激動のアルバイト体験史
なんだか音楽家がバイトしていいのかとか、お金の話をするべきなのかみたいな話がSNSで話題になっています。
私は下衆にならない程度にお金の話はするべきだと思っているし、稼げないなら副業でもバイトでもやりゃいいと思っています。事実、私はこれまでに数えきれないくらいアルバイトや派遣社員を経験してきました。今回はそんなアルバイトの経験談を記してみようと思います。
ガソリンスタンド
最初にアルバイトをしてお金を貰ったのは親戚の経営するガソリンスタンドで、夏休みや冬休みに「社会勉強しとけ」と使ってくれました。当時まだ免許が無かったので基本的には窓拭き、給油、徒歩での灯油の配達がメイン。冬の窓拭きは本当にキツかった。
その筋の方がスタンドに来ると「お前はあの人の車に触るな」と店内に戻されるのですが、そんな人が「坊主バイトか、頑張れよ」とお小遣いをくれたりして、意外と優しいんだなと安堵した事もありました。
こうして自らの肉体を使ってお金を稼ぐ、という世の中の仕組みに触れたきっかけがガソリンスタンドでした。
ケーキ工場
高校2年の時に経験したのはケーキ工場。学校や部活帰りにラインに入り、流れてくるケーキにデコレーションしたり、巨大なドラム缶に入ったチョコレートや生クリームをひたすら掻き回したりしていました。
同級生3人とやったのですが、パートのオバちゃん、いやお姉さんたちに気に入って頂き、楽しく働いた記憶があります。
クリスマスの日には世の中の幸せなカップルを恨みながらチョコレートを塗りたくっていましたね。
ボーヤ
大学に入ると、ボーヤといって、いわゆる演奏会の楽器搬入やステージのセッティングのアルバイトをするようになりました。大型楽器を運ぶのは大変ではありましたが、プロのステージマネージャーの仕事ぶりを見ることが出来たり、セッティングが終わった後に多くの海外オーケストラのゲネプロを客席で聴くことが出来たのは大きな経験でした。
この事をきっかけに「多くの人によって演奏会が成立している」と知る事が出来ましたし、どんな現場に行ってもステージマネージャーさんと仲良くするようにしています。
テレアポ
その後アルバイトをしたのはドイツ留学から帰国後、一人暮らしをして生活費を稼ぐ必要が出来てから。最初にアルバイト情報誌で見つけたのがテレアポでした。ほとんど記憶がありませんがインターネット回線の押し売り、じゃなかった勧誘。
ろくにトレーニングもなく、新宿のビルの広い部屋に集められて名簿を渡され、片っ端から電話をかけていく。確か繋がって少しでも相手が興味を示したら上の者に代わるだか後日改めて連絡のアポを取る、そんな感じだったと思います。何しろ今から25年位前の事なので記憶も曖昧ですね。
渡されたA4サイズの名簿には50人くらいの連絡先が載っているのですが、とにかくいくら架電してもほとんど電話に出ないんです。確か「出ず」「留守電」「在宅」みたいなチェック欄があって、発信してはそれにマーキングしていく、そんな作業でした。
せっかく電話が繋がっても、まだPCを持っている人も少ない時代で、インターネット回線なんてほとんどの人が興味を持ってくれませんでした。「こんな平日の昼間に家にいるのなんて主婦と高齢者ばっかりだしネット回線なんて反応ある訳ないだろ」と思いながらひたすらボタンを押して電話している僕らの後ろで、ダブダブのスーツを着たロン毛で色黒の兄ちゃんたちが「はい、とにかくかけまくって~!数が勝負よ!本数いかない人は要らないよ!」と大声張り上げてたのが一番印象に残ってます。
「こりゃロクでもない」と思って3日で行くのを止めました。
バーのキッチン
続いて、池袋のバーのキッチンでアルバイトを始めました。4人くらいしか入れない狭い厨房で魚を捌いたりパスタを作ったり。ピザも生地から作り、計らなくても60gと90gの生地を取り分けられるくらいになりました。今でも当時のレシピを書いたメモ帳が手元に残っています。東京芸術劇場でコンサートを終えたその足でキッチンに行くなんて事もよくありました。
キッチンのメンバーはいかつい人ばかりで、寡黙で凄味のある料理長、渋谷では有名だったという腕と胸のタトゥーが目立つ大柄な男性、そして休憩時間になると店の外で女性からお金を受け取っているホスト崩れなど癖のある人ばかり。厨房には「勝訴」と書かれた紙が貼ってあるなど、何ともアンダーグラウンドな雰囲気。
当時の私は草サッカーに明け暮れており、しょっちゅう大きなサッカーバッグを持って店に行って「おめえはJリーガーか!」とツッコまれたりしたものです。ちなみにメンバーは「コントラバス」という楽器名を覚えられなくて、私は「チェリスト」と呼ばれてました 笑
