俺が「心理的安全性」を憎み嫌っていたのは、それを「言い方の問題」「接し方の問題」と矮小化されて押し付けてくる人が多かったからではないか

「心理的安全性」にサヨウナラ

いや、嫌いなんですよ。こんな感じに。

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嫌いというか苦手というか。
「それによって自分が傷つけられた」と感じる単語を、なかなか好きにはなれない。お前のせいで心を折られて毎晩のように悪夢を見た事さえあるんだぞコッチはさぁ!!

アレでしょ、「気軽に何でも話せるよーにしようぜ」「そのためには皆が仲良くなる必要があるよ」「よーし、キックオフ兼ねてランチでも行きますか!!」ってやつでしょ。仕事を面白くする方法ってそれなの?本当に?

正確に言うと「本当は重要で素晴らしいコンセプトであるとは確信している」「しかし、歪曲されて"なんか歯ざわりの良い単語"に成り下がり、"誰も傷つけない優しさ・・・の現代版、格好いい言い方"程度の意味合いで流通している感じが凄い、自分からすれば優しさを人質に他人を威圧して排斥しているようにすら感じる」という風に感情的な反応を持っている対象。
ってゆーか、「そりゃGoogleみたいにハイレベルな人材で組織されている集団なら良いさ、ただ下界はそんなに綺麗な社会じゃないぞ。理想が汚れないで在り続けられるのは、それが出来る世界だからさ」と。

なので、「心理的安全性を振りかざす人、ましてそれを自分は出来ていると感じちゃっているような奴らとは相容れないな!この概念に言及したり議論してるのは、見ていても害でこそあれ益なし・・・」ということで、自分自身の精神状態を安全な所に持っていくために、Twitterでミュートしました!!

完!!!

いきなりの再会、期せずして

はぁ〜〜俺がやっている事、そんなに間違ってるのかよ〜〜〜だったらせめて自分のためになる事を増やしてえな〜〜〜〜なんて考えて、去年から自分のいる環境を変えた?リセット?してみたのですが。
自分が再び何も持たない状態に立ってみると、過去に比べて少しだけ客観的に周囲が見えてくるものです。(アウェイでゲストなので、文字通り「客」の目を持ちがち)

同じ失敗は繰り返したくねぇ〜〜という気持ちは当然ながらあるので、今回は、最初から意識的に「他人の振る舞いを見る」「そこへの周囲の反応を見る」というのに取り組んでおりました。
「自分の存在感や周りからの信頼が空っぽになった」という状態を手に入れるのは、それこそ環境を変えでもしないと中々難しいのかとは思うのですが、お陰様で過去のアレコレが「あぁ〜〜〜アレってこういう事か〜〜〜〜〜」というのがとても良く見えてきたりもします。
「この人の接し方は本当に凄いぞ、めちゃくちゃ良いな」という人もいれば「あ・・・はい・・」という人もいる。が、悪貨は良貨を駆逐する問題が在り、「その数人程度」がどの位のアレをソレしてるんだろう・・と嘆息するものです。

そうこうして数ヵ月を過ごしていたので、自分なりに「一体なぜなの」に興味を持ち始め、ここ最近はチームとか組織文化とかそういう話を吸収したいな???というモードが強くなっとります。
「自分の実力や知恵だけでは、こんなに大くてこんな状態の組織を、変えていくことは、きっと難しいな・・」という挫折感に近い悲しみもセットです。
↓の流れは、その一環。

で、自分のKindleライブラリを眺めていたら面白そうな題名の本があって、「チームが機能するとはどういうことか」です。

お、これは、現在進行系で自分が最近持っている問題意識に近いな・・?と思い読み始めた訳であります。
(ちなみに、買ったの2016年なんですって。前回のオリンピックイヤー。)

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コレをね〜〜開いてみてビックリしたんですね〜〜〜〜

目次には「第4章 心理的に安全な場をつくる」とか書いてあるし、まえがきには「安全な人間関係が気づかれている環境」とか書いてあるし。

この本はモロに「心理的安全性がーー」みたいな本でした!

