見出し画像

表現者は道具をつれあいとし、過積載の生をひきずる


 画材の無尽蔵さに途方に暮れたことがある。

 表現に魅せられた者には、絵の具が宝石に、画筆が魔法道具に見えるのであって、ひとつ数百円だとしても端から揃えるとなると、とても資財がおいつかない。

 上質な画材となると数千円を下らない。ラピスラズリの岩絵具を掲げ、「ひと瓶がうん万円」だと先生に言われた日の驚愕、今も鮮明なり。

 プロ仕様の画材を手に入れたとて、画力、表現力が跳躍するはずもなく、名器ほど人を選ぶとみえて、筆一本に至る道具の使いこなしも芸妓の要諦となるが我をさいなみ、一方で愉しみでもある。

人造の集中

 わたしは手の感覚が神経質で、ある種の潔癖であり、道具の手触りをはじめ紙の引っ掛かり、椅子の座り心地に至るまで気になりだすと集中がそがれる。

 最近やっと多少の鈍感さが身についたのと、環境の快適さを追求するも投資の一環だと言い聞かせて、許される範囲で、自分が心地良しと判断したものを使うようにしている。だいぶ集中することが容易になってきた。

 ところで、わたしはある日を境に人生が動転したとか、不屈の精神で努力を習慣化してきたとか、何が何でも達成したい野望があって毎日必ず鍛錬してきたとかは、一切ない。

 むしろ、一つのことが数ヶ月かけて形なりの「習慣化」をみても、次の四半期には積極的に因習を打ち壊さんと反作用がはたらく、習慣困難のきらいがある。

 神経質のたねが燻って、体の疲れや、眠気を感じると、予定を返上して脱線に走る、買ったはいいが一度も使わずに放置または廃棄した道具も数知れず、決してこんにち叫ばれるような、サステナビリティーに加勢できるような生き方を誇れない。

 創作とは、また工業における製造とは、ゴミを作るような側面があると言えば、一定の同意が得られるのではないかとすら考えている。

日記コンプレックス

 世の中には様々な美徳があって、時代と共に変化もあれば、「日記をつける」などは時の試練に耐えて久しいと見受ける。

 かつての同僚に幼少から日記をつけているという人がいて、彼女にとって生涯の習慣となっているのだと思うと、まだ見ぬ50年を記した手帳群を眼前にならべ、お腹がいっぱいになるような気さえした。申し述べたとおり、習慣の脆いわたしにとって、日記を日記として書くということが、ティーンエイジャーの門限のように了見が狭く感じてしまうのである。一方で、年下の彼女はわたしから見て模範とすべき品性があった。

 冒頭での話と並べて、創作を追求する、混沌とした時間を、持ってこなかった、これからもおそらく持たないであろう人々にとっての、紙とはどのようなものだろうと思う。

 本、手帳、仕事のレジュメ、勉強のノート、日記、手紙など、紙には目的が割り当てられているが、しばしば、この本の紙の、画材としての使い勝手はどうだろうかと、破ったり切ったりして断面を確認したくなる。文章を読んでいるようで、すり抜けて、紙やインクの質感を検分している気にさえなる。

 タイポグラフィと、印刷と、製本資材が分離して見えるので、完成品としての本がある前に、工程や素材が何層にも重なった物体と見る方が自然なのだが、層ごとに、観察に値する巧みさがあるようで、それがまた、集中を削ぐ。

 わたしは日記を書かないが、スケッチや落書き、備忘録のなにかしらを、毎日書きつけずにいられない。それらを翻訳すると、友人の指し示す、日記に対応するのだろうか。日記というと、社会に共有されている事件や、事象についての所感を、自分なりに書いてみる、というような、共通認識を自分なりに咀嚼する時間を持つようなものと捉えている。

 わたしは、社会人としての仕事と、個としての仕草を、間に浮き沈みする理性の媒介をもってしても、統合も分離もさせられない。認識の幽霊を、恥じもしなければ、いたずらに余人をおどろかす演出もしないまでには、自己愛の宮を築き上げつつある。

 せめて、盗み見る人のない、有象無象の散文に年月日を冠し、日記を嗜む素朴な節度の言い訳を、己の社会面に掲出している。

Be my company.

