あなたの人生はあなたのせいでもなければ、あなたのおかげでもない。偶然性の必然性について

あなたの人生はあなたのせいでもなければ、あなたのおかげでもない。
あなたがもし私なら、あなたは私であるし、私がもしあなたなら、私はあなたである。
ほとんど人がこの単純明快な事実を知らない。私があなたでないのは全くの偶然であり、あなたが私でないのも全くの偶然であるのと同様に、私やあなたがホームレスでないこと、囚人でないことも全くの偶然である。

例えば、あなたの必死の努力によって勝ち取ったものは、必死の努力を可能にするだけの能力と環境と身体と精神と思想とを偶然に持ち、それをするだけの動機づけを偶然にされ、他の誰かが偶然にあなたより能力が低く、大きな努力と強い動機づけをされなかっただけの話である。
逆にいえば、あなたは必死で努力するだけの動機と能力を持たされ、その空虚な達成なくして生きてはいけないような精神と思想を持たされてしまったともいえる。

人間は、偶然によって必然的に決まる。
まず、努力と達成なしに幸せでいられる人間、繰り返しと平凡さに気を揉まない人間が、第一の勝利者である。この種の人間に敗北はない。
次に、努力によって達成なしに幸せでいられる人間、つまり、努力の結果が如何様であれ、肯定できる人間、自己満足型の人間は第二の勝利者である。この種の人間にも敗北はない。
また、努力と達成によって幸せでいられる人間、つまり、富や名声、その他各々の達成すべき目標の達成によって幸せでいられる人間が第三の勝利者である。この種の人間は達成出来なかった時に滅ぶか、後々自らが第二の勝利者であったことを無自覚に解する。
最後に、努力と達成を求める精神を持った人間に生まれてしまい、かつその達成によってすらも幸せを感じることが出来ない人間だけが、純粋な真の敗北者である。

ここでいう勝利と敗北とは、単に幸せかどうかであり、境遇の勝利者、偶然性の勝利者であるただそれだけで、状況がどうであれ、人生の勝利者たりうる。例えば本など読まずに、あらゆる箴言に触れずに、さも当たり前のように生きていける人間が勝利者なのである。
反対に、境遇の敗北者、偶然性の敗北者であるただそれだけで、客観的な事態がどれほど上向きであれ、人生の敗北者たりうる。例えばどれほど金持ちでも、どれほどの名声を得ても、満たされない人間が敗北者である。(金を持つことは、彼らにとっては単に不幸の数が減ることであって、幸せを手にすることではない。)

もっと卑近な例を示すと、私に嫌なことをする人間は、そうであるから仕方ない。仮に私が私に嫌なことをする人間に産まれたら、私は、私に嫌なことをするだろう。それだけの話である。

私は、額に出来たニキビで自殺する人間を少しも笑わない。いじめや事業の失敗で自殺するのももっともなことだと思う。これまでの話で、これが弱さだと言える人間は本当に脳が働いていないんだろうと思う。(それも仕方がない。なぜなら、私がもしそういう想像力の働かない、偶然に持ち合わせた自分の頭のスケール感でしか物事を測れない愚鈍な人間に生まれたら、そうなのだから。)
しかし、彼ら自殺者は、第三の勝利者でありうる。本当の敗北者であるとは言いきれない。
つまり、彼らは現時点で、状況の奴隷であって、境遇の奴隷ではない。額にニキビが出来なければ、いじめがなければ、事業が成功していたら、幸福であったかもしれないからだ。真の敗北者に、境遇の奴隷に、事態はほとんど関係がない。
もっといえば、死ねるなら、奴隷でも敗北者でもない。問題なのは、死ぬことが出来ないという点にのみである。太宰治や芥川龍之介は、真の敗北者ではあるが、最後は勝利した。

それに対し、ドストエフスキーは最後まで敗北した。ドストエフスキーが最も恐れたことは、自らが、自らの苦しみに値しない人間になることであった。尊大な苦しみ、完全な苦しみに対して、意味を持たせたかった。そうでもしなければ、出生への、偶然性への、人生への、自分への憎しみが止まらなくなってしまう。
ドストエフスキーは、"安っぽい幸福か、高められた苦悩か。"という答えの分かりきった愚問を、自己肯定のためのありもしない形容を、自ら諌める心を持たないほどに、敗北者だったのである。単に幸福か不幸どちらが重要かと自らに問い、不幸であると答えるような徹底的な敗北者であったのである。

私は、ドストエフスキーと同じように、自らの苦しみに義理を通したい。達成しなければ、苦しみに示しがつかない。その上で、例えば富や名声を得て、くだらない人間になるのが怖い。幸福を得て、体系を失うのが怖い。

こうした堂々巡りの苦悩からの解放、理性からの解放、自分自身からの解放が信仰である。自我の奴隷である私たちを自我から解放し、神の奴隷になる。この枠組みにおいてだけが、私たちに与えられた唯一の自由である。
隷属することなしに、自由はない。縛られることなしに、自由はない。ドストエフスキーは、イエスの奴隷となり、解放、自由を手にした。だがほとんどの場合、それは宗教的な神には達成出来ない。なぜなら、宗教的な神は人造物であるからだ。

神とは、事態の偶然性のことである。神とは、サイコロを振る誰かでも、サイコロでも、サイコロの出た目でもない。神とは、サイコロを振るシステムそれ自体である。
今後を、神にお任せせる。努力して、結果は神にお任せする。滅ぶなら、滅ぶ。これは選択ではなくこの世界の事実であるが、この事実を自らに認めることが、意志も選択も完璧な自由すらもこの世界の在り方からしてありえないことを認めることが、ある種の諦観が、信仰であり、解脱であり、解放である。
しかし私は、偶然にも、神を憎む。

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