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求める愛情のカタチは幼いころに創られる。

私の両親は共働きだった。
母は家に居るけれどずっと仕事、父は居たのか居なかったのかよく覚えていない。
両親揃って数日家を空けることもあった。父方母方の祖母がそれぞれ泊まりにきてくれていた。

母は家に居るけれどずっと仕事をしている。母が見ているのは自分の教え子たちだ。私の方を向いていたのかどうかはほとんど覚えていない。
父は保育園の迎えに来てくれていたような気がする。公園で肩車をしてもらって地面にカタツムリ(ただぐるぐると円を描くだけ)を描いて貰っていた。
ただ3人で夜に食卓を囲んでいた記憶が乏しい。

成長するにつれ、私の愛情の求め方は少し異常なのだということに気がついた。
それは赤子が母親を求めるように、いつ何時でも傍にいて欲しい、泣いたら駆けつけて欲しい、お乳を与えてあやして欲しい。眠りにつくまでそばに居て欲しい。そんな求め方だと気づくようになった。
幼少期に得られなかった愛情のカタチを他人に求めるようになった。

同時に、それが叶えられないことも知っていた。というより叶えられない状態を常だと思うようになり、求めることにも躊躇した。
そもそもの求め方が分からなかった。だから曖昧なサインを出す。当然相手には届かない。
だから自分なりの求め方で求めても相手に伝わらず、望みが叶えられなかったり拒絶されたりすると絶望した。
親に拒絶されて感じる痛みと同じ痛みを他人にも感じた。

実際に両親に与えられていた愛情にはおそらくとても波があった。通常与えられるべき量には達していなかったのだと思う。
家に居ないのが当たり前、見て貰えていないのが当たり前。自分の優先順位は最下位。
だから大人になって得る愛情、求める愛情のカタチも同じだ。

皮肉な話だなと思う。

それらは深層心理とか、潜在意識とか、根付いた価値観とか呼ばれるものだと思う。
得たいと願っている愛情のカタチと、実際に求めてしまう愛情のカタチに差異がある。
得たことのある愛情のカタチや量しか知らないから、それ以外のものを受け取れない。

そばに居てくれる人がいいと思いながら、忙しい人やこちらを見てくれない人を選ぶ。
根本がその愛情しか知らないからだ。

何故望みにズレが生じるのか。
過去の体験を再現し続けることで得ているものは何か?
望みをズレさせることで叶えている現実は何か。
それを掘り下げないと現実は変わらないのだと思う。

めいっぱい注がれる愛情に、手を伸ばせるようになるために。

【自分育て直しシェア会】
ご自身が向き合っている現実や、感じている生きづらさ、実際に実践していることなどをシェアして背中を押し合う会。
私でお話できることがあればお伝えします。

2019年10月27日(日)
13:00~16:00予定@都内某所
参加費は場所代のみ頂戴いたします。
コメントまたはTwitterのリプorDMにて参加表明くださいませ。

それでは今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
さきんこ

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