たまにオーナーさんがスタッフ全員連れてキャバクラを奢ってくれるなど、まあいろいろな勉強をさせて頂いたものです。
運送会社倉庫作業
その後バーの時間帯がキツくなり、運送会社へ。倉庫でひたすらトラックに荷物を積み込む作業でした。よく缶コーヒーの景品となる革ジャンが詰まったダンボールなどを積み込んでいたものです。
ここではあっという間にバイトリーダーになって給料を渡す側になり、会社から「バイト集めてくれ」と頼まれてサッカー仲間などに声をかけたりもしていました。
この頃、仲間内で治験のバイトも流行しました。新薬の実験で1週間入院して10万という金額は魅力的でしたが、私は重度のアレルギー持ちだったので残念ながら体験出来ず終い。後輩が一度死にかけたという話を聞いて「やらなくて良かった」と胸を撫で下ろしたものです。
他にもいくつか危険なバイトを経験しましたが、それらについてはここでは触れません。
まだパソコンを使い切れていない人が多かったので、ホームページの作成代行やチラシのデザイン、PCの使い方講座なんてのも単発でやったりしていましたね。とにかく日銭を稼ぐのに必死でした。
衝撃の喫茶店ウエイター面接3連発
運送会社のアルバイトはしばらく続いたのですが、その後仕事が回ってこなくなったので、たまたま東スポで見かけた「喫茶店アルバイト 日給3万も可」という言葉につられて面接に行ってみたら、いわゆる男性専門のお店で、店長に「生活追い込まれてる訳じゃないでしょ、ウチは切羽詰まった人が来る店だから」と言われたのが忘れられません。帰り、エレベーターまで見送りにきた店長に「困ったらおいで、面接は合格だから」と言われたのが今でも耳に残っています。合格したのか、、、
同じく東スポで見つけた「喫茶店ウエイター」は行ってみたら雑居ビル内の鉄の扉の中にあったコインカジノ。要は負けた客が逃げないように見張る、という内容だったのですが、こちらは面接が始まる前に店内を見ていたら「お前何ジロジロ見てんだ!」と難癖をつけてきた金髪の店員と喧嘩になってしまって働かずに終わりました。彼は呂律も怪しくて、完全にク〇リをやっている感じでしたね。
その後アルバイト情報誌でまたしても「喫茶店アルバイト」の言葉を信じて面接に行ったら風俗店。しかもスーツを着て行ったのに小雨のなか路上で面接を始められたので、「あ~やっぱいいっす」と断って帰宅しました。
「喫茶店ウエイター」と言っても、様々な種類があるんだなと学んだ数日間でした。
債権回収
やはりまともな仕事をしたい、とアルバイト情報誌で見つけたのが債権回収でした。表向きは「テレフォンアポインター、顧客への連絡業務」と書いてあったのですが、いざ行ってみたら「〇〇返さんかいコラ~!!」と電話するお仕事。若い兄ちゃんたちが高そうなダブダブのイタリアンのスーツを着て資料片手に電話をかけている職場は今思えば異様な雰囲気でした。「まともな仕事じゃなさそうだけど、今後話のネタになりそうだな」という発想でこちらにお世話になる事を決めました。
相手に名前を覚えさせるため、社員は印象に残りやすい偽名で仕事をしていました。私も「相手の脳にインプットされる覚えやすい名前を考えろ」と言われて、ホスト漫画に出てくる夜の帝王の名前を使っていた記憶があります。
「50万取り立てると法に触れるから、49万9999円までな」と嘘か本当か分からないようなルールがありました。朝、銀行の入金が分かる時間になると担当が「〇〇、15万8000円!〇〇、6万3000円!」と大声でその日の回収金額を発表する時間があるのですが、49万9999円の満額回収が居ると「はいグランドスラム~!〇〇おめでとう!」とお祭り騒ぎになる、そんな現場でした。
当時は個人情報保護法もあやふやで、回収の為には手段を選んでいなくて、オフィスにしょっちゅう怒号が飛び交っていました。社員が組長の娘に追い込みをかけてしまって、ホンモノのヤ◯ザが怒鳴り込んで来た事もありました。かなりギリギリの仕事だとは思いながら、シフトがかなり自由だった事もあって結構長くやりました。やり方はとんでもなく荒っぽくて法の網をくぐるような仕事だったのですが、心のどこかで「借りたものを返さないヤツが悪い」と自分に言い聞かせるようにしていました。
ですが、ある日友人から「お前のバイト先がワイドショーで悪徳回収業者として取り上げられてるぞ、大丈夫か」と連絡が来て、会社が移転したのをきっかけに辞めることを考え始め、音楽の仕事が増えたのをきっかけに退社しました。
ですが、この仕事に一度だけ救われたことがあります。私がコントラバスメンバーを集めた寄せ集めオーケストラの仕事で、取り仕切っていた指揮者がギャラを払わずに逃げた事がありました。彼は海外在住で国内の連絡先が分からなかったのですが、私は回収業の当時の上司に連絡をして、その指揮者の自宅住所から連絡先まで突き止めてもらって、無事に払ってもらう事が出来たのです。何が役に立つか分からないですね。
