【怪異譚】心のこり
私自身は、いわゆる霊感の類なるものはまるで無いのだが、それにまつわる話は非常に興味がある。
もっとも、本当に霊感があるという人は、かなり興覚めなことを言ってくるものだ。
浄土真宗系の寺院の住職である青池さんも、そんな人だった。
彼に言わせると、一般的に霊が見えるという人の多くは、実際に見えているかもしれないが、それは霊などではないという。
などと言うと、哲学的ではあるが、そういう意味では無く、「霊のように見せている何か」があるからだという。
その何かとは?
そう聞くと、青池さんは「大半は『心のこり』です」と答える。
そして青池さんは「『あきらめが悪い』のですよ」と言葉をつないだ。
曰く、霊が見えるという人は、大抵の場合、実際の霊魂の存在、あるいは残留思念などという特別なモノを見ているのでなく、見る人の心が見せているのだという。
たいていの場合は、あまりにも自分へのコンプレックスが強いため、その防衛から、または自分だけ特別な存在だという思春期特有の感情が引き金となり、霊感なる妄想が具現化する。
年月と共に、その感情が薄らぐにしたがって、霊感なるものも次第に無くなるが、あきらめが悪いものは、大人になっても、それが続く、と。
「端的に言うと、中二病をこじらせた、というやつです」
青池さんはそう言った。
なんとも、身も蓋もない言い方である。
「でも、一般の人が一度だけ霊を見たという体験談もあるじゃないですか?」と私は質問した。
すると青池さんは「それこそが『心のこり』なんです」と答えた。
たとえば、一般に地縛霊などと言われるものが、もっとも顕著だという。
地縛霊は、この世に未練があり霊となって残っているというが、それは違うと。
それこそが、残された者の「あきらめの悪さ」なのだと。
たとえば、どこかの道端に新しい花が供えられていたりする。
それに喚起されて、今までの自分が体験した、様々な人の死や、別れの想い出などが無意識化で次々と湧き上がってくる。
あの時、ああしていれば、あの人が生きていれば、あの人にもう1度会いたい、そんな感情が幻の誰かを霊として思い出させるのだ。
その花が供えられた人が、知らない人でもかまわない。
ただ、自分の「心のこり」を少しでも解消してくれるのなら。
青池さんが言うには、「『自殺した人は成仏できずに霊となって、この世に残りやすい』などという人、それが僧侶だったりすれば、なおのこと、信じない方がいい」と言う。
そもそも、「一切皆成仏」。
色々と解釈はあるだろうけど「死んでしまえば皆、仏」それ以上でもそれ以下でも無い。
あまつさえ、自ら現世に終止符を打った者よりは、もっと不条理なコトで落とした命の方が、なおさらに現世に未練があるだろうと思うが、その辺りはハッキリと語らない。
「成仏させないのは、残された者達の未練です」
青池さんは、そう悲しそうに言った。
その悲しさに付け込んで、魂が成仏できないなどという輩がいるから、なおさらに成仏できないと語気を強めた。
「それじゃあ、幽霊などは、全て見た人の妄想なんですか?」
私がそう問うと、青池さんは
「もちろん全てではない。この世のものではない”何か”があることは確かです」と答えた。
そして、このように続けた。
「でも、それを見ることが私の仕事ではない。私の役目は、苦しい時、悩みを持つ者がいたら、それを救おうとすること、そして人々が日々安らかに生きるの手助けをすること。それが仏の道です。
誰もが道にゴミを捨てることがない世界が理想ですが、道にゴミがあるよと伝えることは、私のすることではない。道にゴミがあったらそれを拾うことが仕事で、ゴミを掃くためのホウキを売ることではありません。
霊を祓うことではなく、どうして霊を見てしまうのか、その心の糸のもつれをほどくのが仕事なんです」
そして「とは言え、先ほども言ったように、そればかりでなく、どうしてもこの世の常識では解決できない”何か”は存在することは確かです。そんなものに普段はまず出会うことはないですし、害を及ぼすことはまずありません。しかし出会った時のための用心と対策だけは怠っていません」と力こぶを見せつけるのだった。
おいおい、最後は結局、力業なのだな、と思いながら、妙に納得した話であった。
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