振る舞われてしまったので頬張ってみる

不意を突かれてウッ!!と嗚咽が漏れかかりもしましたが、この概念ってやっぱり避けて通れないものなんだよねきっと、自分にとっても・・・・とは薄々気付いていたので、ここで腹を括ります。
俺だってチームに機能してもらいたいもん。

食わず嫌い、あるいは過去に食べたことがあり苦手意識を持っていた料理でも、本当に美味しいものを食べると、一気に苦手が克服できる・・下手したら好物にすらなる!というものってありますよね。
私にとってはトマトがそれです。食べたくないのにカジュアルに出てくるもの代表!の座に居座り続けていました。が、イタリアンレストランでバイトしてる時に(強面のシェフが作った)まかないのトマトスープ、めっちゃ美味しかった。それ以来はもう平気ですね。

そして、この本は自分にとって「心理的安全性を美味しく調理したもの」でした。

この本はタイトルの通り「チームが機能するとはどういうことか」という問いに迫るものです。その答えは一貫していて「学習できる組織」と説明されています。
学習とか学びとか成長とか、これも最近の自分にとって(チームや文化やコミュニケーションなんかの言葉と並んで)関心のあるテーマです。実際、一昨日まで呼んでいた本はSOFT SKILLS ソフトウェア開発者の人生マニュアルだった、ってなもんですよ。幸せな人生を歩むソフトウェア開発者になりたいですね。

「心理的安全性」は信じていない状態であっても、「それは学びを生み効果を高めるためのものである」「成功しているチームの要件だ」という風に関係を示されたら、まぁしっかり向き合ってみようかな・・という気にもなります。「学習」や「チーム」から逃げるつもりはない。

で、本書は、実際にこの言葉に対して持っている印象を変えてくれるものでした。

和解・・・

思うに、これまで「心理的安全性」を憎み嫌っていたのは、それを「言い方の問題」「接し方の問題」と矮小化されて押し付けてくる人が多かったからではないか?と感じます。

いや、「態度悪いよ」とだけ言われても、それは「大人げないよ」「我慢が足りないよ」の言い換えみたいなもんでは・・?助言は助言として有り難いのだけど(そして、そういう風に言ってくれる人が周りにいるのは間違いなく有り難い)、穿った見方をすれば「人間性を変えろ」ないし「人間性の弱点をカバーするためのテクニックを身に着けろ」という事でしょ言いたいのはさ、となります。
指摘者に悪意はない・・と信じつつも、コチラからしてみると、受けたダメージとしては自分の人格への脅威です。そもそも生きるのに向いている人は、言われるまでもなく学校生活とかで自ずと「弱点をさらさないためのテクニック」は見出して使えているでしょうに?

で、本書を通じて考えたこと。
「他人との接し方」というのはあくまで表面的に顕れるもの・せいぜい一端を担うものであり、その真なる所は「相手とどういう関係を築いていこうとしているか」というマインドセットの問題なのではないか?と。
自分にとってはそれで腑に落ちた。それなのに「振る舞い」という表面的なところを対象とした指摘だった(に思えた)から、難しかったんじゃないか?と。

広告なんかの表現・創作活動でいうところの「What-to-say」と「How-to-say」の関係であり、「偉大なるコンセプト(What)は解を含む」「導く問い、指し示すもの、コア」たる「What」がマインドセットだとして、「他者とどう接していくか」というのは「How」のように感じる。つまり、確固たる土台ができてさえいれば8割まで正解であり、それに比べれば残りの問題は些細なものだ。
・・・まぁ、あくまで「それに比べれば」であり、「どう表現するか」は単独でも高度で複雑なものであることに変わりはしないのだが。
そうはいっても、これが逆転し「表現方法」だけに注目したりなぞったりすれば、薄っぺらで魂のないものになるのは間違いない。

