本地垂迹
と言う考えに至った歴史を振り返ってみて
なるほど🧐
と言う結論に僕も至る。
そもそも釈迦が始めたらしい仏教と言う学問は
世の真理を問い続け、悟りに至ることが
目的だった訳だが
悟りに至る。ことで何を得るのか。
と言えば、執着を放棄する。
でしかないんだと。僕の結論は至る◎
その執着とは仏教用語である三毒に由来し
三毒が実態を持つには、依代となる実体が必要で
その実体が、三毒なしではただの骸でしかない。
仏。そのモノなんだ。
と言うことでw
仏が三毒を宿し実態あるところに
人間という実体があり得るだけなんだ。
ということなのだから
本地は仏で
三毒の象徴であるカミは垂迹するもんだ
と言う考えは恐ろしく愚直で真理。である
としか言えない。と
まぁ、そんなことで本地垂迹で
カミも仏もみんなして楽しく朗らかに
生きたいよね!
と
締めくくっておきたい(^^)
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