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[特集]意識改革から行動へ  宇城憲治が伝えた武道の心

コロラド合気道合宿

※所属や肩書きは、季刊『道』に取材当時(2006年7月23日~29日)のものです。
アメリカ コロラド州 コロラド州立大学にて


充実した一週間だった。流儀会派のカテゴリーを越え、ごまかしのない「できる」を、そして真に「自己の成長」をめざす大切さを、誰もが気づき始めたコロラド合宿。日本文化の真髄は、海外の修行者たちにどんなインパクトを与え、どのような変化をもたらしたのか――。
今や日本を代表する武道家宇城憲治氏が、コロラド合気道セミナーで体当たりでいどんだ一週間の指導の模様を追う。


「武道を志すならば、初心者といえども、相手の事の起こりを制す、少なくとも稽古がそこに向かうものでなくてはなりません」

 文:編集部



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テーマは原点

 宇城師範がコロラド合気道合宿で指導するのは今回で2回目。弊社が主催した過去3回のアメリカでの合気道イベント「合気エキスポ」で、同じく招待された池田裕師範との出会いが縁となった。
「結局、原点ですから。宇城先生がおっしゃるように、武道はまず、強くなくてはいけない。ただ激しく稽古をやっていても強くならないわけです。宇城先生がやられている、〝相手のなかに入る〟や〝無力化〟〝呼吸〟や〝気〟を吸収して、これまでとは違ったものを学ばなくてはならないと思っているんです。」(合宿主催者 池田裕師範)

 この合宿は、参加者が一週間寝食を共にして学ぶというもので、26年の実績がある。指導師範は、昨年と同じく、主催者池田師範(ボルダー合気会 七段)、フロリダから五月女貢師範(合気道スクールズオブ植芝主宰)、カリフォルニアからフランク・ドーラン師範(レッドウッドシティ合気道 七段)、そして日本から、特別招待師範として、宇城憲治師範(心道流空手道教士八段 全日本剣道連盟居合道教士七段)である。
 今年はアメリカ、イギリス、フランス、スイス、ドイツ、カナダ、ロシア、トルコなど全世界からの申し込みがあり、すでに3月の時点で定員に達した。250名の参加者のうち、そのほとんどが指導者クラスか黒帯であり、各人、セミナーから少しでも多くを学び取ろうとする意識レベルが相当高い。
 加えて参加者の職業も、大学教授や弁護士、物理学者、精神科医、医者、あるいは技術者、研究者、企業経営者などと、社会的な地位の高い人たちが多いのも特徴と言える。
 宇城師範は合宿2日前より現地入りし、池田師範と食事中や移動の車中などで、機会あるごとに熱い武道談義を繰り広げた。そのなかで合気道や現代空手、格闘界における稽古のあり方などについても話し合われた。

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空手に敬意を払い、全員、袴をぬいで稽古に参加 
その礼儀正しさは徹底していた


課題の克服に向けて

 合気道稽古の課題としてよく指摘されるのが、自分から倒れる稽古になっているという点だ。調和、融合、あるいは「合わせ」といった言葉の前に、互いが過剰に反応しすぎ、自分でも気付かぬうちに馴れ合いになってしまっていることが原因と思われる。さらに真剣味のない弱い攻撃も大きな課題の一つだ。今回は、こうした合気道稽古法の課題に加え、競技での「強さ」のみを求めて分派していくスポーツ空手界、格闘界などについても話題が及び、リングで勝つことや昇段昇級を修行の目的としてしまいがちな傾向が指摘された。
 合宿に向ける心が真剣であるほど、視点も厳しい。その背景には、「武道そのものが目的でなく、武道を土台にした精神、心を日常に活かすということ」を主眼とする宇城師範の一貫した姿勢がある。

相手の心に入る

「一番の課題は、武術というのは本気でないといかんということ。それに近づく稽古をしなくてはなりません。」

 宇城師範の言う、本気の稽古とは、何か。それは、現在の武道に見られるような、相手の攻撃を受けたり、かわしたり、さばいたりといったレベルの話ではない。
 相手の攻撃に対して受けを取れば、相手の二発目に必ずやられてしまう。相手が刃物を持っていたら、刺されている、ということだ。大事なのは、一発で相手を制するということである。
「武道を志すのならば、たとえ初心者といえども、武道の究極、相手の事の起こりを制する、少なくとも稽古がそこに向かうものでなくてはなりません。」

