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教師の責務をマックス・ウェーバーが語った「職業としての学問」

1919年,マックス・ウェーバーの晩年の講演をまとめたものであるが,100年後の今なお色褪せていないと感じられる.ただ,正直なところ,読みにくい.文章の読解しにくさに面食らう.どうして,これほどまでに複雑に書くのかと.それでも,学問を職業とする人の心構えや学問の存在意義を明らかにしようとする本書は一読に値する.

マックス・ウェーバー,「職業としての学問」,岩波書店,1980

生計を立てるための職業としての学問という観点からは,大学や研究所の人事制度について言及がある.第一次世界大戦後のドイツの話ではあるが,現代日本にも完璧にあてはまる.大学にポストを求めるつもりなら覚悟しておく必要はある.

私講師や研究所助手が他日正教授や研究所幹部となるためには,ただ僥倖を待つほかはない(中略)これほど偶然によって左右される職歴はほかにないであろう.

学問で成果をあげるためには何が大切か.マックス・ウェーバーは,情熱を持って,自分の専門に専心する必要があると述べている.

学問に生きるものは,ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ,自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという,おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる.
第三者にはおよそ馬鹿げてみえる三昧境,こうした情熱(中略)ーこれのない人は学問には向いていない.そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい.なぜなら,いやしくも人間としての自覚のあるものにとって,情熱なしになしうるすべては,無価値だからである.
自己を滅して専心すべき仕事を,逆になにか自分の名を売るための手段のように考え,自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人,つまり,どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか,どうだ俺の言ったようなことはまだ誰も言わないだろうとか,そういうことばかり考えている人,こうした人々は,学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない.こうした人々の出現は今日広く見られる現象であるが,しかしその結果は,彼らがいたずらに自己の名を落とすのみであって,なんら大局には関係しないのである.むしろ反対に,自己を滅して己の課題に専心する人こそ,かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう.

以前,「職業としての学問」を読み返したときに,特に興味をひかれたのは,教師の職分あるいは義務に関するマックス・ウェーバーの主張である.

予言者や煽動家は教室の演壇に立つべき人ではない
彼の批判者ではなく彼の傾聴者にだけ面して立つ教室では,予言者や煽動家としての彼は沈黙し,これにかわって教師としての彼が語るのでなければならない.もし教師たる者がこうした事情,つまり学生たちが定められた課程を修了するためには彼の講義に出席しなければならないということや,また教室には批判者の目を持って彼に対する何人もいないということなどを利用して,それが教師の使命であるにもかかわらず,自分の知識や学問上の経験を聴講者らに役立たせる代わりに,自分の政治的見解を彼らに押し付けようとしたならば,私はそれは教師として無責任きわまることだと思う.

当然のことではあるけれども,このことは十分に弁えておく必要がある.ところが,マックス・ウェーバーが無責任だと批判するような煽動的な行動を講義を利用して行う教員もいるようだ.そのことも,今,この記事を書いた理由のひとつになっている.

特に私は「知識だけを教えるのが教員の役目だとは思わない」と公言して憚らないので,尚更,この警鐘を肝に銘じておくべきだろう.知識以外に何を教えるんだという話になると,私が心に留めているのは,「武士道」にある新渡戸稲造の次の言葉である.

知能ではなく品格が,頭ではなく魂が,骨折って発達させる素材として,教師によって選ばれるとき,教師の職業は聖なる性格をおびる.

上述の通り,マックス・ウェーバーは,教師は予言者や煽動家であってはならないとし,教師と指導者を峻別し,自分の知識や学問上の経験を聴講者らに役立たせることが教師の使命であると述べている.さらにマックス・ウェーバーは,教師の任務について,次にようにも述べている.

有能な教師たる者がその任務の第一とするべきものは,その弟子たちが都合の悪い事実,例えば自分の党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを承認することを教えることである.そして,誰にでもー例えば私にでもーその党派的意見にとっては甚だ都合の悪い事実というものがあるのである.私の考えでは,もし大学で教鞭をとるものがその聴講者たちを導いてこうした習慣をつけるようにさせたならば,彼の功績は単なる知育上のそれ以上のものとなるであろう.私は敢えてこのような功績をいいあらわすのに「徳育上の功績」という言葉をもってしよう.

教師の担っているものはとても大きい.だからこそ,遣り甲斐もあるし,私は教員になることを選んだわけだが,その責任が重大であることも覚悟しておく必要がある.

マックス・ウェーバー,「職業としての学問」,岩波書店,1980

© 2020 Manabu KANO.

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