道徳科と国語科の違いは?
道徳科とよく似ている教科に国語科があります。
例えば、どちらの教科も文章を読んで考えるという点は共通しています。
道徳科ではそれを読み物教材、国語科では「物語文」や「説明文」として扱われています。
例をあげると「泣いた赤鬼」という教材は道徳の教科書にも、国語の教科書にも掲載されています。
また、「どんな気持ちですか?」という発問も、道徳、国語共によく使われる発問です。(国語科では、気持ちばかりで気持ち悪いと言われることもあったそうです。)
そして、教える側も、意識していないと、国語をしているのか、道徳の授業をしているのかがわからなくなることがあります。
では、違うことは一体何なのでしょうか?
国語科の授業では文章を読むための技法(中心人物、クライマックス場面、作品を読んだ際に感じた主題)や、作者が読ませるために物語にちりばめられている仕掛け(伏線、視点、色彩)等、物語がどのような構造を持っているのか、主人公はなぜ変容したのか?そこに至るまでにどのようなプロセスをたどったのか。というようなことを考えていきます。
泣いた赤鬼で言えば、中心人物は赤鬼で、クライマックスの場面は赤鬼が看板を見る場面。そして、そこに至るために、赤鬼の状況や、青鬼との一芝居があるという構造になっています。
加えて、子どもが意見を述べる際には、文章中に根拠を求めることが必要になります。(~ページの~行目に~と書いてあるから、Aと考えます。)つまり、文章からは離れません。
また、青鬼が取った行動の理由等は考えますが、その是非は問いません。
道徳の授業はというと、中心人物や物語のあらすじの確認はしますが、それは、あくまでの授業の一部分です。授業構想によっては、関係図をあらかじめ出してしまうこともあります。
そのうえで、青鬼と赤鬼の友情観について考えていきます。
例えば、
・最初の赤鬼と青鬼と最後の赤鬼と青鬼ではどちらがより良い友情か?
・青鬼の取った行動は本当に赤鬼の友情にかなうものなのか?
・赤鬼が泣くことになってしまったのは、どんな心が足りなかったからなのか?
といったことを切り口に、子どもに友情についての新たな知見を考えさせていきます。
子どもが意見を述べる際の根拠は文章中になくてもかまいません。自分の実体験や頭の中で考えたことや友達の考えを聞いて触発されたことを話してもよいのです。直感的に「〇〇はOK(もしくはダメ)な気がする!」というのも一応アリです。(もちろん、そういう以上はその理由を明確にしていきます。)
以上が道徳の授業と国語の授業の違いでした。
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