ジャニー喜多川さん擁護で炎上しているデヴィ夫人、山下達郎さん。デヴィ夫人発言で重要な点や老害問題についても考える。

ジャニー喜多川さんによる性加害について、デヴィ夫人や山下達郎さんが擁護する方向性での意見を述べていることで炎上している。
今回は二人の発言について、理解されづらいその趣旨や時代変化といった点を考えてみたい。

まず、最初に確認しておきたいのは、未成年に対する性加害については今も当時も問題であることに変わりない。昔は許されたという類いのものではないのだ。変わったところがあるとすればそれは「強制性」やこの問題がどの程度重いことなのかという点、芸能界というものを治外法権的な特殊な世界であることを容認するかどうかという認識だろうか。
ただ、これら変化した三点を考慮してもやはりダメなものであったことは変わりないということを始めに確認しておく。

この問題が相対的にどの程度重い問題かということについてはそれぞれの時代によって受け止めは違う。デヴィ夫人による、「国際的に問題となっている人権侵害と同列にすべきでない」という趣旨の発言は、問題の大きさに「比較」の観点を入れずに、とにかく被害者性に肩入れする現代の大衆的な道徳観に対する問題提起だ。そしてそれが何らかの勢力に利用され日本を人権意識に乏しい国であることを喧伝するのに使われていることに懸念を示している。一芸能事務所の問題の調査に国際的な機関が関わって日本の恥として広められることを憂慮している。

ではどんなときに国際的な機関による調査などが必要なのかと言えば、それはまず国家による人権侵害があるだろう。さらに人権侵害という問題を国家が正当、適切に処理できない場合には人道上の観点から国際的な外圧は必要とならざるを得ない。
それに対して、一芸能事務所の問題であれば、本来は国家が犯罪として裁く、民事で損害を賠償させるというのが本来であり、デヴィ夫人はその点への違和感を表明していると考えられる。
これは基本線としては正しい。しかし強い立場の者がこの問題で過去に民事で敗訴しても報道をされないなど特別に扱われていたのだとすれば、それは国家とは言わずとも社会の構造的問題があるかもしれず、一民間企業の問題とは言い切れない。そこを国際的な耳目を集めることによって問題提起し、外圧によって変化を起こさせようとしたのであれば、被害者とされる側の振る舞いは「日本の恥を必要以上に撒き散らした」ということにはならないだろう。

強制性については人々の意識において昔よりも広く捉えられるようになったと感じる。暴行、脅迫や明確な拒否がなくとも社会的文脈に照らして拒否できない状況なら強制とする方向だ。これの問題点は、社会的文脈が何であれ、本人が心から嫌でない場合はどうなるのかということ、そして被害を言ったもん勝ちになるのかという点にある。どこまでをセーフとするか、どこからをアウトにするかはその時々の人々の常識や道徳観によって変化するのは構わないにしても、どこからが黒でどこからが白なのかきちんとした線引きがなされないと、双方の自由な意志が貫徹されなかったり、冤罪が生まれたりする。

デヴィ夫人による「そんなに嫌なら被害を受けたときに言え」という趣旨の発言は、強制性の意味の変遷を理解できていない、もしくはその変遷に異を唱えていることになる。
ただ、被害を受けたのが未成年であったという点を鑑みると私はこの発言は不適切であると考える。感情や出来事に対する意味付け、権力者との対峙の仕方など処理や判断に成熟性を要するとなればその時に言えなかったのは無理もない。

次に、ジャニーさんのこれまでの功績があるから擁護するという点だ。まず、功績があるから悪いことをしていいというのは違うだろう。

「ジャニーさんがいなければ今の芸能界はない」
たしかにその通りだろう。しかし、今と少し違った形の芸能界があっただけかもしれない。別のプロデューサーや表現者が勢力を広げていただけのことだろう。性加害を許容してまでの、それに匹敵するような功績なのか私には評価できない。

『「ジャン・コクトーがジャン・マレーを愛したように」、特別な世界や関係性というものはある。』とデヴィ夫人はツイートしたそうだが、これは未成年相手ということであれば適用できないと思うが、一つの重要な指摘ではある。
今でも一部の、あまり商業主義的ではなく、ポップなものでもない領域の演劇や映画制作の世界では、デヴィ夫人の言うところの「特別な世界や関係性」なるものがあるようだ。それによってリアリティーをもたせたり、本気の芝居をするということがあるのだ。
この場合は双方合意なので問題ないと言い切れるか、あるいは力関係に基づいたいわゆる「構造的」性加害と明確な区別がつくのかが問題だ。「キャスティングされた相手といい作品を作るために関係を持て」といったことを許さないとするのか、それはその世界の作法と考えるのか。
同じように、未成年への性加害がダメなのは当然としてもぺドフィリア的な感性なくして、ジャニーズのようなコンテンツを作ることは可能なのかどうか。
デヴィ夫人の発言は善悪の部分をかっ飛ばして、作成可能性の部分だけを言ってしまったことが問題だ。
長渕剛さんはかつて自らの不倫がバレたときに「おまえらと同じ感性で生きてないんだ。だからこそそれなりの作品を作れる」という趣旨の発言をしたそうだ。まずそれ自体本当なのか、そして一般世界と異なる規範が芸能界では治外法権的に許されるのかということを考える必要がある。
デヴィ夫人はそれらの点に問題提起したのだ。

もしお行儀のいい人はお行儀のよい作品しか作れないと仮定すると、問題のある人が製作の世界から退場させられて、常識的な人によるそれなりの作品しか作られないとなったとき、それでもよいと考えるかどうかだ。それでもよいと言う人も大勢いるだろう。それはそれで価値判断だ。
しかし、それじゃつまらないと考える人もいる中で、その次の世代はある決まった範囲の表現しか目にしないことになり、先程の価値判断をする機会さえない。「表現とはこの程度のものだ」とハナから思うことになるからだ。
未成年の未熟さに乗じた性加害は許されないのは当然だがこういう問題系もあるという認識は残しておきたい。

今回、デヴィ夫人や山下達郎さんなど比較的高齢の方が擁護的な発言をしたことで「老害」という批判があるようだ。彼らの今回の思考、発言が年齢によるものなのか断定することは差し控えるが、一般論として高齢の方の発言に対しては、ちょっとでも現代の価値観に抵触すれば、発言全体を間違いとしたり、袋叩きとするのではなく、その趣旨をしっかり捉えるという姿勢が必要であると思う。
たしかに高齢の人は、多少粗暴だったり差別的だったりする。現代の価値観に乗り遅れていたり空気が読めていないこともあるだろう。だが、高齢の人はその定義からして、若者にとって生き証人なのだ。自分や社会が輝いていた時代、命を燃やして取り組んだことを歳をとっても語るものだろう。それは若者だけが発言する世界では絶対に見ることができないドキュメンタリーなのだ。

山下さんが今回の問題に対する意見の違いをもとに仲間を事務所から追い出したという報道もある。
たしかに現実の意志決定や権力の行使にあたって高齢ゆえの間違いや不都合があるなら問題だが、意見や発言に関してはなるべく趣旨を理解する姿勢をとるべきだろう。
そもそも「老害」と言っている時点で高齢ゆえの認識のズレであることをわかっているわけで現実の意志決定や権力行使ではない単なる発言ならそれだけをもって排除する必要はないと思う。

過去の社会で起きたことを反省するのは必要だが、時代、地域、異質な他者それぞれにそうなる必然性があったということに対する理解は必要だ。そのためにも諸先輩方の言葉に耳を傾けることまでは何の問題もないはずだ。

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