 この「事の起こりを制す」のさらに上の段階が「事を起こそうとする相手の心に入り、相手を制する」というものである。これは当然、目に見える動作以前の問題となる。すなわち目に見えないものが働くので、稽古は頭や理屈で理解する次元ではなくなる。それが、いわゆる「気」の存在である。
 合気道開祖植芝盛平も、「相手の気の起こりを見れば、相手が蹴ってくるか殴ってくるのかがわかる」と言っていたという。合気道の稽古も、本来は「気の起こりを制す」が原点にある。
 それには、それが「できる師」に学ぶほかはない。言葉で理解したり目で見たりすることが不可能な世界であり、一触するしかないからである。 その原点に「型」があると宇城師範は言う。
「型というのは、自分の身体との会話ができます。それまでばらばらだった部分体が統一体になる。統一体になると、身体が透明になってきます。透明になると、相手の事の起こりはもちろん、相手の不透明なところも見えてくるんです。不透明とは、相手が何かしようとする心。そこをおさえていけば、相手は動けない状態になるんです。」

 もちろん、ここで言う型とは、現在に見られる試合用の形骸化された型のことではない。あくまでも、伝統に裏付けられた、「使える型」のことを指す。武術が生み出された元の元をたどれば、そこにあるのは小手先の技術ではなく、自分を守る、家族を守る、国を守るという心。その心が、沖縄の空手、生きた型を生んだ。
 今回の合宿のテーマは『原点』。原点にたちかえり、現行の稽古法の見直し、問いかけの作業が師範により行なわれていった。

武道の究極
相手の無力化、そして気

 合気道では、相手の攻撃を円の動きでさばいたり、導いたりといった稽古をする。しかしこれも攻撃に威力がないからこそ可能なのであって、沖縄の当破のような直線的で瞬発力のある突きの攻撃に対しては、円ではスピードが遅すぎ、とても間に合うものではない。
 また現代空手や格闘技にしても、稽古自体が攻撃に対する手足のさばきに終始しており、そうした力やスピード、タイミングに頼る稽古は、年をとったらできるという保証はない。力に頼るものはすべて、誰もがいつかは加齢という壁にぶちあたる。
 そうしたことすべてに対処するには、やはり力の世界ではない、相手に触れる以前に制するという目に見えない働きがどうしても必要となる。それが気だ。そういった気を養うことができれば、あらゆることに活かしていけると師範は言う。
 実際今回の合宿で、この気の実演が繰り返し行なわれた。気を通すことができれば、相手の身体を柔らかくしたり、浮かしたり、相手の重心を上げたり下げたり、自由自在である。
 いくら攻撃をしかけても、気によってその攻撃がすべて、その起こりのところでゼロ化されてしまうので、相手は攻撃そのものができない、あるいはしかけていっても、すでに腑抜けにされているので簡単に倒されてしまう。
 つかんでいっても結果は同じだ。握った瞬間腑抜けにされるので、力が入らずいきなり崩される。
「瞬間相手のなかに入っているから、腰や膝に貫通するんです。投げにしても外側の回転でなく内面の回転で崩しているので、相手は感じることができません。」

 このゼロ化で投げられると、投げに方向性が感じられず、受けた者はどっちに投げられるかわからない。合気道などの一般的に見られる「手で畳を叩いての受け」が危険だと、師範から稽古中何度も指摘があったが、このこともあらためてなるほどとうなづけた。
「武術という面から言えば、受けがあること自体がおかしいんです。受けは、畳の上だからできるのであって、外だったら、そこが石やセメントの上だったら、どうなのか。また空手の投げは回転がはやいので、畳の上といえども、手を出すと怪我をする場合があります。それは投げのスピードが違うからです。」

 手を使わずどう受けるのか。セミナーでは、上足底で受ける方法が指導された。この方法だと、強い回転やスピードのある投げに対して衝撃を吸収でき、かつ身体に気が流れ呼吸が生きているので、その後の攻撃に対しても、危険は少ないと言う。指導されたとおりにやってみて、参加者はその予想外の効果に驚いていた。