ということで表題、「心理的安全性が〜〜〜つまり君は接し方で損しているよ〜〜」というのは 恐らく間違いであるように思うのです。

なぜ「心理的に安全である」必要があるのか

「チームが機能する」とは、それが「学習できる組織である」ことである(より本書の意図に沿った表現をすれば、「学習しながら実行する組織」となる)
チームのメンバーそれぞれが何を感じているか?どのくらいパフォーマンスを発揮できているか?よりも、本質的な部分として、「チームが学習し続けているか」である。そして、学習とは「前進」していくために欠かせない。前進していくことは、ビジネスでも教育でもスポーツでも、とにかくあらゆるカテゴリに置いて「この先も勝っていく」ために欠かせない。

・・・という構造であるという風に、自分は読んだ。

よいニュースは、学習しながら実行することは、およそどの産業においても必勝法になることである。ルーチン業務の製造においてさえ、今日のベスト・プラクティスが明日のベスト・プラクティスであることはないのだから。

エイミー・C・エドモンドソン. チームが機能するとはどういうことか 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.5209-5211). Kindle 版.

で、「学習しながら実行する」ために、件の「心理的に安全である状態」が成功要因になってくるという話。

「心理的安全性が高いチームにおいては、メンバーの生産性が高くなる」というような説明ばかり耳にしていた気がするので、因果関係を信じられないような、いまいち自分の中ではピースがバラバラなまま噛み合わず、一つの絵として見ることが出来ていなかったのですが。
「組織には学習が必要で、学習効果を高めるためのいち手段」として「心理的安全性が必要である」、「あるいは心理的安全性が担保されない環境では学習が阻害される」というロジックに、なるほどなるほど!と思ったのでした。
(補足すると、「学習すること」と「学習しながら実行すること」について、後者は前者を踏まえた発展的な=高度なレベルに達した姿であるということになります)

「私の」安全と「あなたの」安全(という歪さ)

巷で見かける間違った心理的安全性、私が嫌い敵として見なしていたソレは、「立場の弱い人や新人でも恐れずに発言できるやさしい世界」みたいなモノなんじゃないか、と思っています。
こうした説明は、部分的にYES。ただ正解ではない。

その世界観では、どうも「優しい人と優しくない人」みたいな分断が想起されているような気がして。たとえば「正論ばかり言う人」は「周りを萎縮させる、抑圧的である」から「脅威である」と。あるいは、「あの人にはいつも激詰めされる」から「驚異だ」など。
ただ、これがもし「発言を慎め」という方向に働くとなると、(確かに言われなくなった人はドキドキしなくて良くなるかも知れないけれど)それまで自分の中で理屈立てて正しかろうと思って発言をしていた人は、「自分が何かを言ったらどうなるんだ、怖いな」と自信をなくしていくことになります。
そして、そうした状況を生むのは簡単です。「君の発言は○○に感じるよ」「確かに、言っている内容は正しいかも知れないけどね」。こう伝えてあげるだけで充分です。

そうした「弱い人を救いたい」だけの心理的安全性なるものには、「どちらか片方が救われるように」という暴力性を感じます。結局の所「誰かの居場所を奪う」、多数決理論による公平さに似た正義・・

もっといえば、「お前の言いたい心理的安全性ってやつは、俺にとっての安全とは違うぜ!」みたいな話な気がしてなりません。

心理的安全性とは何だったのか、学習と失敗について

で、この本を読んだことで、「良かった!心理的安全性って、本当はそんなに歪なものじゃなく、しっかりバランスも取れたものだ!」という風に思うことが出来ました。
ちゃんと「なぜ向上につながるのか」というミッシングピースが見つかった。

・良いチームとは学習しながら行動できるチーム
・学習には失敗が必要。失敗と省察によって次の試行の精度を上げる
・失敗を最大限に活用するには、それが組織に共有される必要がある
・心理的に安全な状態が確保されていないと、率直に発言することを恐れ、保身的な態度をとったり失敗を隠蔽するようになる

というプロセスを経て、「チームの成長には心理的安全性が必要」というコトになります。
つまり、「誰かを敵役にする」ことによって得られるものではなく、本来は立場や役割に依らずに、共通する目的に向き合うために必要なことです。