携帯電話操作案内
その後いろいろあって私は一度音楽の世界から離れ、正社員として不動産の営業職に就きます。詳細はここに書きませんが、ここで精神的にボロボロになる出来事があって私は数ヶ月でこの仕事も退職。しかし食いつなぐ為に何かやらねば、と始めたのが派遣社員でした。
最初は某大手通信会社の携帯電話の操作案内窓口のオペレーター。
まだスマートフォンも無い時代、二つ折りの携帯電話の操作が分からない人に説明をする仕事でしたが、3日ほどの研修で現場に放り出され、分からない時は保留してSVに聞くように指示されていました。
ところが、操作案内窓口なのに、頻繁にクレームの電話も紛れ込んできます。これは肝心なクレーム対応の窓口がなかなか繋がらないからなんですが、最悪だったのは「他の部署に転送出来ない」「上司と電話を代わる事が出来ない」という謎ルールで、電話を受けた者が完結させなければならなかったので、一度クレームが来ると1〜2時間相手の罵声を聞く、なんて事もありました。文句を言うために電話してきた相手に「申し訳ないのですがこの部署では対応出来ません。おかけ直しください。上の者にも代われません」なんて、火に油を注ぐようなものですからね。
クレームが来たらとにかく相手の話をひたすら聞くのが一番です。正当なクレームなんてほとんど無くて、大半が電話してきた本人に問題があるケースばかり。そもそもクレームなのに操作案内の窓口にかけてくる時点で頭が悪くてまともな人間じゃないので、そんな相手に何か意見しても長くなるばかり。こういう時はひたすら自らの感情を押し殺して、自分の手元のホワイトボードに似顔絵なんかを書きながら「バカだな~こいつ」とか思いながらも「そうですか〜大変ですねー」と頭を無にして気持ちのない相槌を繰り返す。時間が経つと少しずつ相手も落ち着いてくるので、そこで共感してなだめていくと大抵収まります。会話を終わらせるまで1時間、なんて事はザラにありました。ここではかなりメンタルを鍛えられましたね。
連日罵声を浴びていると精神的におかしくなるみたいで、この仕事をきっかけに私は数年間、電話で「ありがとう」が言えなくなる症状にかかりました。「あ」までは出るのですがそこから言葉が出ない。研修では「お客様には誠意をもって」と教えられるのですが、私自身は「筋の通っていないクレームを入れてくる奴は客じゃない」と考えるようにしてました。そんな綺麗ごと言ってたら心が持ちませんからね。
この現場ではなぜか派遣社員のリーダーみたいな存在となり、みんなから「社長」というあだ名で呼ばれてました。フットサルやったり飲み会やったり、それなりに楽しいメンバーが揃ってました。
しかし仕事を始めて半年ほどで、センターが人件費の安い沖縄に移転する事になり、私は路頭に迷う事になります。
消費者金融オペレーター
次に派遣で紹介されたのが消費者金融の無人受付機のオペレーター。つまり、お金を借りに来る人の受付と審査をするお仕事です。
ここは比較的しっかりした研修があり、周りもフォローしてくれて、しかもシフトもかなり融通が利く契約。売れないお笑い芸人や女優さんなどもいる職場で、3年ほど続きました。
「身分証明書を見せて下さい」と言うとディズニーランドのパスポートを出してきたり、融資出来ないと分かると無人機内で暴れ始めたり、借りるために免許証などを偽造したりと本当にいろいろなお客さんを見ることが出来ました。
この職場でも新人の指導をするようになり、仲間とフットサルや登山をするなど日々楽しく続ける事が出来ました。新人用のマニュアルを作成したりと、ここでの仕事ぶりが認められて派遣会社から取材を受け、広報誌にインタビューが掲載された事もあります。
この仕事をしている時にのだめオーケストラの出演依頼が来て、そこで久しぶりに演奏する楽しさを思い出して私は音楽の仕事に戻る事を決意するのですが、そんなにすぐ演奏依頼が戻るはずもなく、そこから派遣と演奏の仕事で私は2年くらいほとんど休みのない生活をする事になります。
携帯電話代理店対応
順調だった消費者金融の受付ですが、徐々に出勤に対して規制が厳しくなり、以前のように自己申告での自由な出勤が出来なくなり、派遣元から契約終了を言い渡されます。まだ音楽の仕事もそこまで戻っていないなか、この頃結婚して息子が産まれると分かっていた私にとっては悪夢のような宣告でした。
そこで違う派遣会社に登録し、今度は携帯電話の販売代理店対応のオペレーターを始めることにしました。
