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「弓晴」

 叢雲が月を覆い隠すように、私の心中は曖昧さを極めていた。紅茶に注いだシロップが、溶け残ったまま漂うような、ふわふわした心臓。
 朝でも夜でもない、午前四時という空間は、ふと思い出したかのように、時折過ぎる車のヘッドライトが、薄い霧に乱反射する。
 毎回その眩しさに顔を顰めるから、運転手には醜く映ってるかも知れない。私は私を美しいだなんて思ってはいないけど、悪印象を持たれるのは気がかりになる。だから遠くに車の走行音を聞いた時、表情筋を強張らせてみたら、より一層おかしな顔になった気がする。
 橋梁町の浜辺は、夏には海水浴客で賑わうものの、立冬の、まして早朝となれば、犬を連れた老人が一人いる程度だ。
 マルチーズだったか、白くて柔らかい毛並みを纏った小型犬は、小さい足でとことこ足跡を作っている。その後ろをゆっくりと歩く老人が、犬の軌跡を辿るように俯いている。
 あれの主導権はどっちだろうか。道が人を歩ませるのか、人通りが道を作るのか、疑問符が浮かぶ。
 
 私の人生は、何に決定付けられたか。それは即ち、自由意志の否定だった。私はこの小さな港町で、一生を終えるつもりだった。
 劇的な幸福も、狂ったような不幸も与えない、茫洋とした海に照らされた、調和のある人生。まるで私の母親のように、夏の書き入れ時に粉骨砕身して、あとは余剰でなだらかに暮らす。この辺りに住む人は皆、それが当たり前だった。
 私はどこか、おかしくなったのかも知れない。
 何の変哲もない設計へ、齟齬が生まれた。それは砂時計の砂が落ちるように、不可逆で均一な営みだった。日が巡るほどに感情は山になって、それを蓄えておくには、この街は致命的に足りなかった。
 
 遠くに波の音が聞こえる。小さい泡沫が渦巻いて消える音楽。月のタクトに見習って、正しいリズムで押し寄せる。
 潮の香りが、海月みたいなショートカットを揺らす。ベタついた風が、撫でるように通り過ぎて、髪は纏まりを帯びる。手櫛で解そうと、人差し指と中指を入れてみたら、それは疾うにきしんでいた。
 くるくると指通りの悪い毛先を弄んでいたら、先週別れた男を思い出した。何故ならその人が同じように、私の髪で遊んでいたから。
「おれ女の子の髪超好き」
 その言葉が、どうにも、私は嫌悪で沢山になった。
 相手の男としての、私の女としての客体。それまで気にならなかった低い声も、視線も、手つきも全て、私を見ていないように思えた。
 彼の言う特別とは、磨いても光らない石ころのように、ありふれて転がる形式の事だった。

 大きな橋の所まで来て、私はかなり長く歩いたのだと気付いた。街灯の明るさでは、川を照らすには不十分で、不可視の物体が奏でる、飲み込まれそうな轟音と、冷たい風だけがその存在の巨大さを示している。
 星達は、なんて静かなんだろう。ゆらゆら瞬きながら、きっと私には応えない。
 雲が流れて、月光が少しだけ、木々の輪郭を露わにする。

 月が美しいのは、誰の事も愛していないからだ。
 
 前途はわからない、希望で満ちてはいない。臆病さも、蛮勇も持ち合わせていない。
 ほんの少しの好奇心と、僅かな気狂いを持って、私はぼんやり浮かび続けるのだろう。

 薄焼けの空へ、欠伸を一つした。

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