※ 本当はそれぞれもっと別の流れで出てくる単語だけど、ちょっと強引に接続すると「学習」「心理的安全性」はこんな感じ・・に捉えることもできそう

その狙いは、チームに多様性をもたらすことにあります。
機能しているチームは、「率直に意見を言う」「それぞれの知識(技能的なものであれ組織上の立場的なものであれ)を紡ぎ合わせる」ことで、問題の解決を試みていきます。逆に言えば、意見の衝突が無いチームは機能しているとは言えない

実際、「心理的安全によってもたらされる7つのメリット」として以下の項目を上げています。

・率直に話すことが奨励される
・考えが明晰になる (不安による探究や計画・分析の能力低下を避ける)
・意義ある対立が後押しされる
・失敗が緩和される
・イノベーションが促される
・成功という目標を追求する上での障害が取り除かれる
・責任が向上する

(「緩和」ってrelaxationかな、ここで言っているのは「失敗(を他人に知られること)が怖くなくなる」みたいな意味合いだと思う。もし失敗が正しく報告されず、隠蔽されると、ソレは「組織」から見えなくなりますね。つまり学習機会の逸失となる。)

この中でも「責任が向上する」という働きに注目したい。

職場の心理的安全が高くなると、人々に責任を持たせるのが難しくなるという意見があるかもしれない。たしかに、従業員同士が親しくなりすぎたり打ち解けすぎたりすると、会議室ではなく休憩室にふさわしい行動をとるようになり、パフォーマンスが下がるかもしれない。しかし、心理的安全を高めるというのは、自由放任の、あるいはだらしのない、あるいは規律のない組織の雰囲気をつくることではない。それは、人々が進歩や革新に必要なリスクを冒しつつ安心感を覚えられる環境をつくるということなのである。

エイミー・C・エドモンドソン. チームが機能するとはどういうことか 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2317-2321). Kindle 版.
心理的安全はグループの人間関係上の環境における一つの構成要素であり、責任もまたそうした構成要素の一つである。そして責任によって、高い基準を守ったり挑みがいのある目標を追求したりすることを人々がどれくらい求められるか、その程度が決まる。

エイミー・C・エドモンドソン. チームが機能するとはどういうことか 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2322-2324). Kindle 版.

と書いてあります。
要するに「ただの気のおけない仲間たち」だけを目指すと、「パフォーマンスが落ちる」。良いチームとなるには、より上段での合意、つながりに関する理由・動機づけ・目的が必要になる。それが「責任(感)」だ、と。

(・・・「心理的安全によって得られるメリット」の1つが「責任が向上する」なのに、「心理的安全性が高いだけでは意味がなく、責任も向上している必要がある」とは?って考えるのは誤読で、「安全が不在の環境では、責任の向上に対してネガティブな影響をもたらす」くらいの意味合いで捉えると良さそう。自発的に責任を感じられるか、みたいな)

この「心理的安全」「責任」についてプロットしたのが↓のマトリックス。

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エイミー・C・エドモンドソン. チームが機能するとはどういうことか 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2328). Kindle 版.
心理的安全は高いが責任は低いという特徴を持つ職場では(左上)、人々は互いに楽しく仕事をし、陽気でもあるが、挑戦を受けていると感じることはめったにない。そのため、打ち込んで仕事をすることがほとんどない。同族会社や政府機関の中には、もちろん全部がそうではないが、この象限に分類されるものがある。従業員が、不安を感じることなくふだんの自分でいられるもののさらなるチャレンジを求める説得力ある理由が見出せない場合、学習やイノベーションを発展させることは難しい。これは「コンフォートゾーン」と呼ばれることもある。

エイミー・C・エドモンドソン. チームが機能するとはどういうことか 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2333-2338). Kindle 版.

