「命日」

 抜けるような夏の青空が、頭上に広がっている。どこまでも深い青なので、宇宙は青色をしてるんじゃないかと思った。
それを我が物顔で独り占めする伊織は、ケラケラと笑う。

「実は今日、死んできました」その顔は生命に溢れていて、僕は彼女の命日を、彼女と祝うことにした。

 病院の屋上、辺りは簡素な手摺りで囲われていて、そこには何かの残骸らしきビニール紐がひらひら揺れている。周りを見ると、片手だけの軍手やコーラの空き缶といった、人の痕跡が散らばっている。
 僕は手摺りの向こう、パラペットに座る伊織の隣へ腰掛ける。

「うわたっか、危なくない?」
下に見える植木が小さくて、膝が少し震えた。
「もう無くなる命ないので、心配しないでください」
ブラックジョークのようだが、それもそうだ。伊織の身体はこの下で眠っているのだから。

「じゃあ気を取り直して。ハッピー、デスデイ?」
「いいですね先輩、ハッピーデスデイ」

 姫川伊織は天文学部の後輩だ。よく言えば天真爛漫、有り体に言えば傍若無人である。先輩として面倒をみていた僕も、かなり手を焼かされた。星条旗を見に渡米する計画を立てたり、星を捕まえる為に5つの梯子を繋げて登ろうとしたり。
極めつけに夏の合宿で、伊織は数十万する望遠鏡のレンズにラメを塗りたくった。すぐに犯人探しが行われたが、伊織は飄々と名乗り上げた。当然顧問の先生に怒られ、伊織は万華鏡を作りたかったと供述した。
 僕は伊織が入部してからというものの、事件を未然に防ぐため奔走する事となった。

 一頻りお祝いをした後、伊織に話しかける。
「相変わらず目を離したら何するか分からないな」
手遅れだが、責めない訳にもいかない。とある国において、自害は最も刑が重い罪らしい。個人的にも正直印象はよくない。
「考えるより先に動いちゃうんですよね、悪い癖です」いやあそれほどでもと、照れ始める。伊織は叱られるとよくこの顔をする。ある時に、反省していないのかと聞いたら、自分を真剣に見てくれているのが嬉しいと答えた。
「あのさ、死ぬほどの事があったの?」
「えっ」
「どんな理由でもさ、自分で命を絶つの許せないんだけど」
「あのっ」
「何やってるの、人に相談するとかやり用はあったでしょ」
「先輩、怖いです」
 言われて漸く、自分の語気が強まっているのに気付いた。伊織はこびり付いたにやけ顔が薄れ、戸惑っているようだった。こんなに苛立っている自分に驚いた。理由はきっと、全く後悔の念がない素振りとか、命を粗末にした事に対するものじゃない。

「僕は伊織に生きていて欲しかった」

えっと、ごめんなさい

「色んなものに触れて感動して、傷付いたり喜んだりしながら、幸せになって欲しかった」

ごめんなさい

「僕は伊織に、、、」

 ごめんなさい、そう謝る伊織の頬を涙が伝った。
「私未練はないです。ずっと辛かったので、寧ろ清々しいぐらいですよ」伊織は笑顔を浮かべて語る。それを聞いて僕はまたカッとなる。
「お前な、生きたくても生きられない人もいるんだぞ」
でも私は、と伊織は言いかけて止まった。
「先輩がそれ言うのずるいです」
そうだ、卑怯なのは分かりきっている。

「ねぇ先輩、どうして居なくなっちゃったんですか」
私が、今日は一緒に帰りたくないなんて言ったから。もう嫌いだって、顔も見たくないなんて。
朝トーストが焦げてたとか、前日観た映画が思ってたより長尺で寝不足だったとか、先輩が4組の川見先輩に告白されたとか。ちゃちな事で喧嘩になって、それが最後になっちゃって。
「私毎日お祈りしました、先輩の仏壇に。あの日一緒に帰ってたら、事故に巻き込まれなかった。ごめんなさい、許してください、ごめんなさい、許してください、ごめんなさいごめんなさいって」

そうしたら

「ああそっか、死ねば良いんだって」

「その後は早かったです。綺麗な顔で会いたかったので、店員さんに怪しまれないように何件もコンビニをまわって、睡眠薬を沢山買いました。でもこれは必要なかったですね」
顔面ぐちゃぐちゃの先輩も覚悟してたんだけどなぁと、伊織は笑う。

「何もそんな事で死ななくても」
僕はありきたりな台詞しか出てこない。だって、命は普遍的に尊いじゃないか。だって、これじゃあまるで僕が殺したようなものじゃないか。僕はこの子に、僕しか与えられなかったのか。

 見透かしたような目で、伊織は僕を見る。
「別に先輩のせいじゃないですよ、寧ろ生きがいをくれなかった世間様の問題といいますか」
兎に角、現世は酷かったと伊織は語る。
「事件の報道どんなのか知ってます?重傷者3名、死者1名ですよ」
「それが何なの」
「先輩、ただの数字になっちゃったんです」
はぁ、と半分息の声が漏れた。今鏡があったら、僕の相当間抜けな顔が映っているだろうなと思った。それ程に伊織が何を言いたいか、理解が及ばなかった。
「全校集会で、先輩の事故が伝えられたんです。最初は泣いてる子も居たけど、一週間もすれば皆んなけろっとしてました。川見先輩はしぶとくて少しムカつきましたけど」
なるほど要するに。
「僕がぞんざいに扱われたのが気に入らなかったのか」
「はい」
「何でだ」
「愛です」
「馬鹿か」
「はい、今更ですね」

