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母の南京

 母は十七で南京から引き揚げた。女学校の同窓会で「行ってきた」話を聞いても行こうとはしなかった。元気なうちに、私が訪ねてみたいと母に案内を頼んだ。
 上海でまず久しぶりの中国語を試す。聞き取れるし、返答が口をついて出てくる。ところが、「地鉄」(地下鉄)がどうしても通じない。あ、子供時代にはなかった単語だ。
 南京までは新幹線で一時間半。上海駅に行くと、広場に地方から働きに出て来た人たちが数百人、大きな荷物と座り込んでいる。母も駅から港まで荷物をひきずって歩いた。南京からは貨車で、トイレはない。列車が止まったときに飛び降りてするしかない。合図なく出発するから命がけだ。母は持ってきた芥川龍之介を必死で読んで我慢したそうだ。
 南京は高い城壁で囲まれている。高さ十メートル、厚さ十メートル、そんな城壁が山手線の広さを囲んでいる。小学校では城壁まで遠足で行った。陥落までの戦闘は壮絶だったろう。民間人には疎開命令が出て、一家は長崎だった。陥落後、認可をもらって建てたのは、山手線なら赤坂辺り。大通りの交差点だった。道で食べ物を売っている。母は蒸かした饅頭に駆け寄る。当時は抗日運動が各地で起きていた。南京には武官府があり、軍人が多かったから大きな事件こそなかったが、日本人学校の送り迎えは幌を降ろした人力車だった。つまり買い食いができない。夢だったらしい。「焼き餃子も売ってたんだけどねえ」一気に子供時代に戻っている。(水餃子ばかりで焼き餃子は見つからなかった)
 女学校は現地の学校を接収したものだ。なかったときは長崎で寄宿していたから、できていなければ母は被爆しただろう。疎開した小学校の同級生の多くが被爆した。
 一学年三十数名の五年制。堂々とした三階建ての校舎はそのまま残っていた。正門横に学校の沿革があった。歴史ある学校だった。しかし、一時期日本の学校だったことには触れられていなかった。守衛に「授業中だ」と止められたので「卒業生です、懐かしい」と中国語で返すと、校内を案内してくれることになった。「古参の〇〇先生がまだいる、会っていけ」もちろん、これは守衛の勘違いだ。(日本人とは明かさなかった)
 茶道や華道の授業もあったそうだが、母が入学したのは太平洋戦争が始まった年。軍事教練になった。三八式歩兵銃の実弾射撃で、母の一発目は見事命中した。荒野の訓練場の写真が残っている。並んで座った軍国少女たちは楽しそうに見える。周りを囲む兵士たちも内心楽しかったろう。
 やがて午後は奉仕になった。母は学校に近い武官府だった。武官府は二名だけ、あとは縫製工場だったそうだから、親が裏工作したのかもしれない。庭で玉音放送を聞いたあとは機密書類を焼くのを手伝った。
 翌朝、いつものように物干し台に登ると街中に「青天白日旗」が見えた。中国国民党の軍旗である。店の前に人だかりができていて、中国兵が「開門」と叫んでいる。降りていくと、祖父母は押し入れに隠れ震えていた。兄たちは出征し、長女はすでに結婚。母はこの瞬間に親離れした。
「自動車を徴用にきた」
「昨日売ってしまいました」
「本当か、門を開けろ」
 しかたなく開けると、群衆も入ろうとする。
「この人たちを入れないで」大声で兵士に言った。
「おい自転車があるじゃないか、徴用する」
「それなら、借用書を書いて」
 悔しくて思わず言った。もちろん返してもらえるとは思っていない。一方の兵士が母の腕をつかみ
「お前も来い」
と言った。もう一人がとりなしてくれなかったら、自害を覚悟したそうだ。
住所は忘れもしない太平路(タイペイルー)二二七番地。地図を広げ、ホテルのコンシェルジュに尋ねるが、「そんな番地はないです」何人聞いても同じだ。しかたがない、太平路を北から歩くことにした。
 南北に走る八車線の大通りだった。両側を自転車専用に改装し街路樹も植えられ、街並みはすっかり変わった。朝からきょろきょろ歩き、三時すぎ、建物はそのままだった。番地は南北に分けて振り直されていたのだ。
 一階には眼鏡、服地、貴金属の店が入っていた。裏庭を囲む高い塀は壊され、以前の中庭は小さな店が並ぶ小路になっていた。かつての家の裏口にラーメンの看板が。もはや他人の家だ。中には入れない。「ここで食べて行こう」母を座らせた。朝から歩き通しだった。
 椅子と机を道に並べただけのラーメン屋だ。台所で調理し、裏口から運んでくる。かつての我家で作られたラーメンは、薄い鳥ガラスープの細麺だった。
夕飯にはまだ早い。客は私たちだけ。ラーメン屋のおばさんが隣で青菜を洗い始めた。祖父が建てたミニショッピングモールも、数年のうちに取り壊されると聞いた。彼女はこの家を日本人が建てたとは知らないだろう。あの朝、青天白日旗を見た少女がラーメンを食べているとも。
 祖父は戦争で儲けたかもしれないが、すべて没収された。建てた家は60年以上、中国の人たちの役立っている。互いにご馳走様ではないか。急に「ラーメンおいしかった」と言いたくなり、母に「好吃」の発音を教えてもらった。彼女はちょっと驚いて手を止め、それから微笑み返した。なんだか清々しい気持ちになった。
 収容所跡は見つからなかった。山手線にたとえたら目黒区辺り、城外にあった。放置された死体を野犬があさっていた。トラックを雇って家財道具を運んだ。途中いくつも検問があり、そのたびに何か渡した。
 民間人の収容所に若い男性はいない。母の兄も出征している。だから、女学生が率先して、朝から掃除、体操、子供たちの読み書きそろばん、そしてアロハオエを合唱した。日本に帰れるかどうかも分からない収容所生活だが、軍国少女たちは、もう日本の再建に燃えていた。
 卒業式を挙げることにしたのは、女学校の校長先生の英断だった。引き揚げ後どうなるか分からない。母は四年生だったが、繰り上げ卒業になった。壇上で校長がしゃべろうとすると中国兵が飛んできて銃を突きつけたそうだ。集会は禁止だったのだ。
 私が小学一年の夏休み、母は先生に手紙を書いて、息子を預かってもらえないか頼んだ。先生の実家は山梨の養蚕農家だった。茅葺の古い大きな家の屋根裏で、毎日桑の葉をあげた。できた繭を出荷するまで覚えている。
 この年は、祖父の葬式のあと、母は大阪で遺品整理や納骨で忙しかったのだ。狛犬の預り証も見つける。

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