聴覚障害児死亡事故。逸失利益について「有識者」は矜持をもって発言を。いくつかの新しい論点を添えて。

11歳の聴覚障害をもつ女児が交通事故で死亡し、裁判で逸失利益が健常者平均の85%しか認められなかったことについてさまざまな意見が出ている。
女児のお父様は「娘のこれまでの努力が否定された気持ちだ」と仰っていた。「障害があるのだから減らせ」というのが被告側の主張で、これを裁判の場で言われるのはご遺族としては大変お辛い気持ちかと思う。

これに対してネット上では怒りの声が多い。しかし、命の価値への差別というのはさすがに違う。これは逸失利益の話なのだから。大切な娘を失った悲しみに対する慰謝料で差があるとすれば、それはたしかに差別だろう。障害がある子に対する愛情を低く評価するとかこれからあったはずの被害女児の人生の価値が低いとかいうのはおかしい。これは尊厳の話なのであって障害の有無で差が認められることはないだろう。逸失利益ではない慰謝料の中では命の価値の差別はあってはならないだろう。
しかし逸失利益というのは亡くならなければ得られたはずの利益である。むしろ得られたはずの利益にすぎないもので尊厳やら命の価値を論ずることこそそれらを軽視してはいないか。

また将来の可能性は無限だと言う人もいるが、その後の収入が高い可能性も低い可能性もある以上、そこは被害者の様々な属性に応じてその平均値を考えざるを得ない。また「この先聴覚障害者が働きやすい環境が整って差がなくなるはすだ」という意見もあるが、「この先AI技術などの進展で知的労働の価値が下がり、学力差で収入の差がうまれることはなくなる」など、どうとでも言えてしまう。
よって働いていた人はその時点での年収、学生なら学歴などでその後の得られたはずの収入の平均を算定するしかないのではないか。しかし、例えば男女別の平均年収は男性が現状高いため、子供が亡くなったとき女児が低く算定されるのはおかしいという考えで男女合算した平均を用いることもある。ここは非常に難しいところだ。逸失利益が属性に応じて算定すべきという原則を貫徹するなら女児のときだけ男女合算した平均を使うのはおかしいが、それだと感覚的にしっくりいかない部分もたしかにある。男女の差が社会構造の問題に起因するのにすぎないのに、それを追認してまだ社会に出ていない子供の逸失利益を少なく計算することに対する違和感を感じるからだろうか。同じロジックは障害者に対しても適用しうる。健常者との収入差が、障害者が働きやすい社会環境が整っていないことに起因するとする考え方だ。ただし、男女の差と、健常者と障害者の差が本当に同じなのかどうかはまだ検討の余地はある。この点も後で私なりの解答を示す。
表面的形式的論理で感覚的に納得しきれないものを平等だとゴリ押ししがちなのが、いわゆるリベラル派の議論の問題点であり、多くの人はその違和感を言語化できていないにすぎない。話が逸れてしまった。

さらに新しい論点としては、どの属性としてその人を評価するかは実は無限にあるというのも知っておかなくてはならない。男女や障害の有無、学歴はわかりやすい指標だが、例えば親の年収と子供の年収の相関が明らかになれば、親が低収入だと子供の逸失利益が低く算定されるとか、出身地別の収入の期待値なるものもあるかもしれない。その人を査定するのに、どの要素を見てどの要素を見ないかは実は恣意的なのだ。裁判では低い額で済ませたい加害者側が、被害者を低く評価する基準を恣意的に主張する可能性だってある。
では健常者と障害者の差異も恣意的なものとして破棄できるのか。私はそうは思わない。その根拠は、障害者は何らかの機能の障害で、日常生活や社会生活に制限を受ける者として公的に認められた人だからだ。その公的な認定に基づいて各種支援が公的にもしくは私的にもなされる。よってこの差異を破棄することはできない。
自分でここまで論じておいて、実際は心が痛んでいる。公的な支援が二重三重になされるとしてもいちゃもんをつけようとは思わないが、しかし係争ごとはやはり相手がいるのだ。加害者だとしても公正に加害責任を負わせる必要がある。そうでなければ一体何が正義なのか。特に法的裁定は国家権力や大衆の感情、リンチによって個人が不公正な扱いを受けるのを防ぐべく、予告されたルールに基づいて合理的になされるべきなのは言うまでもないだろう。ここは冷静になるべきだ。
しかし、世間の意見は、多少の論理の間違いや法への不理解、不合理な思考が基にあったとしても、熱狂のもとに発露されればよいと考える。大衆はバカだと一蹴するのは間違っている。一般国民の正義感情と現行法に乖離があるのならば政治、立法がルールの変更を通して正義感情を具現化させればよいのだ。現状のルールに問題があるとき、民主的に変更するのが政治の真価だ。怒りの感情や義憤がこのうねりを作るのはむしろ正義の実現の正しい道筋だろう。
しかし、いわゆる有識者までが同じことをしているのならば有識者の存在意義はない。「裁判官に差別意識、偏見がある」などと言う「有識者」は何を考えているのだろうか。怒れる大衆に対して現行法や法的思考を説明し、議論を立体的にしていく。また明らかな間違いが大衆の意見に見いだされるならば、その危険性を指摘するのが有識者であり、この程度のことは当然有識者の皆様は理解しているはずだ。是非とも有識者としての立場で発信をしているという矜持をもって社会的合意形成や改善へと我々を導いていただきたいものだ。


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