 だって部活動の勧誘で、新入生の私に声をかけてくれた時から。この性格の所為で先生に怒られてクラスにも馴染めなくて、不安で何もかも絡まっていた私の道標。
「先輩は一等星です」
「そうか」
「私は優等生です」
「その自信だけは評価する」
 あははと笑う伊織は、生者と見紛うほどに快活だ。僕はこの一等星の笑顔に、何度も救われている。じめっとして根っことカビの生えた僕を、いつも日差しの当たる世界へ連れ出してくれる。
「好きだ、伊織」
伊織はギョッと、ビー玉のように透き通った目を見開いた。
「な、なんですかやめて下さいよ」
伊織は耳が少し赤くなる程に照れて、目を逸らす。まるでちょこちょこと泳ぐ出目金のようで、途端に愛おしさが込み上げてくる。
「だから、許してくれなんて言うな。ごめんなさいなんて言うな。僕は少しもお前を恨んじゃいない」
「ごめんなさ、あっすみません」
「わざとか、わざとなのか!?」
「許して」
「わざとだなぁ!?」
ケラケラとまた笑い始める。伊織の笑い声のレパートリーは凡そ2つだ。調子が良い場合のみ「ア"ッア"ッア"」という奇妙な笑い方をし、これによって天文学部の魔女という異名が2年生の中で流行った。

「そういえば先輩、今まで何してたんですか?」
死んだ後、人間はどうなるのか。こうして話している以上、自由と意識があるのは間違いない。そんな中、僕は何をしていたか気になるのは無理もない。
「何も、だ」
え、と伊織の顔が曇った。
「私に会いに来たりとか、心配だなって見守ったりとかないんですか?」
実にまともな疑問だ。幽霊物の話では定番である。
「最初は見に行こうと思った。だが遠くには行けないみたいなんだ」
例えば魂が在るとして、肉体から離れた近辺に留まる他にないらしい。どうやら魂に手足はないのだ。
「じゃあずっとこの景色を眺めてたんですね、暇ですね」
少しイジるようなニュアンスがあったが、気にせず説明する。
「いいか、最初は意識がはっきりしているが、最初に時間感覚が無くなる。今日と昨日は言葉上でしか差が理解できない」
死ぬと時間軸から放り出されてしまうのかも知れない。常に現在しか存在しない感覚は、慣れるまで気持ちが悪かった。
「次に、自分の境界線が曖昧になる。その分遠くまで行けるが、意思が物と交わる。そこの軍手なんかほとんど僕だ」
殆ど何を言ってるのか分からないが、事実だ。伊織とここで会うまで、僕は自分が何処に居たかも分からない。
「人は死んだ後どこへ行くか。天国を期待したが、そんなものあったら今頃少子高齢化で大変なことになってる」
 死後永遠に幸せに、なんてのはなかった。ただ世界と溶け合って混ざって、いつか何かの一部となる。これを繰り返す。永劫回帰も輪廻転生もなく、水や雲と同じで、変わり続ける事だけが変わらないのだ。
「先輩また消えちゃうんですか?」
絶望の色が顔に出る。本当に分かりやすい子だ。
「違うよ伊織、僕はずっと在り続ける。雨になったり風になったり、そうやって世界を巡るんだ。伊織の中にだって居るよ、分かるだろ?」
人は元々塵だった。それに一時意味を持たせたからといっても、塵である方がより自然なのだ。
「分かんないです、先輩ずっとここに居てくださいよ。何もない場所だけど、精一杯楽しませますから!」痛々しいほどに、崩れそうなほどに、伊織は懇願する。こんな顔をさせてしまうことに、罪悪感が芽生える。
「僕の意思は伊織に溶けたから、分かるだろ。僕のやり残した事、代わりにやってくれないか」
俄に、伊織の存在が確かなものになる。きっと僕の生きたいという意思が、混じり合って溶け合ってしまった。
「先輩、喉が苦しい、です。息、がっ、あ」
「苦しいのは、生きようとしてるからだ」
「嫌だ!もう先輩と離れたくない、、、!わ、私が今までどんな思いで生きていたか!先輩の居な、い人生なん、て長過ぎて心が先に死んでしまう!!!」
ぐらぐらと響く頭に、私を呼ぶ声が滑り込んでくる。伊織、頑張って、生きて、伊織、目を覚まして、伊織、伊織。

「先輩と、、、離れたくないのに、私」
「うん、生きていいんだ、それが僕の願いだから」
随分軽くなってしまった両腕で、きつく抱きしめる。さようならが言えなかった、それをずっと後悔していた。いつかこうやって会えないかと、今まで必死に意識を保ち続けた。
「ずっと一緒だ、伊織」

 伊織がいた場所には空白が残って、やがて世界がそれを満たした。風が流れて何処からか、秋桜の花びらが飛んでくる。
そうか、今日は僕の命日だったんだな。

 目が覚めると、白い天井を色んな人の顔が囲んでいる。左手に熱を感じれば、お母さんが手を握りながらグスグスと泣いてた。私は徐に頭を撫でて「もう大丈夫だよ」と言った。お母さんは一層泣いて、私もわあわあ泣いた。

 先輩のお墓参りに行きたいと言った私を、お医者さんは止めたけど、今日止めたら明日死ぬと叫ぶと、渋々了承してくれた。
 野川駅で降車して、15時間営業のコンビニを右に。妙ちきりんな羽虫がめり込んだ自動販売機や、蛇の這ったような道を過ぎれば、先輩のいる共同墓地がある。去年から何度も通っているから、きっと目を瞑ったままでも辿り着ける。
 お金がないから、お見舞いに貰った秋桜を持ってきて、花立に飾る。目を閉じると、先輩の中に居るような、先輩が中に居るような、不思議な感覚になった。お線香に火をつけ、手を合わせる。

「ハッピーデスディ、一彦先輩」

そして日々は過ぎて

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