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220/366 【...涙】 「怒り」の底には悲しみがある - 「鬼滅の刃」

ようやくテレビ版「鬼滅の刃」26話見終わりました。こんなところで終わられたら、そりゃ劇場に行くに決まっとるやないかーい。

鬼滅の成功要因は「妹のため」というどーんと太い軸1本で語られるシンプルな筋にある、という論調はよく聞きますが、鬼の悲しみを描いているのも大きな要因だと思います。

ジャンプらしいシリーズ冒頭の炭治郎の紹介と修行、鬼滅隊への入隊と仲間の紹介が一通り済んだ辺りから、戦う鬼はどんどん強くなっていきますが、彼らは皆、「悲しみ」を抱えています。その心の奥に押し込めた深い悲しみが鬼舞辻無惨を呼び込んでしまうのです。鬼舞辻はそういった相手の悲しみに付け込み、優しさを見せて取り込み、同情という血を分け与え、鬼の大量生産に成功します。

ただ、「鬼を生み出したのは鬼舞辻無惨」という括りすらも物事の表面に過ぎません。鬼を生み出した元凶は、そもそもは人間なんです。太鼓を叩いていた作家の卵鬼然りです。

また、シリーズ最後に出てきた鬼蜘蛛の塁は、体が弱かった為、お友達がいない寂しさを抱えていました。

それが鬼になり、丈夫な体を手に入れた。でも、その次に心に巣食った悲しみは、丈夫な身体の代わりに太陽に背を向けた自分を理解してくれない両親に対する失望でした。

それが誤解だったと気づいた時には、もう遅い。後戻りなどできない。

でも、悲しみに蓋をしなければ先に進めない。でも先に進めば進むほど、処理していない悲しみはマグマのように溜まるばかり。(コーピングで取り扱うやつや...)

その悲しみを昇華してくれたのが炭治郎なのです。他の鬼殺隊の方々は彼らの悲しみには目を向けていないから、どうしても救いはないのです。

人間、誰しもドロドロの部分はあるでしょう。わたしもそうです。そのドロドロが手に負えなくなって人に当たってしまうことだってあるのです。

それは人を食らう鬼の姿に重なります。

でも、そういう自分を炭治郎は受け入れてくれるのです。ドロドロの一切を含めて。

そこがものすごくストレートに響くのではないでしょうか。

自分の中に押さえ込んでいた「黒い部分」が出てきた時、それだけで全てがジャッジされてしまうのを私は恐れます。だから隠してしまう。でも隠そうとするあまりにぎゅうぎゅうに押し込めてしまったら、何かのきっかけで蓋が吹っ飛んだ場合、ものすごい勢いでドロドロが噴出します。

噴出させた後に後悔しても、場合によっては許されないこともある。例えそれをどんなに悔いていたとしても。

それを炭治郎は許してくれているように思います。

倒された鬼はそのまま消えてしまいますが、禰豆子だけは生きている。人間に戻れるかも知れないのです。そこに見ている者は希望を見出します。

ドロドロを噴出させてしまった自分でも、もしかしたら更生できるのかも知れない、やり直せるのかも知れない。

鬼になっても信じてくれる人間がいる。その人間の信頼に答えようとする鬼がいる。

悲しみの先にある希望や慈しみが響くのだと思うのです。

コロナ禍に置いて、ウィルスよりも人の方が怖い、と思う場面がちょこちょこあります。それはゾンビ映画において、「実はゾンビよりも怖いのは人間である」という構造と同じです。(韓国映画「新感線」をぜひご覧ください)

でも鬼滅では、悲しみを抱えて鬼になってしまった人間が、最後にもしかしたら救われるかも知れない。そんなところに惹かれているように思います。

漫画未読なので、ここからどうなっていくのか全然知らないのですが、無残が鬼になった理由も明らかになる... のかしら?いずれにしても、映画はよ。

明日も良い日に。

伴走30日目!




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