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アイデンティティと居場所がない?|帰国子女で転勤族

こんにちは、雨雲です。

最近はとても暑いので休日は夕方に出掛けることが多いのですが、
先日映画のレイトショーで「モノノ怪」という作品を観に行きました。

あまりにも面白かったので、主人公の薬売りのアクリルキーホルダーを作りたいと思い立ち、業者に依頼するために絵を描きました。(そのうち何かのイベントで出せないかな…?)

薬売り(完成形はお楽しみに)


さて、今回は私の生い立ちについてお話ししたいと思います。

海外で過ごした時期・出来事

私にとって日本と海外を行き来した学生生活は、言葉の壁や文化の違いに直面し、孤独や疎外感と向き合う厳しい経験でした。

① 初めの海外・インターナショナルスクール

幼稚園の年中の時、両親の仕事の都合でシンガポールに移住し、英語が一言も話せない状態でインターナショナルスクールに通うことになりました。それまで日本で生まれ育った私にとって、言いたいことが伝えられない毎日は大変でした。
(目の前でクラスメイトに大切なヘアピンを取られても上手く説明することができず、悔しくて泣いていたのを今でも覚えています。)

3年目もすると次第に友達も作れるようになり、日本語よりも英語が優位になっていました。休日に週1日、日本人学校に通っていましたが、日本語を話していると、自然と英語が混じってしまうことも多くなりました。

学校にも慣れ、楽しく過ごし始めていた矢先、小学2年の途中で帰国が決まりました。帰国が決まった時には友達と別れるのが嫌で、心の中では日本に戻りたくない気持ちが強くありました。

② 帰国後に日本で感じたギャップ

帰国後は日本の学校に通い始めたものの、ここでも慣れるまで時間がかかりました。

授業の指示を理解するのが苦手で、忘れ物や宿題を忘れてしまうことが多く、授業中にトイレに引きこもることもありました。
しばらくして少しずつ友達もでき、楽しく過ごすようになったものの、どこか疎外感を感じ続けていました。

その後、関東大震災を経験した後に両親の転勤が決まり、小学5年生で再び台湾での海外生活が始まりました。

③ 2度目の海外・インターナショナルスクール

台湾のインターナショナルスクールに通い始めましたが、3年以上のブランクと学年の違い(学年の区切りが異なるためひと学年上になる)から授業についていけませんでした。

再び言葉の壁にぶつかり、次第に学校で一言も話さない日々が続きました。膨大な宿題にもついていけず、やがて不登校になり、家で過ごす時間が増えていきました。

何度も学校に通おうとしましたが、話せない自分が悔しいのと、周りのクラスメイト達が仲良くしている姿を羨ましいと感じる一方で、酷い孤独と疎外感を感じていました。

この頃から両親との関係も次第に悪くなり、衝突することが増えていきました。自分の人格や存在を否定されることもあり、自分は独りなのだと感じました。

④ 海外の日本人学校

1年ほど経った頃に、もともと5年間で帰国する事が決まっていたので、高校受験を考えて中学は台湾にある日本人学校へ転校をすることになりました。

しかし、他人との会話の仕方を忘れてしまった私は上手く話すことができず、自信の無さから顔を前髪で隠していたこともあり、
周囲から「気持ち悪い」と言われることもありました。話すことがますます怖くなっていきました。

ある時、友人に誘われて始めたダンスをきっかけに徐々に人と会話ができるようになりました。
趣味は偉大なもので、続けていくうちに自分の自信や人と繋がるきっかけを作ってくれました。

⑤ 2度目の帰国とアイデンティティの崩壊

中学受験では日本の高校生活に憧れを持ち、第一志望校に合格して高校生になったタイミングで再び日本に戻りました。

しかし、ここでも独特な日本の学生のノリや、グループの強い結束、集団主義的な、個を抑圧された空気が息苦しいと感じ、自分の居場所が日本にもないのだと感じるようになりました。

その頃、英語に強い執着を持ち、B2レベルの英語力を身につけました。帰国子女としての自分を意識するあまり、英語に固執しすぎて、自分が何者か分からなくなっていく感覚がありました。

⑥ 大学

大学に進学して国際系の専攻を取りました。

アルバイトと大学と家を往復する生活でしたが、
コロナ禍で大学の授業がオンラインになっても、家の中で毎日取り憑かれたように英語を勉強していました。交換留学が決まった頃にはC1レベルの英語力を身につけていました。

しかし、コロナ禍でオンライン授業になる可能性を聞いて、直前でキャンセルを余儀なくされました。その頃から将来自分が何をしたいのか分からなくなり、生きる気力を無くしていました。

精神疾患の判明

小学5年生の頃から、私はうっすらと希死念慮を抱えていました。その頃から食欲の低下や、息苦しさ、絶望感や焦燥感に襲われることが多くなり、さらに授業中や電車の中など、場所を選ばず涙がこぼれてくるようになりました。

(他にも人間関係を切る、不眠、離人感etc...)
これらの症状は年々ひどくなり、次第に私の生活を支配するようになっていきました。

その状態が7年以上も続いていたため、私はそれが自分の性格だと思い込んでいました。
だからこそ、心療内科で「気分変調症」と「不安障害」と診断された時は、とても驚きました。

就職活動が終わったタイミングで病院にかかった際に初めて判明した事でした。
長い間感じていた苦しみに名前がつけられたことで、自分が本当に苦しんでいたのだということを認めてもらえたような気がし、安堵したのを覚えています。

治療を受けるようになってから、私は少しずつ自分の感情や症状を理解し、対処できるようになりました。それまでは、ただ漠然と感じていた絶望感や不安感が、実は病気の症状であることが分かり、それに対する具体的なアプローチを取れるようになったのです。
診断を受けたことで、自分が抱えていた悩みや苦しみが明確になり、少しずつ前向きに物事を考えられるようになりました。

アイデンティティと居場所の発見

社会人になった今でも時折、自分のアイデンティティや居場所について考えることがあります。

現在は外資系の企業に就職し、今は環境に恵まれていると感じています。特定の文化が優位な空間ではなく、多様な背景を持つ人々が集まる職場で、初めて「居心地が良い」と感じることができました。

趣味を通じて新たな友人を作る機会にも恵まれました。
アート関連のボランティア活動に参加し、同じ興味を持つ友人ができました。ダンスの趣味を通じても新しいつながりが生まれました。大学時代に知り合った留学生の友人が最近日本で働くために戻ってきたことも、嬉しい出来事でした。

私はようやく自分の居場所を見つけることができたと感じています。
そして、自分に合ったコミュニティを見つけるための方法を知る事ができました。

シンガポールも多民族国家であり、同様に居心地の良さを感じる場所です。

私は、自分をシンガポールのように複合的な文化を持つ人間だと考え、それが異なる文化を仲介する役割を担うことが多い現在のポジションに非常に適していると感じます。

私はアイデンティティや居場所を求めて苦しんだ時間が長かったですが、今ではどこにも帰属しないという経験が、むしろ自分の考え方や選択肢を自由にしていると考えるようになりました。

「どこにも属さない」ということは、どこにも縛られない自由をもっているということなのかもしれません。

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