 自分に対しても敬語を使うように、また道具が品格を教えると言う人もあり、上級な紙のノートを求め、ペンは万年筆で、との教えは、筆記具を愛好する方々には新しからぬ作法だろう。

 わたしはといえば、美学生の呪いでマテリアルそのものへの執着が強く、ノートでは「とにかくインクが染みない厚い紙」よりも「面白い紙」を探し求めている。たとえば、トモエリバーのような、薄いのに裏抜けしない、インクがのって時間が経過すると、パリパリした質感に変化するような。

 厚い紙は一冊の重さの割にページ数も少ない。絵を描き入れるとスペースを割くので、ページ数は多いほどいい。

 一般的な横罫は「水平方向に書け」との念を感じて好まない。方眼罫も濃いと目に邪魔になるのでRHODIAは選択肢にない。しっかり開いてほしいのでリングノートがいいが、リングの金属部分が、バッグの中で同居する文具を傷めるのが本望でない。あくまで私情を書き連ねるノートに、金属資源が使われていることに気が引ける。

 表紙が分厚いだけでしなやかさがないのも扱いにくい。かと言って古びた時にみすぼらしくなるのは避けたい。

 以上のような消去法を経て、一長一短あるにせよ、STALOGYのエディターズシリーズノートが定番になっている。サイズは携行も加味するとA5に落ち着く。

 ノート自体の厚さに比べてページ数は十分だが、通常文具店で求めると2,000円は下らないので、買い替え時はいつも思い切る。

 文具売り場を徘徊する癖も消えることなく、目に新しいノートがあれば試してみることもあるが、使い切らないうちに飽き、どこかに紛れ、かえって備忘録が散逸してしまうのでいけないと思っている。

終売しないで

 筆圧はごく弱い。

 万年筆はおろか、シャーペンでの筆記に要する力が負担となるので、ペンは5年以上Pilotのゲルインキ『Juice up』を使っている。

 書きながら立ったり座ったり、ペンを持ったり置いたり騒々しいうえに、キャップを閉めたかどうか気になりだすと集中できないので、ノック式でペン先をしまえる要件にも叶っている。

 リンク先とは違うが、インクは黒は使わない。「黒」にも好みがあるし、紙の白とのコントラストがきついからだ。その点を開発者もよく市場調査しているとみえて、「クラシックグロッシー」という、深い色相のシリーズも販売されている。

 文字を描くことについてはどれだけ高速でも掠れることなく、飽きない限りはえんえん書ける。ボールペンのように液だまりしない。ペン先も円錐ではなくて製図用のように鋭利で見やすい。

 安価な筆記具でこれ以上のペンがあるなら知りたい。

変化さえあればいい

 ハイライトペンにしても、色に凝り出すとどれも捨てがたく、各色揃えたはいいが使いこなせずに肥やしになる。
 読書に、勉強に、気分を変えるためのサードプレイスも10箇所ほどあたりをつけているので、バッグのポケットに、本の保護用に代用しているタブレットケースに、ペンを必携している。あらゆるところにペンがある。

 ブックカバーは、カバーと本とが和合することがまずないので使わない。タブレットケースを本用に代用するのは、サイズの面から言っても今生の発明だと自負する。本自体には書き込みが著しいので二次流通のための保護ではないが、数冊とノートをまとめて、移動の衝撃は緩和できる。

 本を読む時のアンダーライン、付箋、書き込みは、色を統一したり、色によって意味づけ、重みづけを持たせるべきか、長らく思案したこともあった。

 局所において神経質でこそあれ、習慣的人間ではないことを自認した今となっては細部を諦めて、付箋は片っ端から使い、ハイライトは色の変化でもって読む場所や時間を変えたことを思い出し、手が届くペンによって、本がそもそもノートであるかのごとく書き込みをしている。

 雑記をのちのち振り返って、書き足し、訂正を行うときには、赤や青などの約束なく、せめて色を違えて、直したことが判読できればよいとしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?