阪神淡路大震災のこと

1995年1月17日午前5時46分、僕は自宅である平野区のワンルームマンションで寝ていました。かなり大きな揺れで、キッチンに置いていたコーヒーサーバーが落ちて割れ、本がぎっしりの本棚やテレビが動くほどですから相当なものです。びっくりして起きて、窓から外を見ると、他のマンションの部屋の電気がどんどん点ってきました。「そりゃ、起きるよなぁ」と思いながら、とりあえず割れたコーヒーサーバーを片付けます。あと1時間くらいは寝れるかと、布団に潜り込んだ時は、まさかあんなことになってるとは思っていませんでした。
7時起床。いつものようにテレビをつけると、関西が大変なことになっているのがわかりました。地下鉄も動いてませんし、どうも神戸あたりはめちゃくちゃになってるっぽい。加古川の実家大丈夫だろうか。電話も繋がらない。
考えてても仕方ないですし、当時、再就職したばかりの職場にバイクで向かいます。途中、自動車ディーラーのショールームの大きなガラスが割れてることがわかります。普通に道路走ってても危ないやんとか思いながら。
職場の片付けしながら、手が空いたら実家に電話。午後には両親の無事が確認できました。実家は門柱が傾いて、水屋が倒れて随分と食器が割れたらしいです。夕方には一旦帰宅して、またニュースをみます。やはり神戸あたりがめちゃくちゃらしい。長田は燃えてるけど火が消せない。若い頃に友達と、彼女と、遊びに行った神戸の街は一瞬でなくなりました。
加古川の実家の様子を見に行こうにも、三ノ宮あたりは壊滅的だったため電車は使えません。ここからは記憶が曖昧なのですが、震災から一月経ったかどうか。阪急で王子公園まで行き、そこからJR神戸まで歩いた記憶があります。途中異人館を通り、南に下って三ノ宮駅近くは、ホントにめちゃくちゃでした。おそらく、JRの北側を西に向かったのではないかと思います。三ノ宮の駅の北側、店の名前は忘れてしまいましたが、ビルの7階にあった店で美味しい玉子丼を食べた事がありました。そのビルがどれかわからないのです。いっぱい倒壊してるから。高架下なんて通れるわけもない。普通に歩けば1時間と少しくらいでしょうか。あの時は2時間近くかかった気がします。

阪神淡路大震災では6432人が亡くなっています。早朝、多くの人は自宅で寝ていたはずです。昼間だったらどうなっていたでしょうか。阪神高速が崩落、三ノ宮駅も倒壊、これだけで数千人くらい被害があったでしょう。神戸新聞のビルも崩れました。電車に乗ってたらどうだったでしょう。6432人で済んで良かったと言うことでは決してありません。いつでも自分はこの人数にカウントされないようにする。それが防災ということなのです。
加古川育ちの僕は、阪神淡路大震災の死亡者名簿を未だに見ていません。きっと知ってる誰かが載っているからです。


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