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リスク社会と宗教

人間が「決定」する「リスク」
「中外日報」時事評論2020年6月12日
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/jiji/20200612.html
(一部、URLを入れるなど加筆しました)

 新型コロナウイルスによるパンデミックは、どのような「リスク」か。
ドイツのメルケル首相は3月18日、テレビで呼びかけた。

 「誰もが等しくウイルスに感染する可能性があるように、誰もが助け合わなければなりません
全員が当事者であり、私たち全員の努力が必要なのです」
(駐日ドイツ大使館HP)
https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2331262

 国際通貨基金は、4月に発表した世界経済の見通しにおいて、今回の危機は他に類を見ないものであり、「世界のどこかで感染が起きているかぎり、感染の第一波が収まったあとの再流行を含めて、パンデミックの影響を免れる国はない」と指摘している。影響は経済活動をはじめ日常の広範囲な社会生活に及ぶ。そして、それはグローバルな規模だ。
(国際通貨基金「世界経済の見通し」)
https://www.imf.org/ja/Publications/WEO/Issues/2020/04/14/weo-april-2020

 感染症拡大防止のために多くの宗教施設が法要や集会などの自粛をした。実質的に集うことを避け、Web会議システムによる同期型や動画による非同期型での対応も進んだ。そして、緊急事態宣言の解除後も、危険が完全に過ぎ去ったわけではないので、恐る恐る手探りをするように平常化のプロセスを歩みだした。

 一方、海外では、自分は神を信じているから感染しない、神が危険から守ってくれるといった言説もあった。しかし、パンデミックや大災害などの危険はあらゆる人にふりかかる。ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックは近代化により安全地帯で暮らせる「私たち」と危険なところにいる「他者」という構図は崩壊したと指摘した(『危険社会』)。

 「危険」と似た言葉で「リスク」がある。社会学者の二クラス・ルーマンは、起こりうる損害が外部の環境に帰属する場合を「危険」と規定し、起こりうる損害が人間の「決定」に帰属する場合を「リスク」と呼ぶ。「危険」は個人が何らかの形で制御できないものであり、まさに大地震やパンデミックは「危険」に分類される。それは、個人の選択決定によって避けることができるものではない。しかし、パンデミックにあって、個人が、あるいは組織の構成員が感染するか否かは、ある程度、組織と個人の行動の選択と決定に帰責するため「リスク」とも言える。

 「リスク」があっても組織への「信頼」があれば、あるいは宗教指導者に対する「信頼」があれば、その構成員は「リスク」を取ることができる。しかし、宗教的救済観により、神が守ってくれるからと感染症対策をせずに宗教施設を開くことは「危険」だ。宗教施設としては、感染症対策をとることが第一である。それでも感染してしまった人には、責任を追及するのではなく、社会が対応する。

 14世紀の黒死病大流行の後、教会の権威が失墜したが、一方で、「メメント・モリ(死を想え)」に象徴されるような死生観が広まり、神への直接的な信仰心が深まる人もいた。

 今、宗教者はどう対応するか。宗教施設での活動を再開することには確かに「リスク」もある。一方で、自粛のままでは、別の「リスク」も膨らむ。信者の不安に対応できないシステムは、崩壊、消滅するからだ。

 前のめりになり、「リスク」を無暗な覚悟を持って振り払うのではなく、正しく恐れ、感染防止の「安全」対策を講じたうえで、段階的に開いていく、信じる者に「安心」を与えていくことが大切だ。苦に寄り添ってきた宗教は、今回の危機も乗り越えてゆくであろう。

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