さて!!
個人的に、この辺りの説明を読んでいて、今までの誤解がスルスル〜〜っと解けていくような心地を覚えたのです。

さっきの「いつも正論を言う人」「いつも詰められているように感じる人」を再登場させてみましょう。

恐らく、「正論を言う人」は責任感の人です。
仕事は丁寧にやろう!丁寧さが足りないぞ、ここで気付いていればこのエラーは無かったよね、前に言ったコレと同じですよ、etc・・・
この人から見ると、恐らく相手を「学習が追い付いていない人」として捉えているかも知れません。
そういう振る舞いは、チームやメンバーに対して「やらないと詰められるから、ちゃんとやらないと」という恐怖や不安による責任感を引き出します。
ということで、右下の象限に。不安

で、「君の言い方がちょっと」と言われたらば、「出た!心理的安全性!(俺を除け者にしやがるつもりだな!!」という拒絶反応を。(←コレが私ですね!!)
この人の視点からすると、「俺が仕事のクオリティを保っているというのに」という風に思っている面があるはずで、そして「俺がやっていることを排斥された」というのは「責任を破棄した」という風に見えます。左側の事象へと移動です。 無関心

その上で「(彼のいない世界で)フラットにモノが言いやすいようにする」ことで、心理的安全性の向上を目指している!チームは上の事象に移動します。快適

彼からすれば「責任なき安全チーム」ということで、もはや「そんなんで本当に仕事の成果を挙げられると思ってるのか?やることやれんの?」という風に見えている訳です。
"会議室ではなく休憩室にふさわしい行動をとるようになり、パフォーマンスが下がる"と、(恨みを込めて)確信しています。俺の頑張り方は無下にされたし、それどころかチームにとって「害悪」とみなされた・・・

ということで、この状態が「私の」安全と「あなたの」安全がズレている歪な状態になるんだな、と感じました。

真・心理的安全

この歪んだ認識だと「心理的安全 vs 責任」という構造になります。

で、再びの引用になりますが、自分が本書を読んで良かった・・・「心理的安全なるものと和解できた」と思っているのは、まさにこの部分なのです。

しかし、心理的安全を高めるというのは、自由放任の、あるいはだらしのない、あるいは規律のない組織の雰囲気をつくることではない。それは、人々が進歩や革新に必要なリスクを冒しつつ安心感を覚えられる環境をつくるということなのである。

エイミー・C・エドモンドソン. チームが機能するとはどういうことか 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2319-2321). Kindle 版.

要するに「チームが積極的に学習していける状態を理想としよう」という補助線を引くことで、「心理的安全 vs 責任」という構図を脱したところにある「心理的安全 × 責任」という世界を知り、そこにこそ「安全」の真価がある!!という理解に至ったのでした。
心理的安全は目的ではなく手段に過ぎない。そして絶対的で唯一尊重される存在でもない。が、非常に重要で、掛け替えのないものでもある。それは実現されて活用されるべき。

自分だって、勿論「他人を制したり威圧したい」という訳ではありません。が、「自分の正しさを当てつける」というのは、一種の「責任の表現」でもありました。あくまで「仕事をちゃんとやる」という目的に対して、「責任とは果たさなければならないもの」である以上、「自分は率直に"正しい"ことをしよう」という原理に基づいて行動をしていく訳です。
それなのに、「そういう表現や振る舞いは認めがたい」と言われてしまうと、行き先を見失ってしまいます・・・表面的に優しくしたって、出来ることが減るだけでは・・プライドがあるからこそ辛いものです。

そこに、「チームが機能するとはどういう事か」を知れたので、これが自身にとっても受け入れうるコンセプトとなり、「HowだけでなくWhatから変えていきたいな!」と感じた次第でした。
だからといって、「他者と協働出来るレベルで多様性を受容し理解して動く」のも「良いリーダーシップを発揮する」のが、そもそも全くもって容易い話ではない事に変わりはありませんが・・。まぁ、少なくともやる気は出たかな・・

いやー面白かった。
この本において、「心理的安全」は全体を通じ最重要な要素の1つでありつつ、本題は「チーム」と「リーダーシップ」になります。
理想的なチームはどんな状態で、それはどんな効果があるのか。それを作るには?を描き出す本でした。これを著者は「チーミング」という概念を中核とし、まとめていきます。
という訳で、「心理的安全」の話ばかりをしたところで、この本の本当の面白さには迫れない感じもするのですが・・・自分にとっては読書のbefore/afterで最も変化を感じたのは「心理的安全」周りだったので、この概念を中心に徒然と書いてみた次第でした💡

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