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479/1000 この「すばらしき世界」の生きづらさのこと

「すばらしき世界」のことを、まだ考えている。

途中、主人公の三上が「生業に就く技能を習得するための扶助金」があることを知り、生活保護局に申請に行く。

全てが下りるわけじゃないんです。わがまま言わないでくださいよ

職員はこう告げる。(正確じゃないかもだけれど、こんな感じ)

三上にはこれが理解できない。国の情報冊子に書いてあるのに、それが下りないなんてどういうことだ?とカッとなる。

自分が就こうとしている生業には運転免許が必要で、その技能習得のための資金なら、まさに該当するはずだ。何も騙そうとしているわけじゃない。自分だって施しで生きていたいわけじゃない。自立したくて申請に来たのだ。それが何故却下されるのだ?

書いてあることを、三上は真っ直ぐに理解する。そのまんま、文字通り。

それに対して「察して欲しい」「分かってほしい」という返事は彼には理解できない。

彼の主張の方が正しいのだ。どう考えても。

でも現実問題として、「普通の生活」をしている我々はそういったプチ理不尽に常に晒されている。

そんな時、内心舌を打ちながら後で親しい人に愚痴ったり、酒を飲んだり、運動したりしてそれを紛らわせている。社会というお鍋に突っ込んでぐつぐつ煮込んで、パクリと食べて消化して、明日には排泄する。便秘になることもある。そうなると、数日後に薬で出したりする。

なんでオンラインで種々の手続きができることを謳ったマイナンバーのパスワード更新をオンラインで出来ないんだ!は昨年投じた具の1つ

結局区役所に行ったのは、あるあるだと分かっているから。

空気を読んだから。

言っても無駄だと分かっているから。

これは、社会で生きている中で身につけた処世術だ。

社会で生きていない子供のような三上に、これを察しろというほうが無理だ。

でも、彼を通じてしみじみ感じるのだ。この世界は理不尽さに満ちているし、「我慢の割りに楽しいこともない」

それでもこの世界のほうが「空は広い」と信じて、今日を飲みくだして生きるのだ。

だってその広い空の下には、優しさも沢山咲いているから。

書いていて気づいた。

たまに顔を出す私の生き辛さも、こういうことだ。

私の周りには沢山の優しさがある。それを重々理解してはいるのに。

噛んでも噛んでも味が出てくるスルメ映画。

2回目見るのはきっと数年後だろうけど。

明日も良い日に。





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