生きる意味〜反出生主義から考える〜

先日、反出生主義の動画をYouTubeで拝見した。
これを見て、生きる意味について色々と考えたので、綴っていこうと思う。

勝手に引用してしまうが、私が見た動画はこちらだ。↓

私は、そもそも反出生主義者ではないことにご留意いただきたい。

だが、論理性を突き止めていけば、反出生主義へと行き着くことは間違いないと考えているし、
病んだ時にこの考えが浮かんでくることもある。

まず、半出生主義を知らない人もいると思うので、簡単に説明しようと思う。

反出生主義とは

反出生主義とは、簡単に言うと、「人間は生まれてこない方がよい」という考え方だ。

反出生主義にも、色々と流派があるそうで、その「生まれてこないほうがいい」という考えに辿り着く思考回路も様々だ。


例えば、こんなものがある。
「子は、生まれてくることに同意できない。」
確かにそうである。

親が勝手に望むから、子どもは生まれてくる。

子供が生まれたいと思って生まれてくるわけではない。

他にも、「この世界は悪や不幸で満ちているから、生まれてこないことが1番幸福である」という主張もある。

他にも流派はいくつかあるが、これが目的なわけではないので、説明を割愛する。気になる方はぜひ上記の動画を見てほしい。

ともかく、一言に反出生主義と言っても、本当に流派や思想家によってさまざまなのである。


半出生主義の動画を見て

(私が今の考えに至るためには紆余曲折があるから、いったん、その流れを説明するために、半出生主義に出会ったときの感情、私の元の考え、その後に、私の今の考えを書きたいと思う。)

この色々な反出生主義者たちの主張を見ていて、思ったことがある。

反出生主義たちは、皆、「自分の生きる意味」がないと、絶望的に感じていたのではないか。ということだ。

さらに合理性を突き詰めていけば、周りの人たちの生きる意味もないとわかるものだ。
そして、人間が生きる意味もないという結論に落ち着く。
だから、反出生主義を唱えるのではないか。

なぜそう思ったかというと、かくいう私も、生きる意味を見出せてなかったからだ。

「人間のいる意味などない」①(私の元の考えベース)

私は、功利主義的に考えることがよくあって、
例えば、相手が私と過ごす時間の価値と、私の与えられる相手へのメリットを考えてしまう。
そして、私と一緒にいることで、この人に何かプラスはないだろうと思うのだ。
ただ、相手が私に使っている時間は、無意味に消費されていくのだと。
そうやって、合理的に、そして功利主義的に考えれば考えるほど、私の生きる意味などないと感じられるのだ。

しかしそう考えていると、私だけではなく、相手の存在している意味すらないような気がしてくる。

最終的に、「人間自体がいる意味などない」、「人間の存在価値などない」という場所に、半ば絶望的に、私の思考は落ち着くのだった。

そんな中、半出生主義の動画に出会ったから、思想家や偉人たちの思いに胸を馳せることとなったのだ。

だが、私の考えは、さらに発展することになる。

「人間のいる意味などない」②(私の現在の考え)

ある日朝起きた時に、そんなことをなんとなく考えていて、悟ったのだ。

あ、そもそも、人間の存在自体に意味はないんだ、と。

読者は、先ほど書いたものと変わっていないじゃないかと思うかもしれない。
だが、これは明確に違う。
肯定的な意味での、「人間に意味はない」なのだ。

どういうことか。説明しよう。

私は、ただ流れていく命のつながりを想像していた。
過去から現在、未来へと、ひたすら地球上で生死を重ね、命をつなぐ、人間たちの姿を、想像していた。
そして、そのたくさんの彼らは、意味もない生を重ねていて、それが人間だと思ったのだ。

人間が誕生した意味や、目的があると考えると、私たちは、自分の人生に意味を求めてしまう。

しかし、そもそもそれがないと考えれば、私たちは、自分の人生に対して意味を求めなくなると思うのだ。

人生を意味のあるものにしなければならないという義務感は、私たちの選択肢を狭める。

生まれてきたのだから、意味のある人生にしなければならないと、感じてしまう。

しかし、そもそも、人間が存在していることに、価値や、意味や、理由などがなかったら、どうだろうか。

私たちに極論、意味はなくて、私たちはただ、意味のない生を送るのだ。
そして、私たちは遺伝子を後世に受け継ぐだけの媒体にすぎないと。

それを絶望的にとらえる人もいるかもしれない。
ただ、意味がないからこそ、自分自身で意味を定めることができるとも言えるし、自由に生きることができるとも言えると思うのだ。

他人から見て意味がない行為だとしても、自分自身がそれに意味や、価値を感じていれば、そもそも、人間自体に意味はないから、それでもいいのだ。

ちなみに、これだけ「私が考えた真理」を長々と書いてきたが、こういった考えを、「実存主義」と呼ぶらしい。

youtubeをだらだらと見ていて、自分と同じ考えが流れてきたときは衝撃を受けたが、まあ、哲学とは、私が一生懸命考えた「真理」を軽々と追い越してしまうものだ。

私は、天才と呼ばれる類の人間ではない。
が、考え続けるということは、絶対に何かを生み出すし、何かを変えることができると思うのだ。だから、私は考え続ける。

脱線してしまった。
ともかく、人間に意味はないし、私は、自分で生きる意味を見つけていきたいと思うのだ。

この話はまだ仮説だし、掘り下げていく価値があると思うので、誰かコメントをいただけると幸いだ。

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