただしこの効果もちんけな週刊誌など、金銭が生命線となる報道機関にしか効かない。
毎日新聞が中国から金を受け取っていることについて浜田聡参議院議員が国会で議論していたが、もしバックに国家がついていれば、新聞の売り上げ程度捨てても平気だろうから実効性があるとは言えない。数億程度の損失が出ても工作活動を続けるだろうからだ。
その場合「TVは核兵器よりに勝る」(NHK党立花党首)のだから外患誘致罪を「準用」できたら実効力としては心強いのだが…

あとは明らかに陥れるために記者もしくはその仲間が会合に出席しているなら建造物侵入や詐欺罪などに問えないものかと思う。
支持者でなくとも会合に出席すること自体は問題ないだろうが、歪曲した報道をすべく待ち構えているような人間を会場に入れようとは主催者側は思わないだろうからそんな入場者は建造物侵入をしていることになる(普通駅構内に入るのは合法だが痴漢目的で構内をうろつけば建造物侵入となりえる)とか、欺いて入場券などの交付を受けたことになる(暴力団員が身分を隠して銀行口座を開設し通帳の交付を受けて詐欺罪となった例もある)とかなんとか。そんな理屈が成り立てば実効性はあるのだが…
官房長官の記者会見が東京新聞望月記者の独りよがりの演説で時間を潰されることにしても、やはり駆除しないから増長するし、何より最大の被害者は官房長官の話を聞けない有権者なのだ。威力業務妨害程度成り立たないものなのか。
しかしこれらも報道目的だと言われて却下されるだろう。「政治家が言論封殺してる」とも言われるに違いない。
しかし陥れることや官房長官の話を聞かせないことが本当に報道にあたるのかその妥当性を考えないとダメなはずなのに。
結局、彼らが厚かましく捏造を続けたり、ルールを無視していられるのは「報道の自由割」「思想の自由割」で実効的な力を行使されないことをわかっているからだ。法的不利益などを本当に受けてもまだやるというなら根性あるが、実際は力が行使されないからに過ぎないのだ。
とはいえ実効力あるものを実際に考えるのは「空想法律読本」のようになってしまい難しい…


今回はかなり物騒な表現をたくさんしてしまったが、こう考えていただきたい。
殺人犯から見たら逮捕勾留や懲役、死刑などの刑罰は自分に対する監禁や殺人だ。「監禁や殺人に当たるからなんとなく穏やかじゃないので刑罰はやりません。なあなあで行きましょう」となるだろうか。
きちんと決まった力の行使を正しくやっていくことが正義の実現なのであり、正しい側が公正でない形で損失を背負ったままに放置される方が間違っている。また新しい被害を誘発することにもなる。
薄ぼんやりと「報道・表現の自由」「外国人にも人道的に接しなきゃ」などを考えると、実効性ある力の行使は頭悪そうに見えたり排外主義っぽく見えるかもしれない。しかしそれこそまさにトラップであり、むしろそれらの理念の中身や範囲をきちんと有効に思考できていない。半端なインテリこそ「表現の自由」や「人道主義」を何となくで金科玉条とし、「正しいことではない」ことをする権利まで唱えている。要注意だ。

権利だなんだと吠えたり、被害者面、弱者面をすれば何でも罷り通ると勘違いさせる風潮が昨今強い。
自分の力や権限の範囲をきちんと自覚させなくては、真っ当な側が割りを喰うのであり、批判や間違いの指摘にとどまらず、実効力をもって正しさを実現していく必要がある。


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