見出し画像

音楽の神が母に授けてくれた宝物

第16回チャイコフスキー国際コンクールが開催されました。

 これまでどこか遠い世界の音楽イベントとして見てきたコンクールでしたが、僕の母、鷲見加寿子の生徒さんである藤田真央君がピアノ部門に参加した事で、今までとは違う視点でこのコンクールを見つめる事になりました。

 真央君が初めて母の門下生になったとき、母が「以前指導していた小菅優ちゃんと並ぶくらいの凄い才能を持った子がやって来た。基礎が粗削りだから、そこをきちんとしたら凄いピアニストになる」と話していたのは記憶にあります。その時は「へえ、そうなんだ」とそれほど気に留めていませんでした。母の生徒さんには優秀な人が多いので、その中の一人だろうという認識で、実は最近まで僕は彼の演奏を聴いた事がありませんでした。
 その後東京音楽大学で真央君は野島稔先生と母のダブルレッスンを受ける事になります。もともと真央君は野島先生に憧れていたとメディアで目にしましたが、その野島先生は母と学生の頃からの親友でもあり、毎晩のように電話で話しているとも聞いていたので、ここにも不思議な音楽の縁を感じますね。
 それからも真央君がオーケストラと共演するたび、その演奏会に出演していた友人たちが「彼はお母さんの生徒さんでしょ、素晴らしかったよ!」と教えてくれるのですが、実際に自分で聴いていないので何とも・・というのが正直なところだったんです。

 そんな僕が初めて藤田真央というピアニストを聴いたのが、昨年の母の門下生発表会でした。母から「もし休みだったら録画を手伝ってくれないか」と頼まれ、ビデオカメラを回す役割を引き受けて会場に向かったのです。
 この日僕が発表会に足を運んだのには訳があります。東京音楽大学の教授を務めている母が、定年を迎えても客員教授として大学に残った理由が「真央がいる間は辞められない」というものだと知ったからです。母にそこまでの決意をさせる藤田真央とは何者なのか、ちょっと聞いてみたいという衝動にかられ、撮影係という名目で足を運んだのでした。

 いやあ、衝撃でした。

 藤田真央君は最後に登場したのですが、1音目から、その才能とセンスが桁外れであることは分かりました。全ての音符がキラキラしていて、叩き込まれた音楽ではなく内側から湧き出る音楽。
 僕もそれなりに多くのピアニストを聴いてきましたし、オーケストラの現場で多くのピアノ協奏曲の伴奏をしてきましたが、これまでに感じた事のない感覚で、「溢れ出る才能とはこの事を言うのだ」と鳥肌が立ちました。音楽家の端くれとして、聴いているうちに彼の才能に悔しさすら感じましたが、それほどに、「神から与えられた何か」を感じさせる演奏でした。母に「とんでもないね」と言うと「そうでしょ」と笑っていました。発表会だというのに拍手が鳴り止まず、アンコールを数曲演奏したのも今となっては良いエピソードかもしれません。

 さて、そんな事があって、今回真央君がチャイコフスキーに参加すると知った時にはいろんな思いがありました。

 僕は真央君の才能は桁違いだと思っていますが、果たしてチャイコフスキーの審査員たちはどう感じるのか。僕の感覚ではファイナルには残るだろう、いや、優勝の可能性すらあると思っているけれど、もしそうなったら世間はもう少し指導者としての母に注目してくれるだろうかという事も頭を過りました。
 もともと芸術家肌の母はセルフプロデュースが上手ではない、というかあまり世に出るつもりがない人なんですが、それに加えてアーティストもある程度有名になると事務所の指示によりプロフィールから先生の名前を削る人が多いんですよね。まあ、有名な人は師事した先生が多すぎて書き切れないというのもあるんでしょうが。

 その辺の話はまた別の機会にするとして、いざチャイコフスキーが開幕して1次予選のモーツァルトを聴いた時に「ファイナルまで行くだろう」と思いました。コンクールではなく、さながらリサイタルで演奏しているかのようにリラックスしていて、当初何の期待感も持っていなかった聴衆が1曲毎に真央君の世界に引きずり込まれていくのが分かり、最後はスタンディングオベーションで迎えられるのを見て、自分の感覚は間違っていなかったと確信を持ちました。ロシアまで応援に行っている母に「凄かったね」と連絡したら「周囲の反応の凄さにただ茫然としちゃった」と返信がありました。それほど現地の聴衆にとって衝撃だったんでしょうね。
 結局1次を終えて24人から14人に絞られました。当初12人になる予定だったのですが、参加者がハイレベルだったため急遽人数が増えたようです。審査するほうも大変ですね。

 ちなみに母が真央君と話していて「1次で落ちても最後まで聴くの?」と尋ねたら「あはは、それ(1次で落ちる)は無いですから」と笑顔で答えたそうです。出番の前にも「あ~楽しみだな~」と言っていたそうですし、大物の片鱗、こんなところにも垣間見えますね。
 
