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2/9(金) 埼玉県小川町、横田農場へ。

昨年の秋にイベントでマフィンを焼いた、埼玉県小川町へ行ってきた。朝いちの電車にのって鎌倉から2時間半、目的地は横田農場さん。

横田農場は無農薬・無化学肥料で多品種の野菜を作っている農家さん。その多くが育った野菜から種をとり、それを蒔き次の野菜を作る種とりで作られていて、地域の在来野菜など、種を継ぐことで大切に作り続けている農家さん。

私が畑に行くと、いつも話をするのは長男の岳さん。農家に生まれ、ご両親と弟さんとともに日々野菜を作っている岳さんの話はとても面白い。知らないことばかりの私にも、丁寧に時間を割いて話してくれるので、行くたびつい色々な質問を投げかけてしまう。(ちなみに岳さんの書いているコラムも、とても興味深い)


岳さんは野菜を作りながら、目の前の野菜だけでなく環境のこと、地域のことを常に考えている。

これは私が店で野菜を仕入れさせて頂いている農家さんに共通することで、皆「自分たちが食べていくため」だけに野菜を育てていない。野菜作りを通じて、食、自然、土地のことに目を向けて、考え、実際に動いている。

その視野の広さ、考え方のスケールの広さは自分とはとても違っていて、だから野菜を作る人は、時々仙人なのではないかと思える。そのくらい卓越しているのだ。

畑の話へ戻ると、冬の底である2月なので、畑はだいぶ静かだった。

今収穫できるメインの野菜は、にんじん。
大根とかぶは終盤で畑にぽつりぽつりと残っている程度。あとは、貯蔵しているさつまいもや里芋などの根菜。さつまいもや里芋は寒さに弱いので、収穫は霜が降りる前に済ませていて、残りの時期は比較的あたたかい場所で貯蔵しながら出荷をする。そんな冬の出荷の仕組みのことも、農家さんを訪ねるようになって初めて知った。


春夏秋冬をひとめぐりで考えたら、いちばん最後の野菜はなんですか?と尋ねた。すると「終わりという線引きは難しいです。実の収穫が終わっても、春になればそこに花が咲くから」と岳さん。

例えば冬にとれるねぎも、ねぎとして収穫された後には花が咲き(ねぎぼうずと呼ばれる。最近は花屋で見かけることも増えた)、これもまたおいしく食べられるそう。ねぎには「ねぎ」の先に、続きがあるのだ。

言われてみれば確かにそうで、実が出荷されたらその作物が終わり、なわけではない。野菜は植物。実の後には花が咲き、花が咲いた後に種がとれ、それが次の野菜の種子になる。ぐるぐると巡る野菜のサイクルに、終わりという区切れめはない。

私たちが普段八百屋やスーパーで見ている野菜は、植物としてのその野菜のほんの一部。そもそもどんな風に畑で育ってきて、どんな状態で成熟し、収穫された後はどんな形に成長していくのか。そもそもそれは実なのか?茎なのか?葉なのか?本当に、知らないことばかりだ。

それを少しでも知ると、野菜がぐっと立体的に、身近に思えてくる。反対に知らないと、野菜はいつまでも近づいてこない。たとえば昨日岳さんから聞いて印象的だったのが、レタスのこと。

レタスと聞くとぱっと思い浮かべるものといえば、黄緑の丸い、スーパーに並ぶあのレタスだと思う。

最近は鍋にしたり中華炒めにしたりと加熱するレシピも増えたけれど、火を通すとへにゃんとして存在感がなくなってしまいがち。だから、やはりレタスと言えば、生のまま食べるイメージが強い。
するとやはりサラダ以外には使い道が浮かばなくて、購入の機会も増えない。実際私も、レタスを買う頻度は野菜の中でもかなり少ない。

けれど、レタスには本当は色々な品種があると岳さん。火を通しても食感や味がしっかり残るような力強いレタスを、横田農場では色々と育てている。畑で見せてもらったのは色も紫から濃い緑までさまざま。葉が細長いあごひげレタス、なんてものもあった。

あごひげレタス。初めて見た!味はほのかに苦い
紫レタス。自然農法で、周りには自然の草花が茂っている


それぞれ葉を分けてもらって食べてみたら、驚いた。苦味があったり、香ばしかったり、甘かったり、味がみんなちがう。そもそもレタスが「味のある野菜」なのだと、初めて認識した気がする。

そんなユニークな品種のレタスも、横田農場ではレストランのサラダ用に卸すのがメインで、一般の方にはなかなか買われないそう。やはり見慣れず、調理法の認知がまだまだ浅いから。そこが、農家さんとしても、難しいところだという。

これもやはり、「レタス」のほんの一部しか、日頃私たちの目には見えていないからなのだと思う。野菜の流通は、効率のために画一的になる。それが悪だとはいわないけれど、それゆえに大元の品種が狭められると、私たちが出合う野菜の選択肢も狭まっていってしまうのは事実。

本当は、野菜にはいろいろな品種があって、それを育て続け種をつぐことで多様性を残そうとする農家さんがいる。野菜を残すことは、食文化や料理の多様性を残すことだと岳さんは言っていた。本当に、その通りだと思う。

けれど、その頑張りは私たちが買わなければ成り立たないことである。でも、私たちだって知らない野菜にはなかなか手が伸びない。だから、まずは知っていけたらいい。義務感ではなく、楽しんで。
少なくともスーパーに並ぶ野菜だけを野菜だと思って生きていくよりは、いろんな野菜の顔を知って、味を知って、それが食べられた方が、食が豊かになるのだから。

答えはないけれど、そんなことをぐるぐると考えながら小川町を後にした。
書ききれないけれど、PEOPLEの菜摘さんが作ってくれた素晴らしい野菜ごはんのこともここに書いておく。

いろんな野菜(ブロッコリーの芯も入っていて、おいしかった)をくたくたになるくらいに煮込んだ豆乳仕立てのスープ(ほろほろの鶏肉も入っていた。北海道の昆布と一緒にひと晩漬けておいたものだそう)がのった食べるスープごはん。仕上げにかけたレモンオイルが効いて、絶品だった。
付け合わせのごぼうと白菜のスパイス風味の和物も、レモンの効いた爽やかなにんじんとキャベツのラペも、さつまいもとココナッツの春巻きも。全部全部おいしくて、刺激的だった。

野菜っておいしくて、おもしろいな。小川町に行くと心からそう思う。

ひとまず私は、今年はレタスでマフィンを作ろうと思う。


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