気――「肚に何かぽっとくる」

 大事なのは、どこで技がかかるかである。
 師範の場合、さわった瞬間、入ってくるので相手は一瞬に浮かされる、そこを後処理として投げにうつる。ところがその〝浮かし〟がないままの投げは、投げようとする気持ちが相手に伝わるので、相手の体は固まり、力の勝負になるか、相手が自分から倒れたり飛んだりする協力があってこそ成り立つ技となる。
 この〝浮かし〟についてだが、合宿中それをより具体的に理解する興味深い光景が見られた。合宿のリクレーションで近くの温泉プールに行ったときのことである。温泉プールのなかでも、師範の技を体験したいと集まってきた参加者を師範は次々に、左右、回転と自在に投げたのである。
 水中であるから、投げられる相手はもちろん、投げる師範自身も浮きやすい。しかし、師範の手をつかんだ人は、瞬間、ぽっと上に浮かされる。重心が完璧に浮かされてしまうので、少しの刺激で水中に簡単に投げ飛ばされてしまう。
 道場でも、師範の投げを体験した人は、「肚に何かぽっとくる」と口々に言っていた。外から見ているだけではわからないが、かけられた者にはっきりわかる。師範のなかから何かがぐっとせまってくる。しかしそれは力ではない。しかもひねられていないので痛くはない。中心から完璧に崩され倒される。
「投げる、というのは、力のありかがわかってしまう。ですから、それを察して受けを取ることも可能ですし、自分から一回転することも成り立ちます。しかし、相手に入ると瞬間腑抜けにされるわけですから、受身が取れない、あるいは動けなくなるのです。」

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笑顔は調和の結果

 それは師範が棒を持ったときも同じだ。ねじったりひねったりして相手を制しているのではなく、棒をにぎった側からすると、握ったとたん、気付くとぐるっとまわされているといった感じになり、すとんとへたり込むように後ろへ横へ倒される。
「棒の外をまわすやり方は相手にぐっと握られたら、まわらないです。内面をまわしているんです。それは相手と調和することによって生じる気の力です。感じることはできても相手にとっては対処のしようのない力、すなわちエネルギーです。」

 合宿中よく見受けられた光景が、師範に浮かされた人がみな瞬間「にこっ」と笑う姿である。技がかかったことを身体が素直に感じた瞬間だ。まさに、力ずくでもなく、自分から倒れるのでもない、これが調和・融合の結果なのである。
 さらにすすんだ稽古では、通常あり得ないような光景が展開された。それは、師範が気を送ると、それまでできなかった技を参加者自身が瞬時にできるようになったのである。参加者は一様に、驚きの声を上げていた。「できる」を体験させる画期的な指導法であり、まさに武術稽古法の革命と言える。
「こういったエネルギーは、修行をつめばつむほど強くなって出てくるのです。今から先もっとすごいエネルギーが出てくることを感じています。それが自分でも楽しみなんです。」

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浮かされたとわかると、みな瞬間笑顔に


気を培う最大の要素は
日常の実践

 気はすべてを解決すると師範は言う。気は、力でもタイミングでもなく、肚から全身にゆきわたるエネルギーである。そして、この気には、初歩の段階から、上は限りない高さの段階がある。武術の修行はすべて、この気を出すという入り口にいきついたところから始まる。
 そのような気はいったいどのように養うことができるのか。師範は、型を繰り返し稽古することと、自由組手という実践のなかで培っていった。
「実践になったら本当の気というのが出てくるんです。気が先にあるのでもない。相手との自由攻防において、逃げない身体と逃げない心を、相手に触れずに入っていくことから見出していく、そこから気が出てくるのです。入っていくためには、その根源として型が絶対に必要になってきます。しかし型が先でもない、組み手が先でもない。相補いながらそれを見出していくということです。」

