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「満開」


 金山駅から名鉄の常滑行きへ乗って、神宮前駅で降りる。昔は小さな駅だったけれど、いつの間にか再開発が進んでいて、いまや無印良品やマツモトキヨシの入った、ちょっとした商業施設になっている。
 西側の出口を抜けると、空は透き通るように晴れている。まだ肌寒い四月の風に備えてルーズコートを着ていたから、日向が暑くて微かに汗が滲んだ。
 仄かな湿りが気になるなら脱いでしまえばいいのだけど、脱いだコートで手が塞がるのは面倒だから、その選択肢は最後まで取っておきたい。 

「大事な話がある」
 大学の卒業式の翌日に拓真くんとファミレスに入って、季節物のメニューを開いた瞬間のことだった。
 そんなの、別れ話かプロポーズのときくらいしか言わない台詞で、彼の表情から、それが後者ではないことは明らかだった。
 私は何を話したんだったか、春満喫を謳いながらも普段と変わらない、グリルやらパスタ料理の写真を見ながら、すべてを察した私は確か、今から拓真くんを楽しませたら、きっと間に合うと思った。
 だからテレビでお笑い芸人がやっていた、自分をまだヒヨコだと思っている鶏の話をした。
「ヒヨコはイエベ秋だから、青空を避けてるんです可愛さのため」
 彼は苦し紛れのように笑って、その取り繕ったような愛想に、もう駄目なのだと直感した。
「沙智との将来が考えられないんだ」
「ねえ待って、私は拓真くんと結婚、いつかはするんだと思ってたし、来年からちゃんと社会人だし、何も問題ないじゃん、なんで?」
「来年からお互い仕事で忙しくなるし、というか研修で既に忙しいし、社会人になっても俺は野球続けたくて、時間のこと考えたら沙智のことまで手が回らないと思って」
 彼の目を見ながらも、私の頭の裏では白地のシャツを着た芸人が右手で鶏冠を作りながらピヨピヨ鳴いていた。思考が纏まらなかった。拓真くんもイエベ秋だろうな。
「ごめん、別れてほしい」
とだけ彼は言った。そのきっぱりとした口調の堅さだけ、悩んだ末の決意なのだと思った。
 二年の月日を重ねてゆっくりと恋人になった彼は、こうして一夜にして他人になった。

 一日目、吐くほど泣いた。頭の中は真っ白で、何もわからなかった。彼がもう恋人ではないという事実が理解できなかった。電話を掛けたら直ぐに出てくれる気がするのに、それが現実にならないことを頭で知っていた。思考を掻き消すようにして、覚えてないくらい色んな人に話をした。
 二日目、やっぱり泣いた。でも少しだけ、物を食べられるようになった。
 五日目になると、多少は余裕が出てきた。けれど外側に目を向けられるようになったら、住んでいる家も、街も季節も、知らぬ間に増えた彼との思い出の多さから、また泣いてしまうようになった。

 仕事と野球を優先したいから、なんて言葉で、それら未満の私は切り捨てられた。そんな都合、もっと早く分かることじゃないんだろうか。後先の考えない男はだめだ、どうせ仕事もできなくて、つまらないミスをして上司に詰められて、でも持ち前の柔軟さで乗り切るんだろうな。
 静寂が煩くて付けたテレビは、野球の試合を映した。
 社会人になっても野球を続けている彼は、きっとこの大会を楽しみに観ているだろう。私は彼の隣にいたのに、画面の向こう側の、しかも男たちに負けたのだ。
「もういっそ日本負けてくれないかな」
 そう言った途端、村上という日本人チームの選手がホームランを打った。
 彼の大喜びをする姿が思い浮かんで、チャンネルを変えた。
 女の子を大切にできない男なんて、みんな苦しんで死ねばいいのに。

 明日世界は滅びないし、核弾頭がJアラートを鳴らしながら、彼が私の部屋に残したパーカーごと私を吹き飛ばすこともない。
 日常はそのまま続いていって、単に何でもない言葉を送る相手が変わっただけだった。

 そんな日々を繰り返して二週間に差し掛かる頃、拓真くんからLINEがきた。
「来週どこか会えない?」
 たったひと言で跳ねるほど喜んでしまう自分を嗜めながら、三時間ほどの時間をおいた。
「なら、桜を観に行きたい」



 熱田神宮の創祀は千九百年ほど前に、草薙神剣が鎮座したことに始まる。これを御神体として、現在まで祀っているのだ。新しく建てられた草薙館では、月日の入れ替わりで宝剣が展示されていて、今日は織田信長の映画で用いた太刀拵も同時に置かれているらしい。
 境内の桜はほとんど散っていて、参道の端には土と見分けるのが難しいほど茶色がかった花弁が堆積していた。
 グレー色の、砂利のような道は歩く度にざくざくと鳴る。
「淋しかった?」
「誰のせいだよ」
「痛っ」
 彼が巫山戯た質問をするから、鳩尾に肘鉄を入れると、想定より硬い筋肉が攻撃を跳ね返した。
「桜ほとんど散ってるね、もしかして木を見にきた?」
「な訳ないでしょ、今年花見できてなって思っただけだよ、まさか、こんな散ってるとは思わないじゃん、殴るよ?」
「もう殴られてるんだけど、痛い」
 隣に並んで今まで通り話していると、別れたことを身体が忘れてしまって、ひどく慣れた動きで彼の手を握ってしまった。
 あ、と思ったけれど、彼はその手をより一層強く握り返してきた。

 自分から繋いだ手前、今更振り解くのも意識が過剰のようで、前後に少し揺らしながら、どうしようかと途方に暮れた。
 今日は、彼をちゃんと思い出にするために来たのだから。


 折角来たから、とお参りをする事にした。
 手水舎で手を洗うために、何方かが言い出すでもなく手を離した。元々間違いで繋いだのだから、そこに言及することは出来ない。
 絡んだ指が解かれるのは、複雑に糾われた心が緩んで離れていくようだった。
「別れてほしい」
 彼が告げたあのとき、失われたのは思い出で、無垢に笑ってる自分で、決定的に変わってしまった二人の関係性だった。
 何より私を悲しませるのは、もはや、これから死ぬ迄、私が彼を信じることがないという事実だった。
 だから、さっきからずっと、彼が復縁を切り出すタイミングを窺っている事に、気付かないふりをしている。
 彼がどれだけ後悔していても、私を大切に思っていても、もう私の好きだった彼は何処にも居ないのだから。

 歴代最高潮のお洒落をして、予定通りに私はこの恋に一度幕を引く。私のすべてを知っていると思い込んでいた彼が、その勘違いに気付いて心底後悔するように、新品の靴までおろした。
 解散して帰ったら直ぐに寝よう、なんたって今朝は五時に起きたのだ。
 お賽銭を投げて礼をする。柏手を打って目を閉じると、そのまま寝てしまいそうだ。けれど心の底から、噴き上がるものがあり、私の意識を、現実へ惹き付けて離さない。

 初詣を上書きするように、私はこう、願ってしまうのだ。
 私との三年間が、笑顔が、今年の散ってしまった桜が、彼にとって生涯の呪いでありますように、と。

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