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【ふしぎ旅】猿ヶ経

 新潟県胎内市(旧中条町)に伝わる話である。

 昔、乙宝寺の住職と小僧の了念が法華経を呼んでいると、庭先でじっと聞き入っている二匹の猿がいた。
 これが雨の日も風の日も休まず百日も続いた。
 和尚は不思議に思い、ある日
「お前たちは毎日お経を聞きに来るが、何か目的があるのか。願い事があったら聞き届けてやろう」
 と言った。
 すると猿は一枚の木の皮を差し出し、指で字を書くまねをした。
 和尚は写経してくれというのだと察し、法華経の出だしの部分を書いてやった。
 すると猿は翌日からたくさんの木の皮を持ってきたので、和尚はせっせと写経してやった。
 その間、猿は軒先でありがたそうにじっと首を垂れていた。
 こうして写経は五巻まで続き、あと少しで完了するというとき、猿の姿が見えなくなってしまった。
 心配した和尚は了念とともに裏山へさがしに行くと、猿は洞穴の中で死んでいた。食うのも食わず一所懸命に木の皮を集めたために衰弱死したのだった。
 和尚はこのいじらしい夫婦猿の死体を持ち帰って、葬り、懇ろに供養し、そばにあった写経した木の皮も持ち帰って経蔵に納めた。
 それから何十年もたった。
 和尚は八十歳をすぎ、めっきり体も弱ってきた。ある日、越後の国司として赴任した夫婦が乙宝寺を訪れ
「私どもは四十年前、この寺でお経を聞き、木の皮に写経していただいた猿の生まれ変わりです。ありがたいお経の功徳で人間に生まれてきました。ぜひ経文を拝観させていただきたいと思います。」
と頼んだ。
 和尚は当時のことを思い出し、経蔵から木の皮に書いた経文を出して見せた、すると二人は感きわまって声をあげて泣き出した。
 それからこの寺を猿供養寺とも呼ぶようになった。

小山直嗣『新潟県伝説集成 下越篇』


乙宝寺

 奈良時代に聖武天皇の勅願により行基、婆羅門の二僧を開基とする古刹、乙宝寺であるが、新潟県民には、国の重要文化財に指定されている三重塔がある寺として知られている。
 この三重塔にも伝説が残されている。

乙宝寺 三重塔

 なんでも、この塔の建造途中で、その困難さとプレッシャーから、棟梁が逃げ出してしまうということがあった。
 しかし、逃げ疲れた棟梁が、砂浜で倒れる様に眠りにつくと、その夢枕に、三人の子供たちあらわれ、石を重ね合わせて積み上げるという遊びをしていたという。
 何度も積み上げるのに失敗していたが、ついに一つの形としてまとまった時に、それを見ていた棟梁が「この様にして塔をつくればよいのか!」と大悟して、工事の再開に至り、ついに完成させたという。
 この夢の中の3人の子供とは、乙宝寺の三尊、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来が姿を変え、夢に現れたのだという。

乙宝寺 三重塔

 ちなみに以前紹介した血の池も、この乙宝寺境内にある。

 さて、そんな伝説を多く残す乙宝寺であるが、この猿ヶ経も、その伝説の一つである。
 
 今昔物語にも残されている話であるので、奈良時代の話であろう。
 仏教のありがたさを伝えるために、作られた話であろうか。
 猿も、お経の有難さを知り、経を持ち徳を積んで、人間へと転生するという、いかにも日本人好みの転生譚である。
 そのせいか、新潟県内にも似たような話が、上越の板倉あたりに伝わっているという。
  逆に、「日本霊異記」あたりには、仏道の修行を妨げたために猿に転生された者が、法華経を呼んでくれと懇願する話も残っているというので、人間の姿に近い猿は、古来より畜生=獣の典型例だったのかもしれない。


乙宝寺 仁王門

 乙宝寺は現在でも古刹として、参拝客でにぎわっている。
 その賑わう大日堂の奥へとすすみ、西国三十三観音巡りができるという遊歩道の方へと進むと、猿塚はある。

乙宝寺 猿塚

 二つの塚は夫婦というには、若干離れているが、小山の上にたてられている。
供養塔である五輪塔、宝篋印塔がたてられている。表面にあるであろう字は風化して読むことが出来ない。

乙宝寺猿塚

分かりづらい所にはあるが、きちんと手入れされており、伝説が息づいていることが分かる。

乙宝寺 猿塚

 もっとも、この写経猿のエピソードであるが、越後国、新潟県に複数個所残されている話でもあり、はたして実際に猿を供養しているかはわからない。
 実際のところ、先にも書いた通り、いかにも日本人が好みそうな話であるので、仏教の有難さを説く方便の話であったものが、あまりにもよく出来すぎているが故に、それぞれの地で語られたのあろう。

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