 しかし気を培う最大の要素は、日常のなかの実践であると師範は言う。師範は武道だけでなく、一部上場企業のトップとしての経営や、電子エレクトロニクスの研究開発者として、松下電器、三菱電機、SONY、NEC、シャープまたNASAといった大手企業を相手に仕事をこなし、海外では数々のICを自身の特許で開発するなど、半端でない第一線においてのビジネス経験をもつ。その厳しさは、競技試合のスポーツレベルとはまったく次元が異なるものである。そうした厳しい実践の世界でやりきってきたことを原点としながら、そしてその次元の厳しさで、平和な現代にあっても、武道としての原点を忘れずに稽古する、それこそが現代における武道修行のあり方ではないかと師範は考える。

まず「やってみせる」

 師範の指導を受けて、最初は戸惑いぎみだった参加者も、中盤以降、回をおうごとに、受講する姿勢に真剣さが増していく。
 合宿を通じて感じたことは、海外の人は日本の武道に対してたいへん謙虚であるということだ。自分にないものは、徹底的に素直になって学ぶ、そのオープンでまっすぐな姿勢は見ていて本当にすがすがしい。
 またそういう姿勢に参加者がなるのも、師範が常に実際に「やってみせる」をベースにしているからにほかならない。空手だけでなく、フルコン、K1選手に指導をするときも、あるいはアメフト、ラグビー選手にタックルを教えるときも、まずは「好きなようにかかってこい」が師範の流儀である。
「自分の条件に従ってやるのではなく、相手の流儀に従ってやってみる。自分はいつもそうやって、好きなようにかかってこさせます。自分の流儀でしたら加減が出てきます。だから常に緊張感がある。」

 合宿では合気道経験者だけでなく、あらゆる空手の流儀や拳法、剣術などを長年修行するさまざまな武道経験者がいる。そのすべてが師範とは初対面か二度目の対面である。体格も師範よりはるかに大きい人がほとんどである。そういう人たちを次々無力化し、制していく。その言い訳をしない迫力に、誰もが圧倒、納得させられるのである。毎回セミナー後に、師範が大勢に囲まれてえんえんと質問攻めにあうのもそのせいだ。参加者のどんな質問にも師範は一つひとつ丁寧に、そしてまず「やってみせる」ことで答えていった。

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武道を通しての
国際交流

 師範に今年の指導のてごたえについて聞いてみた。
「去年よりもはるかに技に対しての理解が深まっていると感じました。だから今回、昨年よりステップアップした気というものを指導したわけです。昨年はそこまでの雰囲気がありませんでした。
 今日のような稽古は、単純なことをやっているようだけれども、派手なパフォーマンス的な技よりははるかに次元の高い、しかも通訳すら難しいような技を教えることができた。それは参加者の熱意が伝わってくる。聞く姿勢が伝わってきたからです。投げにしても芯が出てくるんです。そうすると、受身がなかなかとりにくくなる。受けた人がそれをいちばん感じているはずです。」

 たしかに最終日の稽古はこれまでの積み重ねもあり、稽古の密度が違っていた。参加者は、自分でできたときは瞬間に表情を変える。それまで無表情に投げていた人が、自分でできる瞬間を実感すると、思わず顔をほころばせている。飛ばされて喜んでいる人もいる。まさに身体が先、理屈はあと、そう思った瞬間だ。
「自分が力で投げているのか、相手が合わせて倒れてくれているのか、自分自身がいちばんよくわかっているはずです。馴れ合いの稽古からは本当の自信は生まれてきません。力をつかわない、本当の技のすばらしさを知ることによって、自分自身が謙虚になり、そこから進歩成長が始まっていくんです。
 世界から参加されている方から、日本の武道を通して感動してもらう、すばらしいと思ってもらえる、喜んでもらう。学んだ人がそのことによって自分の生き方が変わる。それがまさに武道を通しての国際交流かなと思います。」

