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【自然の郷ものがたり#7】自然の中にあるストーリーを大事にしたい。屈斜路湖に望む「静かな観光」【聞き書き】

日本最大のカルデラ湖である屈斜路湖。その湖畔にある屈斜路コタンで生まれ育った磯里博巳さんは、アイヌの木彫り作家として伝統を受け継ぎつつ、自然からインスピレーションを得た斬新な作品づくりで、地域の魅力を伝えています。

かつて松浦武四郎にコタンを案内した先祖のこと、雄大な自然に学び遊んだ少年時代、屈斜路湖から見た観光の変遷と未来に望む姿。この地に暮らし続けてきたからこその思いをお聞きしました。

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磯里 博巳(いそり ひろみ)
1960年、弟子屈町屈斜路湖畔にあるコタン生まれ。アイヌ民族の両親のもとで木彫りを覚える。2007年、パートナーの斎藤敬子さんとともに、オリジナルデザイン&ハンドメイドのアイヌ民芸品制作・販売を手掛ける「Kussharo Factory」を開設。
木彫りのほかにも、エゾシカの角や革、アイヌ文様を熔けこませた自作のガラス玉などを使って、アクセサリーや装飾品を生み出すといった創作活動に励んでいる。

この記事はドット道東が制作した環境省で発行する書籍「#自然の郷ものがたり」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。

屈斜路コタンから探る新たな表現

僕は屈斜路古丹(コタン)生まれ、屈斜路コタン育ち。父もここ出身で、母は音更町出身。両親ともにアイヌ民族です。松浦武四郎がこのコタンに来た1858年は、7戸くらいの集落だったと、文献『久摺日誌』にはあります。

磯里家は、コタンの中ではエカシだったようです。先祖のイソリツカラという人が、武四郎に屈斜路を案内したということを、後に松浦武四郎記念館の館長になる高瀬英雄さんが教えてくれた。武四郎は、うちの一族の名前を全部書き残していたの。

そういう先祖の歴史は、館長さんに出会わなければ知らないままだっただろうな。武四郎記念館がある三重県松阪市まで呼ばれて、高瀬さんと対談したこともあるよ。

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両親とも木彫りをやっていたから、僕も見よう見まねで小、中学校のころには彫っていた。この道45年以上。2007年に屈斜路湖畔に自分の民芸品店「Kussharo Factory」を開いた。

でも、木彫りの定番である熊はほとんど彫ってない。「野生の熊を見るまで彫らない」と決めていたから。4、5年前に初めて熊と出合って、熊の頭の木彫り作品を3つだけ作った。1つは売れて、2つは道の駅「摩周温泉」に飾ってあるよ。

熊をあまり彫らなかったもう一つの理由としては、叔父の磯里明が、熊彫りとして有名だったから。叔父は旭川で熊彫りを勉強してこっちに帰ってきて、北海道知事賞も受賞した腕前の人。あとは、僕が長く付き合いのあった藤戸竹喜さん。

阿寒で「熊の家・藤戸」というお店をやっているんだけど、藤戸さんも、これまた熊彫りの名人でなあ。僕が熊を彫ってもしょうがないでしょう、名人がそばにいるんだもの(笑)。

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藤戸竹喜、床ヌプリ、瀧口政満が、僕の思う、阿寒湖の3本の指に入る彫刻家。特に僕は、子どものころから瀧口さんに憧れていた。彼らの腕やセンスがずば抜けているゆえに、跡を継いだ子どもたちは、親とは違う表現を模索しているんだよね。

瀧口さんの息子の健吾も、アイヌのことを知ってほしいからガイドをしたり、民族衣装を着て山でムックリを演奏したりと、頑張っている。「アイヌを利用した観光」というよりも、本当にアイヌのことを伝えたい思いが根本にあると思うんだ。応援していきたいね。

僕自身も、先人とは違う形でアイヌを表現していきたい。夜、コタンから見た天の川のきらめきや、屈斜路湖の湖面が風でさざめく様子などからインスピレーションを得て、木彫りにガラス玉を施したりね。

自然の中にあるストーリーを彫っていきたい。屈斜路の自然は、僕の作品づくりになくてはならないものです。

国立公園内の二つの個性と「静かな観光」

屈斜路湖と阿寒湖。同じ国立公園内でも、この2つの地域は個性が違う。僕は以前、藤戸竹喜さんのお店で店員をしていたこともあるから、阿寒湖の人たちとは顔なじみ。そういうネットワークをつくって、つながりを大事にしたいね。

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阿寒は昔から大きな旅館やホテルがあって、にぎやか。そんな観光地があってもいい。一方、屈斜路湖は静か。そこがいいんです。

60年間ここで生きてきただけだから、国立公園に住んでいるという意識を強く持ったことはないね。ただ普通に、周りに存在していた。

地元の人間からすると、国立公園であることが特別すごいとは思っていないんじゃないかな。よく「美しい」と褒められる摩周湖が近くにあることも含めて、この環境は生活の一部なんです。