これは街中にある携帯電話販売店の店員さんが問い合わせてくる窓口で、当然店員より詳しい知識が必要となります。基本的には携帯電話の操作案内、契約内容変更などを担当していました。この頃は携帯電話について物凄く詳しかったと思います。
しかし、スマートフォンが普及してくるとこの窓口は大混乱。それまでの携帯とまるで違う操作に研修が追いつかず、保留して実機で調べるなんて事も増えました。
また、スマホアプリについてはアプリの提供元に問い合わせするよう伝えるのですが、お客さんが目の前で怒り狂っている状況なので販売店も必死。「分かる範囲で良いから調べて下さい」と言ってくるのですが、こちらとしては絶対にミスが出来ないので「申し訳ないけどアプリの提供元でないと責任が持てない」と伝えるしかなくて、「使えねーな!」と怒鳴られて電話を切られる事もよくありました。今はどういうシステムなんだろうな。
スマートフォン登場で仕事がぐちゃぐちゃになったところで契約更新の時期になったので、ここで私はまた違う業種へ移ることを決意します。娘が誕生したのはこの頃でした。
通信教育教材オペレーター
次に派遣元から提示されたのが通信教育の教材などに関するオペレーター。よくある通信教育の契約や問い合わせの対応窓口です。
実際に子供が出来てみると、この業界は良く出来ているなあと感心します。詳しくは書きませんが、一度登録すると子供から老人まで一生付いて回るように出来てるんですね。ちなみにいま息子がこの通信教育にお世話になっています。
仕事自体はそれほど大変な事もなく、日々淡々とこなしつつ、少しずつ増えてきた演奏業務の練習もしなければならないので、この頃は本当にのんびりする時間など全くありませんでした。
結局この後オーケストラの依頼が激増してきた事もあって、私は派遣社員に終止符を打って演奏一本に絞ろうと決意します。
運送会社センター
派遣を辞めようと決めて通信教育の仕事の更新を断った私でしたが、ここで東日本大震災が起きます。世間の自粛ムードもあって、なんと演奏の仕事がパタッと止まってしまう。
困った私は某有名運送会社のセンターでアルバイトをする事にしました。基本的には事務仕事で、主に電話を取ってその内容に対応するというもの。多かったのは配達ミスで違う県などに送ってしまった荷物の再手配や、冷凍便の手配が多かったです。
ここでは研修など全く無く、「とにかく電話を取って仕事を覚えろ」という昭和の体育会のようなやり方。最初はひたすら戸惑うばかりでしたが、1ヶ月もするとだいたい仕事の内容が掴めてきます。結局当初は3ヶ月契約でしたが、先方から延長してくれと頼まれてもう1ヶ月やりました。最後は仕事の空き時間に新人用のマニュアルまで作成して、「これは社長賞に推薦出来るよ」とまで言って頂きましたが、再び演奏業が忙しくなってきたのでここで辞める事にしました。
この運送会社を最後に、私は教則本の出版などもきっかけとなり、音楽の仕事だけで食べていけるようになりました。
正直、音楽と並行していた時は「アルバイトや派遣をやっている」とは言えませんでした。「こいつ練習してないんじゃないか」と思われたら仕事の依頼が無くなるかもしれないと考えていたので、演奏が忙しい、みたいな雰囲気を何とか作るようにしていましたね。
ただ、とにかく生活費を稼がなければならなかったので、演奏と並行しつつ時給も悪くない仕事を選ぶようにすると、どうしても多少アンダーグラウンドな業界になりがちでした。これはいつの時代も変わらないんじゃないかなと思います。
本当にいろんな職種を経験したお陰で人間関係で怖いものは無くなりましたし、コミュニケーション能力はかなり上がったと思います。ずっと音楽一本で生きている人から見たらとんでもない回り道に見えるかもしれませんが、その分彼らには出来ない得難い経験や人間関係が出来たと思っています。一般の人たちがクラシックやオーケストラをどう見ているか知れたのも、こうした他業種の人たちと関わる事が出来たからですし、これらの経験がコントラバスコンテストやサッカースクール運営にも大きく役立ちました。でも、今の音楽大学の学生にアドバイスするとしたら、「一生懸命楽器の練習をして早くオーケストラに入りなさい」と伝えると思いますが。
それから最後に、音楽家はこんな人ばかりじゃありません。幼い頃から楽器を始めて音楽の道一筋に頑張っている人もたくさんいます。ですが、音楽家が清廉潔白な人間ばかりだと思ったら大間違いです。魑魅魍魎、いろんな個性が渦巻いているのが演奏家の世界だし、だからこそ音楽は面白い。そういった事も含めて舞台上を楽しんで貰えたら嬉しいです。
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