五月女貢師範との
心の交流

 一週間の合宿を密着取材して感じたことは、合宿の雰囲気のよさと、師範同士の強い信頼感である。とくに宇城師範と五月女師範は、昨年の出会いが大きな契機となり、会うたびにその交流が深まっていく。合宿中、担当クラスがない時間帯や食事中など、常に武道談義に花を咲かせた。その話題は武道にとどまらず、教育、文化、環境問題、平和問題など多岐に及ぶ。夜は夜で話し込めば二時三時、まったく尽きることがない。そんな両師範の心の交流を目の当たりにして、出会いと縁の大切さをしみじみと感じた。
「自分が本当の話ができる、信頼できる人がどれだけいますか? そういるもんじゃない。だから宇城憲治先生と話をしていると、すごく楽しい。本物の出会いというのは、どれだけ長く一緒にいるかじゃない。一期一会なんだ。
 私から宇城先生に贈った本があるのですが、武術の本なんかじゃない。宇城先生は、〝武術〟という小さな世界に住める人間じゃない。何流何派など、そういうものを超え、もっと大きな、文化的、伝統的な世界にいる。武道と人間の生活が一体になっている。『道』で先生がインタビューをする会見を読むとそう思うんです。
 芸術も、日本の将来も、社会的なことも、建築についても、文化についても、宇城先生と話していると時間が経つのを忘れてしまう。私としては、同志を得たような感じです。
 私の好きな言葉に『情熱を持った人間が歴史をつくる』というのがある。宇城先生がそう。宇城先生はもっと大きな影響力を持ちますよ、これから。そういう原動力がある人ですね。」
(五月女貢師範談)

「ただ倒すだけの合気道では始まらない、植芝先生の合気道を五月女先生が再現していることを感じます。五月女先生のように実力がある人にめぐり合った時、はじめてカテゴリーを越えて話ができる、それを感じました。
 先生の書いている書を見ても、先生の話を聞いても、ご著書を読んでも、どれだけ先生が努力され苦労されてきたかがわかります。五月女先生と話をしていると、ものすごく自分の頭が冴えてくる。先生はものすごく勉強されているから、自分を先生にぶつけたときに、自分の位置がわかるんです。先生に『宇城ここだぞ、もっとここだぞ』と。自分が見えてくるんです。飲みながらこういう話ができるというのは最高ですね。『その時の出会いが人生を根底から変える時がある。良き出逢いを』(相田みつを詩集より)、まさにその出会いでした。」
(宇城師範談)

 五月女師範は合宿後の別れの挨拶時に『よく武道をここまで研究開発されましたね。とくに気の開発がすばらしい。みな与えられたことをただやっているだけで、流祖に近づくより、どんどん低下してきている。そういうなかで唯一〝武道のなかで〟レベルアップをめざし、それを実行されている。すばらしいです』との言葉を宇城師範に贈っている。仕事では常に研究開発のなかで新しいものを作り出してきた宇城師範。その研究開発を土台に、師範は他武道はもとより、水泳、野球、ラグビーといったスポーツなど、カテゴリーを越えて応用指導をしている。そこには再現性、客観性、普遍性という科学的な裏付けがあり、すべての指導に深さへの追求がある。
 五月女師範はそうした師範の創造性を、最初の出会いからいちはやく認めていた。それこそが、組織や段位、地位、カテゴリーにこだわる人には絶対にできぬ、「人を見抜く力」なのだと思う。

転換期に
意識改革から行動へ

 そんな師範と心からの理解、尊敬をし合えた宇城師範だからこそ、合宿では参加者が安心して師範に学ぶことができた。
 そしてまた、この合宿に宇城師範を呼び寄せた池田師範。弟子の成長を願い、同時に自らも成長への努力を欠かさない池田師範の姿勢は、徹底している。
 合宿の最終日、池田師範にお話を伺った。
「合気道人口が何万人といたって結局、なかで争っていたら意味がないですよ。それは大先生の考えた哲学とは逆方向にいっているということですよね。それは、合気道、空手だけじゃなくて、全部の武道というものが一緒になっていかなければ、平和というのはできない。
 宇城先生の教えている呼吸によって力がぜんぜん変わる。そういうものをこの合宿に来た方はみな経験しているわけですよ。それは序の口の稽古かもしれませんけど、それを経験できたということは本当のプラスだと思います。
 指導者の立場として最も大切なことは、これから将来若い人たちがどのように育っていくかということです。現状のように同じことを繰り返していたら成長はしないということです。これからの若い人たちのためにも、合気道の稽古法を完全に違ったものにしていかないといけない、その境目、転換期にあると思っています。」

