227/366 【うぉぉ】 Stage Gate VRシアター vol. 1 「Defiled - ディファイルド」
Fuck technology. (なんだよ、テクノロジーって)
図書館員のハリーは、町の歴史的建造物である図書館の目録カードがコンピュータに置き換わってしまうことに反対し、目録カードを残すよう図書館に求め、要求に応じなければ図書館を爆破する、と主張して立てこもる。
それを阻止すべく交渉役として派遣された刑事、ディッキー。
会話の中で2人の心情や信条が徐々に浮かび上がってくる。
「交渉には応じない」と頑なに話を拒むハリーの心を、ディッキーはカウンセラーのような語り口でゆっくりと開いていく。
僕はなぜかが知りたいだけなんだ。
ディッキーはハリーを否定しない。彼の話にただ耳を傾ける。
ハリーは徐々に口を開く。目録カードがいかに素晴らしい発明品だったか。あんなに大切にされていたものが、便利で新しくて「生産的な」テクノロジーが登場した途端、いともあっさりと切り捨てられ、処分されてしまう。それで良いのか、と。
そこには彼自身の姿が重なる。卒論を手伝っていた婚約者が、卒論を提出した瞬間に彼の元を去ったように、自分もいつか社会に切り捨てられてしまう。
テクノロジーによって全てが画一的になり、その結果、自分という「個」は消え去ってしまう。
目録カードはIT化の初めの一歩で、そのうち全てが画面を介して行われるようになる。まるでファーストフードを注文するように本も眺めるようになる。
ページをめくる、といった読書にまつわる身体的経験は全て削ぎ落とされ、「読む」という行為がただの「情報摂取」となり、「腹を満たす」と同義のファストフード化していく。
そのうねりは図書館や書籍にとどまらず、例えば街中の小さなカフェが全て画一的なチェーンコーヒーショップに変わっていくことにも繋がるだろう。
ハリーの論調に、こちらの妄想も広がる。
旅もそんな要素の一つだ。実際、旅の身体的経験は移動を含めて「非生産的」とされ、画面の大小だけで体験の違いを語るようになっている。
それならばいっそ、この礼拝堂のように神聖な図書館という場所で、ガンジーやジャンヌダルクのように自分の主張を社会に響かせて死のう、とハリーは考えたのだ。
図書館は、彼にとって子宮のような場所だったのだろう。安心で安全な母親のお腹の中のような世界。その(過去の経験を詰め込んだ)図書館で、胎児のような姿勢で爆弾を抱いてボタンを押すハリーの姿が頭に浮かんだ。
対する刑事は、世の中の清濁を併せ呑んだような人。誠実で、嘘はつかないが、世の中には個人のままならないことが沢山ある、ということと折り合いをつけて生きてきた人だ。森鴎外の小説に立ち上る「諦念」のようなものを内包していた。
だからこそ、若いハリーにもカウンセラーのような態度で接することが出来たのではないか。
そんな彼らの会話が延々と続いた後、いきなりガツーンと展開した終幕に、愕然通り越してキョトンとした。
911を経て書かれた戯曲らしい。「技術による画一化」や「身体的体験の欠如」はここ数ヶ月、世界中の人が痛感していることではなかろうか。
「なんだよテクノロジー」って言いながらも、このVRストリーミングを実現するためにはものすんごい技術が使われている辺りが、強烈なアイロニーだ。
2人の役者のガチンコ朗読劇だが、組み合わせによって雰囲気は随分変わるのだろう。キャラクターの性格すらも変わるだろう。何度か見たかったのだが、スケジュールの都合上、私が見たのは成河さんと千葉哲也さんの回のみ。
成河さんのハリー、繊細で、人の目が気になるのに自分を変えられなくて、どんどん自分で自分を追い込んでいく姿に泣きたくなった。友達だったら多分面倒臭い人なんだろうけど。
千葉哲也さんのディッキーはこんな上司なら最高じゃね?と思う。(上司いたことないけど ←)
この組み合わせでのVR配信は、8/21(金)の21:00〜もあるようだ。気になる方、是非に。リーディングとは思えないガチンコの会話バトル!
明日も良い日に。
伴走、37日目!
言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。