 続いてセミファイナル。1曲目のスクリャービンで「あれ、ちょっと固いかな」と感じましたが、後から聞くと真央君は珍しく緊張していたそうです。2曲目に演奏したショパンのソナタ第3番、これ実は個人的に凄い思い入れというか、母が猛烈に練習していた音の記憶が残っているんですよね。確かリサイタルで演奏したのかな。僕が2階の自室で勉強している間、ずっと1階のレッスン室からショパンが聞こえていたのを覚えています。他にもブラームスやデュカスなど、母がよく練習していた作品は耳に強く残っています。
 そのショパンの演奏は素晴らしかった。特に彼の音の美しさが際立っていましたが、僕の母もまた美しい音色に定評のあるピアニストで、聴いていて真央君の音色が母の音に凄く似ていると感じたこと、そして前述した母の練習の記憶、さらに客席にいる母の気持ちを思うと、なんだか涙が止まりませんでした。母に伝えたら「それは真央に失礼だよ」と言われてしまいましたが、そんな母も涙が出たそうです。
 セミファイナルを終えて14人から7人へ。ここも本来6人のはずでしたが、ハイレベルで1人増えたようです。

 ファイナルになるとレベルが凄かったですね。母はファイナル2日目を終えて「カントロフが凄すぎる」と話していました。
驚いたのは中国のアンさんでのハプニング。オーケストラが演奏する順番を間違えるなんて事があるんですね。ちょっと可哀想というか、あってはならないミスでした。それでも対応して最後まで演奏を続けたうえ、「事前に指揮者に確認しなかった自分のミス」とは人間性も素晴らしい。僕なら指揮者にアピールして一度演奏を止めさせると思いますね、その後もう一度演奏したとしてもボロボロでしょうけど。ともあれ、特別賞を上げて済まされるハプニングではありませんでした。

 さて、真央君、公にはしていませんが、実はファイナルを目前にして母から「右手小指を怪我した」と聞いていたので、ちょっと不安でした。しかし、そんな事は微塵も感じさせない素晴らしい演奏でしたね。

画像1


 僕はやはりオーケストラの人間なので、チャイコフスキーが始まった時にオケの疲労感が気になりました。考えてみれば1人につきリハーサル、ゲネプロ、本番と同じ曲を3度も演奏するうえ、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番に関しては飽きるほど演奏しなければならないのですから、3日目ともなればそりゃ疲労感凄いのは仕方がない。僕も何度かコンクールの伴奏は経験していますが、あれ本当にキツイんですよね。同じ曲が続くと飽きてきて「またか」となるのは理解出来ます。
 聴いていて真央君とオーケストラの間で音楽面の乖離が見受けられたのは、オーケストラが他のピアニストの演奏から受けた影響が多少なりともあったのだと思います。その意味でも優勝したカントロフがチャイコフスキーの2番の協奏曲を選んだのは正解だったと言えるかもしれません。完全に自分の世界を作り上げる事が出来ますからね。
 そんなオーケストラもラフマニノフではだいぶ息を吹き返した感があったので、やはりチャイコフスキーに飽きていたのかもしれません。

 結果は優勝カントロフ、第2位藤田真央とシシキン。おそらくこの審査に異を唱える人は少数派ではないでしょうか。例年にないハイレベルな激戦の結果2位2人、3位3人で5、6位無しという結果も非常に気持ちが良いですね。立ち位置が違うとはいえ、やはり吹奏楽コンクールのように各賞の数を予め決定しておくというのは不健全な気がします。

 真央君はショパンコンクールが合っているような気がしましたが、もうコンクールに出場する必要があるのかな・・?とも思いますね。

画像2

 真央君がファイナルで演奏したラフマニノフのピアノ協奏曲、映画の影響もあって日本では2番が取り上げられがちですが、母は昔から「私は2番より3番が好きだ」と言ってましたから、そんな思い出も蘇りました。
 そのラフマニノフを聴いていて、前日に母から来た「ここまで連れてきてくれて、真央には本当に感謝しかないよ」というメッセージを思い出しました。この何十年、母は本当に生徒さんたちに真摯に向き合ってきました。時には厳しく、また時には自宅に泊めてまでレッスンし、横で見ている僕が嫉妬を覚えるほどに生徒たちに愛情を注いできました。
 藤田真央君は、そうやって教育に一生懸命全力を注いできた母に音楽の神様が授けてくれた宝物なのかもしれないと思ったら、涙が出てきました。彼は間違いなく天才だと思います。でも、その傍らに母が、指導者鷲見加寿子が居た事も、知っておいて貰えたら僕は嬉しいです。
 
 今後の彼を温かく見守り、いずれ同じステージで協奏曲を演奏出来る機会があったら、その空気を楽しみたいと思います。藤田真央君、第2位おめでとう。そして母に素晴らしい体験をさせてくれてありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?