 池田師範が指摘された通り、この転換期をこれからどう活かしていくかが、今後の課題であることは言うまでもない。力をつかわずに相手に触れずに相手を制す、誰もがそこをめざして稽古をしているはずだ。
 しかし現状の、技の解説や反復稽古に終始する稽古法は、そこに到達するためのプロセスを提供していると言えるだろうか。円の動きのなかでは、一見やわらかそうに見える合気道だが、そこには常に力の衝突があることを誰もが感じている。
 しかし今回宇城師範のゼロ化の技を実際に見、体験し、さらには、師範に気を送ってもらって自分自身がゼロ化の技の感覚を味わうことにより、多くの参加者が、いかに自分が力で技をやっていたか、武術として「できていなかった」かを知った。今回の師範の指導を「目からうろこ」「画期的」「新しい境地」と感想を述べた人が多かったように、従来の稽古法の延長線上に目指すゴールが見えていないことに気付きはじめている。まさにこの気付きこそが、転換期であり、意識改革の始まりである。そしてこの意識改革からの行動こそが今後の課題であり、本当の修行への出発ではないか。
 今回の合宿だけでなく、宇城師範は初心者を教えるときも、格闘界のチャンピオンクラスを教えるときも、ラグビーやアメフトや野球の指導においても、その指導法はまったく変わらない。変わらないということは、それだけ指導法に普遍性、応用性があるということであり、そのベースにある気のエネルギーには、さらにさらに大きなことにつながる可能性を見る。
 武道で培った気を、大きく日常に活かしていく。そんな指導を展開する宇城師範が合宿で伝えようとしたものは、単なる流儀のノウハウではなく、宇城空手そのものであり、師範の生き様そのものであった。
 大切なのは、プライドではなく、自信に裏付けられた誇り。遠慮も理屈も通用しないオープンマインドの海外で、流儀のカテゴリーさえも越え、日本からただ一人体当たりで指導された宇城師範。あらためて武道修行が心の修行であること、そしてその究極の目的が、武道を通しての人づくりにあることを教えられた一週間の合宿であった。

参加者に感想を聞いた

●「"はいる"ということが、もうすべてであるということ、これからの稽古がどの方向にいくべきかを示していただきました。前回に続き今回のセミナーで、型が大事ということがより理解できるようになりました。内面で見るということ、それを自分たちにもできるように指導をしてくれたこと、すばらしいです。まったく新しい境地にたてました。」
ビオリーナ・リンドバ (大学教授/合気道)

●「先生のお話を聞き、先生の動きを見て、ああ、自分はスポーツ空手をやっていたんだということがよくわかりました。先生の指導は、空手だけでなく合気道やほかのどの武道にも活かすことができる、また日常にももちろん。先生の強い気をとても感じます。指導のあとは、自分にも気が出るのがわかりました。」
メルリン・ステップ(拳法/合気道)

●「指導を受けてその内容の深さに感謝するとともに、もっと若いときにお会いできていたらと思います。先生は、こちらがなにか少しでも理解できると、その次のステップを与えてくれます。また先生は身体を通して、心を強くすることが身体を鍛える上で大事であるということ、内面の力が大事であることを教えてくれている。一触を通じて、その世界を指導している。驚くべき人だ。」
スティーブ・ファッセン (アーティスト/合気道)

●「空手も長年やっていますが、あんなサンチンを見たのは初めてです。先生の型のエネルギーはすごい。空手が本来どんな武道であるべきかを教えてくれている。攻撃も受けも同時でなくてはならない。相手を遠ざけるような稽古はだめ。だから稽古方法を見直さなくてはならないと思った。今回だけで、20ページ以上のノートをとりました。」
マイク・モーレン (空手/合気道)

「すばらしいです。どの瞬間に気を出すか出るのか、それを身体で理解するのはむずかしいですが、タイミングとは異なる、そうした自然な瞬間というのがあることがわかりました。」
ジョシュ・ドラッグマン (合気道/空手)

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コロラド合気道合宿指導師範 
師範同士の強い信頼、絆があったからこそカテゴリーを越えられた合宿
左から、フランク・ドーラン師範、宇城師範、五月女師範、池田師範

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世界中から集まった参加者たち


―― 季刊『合気ニュース』 №150(2006年秋号)より ――


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