国立公園であることを、地元住民も観光客も意識するようになるには、もっともっときれいな地域にしていかないとね。きれいに、汚さないように観光する。実際、そういう考え方になってきていると思うよ。

来年度から、屈斜路湖で動力船の乗り入れを規制する取り組みも始まろうとしている。先ほども言ったように屈斜路湖は「静かな観光」、そこが大事なんです。

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昔は、湖で動力船の音なんて聞こえなかったし、遊ぶといえば泳ぐしかなかったけれど、それだけで楽しかった。自然の中で遊ぶのが日常だったんだよね。

中学生から山菜採りにはまって、今も山菜シーズンになると「ギョウジャニンニクが生えてきたから行かないと!僕に採られるのを待っているんだから」って、仕事そっちのけで山に入っちゃう(笑)。

じゃがいもの収穫時期になれば、小学生30人で農家さんへ手伝いに行った。おやつをもらえるのが楽しみだったなあ。あとは、パイロットファームにビニール袋を持っていってお尻で滑り降りるとか、弓を作るとか、素朴な遊びばかりしていた。

小学校は、普段は屈斜路湖畔をぐるりと回って通学していたけれど、冬になると凍った湖の上を歩いて対岸まで渡ったもんだよ。冬限定の近道だね。迷わないように、大人がマツの枝を道しるべとして置いてくれてさ。

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そのころと今の風景は何も変わらないけれど、50年ぐらい前の観光客の数はもっとすごかった。ツアーバスが7台も10台も連なって来るのが普通。集団で来て、綺麗な景色を見て帰るという観光だね。

修学旅行生もいっぱい来ていた。今の観光は、違う形に変わってきている。静かになったよ。僕はそのほうが好き。

最近だと、摩周・屈斜路でトレイルのルートを開発している。そういった静かに遊べる屈斜路湖に、全国から人が来てくれるような流れになってほしいと思う。

大きなホテルを建てるのではなく、小さくとも泊まってみたいと思わせる宿にお客さんを呼べたらいいんじゃないかな。せっかくなら、そんなふうに開発してほしいな。

生きた証に、丸木舟を

もちろん、民芸品を作っている身の上としてはそれで暮らしていかなければならないから、観光客に買ってもらえるようなものを作りたい。

昔は黙っていても何でも売れる時代があったけれど、今は違うでしょう。逆に、良い物だったら高くても買う人が増えている。量より質という流れになっているし、そういうお客さんに来てほしいね。

木彫り熊だけではなく、何でも彫れるような腕がないと生計を立てるのは難しい。僕の場合、木彫りはもちろん、壁掛けも作るし、鹿の角細工もするし、ガラス玉も作る。鹿の皮でバッグも作ってみたい。

やりたいことがいっぱいあって、突き詰めていった結果、何でも作れるようになった。僕なりのものの作り方や売り方で、ここで暮らしていければ、という感覚で生きています。

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これからやりたいのは、自分の生きた証、作家として代表的な作品を残すということだね。今は、丸木舟を作りたいと思っている。来年から屈斜路湖への動力船乗り入れが規制されたら、「静かな観光」という意味で、湖に丸木舟を浮かべたい。

できたら5、6艘作って、来年のゴールデンウィークぐらいには人が乗れるようにしたい。観光客がアイヌ衣装を着て乗るのもいい。湖面でゆっくり楽しむだけでいい。騒音もない。昔ながらの遊びだけど、ぜいたくでしょう。

木の皿にアイヌ文様を描いて彫るワークショップもやり始めているよ。そういう体験観光を継続していける拠点も作りたいな。

今、屈斜路コタンでは30人ぐらいのアイヌが暮らしている。それぞれ考え方は違うだろうけれど、僕自身は、派手な演出でアイヌを宣伝するよりも、もっと素朴な見せ方の観光を模索していきたい。観光客にアイヌの原点を見てもらった上で、いろんな表現を展開していけばいいと思う。

そういう意味でも、僕はアイヌとして丸木舟を作る。150年前、先祖のイソリツカラの案内で、松浦武四郎は屈斜路湖を舟で渡った。

自分の中のアイヌの血が騒ぐというか、その歴史を受け継ぎたい思いがある。舟が完成したら、松浦武四郎のことを教えてくれた高瀬さんを最初に乗せたいな。

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同じ国立公園でも、屈斜路湖では、阿寒湖とはまた違う楽しみ方を見せたい。しつこいようだけど、静かに楽しめる観光だね。

去年、シマフクロウを初めて見たんだよ。幼鳥だったから、この辺で生まれたということだよね。タンチョウだって営巣しているからなあ。守ってあげたいじゃん。

そんな屈斜路湖畔の素晴らしさを感じてもらいたいから、「まず、来てみてよ!」と言いたい。ここからどこかに移り住むつもりもないし、ここがいい。うん。唯一無二の場所。いいところだよ。

取材・執筆:中山 よしこ
撮影:吉田 貫太郎・國分 知貴


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